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我が金色の獣
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わたしの瞳は金の色。不吉のあかしの黄金色。
わたしは暗い石塔の中で育った。さながら獣のように塔の中を這い回り、黴と埃の臭いの中で暮らしていた。
日に一度だけ、そのためだけに設けられた小さな入り口から差し出される食事にかぶりつき、塔の隅で排泄を済ませる。
わたしは獣のようではなく、まさに獣であった。人語を解することもなく、理性を伴わぬ獣であった。暗闇の中で鬱々と過ごし、時折なにかを思って咆哮を上げる。わたしは獣であった。
いったいいつからそのような生活をしていたのか、どれほどのあいだそうしていたのかは検討もつかない。
しかし、終わりが訪れたときのことだけは鮮明に覚えている。
わたしの王は堂々たる所作で石塔の扉を開け放ち、醜悪なるわたしを見てか、はてまた耐えがたき悪臭のためか、あるいはその両方のために眉根を寄せた。
王は艶やかな黒い髪に顔に日に焼けた肌を持つ凛々しき青年であった。
「お前、なんという名前だ」
わたしは王がなにを言っているのか理解できず、ただ本能的な恐怖のために塔の暗闇の中へと逃げ込んだ。
王は、そんなわたしをせせら笑うように首の根をつかみ、暗闇から引きずり出した。そうしてわたしが纏っていたぼろのような衣服を剥ぎ取るとただ一言、「素晴らしい」とおっしゃられた。わたしにはその言葉が理解できなかったが、のちのちにその意味を知ることとなる。
王はわたしが女だということを知って喜んだのであった。
わたしは王が倒された前王家の、最後の生き残りにして王位継承者であったのだ。わたしの血縁たる前王家の者たちは軒並み処刑されたが、わたしはこの異端なる金の瞳を持つがゆえにそれを免れたのであった。
わたしは石塔の中から出されると、まず女官たちの手で丸洗いにされた。伸びに伸びた髪の毛も短く切り取られた。そして生まれて初めてわたしは刺繍の施された白いドレスを身に纏い、恭しい手つきでぼろぼろの顔に厚い化粧を施された。
これからなにが起こるのか、そして行われたのかを知るのに、わたしの頭は獣でありすぎた。
見知らぬ場所へ引きずり出されて狼狽し、這うように逃げ回って女官たちに悲鳴を上げさせたので、わたしは年老いた女官に幾度か鞭で叩かれてようやく大人しくなったのであった。
「ようやく人になれたな」
王はわたしの姿を見てそうおっしゃられた。そうして黒い服を着た初老の男の前で、王はわたしのべったりと紅のついた唇に口付けた。それが婚礼の儀式だとその時のわたしには知る由もないことであった。
わたしはその日より王の妻となった。しかしその生活は、石塔での生活とあまり大差のないものであった。
わたしは相変わらず這うように部屋の中で過ごし、一日に一度しか食事を口にしなかった。変わったことといえば部屋の中に黴や埃の臭いがなく、女官たちによって人の言葉で溢れていることぐらいであった。そのお陰でわたしはいくらか人語を理解することとなる。
王は、わたしに妻としての役割を強制しなかった。期待していなかったと言った方が正しいのかもしれない。獣のような妻を好んで抱く男がこの世にどれだけいるであろうか。
しかしかといって王は特別側妃を置こうともしなかった。好むのは一夜限りの相手ばかりで、わたしの女官たちのほとんどはその相手になることを心の底から望んでいた。一夜限りといえども子を孕めば妃になれるからであろうか。この辺りの繊細な事情はわたしにはついぞわからなかった。
妻としての役割を期待されなかったが、特別冷遇されるということもなかった。王は、わたしを獣のように愛でてくださった。
「金獣、金獣」と機嫌良く呼んでは膝の上にわたしを乗せて愛でてくださったのだ。
わたしは、依然として獣であった。王の愛でる、金色の瞳の獣であった。恐らくそうして扱われた日々は、わたしの人生――いや、獣生においてもっとも幸福な日々であった。
「我が金獣」
そう呼ばれるのがたまらなく嬉しいのだとわたしは気づいた。
「我が金獣」
そう呼ばれるのが、胸が震えるほど嬉しいのだとわたしは気づいた。
わたしは王を愛していた。心の底から敬愛し、そして恋慕の情を抱くようになったのだ。
わたしは獣ではなくなった。
わたしは人になってしまった。
だからであろうか、この金色の瞳が不幸を呼び寄せたのは。
「天誅だ」
男はそう言った。鈍く光る剣の身は赤黒く濡れている。女官たちが悲鳴を上げ、散り散りに逃げ出す。男はひとつの遺骸の前で不遜に笑い、人々は勝鬨を上げて喜びをあらわにした。
王はいなくなった。
わたしの王はどこを探してもいなくなってしまった。
この金色の瞳がために。
「これが吉祥の獣か」
「王を定める金色の瞳だ。なんと美しい」
この金色の瞳のために、わたしだけはどこかへ行かずに済んだ。いつのまにか、金色の瞳は不幸のあかしではなくなっていたのだ。
わたしの王が玉座を簒奪できたのは、すべて我が金色の瞳を手に入れたがためという話になっていたのだ。
わたしは金色の瞳から涙を流して王を探す。その行いを理解できる者は誰一人として残っていなかったが、わたしはただ黄金の瞳から涙を流しながら、城内を這い回った。しかしわたしの目的が果たされることはなかった。
玉座の上はめまぐるしく変わったが、それはわたしにとってはどうでもよいことであった。獣のわたしにはいささかも価値のない出来事であった。
玉座の上が変わろうとも、わたしはわたしの王のことを忘れなかった。人々の記憶から消え、歴史から抹消されようとも、我が金色の獣だけはかつて君臨した愛すべき王のことを忘れなかった。
金色の瞳の色を、不吉から吉兆へと変えてくれた王のことだけは、獣は忘れなかった。
わたしはこの金色の瞳が不幸を呼ばないために瞼を縫いつけた。すると不思議なことに、瞼の裏にどこかへと消えてしまったわたしの王が姿を現した。
「金獣、金獣」
かつての日々と変わらぬ声で王はわたしをそう呼ぶ。
「金獣、金獣」
わたしは金色の瞳を閉じたまま、今日も王の声を思い出す。
「金獣、金獣」
わたしの瞳が再び開くのは、瞼の裏におわす王が、再びわたしを連れ出してくれる時である。
「金獣、金獣」
王よ、わたしはここにいます。
玉座のそばで、あなたの金色の獣は待っております。
永久の時間が経とうとも、我が金色の獣だけはあなたをお待ちしております。
わたしは暗い石塔の中で育った。さながら獣のように塔の中を這い回り、黴と埃の臭いの中で暮らしていた。
日に一度だけ、そのためだけに設けられた小さな入り口から差し出される食事にかぶりつき、塔の隅で排泄を済ませる。
わたしは獣のようではなく、まさに獣であった。人語を解することもなく、理性を伴わぬ獣であった。暗闇の中で鬱々と過ごし、時折なにかを思って咆哮を上げる。わたしは獣であった。
いったいいつからそのような生活をしていたのか、どれほどのあいだそうしていたのかは検討もつかない。
しかし、終わりが訪れたときのことだけは鮮明に覚えている。
わたしの王は堂々たる所作で石塔の扉を開け放ち、醜悪なるわたしを見てか、はてまた耐えがたき悪臭のためか、あるいはその両方のために眉根を寄せた。
王は艶やかな黒い髪に顔に日に焼けた肌を持つ凛々しき青年であった。
「お前、なんという名前だ」
わたしは王がなにを言っているのか理解できず、ただ本能的な恐怖のために塔の暗闇の中へと逃げ込んだ。
王は、そんなわたしをせせら笑うように首の根をつかみ、暗闇から引きずり出した。そうしてわたしが纏っていたぼろのような衣服を剥ぎ取るとただ一言、「素晴らしい」とおっしゃられた。わたしにはその言葉が理解できなかったが、のちのちにその意味を知ることとなる。
王はわたしが女だということを知って喜んだのであった。
わたしは王が倒された前王家の、最後の生き残りにして王位継承者であったのだ。わたしの血縁たる前王家の者たちは軒並み処刑されたが、わたしはこの異端なる金の瞳を持つがゆえにそれを免れたのであった。
わたしは石塔の中から出されると、まず女官たちの手で丸洗いにされた。伸びに伸びた髪の毛も短く切り取られた。そして生まれて初めてわたしは刺繍の施された白いドレスを身に纏い、恭しい手つきでぼろぼろの顔に厚い化粧を施された。
これからなにが起こるのか、そして行われたのかを知るのに、わたしの頭は獣でありすぎた。
見知らぬ場所へ引きずり出されて狼狽し、這うように逃げ回って女官たちに悲鳴を上げさせたので、わたしは年老いた女官に幾度か鞭で叩かれてようやく大人しくなったのであった。
「ようやく人になれたな」
王はわたしの姿を見てそうおっしゃられた。そうして黒い服を着た初老の男の前で、王はわたしのべったりと紅のついた唇に口付けた。それが婚礼の儀式だとその時のわたしには知る由もないことであった。
わたしはその日より王の妻となった。しかしその生活は、石塔での生活とあまり大差のないものであった。
わたしは相変わらず這うように部屋の中で過ごし、一日に一度しか食事を口にしなかった。変わったことといえば部屋の中に黴や埃の臭いがなく、女官たちによって人の言葉で溢れていることぐらいであった。そのお陰でわたしはいくらか人語を理解することとなる。
王は、わたしに妻としての役割を強制しなかった。期待していなかったと言った方が正しいのかもしれない。獣のような妻を好んで抱く男がこの世にどれだけいるであろうか。
しかしかといって王は特別側妃を置こうともしなかった。好むのは一夜限りの相手ばかりで、わたしの女官たちのほとんどはその相手になることを心の底から望んでいた。一夜限りといえども子を孕めば妃になれるからであろうか。この辺りの繊細な事情はわたしにはついぞわからなかった。
妻としての役割を期待されなかったが、特別冷遇されるということもなかった。王は、わたしを獣のように愛でてくださった。
「金獣、金獣」と機嫌良く呼んでは膝の上にわたしを乗せて愛でてくださったのだ。
わたしは、依然として獣であった。王の愛でる、金色の瞳の獣であった。恐らくそうして扱われた日々は、わたしの人生――いや、獣生においてもっとも幸福な日々であった。
「我が金獣」
そう呼ばれるのがたまらなく嬉しいのだとわたしは気づいた。
「我が金獣」
そう呼ばれるのが、胸が震えるほど嬉しいのだとわたしは気づいた。
わたしは王を愛していた。心の底から敬愛し、そして恋慕の情を抱くようになったのだ。
わたしは獣ではなくなった。
わたしは人になってしまった。
だからであろうか、この金色の瞳が不幸を呼び寄せたのは。
「天誅だ」
男はそう言った。鈍く光る剣の身は赤黒く濡れている。女官たちが悲鳴を上げ、散り散りに逃げ出す。男はひとつの遺骸の前で不遜に笑い、人々は勝鬨を上げて喜びをあらわにした。
王はいなくなった。
わたしの王はどこを探してもいなくなってしまった。
この金色の瞳がために。
「これが吉祥の獣か」
「王を定める金色の瞳だ。なんと美しい」
この金色の瞳のために、わたしだけはどこかへ行かずに済んだ。いつのまにか、金色の瞳は不幸のあかしではなくなっていたのだ。
わたしの王が玉座を簒奪できたのは、すべて我が金色の瞳を手に入れたがためという話になっていたのだ。
わたしは金色の瞳から涙を流して王を探す。その行いを理解できる者は誰一人として残っていなかったが、わたしはただ黄金の瞳から涙を流しながら、城内を這い回った。しかしわたしの目的が果たされることはなかった。
玉座の上はめまぐるしく変わったが、それはわたしにとってはどうでもよいことであった。獣のわたしにはいささかも価値のない出来事であった。
玉座の上が変わろうとも、わたしはわたしの王のことを忘れなかった。人々の記憶から消え、歴史から抹消されようとも、我が金色の獣だけはかつて君臨した愛すべき王のことを忘れなかった。
金色の瞳の色を、不吉から吉兆へと変えてくれた王のことだけは、獣は忘れなかった。
わたしはこの金色の瞳が不幸を呼ばないために瞼を縫いつけた。すると不思議なことに、瞼の裏にどこかへと消えてしまったわたしの王が姿を現した。
「金獣、金獣」
かつての日々と変わらぬ声で王はわたしをそう呼ぶ。
「金獣、金獣」
わたしは金色の瞳を閉じたまま、今日も王の声を思い出す。
「金獣、金獣」
わたしの瞳が再び開くのは、瞼の裏におわす王が、再びわたしを連れ出してくれる時である。
「金獣、金獣」
王よ、わたしはここにいます。
玉座のそばで、あなたの金色の獣は待っております。
永久の時間が経とうとも、我が金色の獣だけはあなたをお待ちしております。
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