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その身長二メートルはありそうな大男の客は、明らかに挙動不審な様子でバイト上がりのティーナに駆け寄ってきた。けれどもティーナに近づく前にミルコに阻まれる。ティーナは先ほどまでミルコがご丁寧に開けていたドアから後部座席へ乗り込むか悩んだ。
もしかしたら、その悩むような素振りがよくなかったのかもしれない、とティーナは思ったが、それは後の祭りというやつだ。
大男とミルコがなにかしら言い争い始めた。いや、大男が一方的になにかをまくし立てているようだった。次第に大男の声は大きくなって行くものの、比例してなにをしゃべっているのかわからなくなっていった。
大男の目は明らかにおかしかった。目の周辺は落ち窪んで、肌もなんだか色褪せて見えるのに、眼球だけはギラギラと怪しい生気を伴って輝きを放っている。
しかしただの非力な小娘であるティーナにできることはない。大男が恐らくドラッグを常用しているだろうことは、ティーナにわかるのならその筋の人間であるミルコにわからないはずもなかった。
雲行きが怪しくなったのは大男がミルコに突進してからだった。独壇場とはこのことを言うのだろう。大男は明らかに理性のタガが外れていて、火事場の馬鹿力とでも言うような怪力を発揮しているのがわかった。
始めは抵抗し、大男に攻撃を加えていたミルコも、でたらめな動きと力の大男に翻弄され、防戦一方となる。
大男のタックルでミルコが引き倒される。アスファルトの地面にふたりが倒れ込む。ティーナは直感的にまずいと感じてスマートフォンを取り出した。
大男が倒れ込んだミルコに馬乗りになって殴りかかる。勝手口に面した裏路地での出来事だ。野次馬はないが、つまり助けもないということも意味している。
大男がミルコに容赦なく拳を振るう、鈍い音が響き渡る。ティーナの手の中にあるスマートフォンは、コール音を鳴り響かせる。
ミルコを見捨てて逃げるべきなのだろうか? ティーナの中に迷いが生じる。その逡巡が大男から逃亡する隙を奪う。
「――いっしょにきてくれるよね?」
顔面を血に濡らしたミルコの頭を踏みつけている大男は、やや舌足らずな言葉遣いでそう言った。
ティーナのスマートフォンがようやく繋がる。
『レオナ? どうしたの?』
「車で行こう。いっしょに逃げるんだ」
『レオナ?』
今ここでティーナが逃げ出して、大通りまで大男に捕まらずにいられる確率は低そうだった。ティーナは特段足が速いわけではなく、大男が大股で走ってこられれば小柄なティーナはひとたまりもないだろう。
それに、ミルコのこともある。恐るべき膂力で大男が今ミルコの頭でも蹴り飛ばしたら、彼は死んでしまうかもしれない。
考えれば考えるほど、逃亡に使える時間が目減りして行く。
そして大男はティーナの逡巡を悟ったのか、ミルコの顔面を踏みつけていた足をどける。大きく持ち上がった大男の脚を見て、ティーナは思わず「やめて!」と叫んでいた。その声はスマートフォンのスピーカーを通して、通話相手のレオンツィオにも聞こえた。
『レオナ、すぐそっちに行くから』
大男が動きを止める。にたあ、と歯を剥き出しにして不気味に笑った。その底知れなさにティーナは背筋を冷たくする。
この大男の目的がわからなかった。ティーナを標的としているのはたしかであったが、意図が読めない。けれども大男が発した短いセリフから、うっすらと憶測をすることはできた。ただ、できたのはそこまでだ。
『大丈夫だよ、レオナ。私が助けに行くから』
失神しているミルコの体を跨いで大男がティーナに近づく。ティーナは持っていたスマートフォンをスカートのポケットに滑り込ませた。
大男の筋張った太い指がティーナの華奢な手首を掴む。
「さあ、行こう」
逆らえばミルコのようになるかもしれない。あるいはまたティーナの言うことを聞かせるためにミルコに危害を加える可能性もあった。となると、この意図が読めない大男の言う通りにする以外の選択肢は、ティーナにはない。ティーナは覚悟を決めるしかなかった。
大男はミルコが乗ってきた車を奪い、助手席に乗るようティーナを促す。ティーナは黙ったままうなずいて車に乗り込む。大通りへ向かって車が動き出す。大通りを行く地元の人間や観光客は、だれひとりとして異常事態には気づいていない。
今、ティーナの危機を知っているのはレオンツィオくらいだ。
車の中でティーナはなぜ真っ先にレオンツィオの番号を選んだのか考える。単に連絡帳の上に位置していたからであって、それ以上の感情はないのだと言い訳し、そう思い込もうとした。アルチーデや他の幹部を選ばなかったのに、深い理由は、ない。恐らく。
それよりも、とティーナは気持ちを切り替える。
運転席で鼻歌を歌いながら車を運転するこの大男だ。気を払っていないのだろう、くちゃくちゃの癖毛に、くたびれた服。近くにいると少しイヤなにおいがする。生理的に受け付けないタイプの男だ。
おまけに土気色の張りのない肌や落ち窪んだ目元からして、ドラッグを常用しているように見える。普通の感性を持つ人間であれば、お近づきになりたくないと考えるだろう。
「……どこへ行くんですか?」
ティーナは意を決して大男に話しかけた。
「どこか遠くへ」
大男はひどくご機嫌な様子でそう答える。格好をつけようとしているような口調だった。ティーナの心には、まったく響かなかったが。
ドラッグを常用しているのならば、正気ではないのかもしれない。そう考えると大男が放ったセリフにもいくらか納得が行く。
けれどもティーナは先ほどの大男の言葉を得て、直感的に理解していた。大男の目的はティーナなのだと。「テオコリファミリーの孫娘」であるティーナではなく、「レオンティーナ・マーリ」本人が目的なのだろう。
……もしそうだとすれば、少し厄介かもしれないとティーナは思った。
もしかしたら、その悩むような素振りがよくなかったのかもしれない、とティーナは思ったが、それは後の祭りというやつだ。
大男とミルコがなにかしら言い争い始めた。いや、大男が一方的になにかをまくし立てているようだった。次第に大男の声は大きくなって行くものの、比例してなにをしゃべっているのかわからなくなっていった。
大男の目は明らかにおかしかった。目の周辺は落ち窪んで、肌もなんだか色褪せて見えるのに、眼球だけはギラギラと怪しい生気を伴って輝きを放っている。
しかしただの非力な小娘であるティーナにできることはない。大男が恐らくドラッグを常用しているだろうことは、ティーナにわかるのならその筋の人間であるミルコにわからないはずもなかった。
雲行きが怪しくなったのは大男がミルコに突進してからだった。独壇場とはこのことを言うのだろう。大男は明らかに理性のタガが外れていて、火事場の馬鹿力とでも言うような怪力を発揮しているのがわかった。
始めは抵抗し、大男に攻撃を加えていたミルコも、でたらめな動きと力の大男に翻弄され、防戦一方となる。
大男のタックルでミルコが引き倒される。アスファルトの地面にふたりが倒れ込む。ティーナは直感的にまずいと感じてスマートフォンを取り出した。
大男が倒れ込んだミルコに馬乗りになって殴りかかる。勝手口に面した裏路地での出来事だ。野次馬はないが、つまり助けもないということも意味している。
大男がミルコに容赦なく拳を振るう、鈍い音が響き渡る。ティーナの手の中にあるスマートフォンは、コール音を鳴り響かせる。
ミルコを見捨てて逃げるべきなのだろうか? ティーナの中に迷いが生じる。その逡巡が大男から逃亡する隙を奪う。
「――いっしょにきてくれるよね?」
顔面を血に濡らしたミルコの頭を踏みつけている大男は、やや舌足らずな言葉遣いでそう言った。
ティーナのスマートフォンがようやく繋がる。
『レオナ? どうしたの?』
「車で行こう。いっしょに逃げるんだ」
『レオナ?』
今ここでティーナが逃げ出して、大通りまで大男に捕まらずにいられる確率は低そうだった。ティーナは特段足が速いわけではなく、大男が大股で走ってこられれば小柄なティーナはひとたまりもないだろう。
それに、ミルコのこともある。恐るべき膂力で大男が今ミルコの頭でも蹴り飛ばしたら、彼は死んでしまうかもしれない。
考えれば考えるほど、逃亡に使える時間が目減りして行く。
そして大男はティーナの逡巡を悟ったのか、ミルコの顔面を踏みつけていた足をどける。大きく持ち上がった大男の脚を見て、ティーナは思わず「やめて!」と叫んでいた。その声はスマートフォンのスピーカーを通して、通話相手のレオンツィオにも聞こえた。
『レオナ、すぐそっちに行くから』
大男が動きを止める。にたあ、と歯を剥き出しにして不気味に笑った。その底知れなさにティーナは背筋を冷たくする。
この大男の目的がわからなかった。ティーナを標的としているのはたしかであったが、意図が読めない。けれども大男が発した短いセリフから、うっすらと憶測をすることはできた。ただ、できたのはそこまでだ。
『大丈夫だよ、レオナ。私が助けに行くから』
失神しているミルコの体を跨いで大男がティーナに近づく。ティーナは持っていたスマートフォンをスカートのポケットに滑り込ませた。
大男の筋張った太い指がティーナの華奢な手首を掴む。
「さあ、行こう」
逆らえばミルコのようになるかもしれない。あるいはまたティーナの言うことを聞かせるためにミルコに危害を加える可能性もあった。となると、この意図が読めない大男の言う通りにする以外の選択肢は、ティーナにはない。ティーナは覚悟を決めるしかなかった。
大男はミルコが乗ってきた車を奪い、助手席に乗るようティーナを促す。ティーナは黙ったままうなずいて車に乗り込む。大通りへ向かって車が動き出す。大通りを行く地元の人間や観光客は、だれひとりとして異常事態には気づいていない。
今、ティーナの危機を知っているのはレオンツィオくらいだ。
車の中でティーナはなぜ真っ先にレオンツィオの番号を選んだのか考える。単に連絡帳の上に位置していたからであって、それ以上の感情はないのだと言い訳し、そう思い込もうとした。アルチーデや他の幹部を選ばなかったのに、深い理由は、ない。恐らく。
それよりも、とティーナは気持ちを切り替える。
運転席で鼻歌を歌いながら車を運転するこの大男だ。気を払っていないのだろう、くちゃくちゃの癖毛に、くたびれた服。近くにいると少しイヤなにおいがする。生理的に受け付けないタイプの男だ。
おまけに土気色の張りのない肌や落ち窪んだ目元からして、ドラッグを常用しているように見える。普通の感性を持つ人間であれば、お近づきになりたくないと考えるだろう。
「……どこへ行くんですか?」
ティーナは意を決して大男に話しかけた。
「どこか遠くへ」
大男はひどくご機嫌な様子でそう答える。格好をつけようとしているような口調だった。ティーナの心には、まったく響かなかったが。
ドラッグを常用しているのならば、正気ではないのかもしれない。そう考えると大男が放ったセリフにもいくらか納得が行く。
けれどもティーナは先ほどの大男の言葉を得て、直感的に理解していた。大男の目的はティーナなのだと。「テオコリファミリーの孫娘」であるティーナではなく、「レオンティーナ・マーリ」本人が目的なのだろう。
……もしそうだとすれば、少し厄介かもしれないとティーナは思った。
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