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ティーナがレオンツィオに「会いたい」と思えば、たいていその願いは叶った。今のように便利な連絡手段がなかった時代だったが、不思議と「会いたい」と思えばレオンツィオと出くわすことは珍しくなかった。
しかしその日は違った。その日、一番会いたくなかったのがレオンツィオだった。
仕事でヘマをして利き腕に怪我を負ってしまった。おまけに空には雨雲が垂れこめていて、そのうちに土砂降りの雨を降らせ始める。
路地を縫うようにふらふらとした足取りでセーフハウスへ向かおうとしたが、そこでレオンツィオにばったりと出くわしたのだ。
なぜこんな薄汚い路地にレオンツィオがいるのか、ティーナは混乱した。黒い傘を差したレオンツィオも目を丸くしてティーナを見た。そしてすぐにティーナの傷を見て、痛ましそうに目を細める。
『レオンさ……』
『レオナ、おいで』
ティーナがレオンツィオの名を呼ぶ前に、レオンツィオはティーナの左腕を取った。そしてそのまま有無を言わさず路地の外へと向かって行く。
ティーナはあせった。レオンツィオのことだから、ティーナの傷口を見て病院へ連れて行こうとしているのだろう。しかし、そんなことをされては警察に嗅ぎつけられる。ティーナの傷口は明らかに銃創だからだ。
『レオンさん! あの……』
『……その傷のことは聞かない。だから私の言う通りにしてくれ』
ティーナの左腕を引っ張り前を行くレオンツィオ。その背中をティーナは見上げるばかりだった。
レオンツィオの声はいつもの柔和さを感じられない固いもので、それだけでティーナの心臓は不安感に激しく鼓動を打つ。
仕事のことがバレたら、レオンツィオに軽蔑される。貿易会社でまっとうに働いているというレオンツィオが、ティーナの正体に気づけばどうなるか――。まったく予想はつかなかったし、想像すらしたくなかった。
まっとうに生きているレオンツィオと、薄汚れた手をしているティーナ。本来、その人生は交わるべきではなかったのだ。ティーナの胸に後悔の波が押し寄せる。
脳みそがゆらゆらと揺らされているような感覚。血を流し過ぎたのか、それともこんな己をレオンツィオに見られたショックか。どちらなのか、はてまた両方なのか。わからないまま、気がつけばティーナは失神していた。
『……レオナ』
次に目覚めた時に視界へ入ってきたのは、見覚えのない天井だった。右腕には違和感があった。どうやら麻酔を打たれたあとらしく、自分の腕ではないような感覚があった。
そしてティーナが寝そべっていた広いベッドのふちには、レオンツィオが腰をかけている。その金の瞳と目が合って、ティーナは気まずい思いに囚われた。
『知り合いの医者に頼んで処置してもらって、それで私の家に連れてきたんだけれど……気分はどう?』
ティーナはどういう反応をすればいいのかわからなくなって、なにも言えなかった。
ティーナの傷口は医者が見れば銃創であることは明らかで、そうであればティーナを連れてきたレオンツィオに医者は説明をするだろうし、逆になにがあったのかも聞くだろう。
銃で撃たれたにもかかわらず、だれにも助けを求めずに路地を歩いていたなんて、「うしろめたいことがあります」と言っているも同然だった。
自然とうつむいてしまったティーナの左頬に、レオンツィオの指が触れる。ティーナはおどろいて顔を上げた。
『別に私は怒っていないよ』
いつもの優しい声音でレオンツィオが言う。それだけでティーナは救われた。「ああ、見捨てられなかった」――その安堵感から目頭が熱くなる。それはすぐに涙という形であらわれて、ティーナの頬を伝って行った。
涙を流すティーナを見て、レオンツィオはぎょっとした顔をする。
『レオナ! どこか痛いところが――』
『ちが……ちがいます。たぶん、麻酔が効いているので……今は痛くはないです』
『そ、そう。……よかった』
ほっと安堵のため息を漏らすレオンツィオを見て、ティーナは心を震わせる。レオンツィオが本気でティーナの身を案じてくれている。その事実は妙にくすぐったく、そして温かかった。
『困ったことがあったら私に言ってね』
『それは……』
『君のことが心配なんだ。大人としても、友人としても』
レオンツィオに「友人」と言われたことがうれしくて、ティーナの頬に熱が集まる。
正確な歳の差は知らないが、レオンツィオはティーナより確実に一〇は年上だろう。それでも彼はティーナを臆面もなく「友人」なのだと言ってくれる。それがティーナには舞い上がるほどにうれしかった。
しかし同時にティーナの心の中には罪悪感が生じた。ティーナは優しいレオンツィオを騙している。カタギのフリをして彼と付き合いを続けている。それが妙に心苦しかった。
そんなティーナの頭にレオンツィオの手が触れる。
『君がどこのだれであろうと、どこへいってしまおうと、私の友人だという事実は変わらないよ。それだけは覚えていて』
ティーナは無言のままうなずいた。
……今思い返せばなんという茶番だろうとティーナは思う。滑稽すぎて逆にまったく面白くない。
傷の理由も聞かずに手当てをしてくれたレオンツィオの行いを、ティーナは優しさなのだと錯覚した。己を尊重してくれているのだと思った。……今はどれも、そうだとは思えない。
けれどもあのときに感じたぬくもりを、ティーナは未だに忘れられないでいる。心に――いや、魂にこびりついて離れない。
だからティーナは生まれ変わっても出会ったレオンツィオに、どういう態度を取るべきなのか悩み続けている。
しかしその日は違った。その日、一番会いたくなかったのがレオンツィオだった。
仕事でヘマをして利き腕に怪我を負ってしまった。おまけに空には雨雲が垂れこめていて、そのうちに土砂降りの雨を降らせ始める。
路地を縫うようにふらふらとした足取りでセーフハウスへ向かおうとしたが、そこでレオンツィオにばったりと出くわしたのだ。
なぜこんな薄汚い路地にレオンツィオがいるのか、ティーナは混乱した。黒い傘を差したレオンツィオも目を丸くしてティーナを見た。そしてすぐにティーナの傷を見て、痛ましそうに目を細める。
『レオンさ……』
『レオナ、おいで』
ティーナがレオンツィオの名を呼ぶ前に、レオンツィオはティーナの左腕を取った。そしてそのまま有無を言わさず路地の外へと向かって行く。
ティーナはあせった。レオンツィオのことだから、ティーナの傷口を見て病院へ連れて行こうとしているのだろう。しかし、そんなことをされては警察に嗅ぎつけられる。ティーナの傷口は明らかに銃創だからだ。
『レオンさん! あの……』
『……その傷のことは聞かない。だから私の言う通りにしてくれ』
ティーナの左腕を引っ張り前を行くレオンツィオ。その背中をティーナは見上げるばかりだった。
レオンツィオの声はいつもの柔和さを感じられない固いもので、それだけでティーナの心臓は不安感に激しく鼓動を打つ。
仕事のことがバレたら、レオンツィオに軽蔑される。貿易会社でまっとうに働いているというレオンツィオが、ティーナの正体に気づけばどうなるか――。まったく予想はつかなかったし、想像すらしたくなかった。
まっとうに生きているレオンツィオと、薄汚れた手をしているティーナ。本来、その人生は交わるべきではなかったのだ。ティーナの胸に後悔の波が押し寄せる。
脳みそがゆらゆらと揺らされているような感覚。血を流し過ぎたのか、それともこんな己をレオンツィオに見られたショックか。どちらなのか、はてまた両方なのか。わからないまま、気がつけばティーナは失神していた。
『……レオナ』
次に目覚めた時に視界へ入ってきたのは、見覚えのない天井だった。右腕には違和感があった。どうやら麻酔を打たれたあとらしく、自分の腕ではないような感覚があった。
そしてティーナが寝そべっていた広いベッドのふちには、レオンツィオが腰をかけている。その金の瞳と目が合って、ティーナは気まずい思いに囚われた。
『知り合いの医者に頼んで処置してもらって、それで私の家に連れてきたんだけれど……気分はどう?』
ティーナはどういう反応をすればいいのかわからなくなって、なにも言えなかった。
ティーナの傷口は医者が見れば銃創であることは明らかで、そうであればティーナを連れてきたレオンツィオに医者は説明をするだろうし、逆になにがあったのかも聞くだろう。
銃で撃たれたにもかかわらず、だれにも助けを求めずに路地を歩いていたなんて、「うしろめたいことがあります」と言っているも同然だった。
自然とうつむいてしまったティーナの左頬に、レオンツィオの指が触れる。ティーナはおどろいて顔を上げた。
『別に私は怒っていないよ』
いつもの優しい声音でレオンツィオが言う。それだけでティーナは救われた。「ああ、見捨てられなかった」――その安堵感から目頭が熱くなる。それはすぐに涙という形であらわれて、ティーナの頬を伝って行った。
涙を流すティーナを見て、レオンツィオはぎょっとした顔をする。
『レオナ! どこか痛いところが――』
『ちが……ちがいます。たぶん、麻酔が効いているので……今は痛くはないです』
『そ、そう。……よかった』
ほっと安堵のため息を漏らすレオンツィオを見て、ティーナは心を震わせる。レオンツィオが本気でティーナの身を案じてくれている。その事実は妙にくすぐったく、そして温かかった。
『困ったことがあったら私に言ってね』
『それは……』
『君のことが心配なんだ。大人としても、友人としても』
レオンツィオに「友人」と言われたことがうれしくて、ティーナの頬に熱が集まる。
正確な歳の差は知らないが、レオンツィオはティーナより確実に一〇は年上だろう。それでも彼はティーナを臆面もなく「友人」なのだと言ってくれる。それがティーナには舞い上がるほどにうれしかった。
しかし同時にティーナの心の中には罪悪感が生じた。ティーナは優しいレオンツィオを騙している。カタギのフリをして彼と付き合いを続けている。それが妙に心苦しかった。
そんなティーナの頭にレオンツィオの手が触れる。
『君がどこのだれであろうと、どこへいってしまおうと、私の友人だという事実は変わらないよ。それだけは覚えていて』
ティーナは無言のままうなずいた。
……今思い返せばなんという茶番だろうとティーナは思う。滑稽すぎて逆にまったく面白くない。
傷の理由も聞かずに手当てをしてくれたレオンツィオの行いを、ティーナは優しさなのだと錯覚した。己を尊重してくれているのだと思った。……今はどれも、そうだとは思えない。
けれどもあのときに感じたぬくもりを、ティーナは未だに忘れられないでいる。心に――いや、魂にこびりついて離れない。
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