蝕の季節にふたつかげ

やなぎ怜

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虫吹雪の日

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 今でもウバラは夢に見る。あの虫吹雪の日の夢だ。それは彼女にとってもっとも見たくない悪夢に等しい夢である。

 ウバラはゆっくりと瞼を開いた。額にひんやりとしたものが当たっている。ウバラよりずっと大きなギョクの手だ。

「ウバラ、起きたか」
「うん……」

 ウバラはほう、と熱い吐息を吐く。瞳は熱に潤んで、その視界では天井から吊るされた虫籠にいる灯火虫がきらきらと輝いていた。

「熱、下がんねえな」

 ウバラの額から手を離したギョクは、上半身を起こそうとした彼女の肩を押さえて布団に寝かせる。

「寝とけ。どうせすることなんてねえんだから」
「うん……。……ありがと」
「ん。……早く治せよな」
「うん……」

 ウバラの体はかっかと熱くて見事に発熱している。風邪か、単にストレスのせいなのかはわからない。ただ、ひどく体が気だるいのだけはたしかだった。

 これが虫吹雪の最中で良かったと、ウバラはそっと心の中で安堵の息を吐く。虫吹雪のあいだはまともに外へ出ることができないので、ギョクの足を引っ張るようなことにはならなかったと安心したのである。

 虫吹雪は、小さな虫たちの集団移動が、さながら吹雪のような様相を呈していることからだれともなくそう言うようになった。虫吹雪の日に外へ出れば、細かい虫たちが雨粒のように体中にぶつかるので、好んで外出するものはまずいない。

 視界も霧がけぶったときとそう変わりはないから、なおさら外に出るのは自殺行為と言える。こんな日に森に入った暁には、たちまち迷子になって土へと還る運命をたどることになるだろう。

 虫吹雪の発生条件は良くわかっていない。ただ、良い陽気が続くと虫吹雪が発生するとは言われている。言われてはいるが、必ずしも起きるわけではないし、「良い陽気」の定義もひどく曖昧だ。これは何度か虫吹雪を経験したものにしかわからない感覚なのだろう。

 虫吹雪は一度発生すると長くて一週間、短くて三日ほどで消滅する。あとには羽虫たちの透明な羽が雪のように積もって、そういう光景は「虫雪むしゆきが積もった」と形容される。これらは放っておけば土に還るか、風に飛ばされてどこかへ行くので、おおむね虫雪はそのままにしておかれるのであった。

 ただ、この小さな羽はひどく軽く、住居の様々な部分に入り込んだり、毛並みにくっつくので、みな嫌がる。

 外出もできないとあって、ゆえに虫吹雪を歓迎する森の民はいない。

 ギョクとウバラもそうだった。

 虫吹雪が発生して三日、ウバラが熱を出してから二日経った。ウバラは一日中寝込んでうつらうつらとしており、ギョクはそんな彼女を不器用ながらも甲斐甲斐しく世話をしている。

 熱が出たのなら水で濡らした布を額に乗せておくのがいいのだろうが、虫吹雪のあいだは水を汲みに行くのも一苦労だ。ウバラはそうしようとしたギョクを制して断った。

 ギョクはすぐに納得したわけではなかったものの、一方でこの時期の水の貴重さは話に聞いている。結局は頑なにウバラが拒否したので、彼が折れる形となった。

 発熱したことでむしろ食は細くなっていたので、食糧面では困ったことにはならなかった。

 あとは群れを崩すときにわけてもらった解熱薬を飲んで、快復に向けて眠るだけだ。

 眠るだけ、なのだが、それは今のウバラにはひどく難しい事柄であった。

「眠れないのか?」

 うつらうつらとまどろんでも、すぐに瞼を開いてしまうウバラを見て、ギョクはそう問うた。

 ややあってからウバラはうなずく。

「……うん」
「なんかうなされてるもんな。熱があるときは仕方ないか」
「うん。……いやな夢、見る」

 幼子のような舌ったらずな声はかすれている。素直に悪夢を見ることを吐露したのは、熱のせいかもしれなかった。常のウバラであれば、ギョクに心配はかけられないと黙っていただろう。

 熱を出すと急に心細くなってしまうのはなぜだろう、とウバラは思う。形のない不安が波のように押し寄せて、飲み込まれてしまいそうになる。

 ギョクはウバラの言葉を聞いて、「あー……」と言いながらしばらく視線を泳がせた。なにごとかを逡巡している様子である。

 しかし決断の早い彼のことだ。すぐに腹は決まったらしい。

「……じゃ、手ぇ繋いどくか?」
「……手を?」
「ああ。森に入るときはいつもそうしているだろ? だからちょっとは安心できるかなって……思って」

 尻すぼみになった語尾と、どこか決まりの悪そうな顔をするギョクが珍しく、ウバラはなんだか面白い気持ちになった。

「うん……。じゃあ、おねがい、します」
「あ、ああ」

 そうしてギョクは慎重な様子でウバラの差し出した手に、己の手のひらを重ねた。いつになく優しい手つきに、ウバラはどきりとする。いつもは気にならない手汗が、そのときばかりは妙に気にかかった。

 ギョクの手は冷たい。指先も、手のひらも、ひんやりとしていて心地が良い。そのままギョクの指が折り込まれて、ウバラの手をしっかりとつかんだ。

 ウバラもそれに応えようと手に力を入れたが、残念ながら上手く行かず、指はぼんやりと開いたままになった。

「……きもちいい」
「ウバラの手、熱いもんな。いつもは冷たいのに」
「そう?」
「自覚ないのか? 俺は冷え性なのかと思ってた」
「そうなんだ……」

 たしかに指先が冷たくなってしまうことはあったが、冷え性とまでは考えたことがなかった。

 いつも森へ入るときに手を繋ぐと、ギョクは温かいなと思うことが多い。それでも手を繋いでいるとすぐに温度が混ざり合うから、これまでその差を気にしたことはあまりなかったのだ。

 ほう、とまたウバラは熱い吐息を吐き出した。

「……俺がいるから、ちゃんと眠れ」
「……うん。わかってる。……けど」

 そう言ってウバラは今は固く閉ざされた出入り口へと視線をやる。平素はカーテンを引いただけのそこは、今は板を打ちつけてあった。それというのも虫吹雪に乗ってやって来る虫は、カーテンなどお構いなしに飛び込んで来るからだ。

 ギョクはウバラが言わんとしていることに気づき、しかめっ面を作る。

「気づいてたのか」
「うん……。ギョクが黙ってくれてたのはわかってたんだけど」

 ヤモリの木にときおり虫がぶつかる音が聞こえて来るのに混じって、なにかが木の周囲をうろうろと歩き回っている。

 虫吹雪のせいで時間はよくわからないが、常であればそろそろ日暮れ――太陽は見えないが――の時間であった。となれば外にいるのは――

「……『神』なのかな?」
「まあ、そうじゃねえか? この虫吹雪じゃ香炉からの匂いもすぐに流れちまうだろうし……。だからここまで近づいて来たのかも」
「また子供かな?」
「どうだろうな。子供だったら入って来ても勝てるんだけどな」

 そう言ってギョクはウバラと繋いでいるのとは逆の手で、愛用の銛を軽く持ち上げる。

 そんなギョクの力強い言葉にウバラの頬が緩んだ瞬間、板越しのくぐもった声がふたりの耳朶を打った。

『ウバラ』

 それは声と呼ぶにはいささかバラバラであるとの印象が強い、音の連続体であった。ひとつひとつの音の発音が一定でなく、一音は怒りに、一音は悲しみにと、それぞれ別の感情の発露が感ぜられる、ひどくちぐはぐなものだった。

『ウバラ、なにしてんだ』

 その声にウバラは目を見開き、あからさまに怯えた表情になる。

 ギョクもギョクで、狙いが今は弱っているウバラに定められていること知り、毛並みを逆立てた。

『ヤクたたず、ムダメシぐらい、アシひっぱるな』

 ちぐはぐな声は木を通してくぐもり、より一層不気味な響きを伴ってふたりに届く。

『オマエのセイで、ダメになる』
「……なに言ってんだこいつ」

 なぜ先ほどからこの来訪者がウバラをおとしめるような声を発しているのか理解出来ず、ギョクは思わずそうつぶやいていた。

 ギョクはそう言ったあとでウバラを見て、ぎょっとした。

 先ほどまで赤らんでいた顔がわずかに青白くなり、目は恐怖に見開かれ、ギョクと繋いだ手は震えが止まらないようだった。

 気分が悪くなったか、はてまた別の原因で急変したか。そこまでの判断はギョクには出来ず、「おい」とウバラに声をかける。

 その声を受けて我に返ったウバラは、ハッとした様子で布団の中からギョクを見上げた。

「どうしたウバラ。気分悪くなったか? でもあいつの言うことなんて気にするなよ」

 ウバラは答えない。そのことに焦って、ギョクの眉間のしわは深くなった。

 そうしているあいだにも、外にいるものの罵倒の言葉は止まなかった。

 それを聞いているうちに、ギョクはいらだちが募って行くのがわかった。

 ウバラの良いところをギョクはたくさん知っていた。この蝕の季節のあいだに、たくさん知ることが出来たのだ。

 それは自然とパートナーとなったこと、そうであることを誇りに思う感情へと繋がっていたから、その気持ちを汚されたような気になって、いてもたってもいられなくなる。

 けれども今、声を荒げたってどうにもならないし、ましてや外に飛び出すことも出来ない。現実問題、外に出ようと思ったらまず釘抜きを持ってきて、出入り口に張った板を取り除かなければならないのだし。

『ウバラ、アタマたりない、アシひっぱる、デキソコナイ』
「――うるせー!」

 けれどもギョクの怒りは爆発した。それはほとんど自明の理と言っても良かっただろう。ギョクにとってウバラは、胸を張ってパートナーと呼べる相手なのだから。

「さっきからごちゃごちゃうるせーんだよ! ねちねち、ねちねち、しつけえ!」
「――ギョ、ギョク……」
「こいつのどこか役立たずだよ?! こいつは俺の知らないことたくさん知っていて、それでもって優しくて、これ以上ないほど出来たやつだっつーの!」

 今、確実にウバラの熱が上がった。主に、恥ずかしさと喜びで。

「出来損ないはお前だろ! バ――カ!」

 幼稚な罵倒で締めくくったギョクは、フーッフーッと毛並みを逆立てて明らかな興奮状態だった。

「ギョク……」
「なんだ?! ウバラ! あいつの言うことなんて気にすんなよ!」
『ウバラ、ダメなやつ』
「ああ、もう、うるせえなこいつ! あのな、ウバラ」
「ギョク、わかってるよ。あれは――」

 ウバラは大きな黒い目で、憤りを隠さないギョクを見つめた。

「――あれは、わたしの記憶を読み取っているだけだから」


 肉体的にも性的にも成熟したウバラは、ひとまず子供と呼べる期間を脱した。それは群れから離れる選択肢を選ぶことができることを意味している。

 ウバラはひとまず蝕の季節に群れから離れて見ようと、別の群れで生活している同じ花鼠の雄とパートナーになった。――後々のことを考えると、これは双方にとって不幸な決定だったと言わざるを得ないだろう。

 ふたりの生活は、どちらかと言えばウバラが相手に従属する形で行われた。ウバラが引っ込み思案な性格だったことも影響していたし、彼女が少々献身的過ぎるのも原因のひとつではあった。

 当初はそれでも上手く回っていたものの、日が経つにつれて相手はあれもこれもと器用なウバラに押し付けるようになる。ウバラもそれを受け入れてしまったことは、彼女の落ち度でもあるだろう。

 けれどもウバラの好意や能力にあぐらをかいてしまった相手にも、責められるべき点はある。

 労働の大部分をウバラが請け負うようになった結果、なにが起こったか。

 ひとつは破綻だった。ウバラは明らかなオーバーワークによって体調を崩してしまったのだ。そのときにはもう、相手はウバラのことを便利な機械くらいの認識しかしていなかったので、その変化には舌打ちをするだけだった。

 ひとつは誤算だった。文字通り、ふたりともが食糧の貯蔵を見誤ったのだ。時期も悪かった。ちょうど、そのことがわかった次の日に虫吹雪が起こってしまったのだ。しかも運の悪いことに、その虫吹雪は一週間を過ぎても続いた。

 飢えはひとを変える。飢餓状態に陥ってイライラするようになった相手は、上手くことが運ばない理由をウバラにのみ求めた。

 そうして彼はウバラがいるせいでどんどん状況が悪くなっているのだと判断し、虫吹雪の中、彼女をヤモリの木から文字通り蹴り出したのであった。

「ああ、わたし、死んじゃうんだなあって思ったよ。虫吹雪もそうだし、どうしようかうろうろしているうちに夜になっちゃって――『神』に出会ったから」

「でもね」とウバラは言葉を続ける。

「でも、あのときのあのひとよりも、『神』のほうが優しかったかな……。わたしを蹴ったりしなかった、っていうか……気まぐれなのかな? なにもしなくて。まあ、なにかあったら今ここにいないんだろうけどね」

 そう言って笑った様子が見ていられなかったギョクは、静かに彼女と繋いだ手に力を込めた。

「……お母さんから、聞いてたんだよね?」
「……ああ。……大体は」
「そっか」
「……そいつはひどいやつだなって思ったけど、今はクソ野郎だなって思う」

 いつになく険しい顔をするギョクに、ウバラは微笑みかける。

「どっちが悪かったとかはないと思うよ」
「……そうか?」
「うん。わたしも悪かったし、相手もちょっと悪かったなって、今はそう思う」

 ウバラはそう言うが、けれども、とギョクは思う。

 今外にいるなにかが発している言葉がかつてウバラにかけられたものだと思うと、どうしてもギョクは怒りを覚えずにはいられないのである。その相手がウバラの好意にあぐらをかいていたのなら、なおさら。

 ウバラが静かに過去を話し終えるころには、外にいたなにかはあきらめて離れて行ったようだった。

「俺は、ウバラと前のパートナーがどうだったのか見たわけじゃないから、なにか言うのは間違ってるんだろうけど」

 そこでギョクは一拍、間を置く。

「でも、俺はウバラのいいところ、知ってるから。だから、さっきの言葉がそいつからウバラにかけられたものだって思うと……スゲーむかつく」
「……そっか」
「うん。俺はウバラのこと、あんな風には思ったことないから、なんでそいつがそんなこと言ったのか、まったくわかんねえ」
「それは、たぶん……わたしが色々気をつけられるようになったから、じゃないかな。というか、そうだといいな……」

 それ以上、どちらが悪かったのかという話をしても無駄だろうとギョクは感じた。

 ウバラは先の蝕の季節のことを引きずってはいるのだろうが、一方で心の中ではある程度区切りがついているように見えるからだ。それが、ギョクには納得のいかない形だというのは置いておくとして。

「ありがとう」
「ん?」
「ギョクがいてくれてよかった。……熱が出ると心細くなっちゃうのはなんでだろうね」

 なにものかの気配がなくなって安心したのか、ウバラはまた熱の影響でまどろみ始める。

 彼女が眠りの底へと落ちて行くのを眺めながら、ギョクは自然と言葉が口を突いて出た。

「……俺がずっとそばにいるから、安心しとけ」

 それにウバラは「うん」と答えたような気もするし、そのまま寝入ってしまったような気もする。

 けれどもそれは些細な差であった。

 ふたりの心は、すでに通じ合っていたのだから。
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