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いつもの車。いつもとは違う席。運転席を占領しているのは顔見知りではあるが、名前も知らぬ大男。
大男はたどたどしい言葉遣いで、ときおり興奮しているのか感極まっているのかは知らないが、声を詰まらせ涙ぐむ。意味がわからなかった。
しかしあちらこちらへと飛び交う大男の話を総括すると、この男はティーナに好意を抱いているらしい。幼子が抱くような可愛らしいものでも、無償の愛でもない。立派な性欲が伴った好意的感情だ。ティーナはそのことに気づいて密かに顔をしかめた。
大男はどうも騎士気取りでティーナを「助けた」つもりらしい。ティーナはなぜ大男がそのような思考をたどり、その結果を吐き出したのかまではさっぱりわからなかった。
たしかにティーナは好きで「テオコリファミリーのボスの孫娘」なんてやっているわけではない。しかしその立場からティーナを連れ出そうだなんて、独りよがりもいいところだった。つまり、「大きなお世話」というやつである。
けれども大男を刺激したくない一心で、ティーナは彼の言葉を聞いているフリをする。そうしながらも、逃げる機会をうかがっていた。
ミルコは大丈夫だろうかと心配になるも、今もっとも心配すべきなのは己の身なのだと思い出す。
このあてどないドライブの先になにが待っているかだなんて、初心じゃないのだからティーナにだってわかる。結局、ティーナを助けるだのなんだのと言ったって、大男の最終的な「目的」はそれに違いないだろう。
星が瞬き始めた藍色の夜空を見る。隣で運転する大男はそれを見て悦に入っているようだった。いちいち、言動がティーナの神経を逆なでていることに大男は気づかない。
ドラッグをキメていようが、キメていなかろうが、もともと大男はそういう機微には鈍感な人間なのだろう。だから後先を考えずにこんな大仰なことができてしまえるのだ。
どう考えたってこの逃避行――と思っているのは大男だけだ――が実らせる未来など存在しない。裏社会に身を置いていなくたって、普通の人間だったらそれくらいは想像がつく。
大男にはそんな普通の想像力すらないのか。あるいはドラッグがそういった思考力を奪ってしまったのか。
いずれにせよティーナにとっては迷惑で、厄介な事柄であることには違いなかった。
「着いたよ」
ごくごく普通の、ファミリータイプのマンションの足元にある駐車場に入る。やがて動きを止めた車の中で、大男はティーナのほうを向いた。なんとなく目を合わせたくなくて、ティーナは大男の首元を見た。襟がくたびれている。
大男はこれからのことを想像しているのか、鼻息荒く興奮している。ティーナはそれを見てゾッとするどころか、どんどんと心が冷えて思考が落ち着いて行くのを感じた。
恐らくこのマンションの一室が大男の住まいなのだろう。部屋に入ってしまえばアウトだ。となると残された選択肢はあってないようなものだ。
車を降りて部屋へ向かうあいだに、逃げるしかない。
逃げ切れる自信は相変わらずなかったものの、マンションから人通りの多い、メインストリートまではそう距離はない。
そこまで逃げればさすがに大男もミルコにしたような大立ち回りはしない……と思いたい。あれは三人以外に他人の目がなかったから起こったことだとティーナは思いたかった。
大男がティーナへ向かって手を伸ばす。
ティーナは後ろ手でドアロックを外すと、思い切って身を翻し車のドアを開いた。
大男は律儀にシートベルトを締めていたのと、大男にとっては突然のティーナの行動におどろき、動き出すまでに時間がかかった。ティーナはその隙を見逃さず、コンクリートの地面を蹴って走り出す。
特別スポーツをしてきたわけでも、運動をしていたわけでもないティーナは、息を切らせながら走る。
けれども現実は非情だった。あっという間に大男に追いつかれてしまう。大男は意味不明な雄たけびを上げながらティーナに走り寄ると、その華奢な二の腕を取って、そのままマンションの白い壁に投げつけた。
激突。瞬間、呼吸が止まる。壁にぶつかった背中が痛くて、息が乱れる。逃げなければならないのに、痛みが体から力を奪い、その場でうずくまって動けなくなる。
近づいてきた大男はやはり意味不明な雄たけびを上げ続けている。興奮で舌が回っていないのだ。かろうじてティーナを罵っていることだけはわかったが、それだけだ。
ティーナは咳き込みながらよろよろと立ち上がる。スカートのポケットからスマートフォンを取り出し――大男の顔面に向かって投擲した。
それは大男の鼻面にぶちあたったあと、コンクリートの地面に落ちる。
ティーナは再び走り出し、今度は駐車場の内部に飛び込んで、大男が通りにくそうな車と車の狭間に逃げ込んだ。
大男がティーナを罵る声が背中に当たる。大男の隙を作るためとはいえ、短絡的にスマートフォンを投擲したのは早計だった。しかし後悔してもどうにもならない。
ティーナのスマートフォンが発する位置情報から、レオンツィオが居場所を割り出してくれるのを祈るしかなかった。
予想通り、大男は停められた車と車のあいだを抜けるのに難儀しているらしく、今度は距離を稼げている。このまま駐車場をぐるりと回って外へ出るか、駐車場のどこかに身を隠しながらレオンツィオを待つか。
そんな風に考え込んだ一瞬の隙を突かれる。なにかがティーナに向かって飛んで来たのだ。咄嗟に左腕を掲げて防御するも、それがぶち当たった衝撃で足がもつれて無様に倒れ込んでしまう。
コンクリートの地面に落ちたのは、ティーナが大男に向かって投げたスマートフォンだった。画面には縦横無尽にヒビが入っている。大男が拾って、ティーナがしたのと同じように投げてきたのだろう。
やはりスマートフォンを投擲したのはうかつだったとティーナは後悔する。
近づいてきた大男は顔を真っ赤にしてティーナを見る。殺される、とティーナは直感的に思った。じわじわと絶望が足元からのぼってくるようだった。とことん男運のない自分がイヤになる。
唾を飛ばしながら罵倒の言葉をまくしたてる大男をぼんやりと眺めながら、ティーナはいかにしてこの状況を切り抜けるか思考する。だがめまぐるしい思考の波は、一発の銃声によっていともたやすく引き裂かれた。
大男はたどたどしい言葉遣いで、ときおり興奮しているのか感極まっているのかは知らないが、声を詰まらせ涙ぐむ。意味がわからなかった。
しかしあちらこちらへと飛び交う大男の話を総括すると、この男はティーナに好意を抱いているらしい。幼子が抱くような可愛らしいものでも、無償の愛でもない。立派な性欲が伴った好意的感情だ。ティーナはそのことに気づいて密かに顔をしかめた。
大男はどうも騎士気取りでティーナを「助けた」つもりらしい。ティーナはなぜ大男がそのような思考をたどり、その結果を吐き出したのかまではさっぱりわからなかった。
たしかにティーナは好きで「テオコリファミリーのボスの孫娘」なんてやっているわけではない。しかしその立場からティーナを連れ出そうだなんて、独りよがりもいいところだった。つまり、「大きなお世話」というやつである。
けれども大男を刺激したくない一心で、ティーナは彼の言葉を聞いているフリをする。そうしながらも、逃げる機会をうかがっていた。
ミルコは大丈夫だろうかと心配になるも、今もっとも心配すべきなのは己の身なのだと思い出す。
このあてどないドライブの先になにが待っているかだなんて、初心じゃないのだからティーナにだってわかる。結局、ティーナを助けるだのなんだのと言ったって、大男の最終的な「目的」はそれに違いないだろう。
星が瞬き始めた藍色の夜空を見る。隣で運転する大男はそれを見て悦に入っているようだった。いちいち、言動がティーナの神経を逆なでていることに大男は気づかない。
ドラッグをキメていようが、キメていなかろうが、もともと大男はそういう機微には鈍感な人間なのだろう。だから後先を考えずにこんな大仰なことができてしまえるのだ。
どう考えたってこの逃避行――と思っているのは大男だけだ――が実らせる未来など存在しない。裏社会に身を置いていなくたって、普通の人間だったらそれくらいは想像がつく。
大男にはそんな普通の想像力すらないのか。あるいはドラッグがそういった思考力を奪ってしまったのか。
いずれにせよティーナにとっては迷惑で、厄介な事柄であることには違いなかった。
「着いたよ」
ごくごく普通の、ファミリータイプのマンションの足元にある駐車場に入る。やがて動きを止めた車の中で、大男はティーナのほうを向いた。なんとなく目を合わせたくなくて、ティーナは大男の首元を見た。襟がくたびれている。
大男はこれからのことを想像しているのか、鼻息荒く興奮している。ティーナはそれを見てゾッとするどころか、どんどんと心が冷えて思考が落ち着いて行くのを感じた。
恐らくこのマンションの一室が大男の住まいなのだろう。部屋に入ってしまえばアウトだ。となると残された選択肢はあってないようなものだ。
車を降りて部屋へ向かうあいだに、逃げるしかない。
逃げ切れる自信は相変わらずなかったものの、マンションから人通りの多い、メインストリートまではそう距離はない。
そこまで逃げればさすがに大男もミルコにしたような大立ち回りはしない……と思いたい。あれは三人以外に他人の目がなかったから起こったことだとティーナは思いたかった。
大男がティーナへ向かって手を伸ばす。
ティーナは後ろ手でドアロックを外すと、思い切って身を翻し車のドアを開いた。
大男は律儀にシートベルトを締めていたのと、大男にとっては突然のティーナの行動におどろき、動き出すまでに時間がかかった。ティーナはその隙を見逃さず、コンクリートの地面を蹴って走り出す。
特別スポーツをしてきたわけでも、運動をしていたわけでもないティーナは、息を切らせながら走る。
けれども現実は非情だった。あっという間に大男に追いつかれてしまう。大男は意味不明な雄たけびを上げながらティーナに走り寄ると、その華奢な二の腕を取って、そのままマンションの白い壁に投げつけた。
激突。瞬間、呼吸が止まる。壁にぶつかった背中が痛くて、息が乱れる。逃げなければならないのに、痛みが体から力を奪い、その場でうずくまって動けなくなる。
近づいてきた大男はやはり意味不明な雄たけびを上げ続けている。興奮で舌が回っていないのだ。かろうじてティーナを罵っていることだけはわかったが、それだけだ。
ティーナは咳き込みながらよろよろと立ち上がる。スカートのポケットからスマートフォンを取り出し――大男の顔面に向かって投擲した。
それは大男の鼻面にぶちあたったあと、コンクリートの地面に落ちる。
ティーナは再び走り出し、今度は駐車場の内部に飛び込んで、大男が通りにくそうな車と車の狭間に逃げ込んだ。
大男がティーナを罵る声が背中に当たる。大男の隙を作るためとはいえ、短絡的にスマートフォンを投擲したのは早計だった。しかし後悔してもどうにもならない。
ティーナのスマートフォンが発する位置情報から、レオンツィオが居場所を割り出してくれるのを祈るしかなかった。
予想通り、大男は停められた車と車のあいだを抜けるのに難儀しているらしく、今度は距離を稼げている。このまま駐車場をぐるりと回って外へ出るか、駐車場のどこかに身を隠しながらレオンツィオを待つか。
そんな風に考え込んだ一瞬の隙を突かれる。なにかがティーナに向かって飛んで来たのだ。咄嗟に左腕を掲げて防御するも、それがぶち当たった衝撃で足がもつれて無様に倒れ込んでしまう。
コンクリートの地面に落ちたのは、ティーナが大男に向かって投げたスマートフォンだった。画面には縦横無尽にヒビが入っている。大男が拾って、ティーナがしたのと同じように投げてきたのだろう。
やはりスマートフォンを投擲したのはうかつだったとティーナは後悔する。
近づいてきた大男は顔を真っ赤にしてティーナを見る。殺される、とティーナは直感的に思った。じわじわと絶望が足元からのぼってくるようだった。とことん男運のない自分がイヤになる。
唾を飛ばしながら罵倒の言葉をまくしたてる大男をぼんやりと眺めながら、ティーナはいかにしてこの状況を切り抜けるか思考する。だがめまぐるしい思考の波は、一発の銃声によっていともたやすく引き裂かれた。
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