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 あわてて涙を乱暴に拭う。ベッドから起き上がって榮の声に答えた。

 一拍置いてから「入るね」と言って珊瑚の部屋へ榮が顔を出す。見慣れたその顔を確認して、珊瑚は肩に入っていた力が抜けるのを感じた。

「来てたんだ」
「父さんの野暮用でね。……それで、なにがあった?」
「――え?」

 珊瑚の心臓がわかりやすくドキリと跳ねた。ぞわっと背中の鳥肌が立ったような気になる。

 ドギマギとする珊瑚を前にしたまま、榮は後ろ手で襖を閉じる。パタンという軽い音が、珊瑚にはなんだか、このときばかりはとてつもなく大きく聞こえた。

 榮が畳をゆっくりと踏み歩く音がして、気がつけば珊瑚が腰を下ろしているベッドの前まで彼が来ている。

 珊瑚はベッドの縁に座っていたから、自然と榮が珊瑚を見下ろす形になっていた。けれどもすぐに榮は床に腰を下ろしたので、今度は榮が珊瑚を見上げる形になる。

「さっき、玄関前の廊下で見かけたんだけど、珊瑚は気づかずに行っちゃうからさ。声かけそこねた」
「ごめん……」
「いや、謝って欲しいわけじゃなくて……なにがあった? すっげー顔色悪いし……泣いてただろ」

 榮の視線が己の目元に向けられたことがわかって、珊瑚は思わず指で下まぶたのあたりを触る。もちろん、鏡もないのでどうなっているかはわからない。

 珊瑚は顔色が悪いと指摘された己の顔面から、さらに色が抜けて行くような心地になった。

 ぼんやりと榮ではなく中空を眺める珊瑚の瞳とは対照的に、榮はわずかに眉を下げて珊瑚を見つめる。

「なに? 秘密? ……俺には言えない?」

 珊瑚は「そういうわけではない」と言おうとしたが、言葉がつっかえて口から外には出てこなかった。

 こちらを見上げる榮の瞳は、どこまでも優しい。その柔らかな視線を受けていると、珊瑚は己の心が罪悪感に浸食されて行くのを感じた。

「珊瑚って我慢強いよね」

 珊瑚が知らず唇をぎゅっと引き結ぶと、不意に榮はそんなことを言い出した。榮の言葉の着地点が見えず、珊瑚は一瞬呆気に取られる。榮は変わらず柔らかなまなざしを珊瑚に向けるばかりだ。

「そんな珊瑚が泣くほどのことって……なに?」

 珊瑚の脳裏を回るのはどうやって榮に嘘をつくか、ということだった。

 けれども不意に己の「運命のつがい」についてしまった嘘を思い出す。

 ――「……早まって私たちの関係を大っぴらになんかすれば彼の顔を潰すことになる……。そうなったら彼がなにをするかわかりません。彼、怒らせたら怖いんですよ」

 珊瑚は己の事情に榮を巻き込みたくない一心で彼に嘘をつこうとしたが、実際のところ既に珊瑚は榮を巻き込んでしまっていたのだ。そんな単純なことにすら今の今まで気がつかなかった己に、珊瑚は嫌気が差した。

 自然と珊瑚の眉間にしわが寄る。

 今、榮がともすれば危険な状態に置かれているだろうことも珊瑚は理解した。あの男がしびれを切らして関係を大っぴらにするだけなら、榮にはなんの問題もない。問題は、男が珊瑚の予想を超えるような行動をした場合だ。

 ……たとえば、珊瑚の彼氏ということになっている榮に、危害を加えるとか。

 そこへとたどり着く男の心理状態は珊瑚にはまったく想定できなかったが、なにせ相手はチンピラだ。ほとんど一般人同然に育った珊瑚の予想もつかない動きをすることは、彼女には十二分にあり得るように思えたのだ。

 珊瑚は急に怖くなった。先ほど抱いた恐怖心とは別の恐怖が彼女の心に去来した。

 望まぬ結婚をさせられるかもしれないという可能性は十分恐ろしかった。けれども大切な榮に害が及ぶような事態は、もっと恐ろしかった。

 珊瑚はぎゅっと引き結んでいた唇を、知らずに軽く噛んでいた。

 言わなければならないだろう。既に榮を巻き込んでしまっているのだ。榮が知らぬまま、という事態は珊瑚には危険に思えた。

「……珊瑚、俺が珊瑚に怒ったことってある?」

 珊瑚は首を横に振った。榮はいつだって珊瑚には優しいし、それ以外の人間に対してだって礼節と尊重を忘れない。ゆえに榮が怒りをあらわにした場面など珊瑚は真実見たことがなかった。

「だよね。……俺はただ珊瑚が困っているなら力になりたいだけ。どんな経緯があっても珊瑚を責めたりしないって誓う。……黙って珊瑚が苦しんでるの、見るほうがつらい」

 眉を下げた榮の言葉が、珊瑚の背中を押した。
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