5 / 7
(5)
しおりを挟む
あわてて涙を乱暴に拭う。ベッドから起き上がって榮の声に答えた。
一拍置いてから「入るね」と言って珊瑚の部屋へ榮が顔を出す。見慣れたその顔を確認して、珊瑚は肩に入っていた力が抜けるのを感じた。
「来てたんだ」
「父さんの野暮用でね。……それで、なにがあった?」
「――え?」
珊瑚の心臓がわかりやすくドキリと跳ねた。ぞわっと背中の鳥肌が立ったような気になる。
ドギマギとする珊瑚を前にしたまま、榮は後ろ手で襖を閉じる。パタンという軽い音が、珊瑚にはなんだか、このときばかりはとてつもなく大きく聞こえた。
榮が畳をゆっくりと踏み歩く音がして、気がつけば珊瑚が腰を下ろしているベッドの前まで彼が来ている。
珊瑚はベッドの縁に座っていたから、自然と榮が珊瑚を見下ろす形になっていた。けれどもすぐに榮は床に腰を下ろしたので、今度は榮が珊瑚を見上げる形になる。
「さっき、玄関前の廊下で見かけたんだけど、珊瑚は気づかずに行っちゃうからさ。声かけそこねた」
「ごめん……」
「いや、謝って欲しいわけじゃなくて……なにがあった? すっげー顔色悪いし……泣いてただろ」
榮の視線が己の目元に向けられたことがわかって、珊瑚は思わず指で下まぶたのあたりを触る。もちろん、鏡もないのでどうなっているかはわからない。
珊瑚は顔色が悪いと指摘された己の顔面から、さらに色が抜けて行くような心地になった。
ぼんやりと榮ではなく中空を眺める珊瑚の瞳とは対照的に、榮はわずかに眉を下げて珊瑚を見つめる。
「なに? 秘密? ……俺には言えない?」
珊瑚は「そういうわけではない」と言おうとしたが、言葉がつっかえて口から外には出てこなかった。
こちらを見上げる榮の瞳は、どこまでも優しい。その柔らかな視線を受けていると、珊瑚は己の心が罪悪感に浸食されて行くのを感じた。
「珊瑚って我慢強いよね」
珊瑚が知らず唇をぎゅっと引き結ぶと、不意に榮はそんなことを言い出した。榮の言葉の着地点が見えず、珊瑚は一瞬呆気に取られる。榮は変わらず柔らかなまなざしを珊瑚に向けるばかりだ。
「そんな珊瑚が泣くほどのことって……なに?」
珊瑚の脳裏を回るのはどうやって榮に嘘をつくか、ということだった。
けれども不意に己の「運命のつがい」についてしまった嘘を思い出す。
――「……早まって私たちの関係を大っぴらになんかすれば彼の顔を潰すことになる……。そうなったら彼がなにをするかわかりません。彼、怒らせたら怖いんですよ」
珊瑚は己の事情に榮を巻き込みたくない一心で彼に嘘をつこうとしたが、実際のところ既に珊瑚は榮を巻き込んでしまっていたのだ。そんな単純なことにすら今の今まで気がつかなかった己に、珊瑚は嫌気が差した。
自然と珊瑚の眉間にしわが寄る。
今、榮がともすれば危険な状態に置かれているだろうことも珊瑚は理解した。あの男がしびれを切らして関係を大っぴらにするだけなら、榮にはなんの問題もない。問題は、男が珊瑚の予想を超えるような行動をした場合だ。
……たとえば、珊瑚の彼氏ということになっている榮に、危害を加えるとか。
そこへとたどり着く男の心理状態は珊瑚にはまったく想定できなかったが、なにせ相手はチンピラだ。ほとんど一般人同然に育った珊瑚の予想もつかない動きをすることは、彼女には十二分にあり得るように思えたのだ。
珊瑚は急に怖くなった。先ほど抱いた恐怖心とは別の恐怖が彼女の心に去来した。
望まぬ結婚をさせられるかもしれないという可能性は十分恐ろしかった。けれども大切な榮に害が及ぶような事態は、もっと恐ろしかった。
珊瑚はぎゅっと引き結んでいた唇を、知らずに軽く噛んでいた。
言わなければならないだろう。既に榮を巻き込んでしまっているのだ。榮が知らぬまま、という事態は珊瑚には危険に思えた。
「……珊瑚、俺が珊瑚に怒ったことってある?」
珊瑚は首を横に振った。榮はいつだって珊瑚には優しいし、それ以外の人間に対してだって礼節と尊重を忘れない。ゆえに榮が怒りをあらわにした場面など珊瑚は真実見たことがなかった。
「だよね。……俺はただ珊瑚が困っているなら力になりたいだけ。どんな経緯があっても珊瑚を責めたりしないって誓う。……黙って珊瑚が苦しんでるの、見るほうがつらい」
眉を下げた榮の言葉が、珊瑚の背中を押した。
一拍置いてから「入るね」と言って珊瑚の部屋へ榮が顔を出す。見慣れたその顔を確認して、珊瑚は肩に入っていた力が抜けるのを感じた。
「来てたんだ」
「父さんの野暮用でね。……それで、なにがあった?」
「――え?」
珊瑚の心臓がわかりやすくドキリと跳ねた。ぞわっと背中の鳥肌が立ったような気になる。
ドギマギとする珊瑚を前にしたまま、榮は後ろ手で襖を閉じる。パタンという軽い音が、珊瑚にはなんだか、このときばかりはとてつもなく大きく聞こえた。
榮が畳をゆっくりと踏み歩く音がして、気がつけば珊瑚が腰を下ろしているベッドの前まで彼が来ている。
珊瑚はベッドの縁に座っていたから、自然と榮が珊瑚を見下ろす形になっていた。けれどもすぐに榮は床に腰を下ろしたので、今度は榮が珊瑚を見上げる形になる。
「さっき、玄関前の廊下で見かけたんだけど、珊瑚は気づかずに行っちゃうからさ。声かけそこねた」
「ごめん……」
「いや、謝って欲しいわけじゃなくて……なにがあった? すっげー顔色悪いし……泣いてただろ」
榮の視線が己の目元に向けられたことがわかって、珊瑚は思わず指で下まぶたのあたりを触る。もちろん、鏡もないのでどうなっているかはわからない。
珊瑚は顔色が悪いと指摘された己の顔面から、さらに色が抜けて行くような心地になった。
ぼんやりと榮ではなく中空を眺める珊瑚の瞳とは対照的に、榮はわずかに眉を下げて珊瑚を見つめる。
「なに? 秘密? ……俺には言えない?」
珊瑚は「そういうわけではない」と言おうとしたが、言葉がつっかえて口から外には出てこなかった。
こちらを見上げる榮の瞳は、どこまでも優しい。その柔らかな視線を受けていると、珊瑚は己の心が罪悪感に浸食されて行くのを感じた。
「珊瑚って我慢強いよね」
珊瑚が知らず唇をぎゅっと引き結ぶと、不意に榮はそんなことを言い出した。榮の言葉の着地点が見えず、珊瑚は一瞬呆気に取られる。榮は変わらず柔らかなまなざしを珊瑚に向けるばかりだ。
「そんな珊瑚が泣くほどのことって……なに?」
珊瑚の脳裏を回るのはどうやって榮に嘘をつくか、ということだった。
けれども不意に己の「運命のつがい」についてしまった嘘を思い出す。
――「……早まって私たちの関係を大っぴらになんかすれば彼の顔を潰すことになる……。そうなったら彼がなにをするかわかりません。彼、怒らせたら怖いんですよ」
珊瑚は己の事情に榮を巻き込みたくない一心で彼に嘘をつこうとしたが、実際のところ既に珊瑚は榮を巻き込んでしまっていたのだ。そんな単純なことにすら今の今まで気がつかなかった己に、珊瑚は嫌気が差した。
自然と珊瑚の眉間にしわが寄る。
今、榮がともすれば危険な状態に置かれているだろうことも珊瑚は理解した。あの男がしびれを切らして関係を大っぴらにするだけなら、榮にはなんの問題もない。問題は、男が珊瑚の予想を超えるような行動をした場合だ。
……たとえば、珊瑚の彼氏ということになっている榮に、危害を加えるとか。
そこへとたどり着く男の心理状態は珊瑚にはまったく想定できなかったが、なにせ相手はチンピラだ。ほとんど一般人同然に育った珊瑚の予想もつかない動きをすることは、彼女には十二分にあり得るように思えたのだ。
珊瑚は急に怖くなった。先ほど抱いた恐怖心とは別の恐怖が彼女の心に去来した。
望まぬ結婚をさせられるかもしれないという可能性は十分恐ろしかった。けれども大切な榮に害が及ぶような事態は、もっと恐ろしかった。
珊瑚はぎゅっと引き結んでいた唇を、知らずに軽く噛んでいた。
言わなければならないだろう。既に榮を巻き込んでしまっているのだ。榮が知らぬまま、という事態は珊瑚には危険に思えた。
「……珊瑚、俺が珊瑚に怒ったことってある?」
珊瑚は首を横に振った。榮はいつだって珊瑚には優しいし、それ以外の人間に対してだって礼節と尊重を忘れない。ゆえに榮が怒りをあらわにした場面など珊瑚は真実見たことがなかった。
「だよね。……俺はただ珊瑚が困っているなら力になりたいだけ。どんな経緯があっても珊瑚を責めたりしないって誓う。……黙って珊瑚が苦しんでるの、見るほうがつらい」
眉を下げた榮の言葉が、珊瑚の背中を押した。
0
お気に入りに追加
42
あなたにおすすめの小説


ヤクザの若頭は、年の離れた婚約者が可愛くて仕方がない
絹乃
恋愛
ヤクザの若頭の花隈(はなくま)には、婚約者がいる。十七歳下の少女で組長の一人娘である月葉(つきは)だ。保護者代わりの花隈は月葉のことをとても可愛がっているが、もちろん恋ではない。強面ヤクザと年の離れたお嬢さまの、恋に発展する前の、もどかしくドキドキするお話。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

ヤクザと私と。~養子じゃなく嫁でした
瀬名。
恋愛
大学1年生の冬。母子家庭の私は、母に逃げられました。
家も取り押さえられ、帰る場所もない。
まず、借金返済をしてないから、私も逃げないとやばい。
…そんな時、借金取りにきた私を買ってくれたのは。
ヤクザの若頭でした。
*この話はフィクションです
現実ではあり得ませんが、物語の過程としてむちゃくちゃしてます
ツッコミたくてイラつく人はお帰りください
またこの話を鵜呑みにする読者がいたとしても私は一切の責任を負いませんのでご了承ください*

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。
海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。
ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。
「案外、本当に君以外いないかも」
「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」
「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」
そのドクターの甘さは手加減を知らない。
【登場人物】
末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。
恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる?
田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い?
【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】

甘い束縛
はるきりょう
恋愛
今日こそは言う。そう心に決め、伊達優菜は拳を握りしめた。私には時間がないのだと。もう、気づけば、歳は27を数えるほどになっていた。人並みに結婚し、子どもを産みたい。それを思えば、「若い」なんて言葉はもうすぐ使えなくなる。このあたりが潮時だった。
※小説家なろうサイト様にも載せています。
【完結】私が王太子殿下のお茶会に誘われたからって、今更あわてても遅いんだからね
江崎美彩
恋愛
王太子殿下の婚約者候補を探すために開かれていると噂されるお茶会に招待された、伯爵令嬢のミンディ・ハーミング。
幼馴染のブライアンが好きなのに、当のブライアンは「ミンディみたいなじゃじゃ馬がお茶会に出ても恥をかくだけだ」なんて揶揄うばかり。
「私が王太子殿下のお茶会に誘われたからって、今更あわてても遅いんだからね! 王太子殿下に見染められても知らないんだから!」
ミンディはブライアンに告げ、お茶会に向かう……
〜登場人物〜
ミンディ・ハーミング
元気が取り柄の伯爵令嬢。
幼馴染のブライアンに揶揄われてばかりだが、ブライアンが自分にだけ向けるクシャクシャな笑顔が大好き。
ブライアン・ケイリー
ミンディの幼馴染の伯爵家嫡男。
天邪鬼な性格で、ミンディの事を揶揄ってばかりいる。
ベリンダ・ケイリー
ブライアンの年子の妹。
ミンディとブライアンの良き理解者。
王太子殿下
婚約者が決まらない事に対して色々な噂を立てられている。
『小説家になろう』にも投稿しています

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる