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(7)榮視点
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人が死ぬのはずいぶんと呆気ないものだ。
珊瑚の「運命のつがい」だったという男の絞殺体を見下ろして、榮は無感情に思う。
組の息がかかった、いわゆるラブホテルの一室。珊瑚に男を誘い出させて、殺したのはほかでもない榮であった。
先日には珊瑚に「直接手を下せ」というような迫り方をした榮だったが、現実問題としてただの女子高生が成人男性を殺そうとすれば、その労力は多大なものとなる。榮はそれをよくわかっていた。
わかっていて、あの日は珊瑚に「男を殺せ」と迫ったのだ。
幸いにも珊瑚はその気になってくれたから、榮はそれで満足して、より現実的な方法――すなわち榮自身の手で男を殺すという選択肢をとった。
油断しきった男を殺すのは、しかし簡単ではなかったので、男が絶命したころには榮は珍しく肩を上下させて荒い呼気を吐くことになっていた。
榮は男の死体をまたいで、顔色の悪い珊瑚に近づいてその肩を抱き寄せた。
「珊瑚、大丈夫……じゃねえな。吐くか?」
「う、うぅ……ふ……」
「トイレ行こうな」
榮が背中を優しく撫でると、珊瑚はぽろぽろとその美しい碧眼から涙をこぼした。
親がヤクザとは言えど、珊瑚は一般人とそう変わらない生活を送ってきたのだ。殺人なんてものは珊瑚の身近にはなく、恐らく人間の死体を見るのも初めてだろう。
青白い顔をして震える珊瑚を連れ、榮はトイレに入る。
白い便器に向かってたまらず珊瑚は嘔吐したが、出てくるのは胃液ばかりのようだった。どうも、食事が喉を通らなかったようだ。
珊瑚は榮と違って繊細な神経の持ち主なので、今日殺人を犯すのだという計画を立てた日から食が細くなっていたのは榮にもわかっていた。
けれどもそれはいつか元に戻るだろう。榮がうんと甘やかして、「あれは仕方なかったんだ」というようなことを吹き込めば、珊瑚はその欺瞞をやがては受け入れるだろう。
そして時間は傷を癒す。罪悪感を忘却させる。これが現実であることを認識しながら、記憶はゆるやかに輪郭を失って行く。人間とは、そういうものだ。
榮とてそれは例外ではなく、己が瑠璃子を殺させたのだということを事実として認識しながら、今ではもう彼女の顔なんてひとつも思い出せないでいる。
みなによれば珊瑚と瑠璃子は瓜二つであるらしいので、珊瑚の顔を見れば瑠璃子を思い出すのが普通なのだろう。けれども榮はそうではなかった。彼にとって、珊瑚は珊瑚の顔で、瑠璃子は瑠璃子の顔だ。いっしょくたにしたことは、一度もない。
瑠璃子は榮の「運命のつがい」だった。まだ発情期を迎える前のことであったから、ふたりのあいだには間違いが起こるほどの熱情はなかった。けれどもたしかにあのときのふたりは、互いに惹かれていた。
それを大っぴらにしなかったのは、発情期の始まりを迎える前で確信が得られなかったからというのもある。
けれども一番は、榮は瑠璃子のことを別に好きではなかったという事実があったからだ。
瑠璃子には本能で惹かれるものがあった。初恋の相手はきっと瑠璃子だった。けれども榮が理性で愛したのは珊瑚だった。
珊瑚のどこが好きと問われれば、すべて、としか言いようがない。榮は珊瑚の雰囲気や、その距離感が心地よく、好きなのだ。
瑠璃子はだれもが認める才媛だったけれども、榮にとって瑠璃子の性格や距離の取り方は鬱陶しいものだった。
幼少のみぎりから知る関係だ。心の底から嫌っていたわけではない。でも、瑠璃子の存在は榮にとって邪魔でしかなかった。
瑠璃子が――「運命」が存在し続ける限り榮はその存在に翻弄されてしまう。望もうと、望むまいと。それは榮にひどく不快な感情をもたらした。
邪魔だったから殺した。それだけのこと。
ただ榮が手配した人間の仕事は雑としか言えなかった。危うく珊瑚が怪我をするところだったのだ。しかも白昼堂々の殺人。榮がその後の処理に頭を悩ませたのは言うまでもない。
しかし瑠璃子が即死だったのはよかった。別に彼女のことが憎たらしいわけではなかったので、苦しまずに死んだようでなによりだと榮は思った。
ただただ、瑠璃子の存在は榮の邪魔でしかなかった。それは、お互いにとっての不幸だろうと今でも榮は確信している。
瑠璃子を殺してから榮はひどく晴れ晴れとした気持ちで珊瑚を愛した。
珊瑚は榮とは精神の構造が違うから、瑠璃子の死にひどく落ち込んでいたが、しかしことさらアプローチしてくる榮のことは受け入れてくれているようだった。
あとは今は頑なな珊瑚のうなじを噛んで「つがい」になるだけ。――そう、思っていたのに。
発情期が終わったばかりのはずなのに、珊瑚からアルファを誘引するフェロモンの残り香が漂ってきたとき、榮は嫌な予感に駆られた。
そしてその予感は的中した。
珊瑚が、「運命のつがい」と出会った。
どのようにして珊瑚から「運命」の情報を引き出し、気づかれずに始末するか、榮は瞬時に考える。
けれども意外なことに珊瑚はその「運命」がお気に召さなかったらしい。榮にとって、それは僥倖だった。
無垢な珊瑚を誘導するのは簡単だった。
榮はこれ幸いとばかりに共犯関係を作ることで珊瑚との絆を深めようと考えた。
結局、直接手を下したのは榮だったが、珊瑚が共犯であるという事実には変わりがないので、それでよかった。
しかし、このような思考は珊瑚には秘密だ。珊瑚は榮が清廉潔白な人格者だと思っているふしがある。まったく、そんなことはないと言うのに、珊瑚はひどい勘違いをしている。
ひどい勘違いと言えば珊瑚は己が瑠璃子の身代わりではないかと思い悩んでいるところがある。珊瑚の感情はわかりにくいとよく言われるようだが、長年そばにいる榮にはバレバレだった。
珊瑚は己がいかに榮に愛されているか――執着されているか、わかっていない。
けれどもそれはいつか知れることだろう。じっくりと攻め落として、わからせてやればいいことだ。
便器に向かってえずく珊瑚の、うなじを守るネックガードをそっと撫でる。
いつかその下にある真っ白なうなじに嚙みつく日のことを夢想しながら、榮は珊瑚の丸まった背に向かってひっそりと笑んだ。
珊瑚の「運命のつがい」だったという男の絞殺体を見下ろして、榮は無感情に思う。
組の息がかかった、いわゆるラブホテルの一室。珊瑚に男を誘い出させて、殺したのはほかでもない榮であった。
先日には珊瑚に「直接手を下せ」というような迫り方をした榮だったが、現実問題としてただの女子高生が成人男性を殺そうとすれば、その労力は多大なものとなる。榮はそれをよくわかっていた。
わかっていて、あの日は珊瑚に「男を殺せ」と迫ったのだ。
幸いにも珊瑚はその気になってくれたから、榮はそれで満足して、より現実的な方法――すなわち榮自身の手で男を殺すという選択肢をとった。
油断しきった男を殺すのは、しかし簡単ではなかったので、男が絶命したころには榮は珍しく肩を上下させて荒い呼気を吐くことになっていた。
榮は男の死体をまたいで、顔色の悪い珊瑚に近づいてその肩を抱き寄せた。
「珊瑚、大丈夫……じゃねえな。吐くか?」
「う、うぅ……ふ……」
「トイレ行こうな」
榮が背中を優しく撫でると、珊瑚はぽろぽろとその美しい碧眼から涙をこぼした。
親がヤクザとは言えど、珊瑚は一般人とそう変わらない生活を送ってきたのだ。殺人なんてものは珊瑚の身近にはなく、恐らく人間の死体を見るのも初めてだろう。
青白い顔をして震える珊瑚を連れ、榮はトイレに入る。
白い便器に向かってたまらず珊瑚は嘔吐したが、出てくるのは胃液ばかりのようだった。どうも、食事が喉を通らなかったようだ。
珊瑚は榮と違って繊細な神経の持ち主なので、今日殺人を犯すのだという計画を立てた日から食が細くなっていたのは榮にもわかっていた。
けれどもそれはいつか元に戻るだろう。榮がうんと甘やかして、「あれは仕方なかったんだ」というようなことを吹き込めば、珊瑚はその欺瞞をやがては受け入れるだろう。
そして時間は傷を癒す。罪悪感を忘却させる。これが現実であることを認識しながら、記憶はゆるやかに輪郭を失って行く。人間とは、そういうものだ。
榮とてそれは例外ではなく、己が瑠璃子を殺させたのだということを事実として認識しながら、今ではもう彼女の顔なんてひとつも思い出せないでいる。
みなによれば珊瑚と瑠璃子は瓜二つであるらしいので、珊瑚の顔を見れば瑠璃子を思い出すのが普通なのだろう。けれども榮はそうではなかった。彼にとって、珊瑚は珊瑚の顔で、瑠璃子は瑠璃子の顔だ。いっしょくたにしたことは、一度もない。
瑠璃子は榮の「運命のつがい」だった。まだ発情期を迎える前のことであったから、ふたりのあいだには間違いが起こるほどの熱情はなかった。けれどもたしかにあのときのふたりは、互いに惹かれていた。
それを大っぴらにしなかったのは、発情期の始まりを迎える前で確信が得られなかったからというのもある。
けれども一番は、榮は瑠璃子のことを別に好きではなかったという事実があったからだ。
瑠璃子には本能で惹かれるものがあった。初恋の相手はきっと瑠璃子だった。けれども榮が理性で愛したのは珊瑚だった。
珊瑚のどこが好きと問われれば、すべて、としか言いようがない。榮は珊瑚の雰囲気や、その距離感が心地よく、好きなのだ。
瑠璃子はだれもが認める才媛だったけれども、榮にとって瑠璃子の性格や距離の取り方は鬱陶しいものだった。
幼少のみぎりから知る関係だ。心の底から嫌っていたわけではない。でも、瑠璃子の存在は榮にとって邪魔でしかなかった。
瑠璃子が――「運命」が存在し続ける限り榮はその存在に翻弄されてしまう。望もうと、望むまいと。それは榮にひどく不快な感情をもたらした。
邪魔だったから殺した。それだけのこと。
ただ榮が手配した人間の仕事は雑としか言えなかった。危うく珊瑚が怪我をするところだったのだ。しかも白昼堂々の殺人。榮がその後の処理に頭を悩ませたのは言うまでもない。
しかし瑠璃子が即死だったのはよかった。別に彼女のことが憎たらしいわけではなかったので、苦しまずに死んだようでなによりだと榮は思った。
ただただ、瑠璃子の存在は榮の邪魔でしかなかった。それは、お互いにとっての不幸だろうと今でも榮は確信している。
瑠璃子を殺してから榮はひどく晴れ晴れとした気持ちで珊瑚を愛した。
珊瑚は榮とは精神の構造が違うから、瑠璃子の死にひどく落ち込んでいたが、しかしことさらアプローチしてくる榮のことは受け入れてくれているようだった。
あとは今は頑なな珊瑚のうなじを噛んで「つがい」になるだけ。――そう、思っていたのに。
発情期が終わったばかりのはずなのに、珊瑚からアルファを誘引するフェロモンの残り香が漂ってきたとき、榮は嫌な予感に駆られた。
そしてその予感は的中した。
珊瑚が、「運命のつがい」と出会った。
どのようにして珊瑚から「運命」の情報を引き出し、気づかれずに始末するか、榮は瞬時に考える。
けれども意外なことに珊瑚はその「運命」がお気に召さなかったらしい。榮にとって、それは僥倖だった。
無垢な珊瑚を誘導するのは簡単だった。
榮はこれ幸いとばかりに共犯関係を作ることで珊瑚との絆を深めようと考えた。
結局、直接手を下したのは榮だったが、珊瑚が共犯であるという事実には変わりがないので、それでよかった。
しかし、このような思考は珊瑚には秘密だ。珊瑚は榮が清廉潔白な人格者だと思っているふしがある。まったく、そんなことはないと言うのに、珊瑚はひどい勘違いをしている。
ひどい勘違いと言えば珊瑚は己が瑠璃子の身代わりではないかと思い悩んでいるところがある。珊瑚の感情はわかりにくいとよく言われるようだが、長年そばにいる榮にはバレバレだった。
珊瑚は己がいかに榮に愛されているか――執着されているか、わかっていない。
けれどもそれはいつか知れることだろう。じっくりと攻め落として、わからせてやればいいことだ。
便器に向かってえずく珊瑚の、うなじを守るネックガードをそっと撫でる。
いつかその下にある真っ白なうなじに嚙みつく日のことを夢想しながら、榮は珊瑚の丸まった背に向かってひっそりと笑んだ。
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