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控え目なアクアマリンのペンダントトップがついたネックレス。それはティーナにとってなによりも大切なものだった。
ティーナの瞳の色に似ているからとプレゼントされたネックレス。肌身離さず身につけて、丁寧にメンテナンスをして、ときにはそのペンダントトップに嵌められた石に触れては彼を思った。
けれども今やそれはただの石ころ以下の価値しかなくなってしまった。そうして胸元にあった輝きが失われて久しいにもかかわらず、未だに外せないでいるのだから、人間が持つ感情というのは厄介だ。
「レオンツィオ・ボルディーガ」
ティーナはかさついた唇を開き、その名を舌に乗せる。発せられた言葉は震えとは無縁であったが、精彩を欠いているように響く。
レオンツィオ・ボルディーガ。それはティーナの無二の友人であった男の名前。……今はもう、違う。
だれよりも敬愛し、淡く恋慕っていた感情を封じて、己のすべてを奪い去った男の名として、ティーナはその魂に「レオンツィオ・ボルディーガ」の名前を刻みつけた。
「レオナ」
レオンツィオはティーナのことをそう呼んだ。母親から与えられたレオンティーナという名前が、彼とよく似ていてややこしいのにもかかわらず、レオンツィオはあえてティーナのことをそう呼んだ。
レオンツィオからしか呼ばれない「レオナ」という名前は、ティーナにとって特別な響きを持っていた。こちらを慈しむような優しい声音でそう呼ばれるたびに、ティーナは温かく、くすぐったい気持ちになったものだ。
だからティーナはレオンツィオに「レオナ」と呼ばれるのは好きだった。……己の名前が父親であるレオンツィオの名前にあやかって名づけられたと知るまでは。
レオンツィオのその聡明な頭脳はティーナの母親を覚えていた。会ったのは一度きり。リゾート地でのワンナイトラブの果てに、予想外に宿ったのがティーナだった。
当時のレオンツィオは未成年だったが知恵は回ったので、想定外の妊娠を果たしたティーナの母親を脅して認知すらしなかった。そのときティーナの母親は二〇歳だったのだ。両手が後ろに回るのはティーナの母親のほうだった。
そこからなぜティーナを堕胎しなかったのかまではわからない。単純に金がなかったのかもしれない。いずれにせよティーナはこの世に産み落とされた。
そしてどういうことか、巡り巡って父と知らずにレオンツィオと出会い、友誼を深め、やがて互いに慕う気持ちを自覚しながらもそれ以上先には進まなかった。
それは結果的によかったのだろう。そうでなければティーナはもっとつらい思いをすることになっただろうから。
端的に言ってしまえばこれはチンケな抗争だ。内輪揉めだ。世間一般の人間からすれば遠い国の話で、迷惑この上ない醜い争いでしかない。
厳しく課されたノルマに耐えられなかった下部組織が上層部に牙を剥いた。ただそれだけの話である。
暗黒街を血に染め上げて、毎日のように殺った殺られたを繰り返す。しぶとく何度も使える鉄砲玉でしかないティーナは上層部の事情などに疎かったので、レオンツィオの正体を知ったのは抗争も末期のころだった。
そのころにはもうティーナと親しくしていた人間など、ほとんど残ってはいなかった。負けが込み、敗北は決定的だったが、上層部はその手に噛みついた犬を許すつもりはないらしかった。
そうなればあとはもう、全滅するまでそれは終わらない。全滅の中にはもちろんティーナも含まれている。下剋上に乗り気じゃなかったとか、ほとんどその計画について知らなかっただとか、そういったことは関係ないのだ。
愚かにも牙を剥いた下部組織の構成員として、見せしめにむごたらしく殺される。それがティーナに示されたたったひとつの未来であった。
「レオナ、私のもとに来る気はないかい?」
まるで友人にでも話しかけるような優しい声音でレオンツィオが言う。ティーナはそんなレオンツィオをうつろな目で見上げる。
ティーナはすでに満身創痍だった。肋骨は何本か折れて胃に刺さったのか血を吐いたし、利き手の指は変な方向へ曲がって青紫色になっている。殴られて腫れ上がった右頬の裏は歯で切ったから、吐血したこともあってずっと不愉快な鉄錆の味が口内に広がっていた。
ティーナは気力だけで立っている状態だった。利き手の逆で持った拳銃が使えるのはあと二回。体中から訴えかけるような痛みでときたま力が入らなくなったが、それでもティーナは立っていた。
「君を殺したくないんだ」
ティーナの居場所も仲間も奪っておいて、レオンツィオはそんなことを言う。優しげな金の瞳は哀切がにじみ、まるでティーナが大切なものなのだとでも言いたげであった。
胸糞悪くなった。レオンツィオの言葉ではない。ティーナは己の心情に嫌気が差した。
ここまでされておいて、ティーナはレオンツィオへの気持ちを捨てられなかった。抗争が始まってから彼を殺す機会は幾度もあったというのに、ティーナは結局レオンツィオを殺せなかった。その結果がこれだ。自業自得であった。
「おいで、レオナ」
ティーナはレオンツィオをにらみつけた。口から漏れ出る呼気はどんどんと荒くなっていって、生命の危機に瀕していることを伝えてくる。
ティーナは一度歯を食いしばったあと、大きく深いため息をついた。
「レオンさん」
ティーナはいつもレオンツィオのことをそう呼んだ。
レオンツィオの金の瞳が揺れる。それを見てティーナは友人の顔をした。気分は大舞台にでも立っているようなものだった。
「わたしのこと、少しでも愛しているのなら――わたしと、死んでください」
ティーナの瞳の色に似ているからとプレゼントされたネックレス。肌身離さず身につけて、丁寧にメンテナンスをして、ときにはそのペンダントトップに嵌められた石に触れては彼を思った。
けれども今やそれはただの石ころ以下の価値しかなくなってしまった。そうして胸元にあった輝きが失われて久しいにもかかわらず、未だに外せないでいるのだから、人間が持つ感情というのは厄介だ。
「レオンツィオ・ボルディーガ」
ティーナはかさついた唇を開き、その名を舌に乗せる。発せられた言葉は震えとは無縁であったが、精彩を欠いているように響く。
レオンツィオ・ボルディーガ。それはティーナの無二の友人であった男の名前。……今はもう、違う。
だれよりも敬愛し、淡く恋慕っていた感情を封じて、己のすべてを奪い去った男の名として、ティーナはその魂に「レオンツィオ・ボルディーガ」の名前を刻みつけた。
「レオナ」
レオンツィオはティーナのことをそう呼んだ。母親から与えられたレオンティーナという名前が、彼とよく似ていてややこしいのにもかかわらず、レオンツィオはあえてティーナのことをそう呼んだ。
レオンツィオからしか呼ばれない「レオナ」という名前は、ティーナにとって特別な響きを持っていた。こちらを慈しむような優しい声音でそう呼ばれるたびに、ティーナは温かく、くすぐったい気持ちになったものだ。
だからティーナはレオンツィオに「レオナ」と呼ばれるのは好きだった。……己の名前が父親であるレオンツィオの名前にあやかって名づけられたと知るまでは。
レオンツィオのその聡明な頭脳はティーナの母親を覚えていた。会ったのは一度きり。リゾート地でのワンナイトラブの果てに、予想外に宿ったのがティーナだった。
当時のレオンツィオは未成年だったが知恵は回ったので、想定外の妊娠を果たしたティーナの母親を脅して認知すらしなかった。そのときティーナの母親は二〇歳だったのだ。両手が後ろに回るのはティーナの母親のほうだった。
そこからなぜティーナを堕胎しなかったのかまではわからない。単純に金がなかったのかもしれない。いずれにせよティーナはこの世に産み落とされた。
そしてどういうことか、巡り巡って父と知らずにレオンツィオと出会い、友誼を深め、やがて互いに慕う気持ちを自覚しながらもそれ以上先には進まなかった。
それは結果的によかったのだろう。そうでなければティーナはもっとつらい思いをすることになっただろうから。
端的に言ってしまえばこれはチンケな抗争だ。内輪揉めだ。世間一般の人間からすれば遠い国の話で、迷惑この上ない醜い争いでしかない。
厳しく課されたノルマに耐えられなかった下部組織が上層部に牙を剥いた。ただそれだけの話である。
暗黒街を血に染め上げて、毎日のように殺った殺られたを繰り返す。しぶとく何度も使える鉄砲玉でしかないティーナは上層部の事情などに疎かったので、レオンツィオの正体を知ったのは抗争も末期のころだった。
そのころにはもうティーナと親しくしていた人間など、ほとんど残ってはいなかった。負けが込み、敗北は決定的だったが、上層部はその手に噛みついた犬を許すつもりはないらしかった。
そうなればあとはもう、全滅するまでそれは終わらない。全滅の中にはもちろんティーナも含まれている。下剋上に乗り気じゃなかったとか、ほとんどその計画について知らなかっただとか、そういったことは関係ないのだ。
愚かにも牙を剥いた下部組織の構成員として、見せしめにむごたらしく殺される。それがティーナに示されたたったひとつの未来であった。
「レオナ、私のもとに来る気はないかい?」
まるで友人にでも話しかけるような優しい声音でレオンツィオが言う。ティーナはそんなレオンツィオをうつろな目で見上げる。
ティーナはすでに満身創痍だった。肋骨は何本か折れて胃に刺さったのか血を吐いたし、利き手の指は変な方向へ曲がって青紫色になっている。殴られて腫れ上がった右頬の裏は歯で切ったから、吐血したこともあってずっと不愉快な鉄錆の味が口内に広がっていた。
ティーナは気力だけで立っている状態だった。利き手の逆で持った拳銃が使えるのはあと二回。体中から訴えかけるような痛みでときたま力が入らなくなったが、それでもティーナは立っていた。
「君を殺したくないんだ」
ティーナの居場所も仲間も奪っておいて、レオンツィオはそんなことを言う。優しげな金の瞳は哀切がにじみ、まるでティーナが大切なものなのだとでも言いたげであった。
胸糞悪くなった。レオンツィオの言葉ではない。ティーナは己の心情に嫌気が差した。
ここまでされておいて、ティーナはレオンツィオへの気持ちを捨てられなかった。抗争が始まってから彼を殺す機会は幾度もあったというのに、ティーナは結局レオンツィオを殺せなかった。その結果がこれだ。自業自得であった。
「おいで、レオナ」
ティーナはレオンツィオをにらみつけた。口から漏れ出る呼気はどんどんと荒くなっていって、生命の危機に瀕していることを伝えてくる。
ティーナは一度歯を食いしばったあと、大きく深いため息をついた。
「レオンさん」
ティーナはいつもレオンツィオのことをそう呼んだ。
レオンツィオの金の瞳が揺れる。それを見てティーナは友人の顔をした。気分は大舞台にでも立っているようなものだった。
「わたしのこと、少しでも愛しているのなら――わたしと、死んでください」
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