リディア・リアの駒鳥

やなぎ怜

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 ジョン・カーライルはかつてリディアの婚約者であった。しかし「かつて」とつくからには、今は違うのである。

「お引き取りください」

 冷ややかなロビンの態度が気に食わないのか、ジョンは忌々しげな視線を彼へと送る。そのうしろには彼の従者であり乳兄弟でもあるアルジャノンが控えている。朱に交わればなんとやら、彼もまたあからさまな侮蔑の目を隠そうともせず、射るような視線をロビンへと向けている。

「俺はリディアの婚約者だ」
「いいえ、違います。今ご婚約されているのはキャサリンお嬢様でございましょう。お引き取りを」

 キャサリンの名を出されたジョンは苦虫をかみつぶしたような顔を作り、きゅっと目を細めた。よほど此度の取り決めが気に入らないらしい。頭では理解しているのだろうが、その心ではまったくもって納得の行っていないことは火を見るよりも明らかであった。

 そこにここぞとばかりにしゃしゃり出て来たのがジョンの乳兄弟であるアルジャノンであった。

「お前では話にならんリディア様をお呼びしてはくれまいか」
「いいえ、できかねます。お引き取りを」

 同じ言葉を繰り返すロビンの態度にふたりともがいら立っているのがよくわかる。しかしぴりぴりとした剣呑な空気の中にあっても、ロビンの顔に貼りついた愛想笑いはぴくりとも動かないのであった。

 ロビンはジョンのことを良く思っていないし、ジョンに雷同するアルジャノンもまた同様だった。

 そしてジョンもロビンを良く思っていない。否、あからさまに嫌って、いつだって余所余所しい態度を崩そうとはしなかった。

 ジョンがそのような態度を取るのにも理由がある。

 まず、彼はロビンの出自を汚らわしいと思っていた。ロビンはリディアのまだ年若い叔母が産み落とした不義の子であったのだ。本来であればリディアの従弟として大手を振るってはいられないご身分だというのに、そんなことは関係なさそうな顔をして彼女のそばにいることを、ジョンは常々苦々しく思っていたのである。

 そしてリディアだ。リディアの父はこの不幸な甥っ子を引き取り、随分と良くしていた。もとより使用人に対しても気やすい御仁であったのだが、ジョンからすれば将来の義父はその性根ゆえに汚らわしい不義の子にも優しいのだと思っていた。そうしてリディアがロビンに対して――ジョンからすれば――馴れ馴れしいのも義父の悪しき影響なのだと彼は信じ切っていた。

 つまりジョンはロビンのなにもかもが気に入らないのだ。下品な赤髪も嫌いだったし、リディアの一家に受け入れられていることも許しがたい。もちろん、彼の一番の懸案事項はリディアと仲が良いことだった。――ありていに言うと、ジョンは彼女らの仲を邪推していた。

 ロビンがそんなジョンの感情を見抜けないはずもなく、よって彼がこのリディアの元婚約者を厭うのは、当然の流れと言えた。

「貴様では話にならん。――失礼する!」

 折れないロビンに対し実力行使に打って出たジョンは、この痩せぎすな使用人の肩をつかむや、あっという間に脇へと押しやってしまう。そのあとは賊さながらに乱暴な足取りで玄関ホールへと入ってしまったのであった。

「カーライル様!」

 不作法なその背を追ってアルジャノンも主人に続く。そんなふたりに向かってロビンはジョンの家名を叫ぶも、彼らが気にした様子はない。ロビンはある程度の敬意を払うべき他家の下男よりも、さらに下の扱いをされたのであった。そのことに、自然とロビンは奥歯を噛み締めてしまう。

「おやめください!」

 ロビンの声はリディアの名を呼ぶジョンの声にかき消されてしまう。「お嬢様、出てはいけません!」――いつも余裕たっぷりのロビンも、このときばかりは切羽詰まった声が出て来てしまう。

 ――けれどもロビンの願いむなしく、リディアはその御姿をジョンたちの前にさらけ出してしまった。

「我が屋敷になんのようです?! 金目の物などありませんよ!」

 武器のつもりなのか箒を片手に躍り出たリディアは、その明らかに華奢な肢体でロビンを背に立ちふさがった。

「お嬢様!」

 思わず、ロビンの口から悲鳴にも似た声が上がる。

 一方のジョンたちはと言えば、リディアのあまりにも他人行儀――どころか、自身らを賊扱いする彼女に、あからさまな困惑の色を隠せない。

「――リディア?」
「近づかないでくださいまし!」

 ぶん、と箒の先端が宙を舞う。どう見ても攻撃の手を期待できそうにない、弱々しい動きだった。それを見て、ロビンは頭を抱えたくなる。

 ジョンはリディアの激しい拒絶の意志を感じ、動揺している。その後ろに控えるアルジャノンも似たようなものだった。

 困惑気な顔をしながらもじりじりとリディアに近づくジョンであったが、彼女はやはり箒を構えたまま、この年下の従者を守るつもりでいるようだ。

 珍妙な空気が流れる中で、助け船を出したのはロビンだった。

「お嬢様、この方はキャサリンお嬢様とご婚約されているジョン・カーライル様です」
「――ケイティの?」

 途端にリディアの目から闘争心が消え、代わりにその白い肌が赤く染まった。

「――まあ! それはそれは! 申し訳ないですわ、早とちりをして! 、わたくし、キャサリンの姉のリディアと申します!」

 頬を朱に染めながらもカーテシーあいさつをしたリディアに、ジョンたちは呆気に取られた。

「わざわざこのような僻地へ――……なんの御用で?」

 妹の婚約者と聞き歓待の姿勢を取ったものの、なぜ姉の自分に会いに来たのか皆目見当のつかないリディアは、不思議そうな顔をしてジョンを見る。

 一方のジョンはようやっと我に返ったのか、あわてたようにリディアに詰め寄ろうとして、失敗した。

「所用あり近くをお通りになられたそうで……わざわざ挨拶をと、伺いに来て下さったそうですよ」

 ふたりのあいだにすぐさま割って入ったロビンは、リディアにそのような言い訳をする。そんな様子を見てジョンは何事かを察したが、しかしロビンへの対抗心が上回ったらしい。ロビンを挟んでリディアに詰め寄るように、足を一歩前に出す。

「リディア、そんな他人行儀な態度を取って……どうしたんだ? 突然婚約を解消したことと関係があるのか?」

 最後のセリフを言うとき、その目は一瞬だけロビンへと向けられた。まるでジョンとの婚約を解消した理由がロビンにあるとでも言いたいかのように。

 いや、彼はそう思いたかったのだ。一方的な婚約の解消を告げられた理由が憎らしいロビンにあると。

 リディアは、そんなジョンを見上げるように困惑の目を向けた。

「あの……大変申し訳ないのですが、なにをおっしゃられているのかよく……」
「――どういうことだ?」

 そこでようやくジョンはロビンを真正面から見据えた。

「……まずは応接室へ案内します。お話はそこで」

 ロビンはこれから起こる苦労を思って、内心で深いため息をついた。


「お嬢様は静養のためにこの屋敷へ逗留していらっしゃるのです。お静かに願いたく」
「静養?!」

 リディアを部屋に帰し応接室に残ったのはロビンとジョン、そしてアルジャノンの三人だ。リディアは大人しく帰ったわけではないのだが、最終的にロビンの「お願い」に折れた形である。それをジョンが忌々しげに見ていたのは、言うまでもないことだろう。

 ロビンの口から「静養」の言葉を聞いたジョンは、ソファから身を乗り出して彼を見た。

「それが婚約解消の理由か?」
「私から申し上げられることはありません」
「まさかリディアがあのような態度を取ったのは……」

 勝手に類推を始めたジョンを追って、アルジャノンも「なんと痛ましい」と勝手に想像を膨らませている。とはいえそのように仕向けたのはロビンである。そして当のロビンはと言えば、内心でふたりに向かって舌を出していた。

「……もうこちらにはお越しになられないほうが良いと思います。キャサリンお嬢様がなんとお思いになるか」
「俺はリディアとの婚約解消には納得していない」

 むっとしたような顔で言うジョンを見て、ロビンはつくづく彼が嫌になった。自分の感情ばかり先行させて、他者を思いやる気などまったくない傲慢さこそ、ロビンが彼を嫌う理由であったのだ。そしてそんな彼の欠点を承知しながらも、さも正直さが美徳などと考えているアルジャノンのことも、だ。

「リディアは納得しているのか?」
「貴方様には関係のないことでございましょう。キャサリンお嬢様のことをお考えになられたほうが良いのではありませんか?」
「俺はリディアの気持ちを聞いているんだ!」
「リディアお嬢様の……? ――ああ」

 なんとか鼻で笑いたい衝動はこらえたものの、結局ロビンの口からはいかにも憎らしい口調が突いて出た。

「リディアお嬢様のほうが華やかな容姿でいらっしゃいますものねえ。キャサリンお嬢様ではその点が不服、と……」

 ロビンの視界が揺れる。アルジャノンが飛び出すように立ち上がって、ロビンの胸倉をつかんだのだ。

「貴様……ジョン様を愚弄するつもりか?!」
「……私はただ、思ったことを言ったまでですよ」

「貴方の主人のように」――とまでは言わなかったが、主よりは察しの良いアルジャノンは、顔を歪めてロビンを見下ろす。

「やめないか、アルジャノン」
「しかし……!」
「彼を虐めたとて詮無いことだ」

 にやにやと嫌な愛想笑いを貼りつけたロビンをもう一度見て、アルジャノンはやっと彼の胸元から手を離した。ロビンはやれやれとばかりに乱れた襟口を整える。

 ロビンが淹れた冷めきった紅茶を飲みほして、ジョンは「今日はこの辺りでおいとましよう」と言い、立ち上がる。扉を開けたロビンに「また来るとリディアに伝えてくれ」という、余計な言伝を置いて、ジョンはアルジャノンと共にこの小さな屋敷を嵐のように乱して帰って行った。

 ロビンは去りゆく馬車に内心で呪いの言葉を吐きかける。この屋敷にはリディアとロビン。ふたりだけで良いのだ。――けれども星はロビンの願いを叶えてはくれない。
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