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「先ほどのおばあさま、一体わたしをどなたとお間違えになられたのかしら?」
おっとりとそう言うリディアに、従者のロビンは「さあ」とそっけない言葉を返す。けれどもリディアはさして気にした様子はない。ヒステリックに不敬を罵ることもなければ、その不躾さに眉をひそめることもない。ただそよ風が過ぎ去って行ったかのような顔で、頬にかかる前髪をひと房、耳にかけた。
「お年を召した方でしたから」
暗に呆けているのではとつけ加えたロビンに、リディアは「そうなのかしら」と答える。リディアからすれば先ほど坂道で難儀していた老女は、顔に刻まれた皺の割には達者であったように見えたからだ。
けれどもまあ、頭の中のことなど他人には知れないことである。そういうことなのかしらと、リディアも腑に落ちないながらも納得した。
この街は坂が多い。そしてその規模の割にはいささか静かである。
元は関所近くの山を切り拓いた宿場町として大きく発展したここも、関所が廃止されてからは徐々に波が引くように寂れが見え始めている。それでも山道を往く商隊や旅人は途切れないので、最盛期よりその忙しさは衰えを見せれども、街に点在する宿屋の類いはそれなりに数を残しているのであった。
リディアとロビンが暮らしているのは、郊外にあるこじんまりとした屋敷である。ほどほどに裕福な商家の屋敷といった風体にたがわず、元は商人が別荘として所有していたものであるから、市井の民からすれば随分と立派な門構えの家である。
そこで暮らすリディアのことを、ロビンは山間にある空気の綺麗なこの街へは転地療養に来た令嬢だと吹聴していた。
それでも人の邪推とは恐ろしいもので、実のところリディアはなにかしらの粗相をしでかして、このような街へ追放されたのではないかなどと、失礼極まりない噂が立っているのが現実だ。
当のリディアはその噂を知ってか知らずか、まったくいつものそよ風を相手にするように街を闊歩するのだが。
そのような邪推が生まれるからには、人々はロビンの言葉を信じてはいないわけである。しかしロビンは嘘は言っていない。仔細を並べていないのも真実であったが、しかして赤の他人にそこまで事情を詳らかにする義理もないのも、また確かであった。
ロビンはそのことを重々承知していたので、市井の民の口さがない噂を知りながらも、知らぬ顔をして、いかにもな愛想笑いを振りまいていた。
「ねえ、ロビン。頂いたオレンジはパウンドケーキにしましょうよ」
「いいですねえ。しかしリディア様、そう言うからにはまた厨に立たれるおつもりでしょう」
「それのなにがいけないの?」
リディアがロビンへ顔を向けると、昼過ぎの緩やかになった日差しを浴びて、彼女の金の髪がきらりと輝いた。ロビンはなんだかそれが妙にまぶしく感じられたので、釣り目がちの緑眼を細める。
「立派な淑女はそのようなことをいたしませんよ」
「いいのよ。こんな騒々しくない素敵な場所でまで淑女でいるなんて――」
「見られていない場所でこそ、淑女たるべき行動を忘れてはいけないのです」
説教じみて来たロビンの言葉に、リディアは嫌そうに首を横に振った。
「いいのよ! 淑女じゃなくなったって、死にはしないわ!」
ロビンは内心で「たしかに」と頷いたが、彼はリディアの従者であるので、もちろんそのようなことを口に出したりはしない。しかしリディアが強情であることにも違いはないので、ちょっと呆れたように息を吐くにとどめるのであった。
令嬢リディアにはすべてがあった。温かい家族に気の置けない友人、それから優しい婚約者。
けれども今年で一八を数えるリディアのそばにいるのは、愛想笑いを貼りつけた赤髪の従者のロビンだけである。
だれのせいでもない。ただ、巡り合わせが悪かっただけの話である。この、他人からすれば不幸な星の巡り合わせの中に悪人はいない。
それでも只人ならば不平不満のひとつやふたつ、こぼすだろう。けれどもリディアがこれまで己の身の不幸を嘆いたことは、一度もなかった。
他人はきっと、そんなリディアを見て彼女を底抜けの楽天家だとでも思うのだろう。
真実を知るのはロビンを含め、ごく限られた人間だけだ。
「ただいま、コマドリちゃん」
屋敷の玄関扉を抜けてすぐ、そう広くはないホールに入るや、リディアは籐で編まれた小さな鳥籠に近づく。どこかうれしそうな足取りを見て、ロビンは少しだけ嫌な気分になった。
「いい加減やめてくださいよ、その名前」
この怪我を負った小さなコマドリを庭先で見つけてから、リディアがこのように甘ったるい声で「ロビン」と呼ぶのはもう何度めだろうか。
同じ名前で呼ばれるのが不愉快とまでは言わないが、複雑な感情を呼び起こされるロビンはリディアに何度もそう言っているのだが、かの令嬢は言うことを聞いてはくれない。
「いいじゃないの、ロバート」
呼び名に苦言を呈すれば、決まってリディアはロビンのことを「ロバート」と呼ぶ。そうするとロビンは思わず眉根に皺を寄せてしまうのだが、そのあとは決まってリディアはにっこりと笑う。普段、口うるさいことへの意趣返しのつもりなのだ。
「普通はコマドリと呼ばれることのほうを嫌がると思うのだけれど」
「……今さら貴女にロバートと呼ばれても、尻が落ち着かない」
「それだけの理由で?」
リディアの視線が喉元に向かったのを感じて、ロビンは少しの優越感を得た。
ロビンの喉元から胸元にかけて残る赤茶色の火傷跡は、彼の勲章であった。激しく巻き起こる熱風と火勢の中に飛び込んで、取り残されたリディアを助け出したときに負ったこの傷は、さながらコマドリの逸話のようである。そうであるからロビンは、リディアにその名で呼ばれるのを嫌だと感じたことはなかった。
当初は随分とロビンの火傷跡を気にしていたリディアも、時とともにああやって揶揄の対象にしてしまうくらいには、彼に対して気安さを得るようになった。思うにあのことがなければ、今でもリディアとロビンは打ち解けられなかったに違いない。
「ああ、食事の時間ね」
コマドリの催促するようなさえずりに、リディアは再び小鳥へと目をやる。そのことに名残惜しさを感じながらも、ロビンはコマドリにやるすり餌を用意すべく厨へと向かった。
「あまり熱心に世話をすると情が移りますよ」
「なあに? 嫉妬しているの?」
くすくすと笑いながらコマドリに餌をやるリディアに、ロビンは不機嫌そうに鼻を鳴らした。的外れな意見が不愉快だったからではない。図星を突かれたからこそいつも顔に貼りつけている愛想笑いを引っ込めたのだ。
「もっと仲良くしたら? ――ねえ?」
リディアがコマドリへ視線を送れば、小鳥はわかっているのかいないのか、それに応えるようにさえずりをひとつ残した。
「……もう飛べるでしょう?」
「そうね。でも、もう少しだけ……」
「いけませんよ」
たしなめるようにそう言えば、リディアはちょっと困ったような目でロビンを見た。けれども哀願にも似たその視線に屈するほど、ロビンは甘い人間ではない。特にコマドリちゃんなどと呼ばれている相手が絡んでいるのだ。
「野生に戻れなくなります」
「わかっているわ」
「なんなら、私が扉を開け放って差し上げましょうか」
「もう、わかってるわよ。……明日。いえ、明後日にでも……」
「……もう、今すぐ放しませんか?」
呆れた声を出すロビンに、リディアは子供っぽく頬を膨らませた。
「あら?」
しかし鳴り響いたドアノッカーの音に、リディアはすぐに不機嫌そうな顔を戻して玄関扉に目をやる。
「お客様が来る予定はなかったはずだけれど……」
「私が応対しますので、リディア様は奥へ」
昼間と言えども屋敷が位置するのは街の郊外である。それに加えてこの屋敷にはリディアと使用人であるロビンのふたりしかいないことは、界隈では知られ渡っている。賊の類いとも否定できず、ロビンはホールの窓から門構えを窺った。
視界に入って来たのは立派な馬車である。家紋はついていないが、車の造りからして上等であるのはひと目でわかった。馬もそこらで見つくろってきたようなものではない。
そして――
「リディア! リディア! ここを開けてはくれないか!」
騒々しい若い男の声が響き、ロビンはこの予定にない訪問者がだれであるのかを悟った。
おっとりとそう言うリディアに、従者のロビンは「さあ」とそっけない言葉を返す。けれどもリディアはさして気にした様子はない。ヒステリックに不敬を罵ることもなければ、その不躾さに眉をひそめることもない。ただそよ風が過ぎ去って行ったかのような顔で、頬にかかる前髪をひと房、耳にかけた。
「お年を召した方でしたから」
暗に呆けているのではとつけ加えたロビンに、リディアは「そうなのかしら」と答える。リディアからすれば先ほど坂道で難儀していた老女は、顔に刻まれた皺の割には達者であったように見えたからだ。
けれどもまあ、頭の中のことなど他人には知れないことである。そういうことなのかしらと、リディアも腑に落ちないながらも納得した。
この街は坂が多い。そしてその規模の割にはいささか静かである。
元は関所近くの山を切り拓いた宿場町として大きく発展したここも、関所が廃止されてからは徐々に波が引くように寂れが見え始めている。それでも山道を往く商隊や旅人は途切れないので、最盛期よりその忙しさは衰えを見せれども、街に点在する宿屋の類いはそれなりに数を残しているのであった。
リディアとロビンが暮らしているのは、郊外にあるこじんまりとした屋敷である。ほどほどに裕福な商家の屋敷といった風体にたがわず、元は商人が別荘として所有していたものであるから、市井の民からすれば随分と立派な門構えの家である。
そこで暮らすリディアのことを、ロビンは山間にある空気の綺麗なこの街へは転地療養に来た令嬢だと吹聴していた。
それでも人の邪推とは恐ろしいもので、実のところリディアはなにかしらの粗相をしでかして、このような街へ追放されたのではないかなどと、失礼極まりない噂が立っているのが現実だ。
当のリディアはその噂を知ってか知らずか、まったくいつものそよ風を相手にするように街を闊歩するのだが。
そのような邪推が生まれるからには、人々はロビンの言葉を信じてはいないわけである。しかしロビンは嘘は言っていない。仔細を並べていないのも真実であったが、しかして赤の他人にそこまで事情を詳らかにする義理もないのも、また確かであった。
ロビンはそのことを重々承知していたので、市井の民の口さがない噂を知りながらも、知らぬ顔をして、いかにもな愛想笑いを振りまいていた。
「ねえ、ロビン。頂いたオレンジはパウンドケーキにしましょうよ」
「いいですねえ。しかしリディア様、そう言うからにはまた厨に立たれるおつもりでしょう」
「それのなにがいけないの?」
リディアがロビンへ顔を向けると、昼過ぎの緩やかになった日差しを浴びて、彼女の金の髪がきらりと輝いた。ロビンはなんだかそれが妙にまぶしく感じられたので、釣り目がちの緑眼を細める。
「立派な淑女はそのようなことをいたしませんよ」
「いいのよ。こんな騒々しくない素敵な場所でまで淑女でいるなんて――」
「見られていない場所でこそ、淑女たるべき行動を忘れてはいけないのです」
説教じみて来たロビンの言葉に、リディアは嫌そうに首を横に振った。
「いいのよ! 淑女じゃなくなったって、死にはしないわ!」
ロビンは内心で「たしかに」と頷いたが、彼はリディアの従者であるので、もちろんそのようなことを口に出したりはしない。しかしリディアが強情であることにも違いはないので、ちょっと呆れたように息を吐くにとどめるのであった。
令嬢リディアにはすべてがあった。温かい家族に気の置けない友人、それから優しい婚約者。
けれども今年で一八を数えるリディアのそばにいるのは、愛想笑いを貼りつけた赤髪の従者のロビンだけである。
だれのせいでもない。ただ、巡り合わせが悪かっただけの話である。この、他人からすれば不幸な星の巡り合わせの中に悪人はいない。
それでも只人ならば不平不満のひとつやふたつ、こぼすだろう。けれどもリディアがこれまで己の身の不幸を嘆いたことは、一度もなかった。
他人はきっと、そんなリディアを見て彼女を底抜けの楽天家だとでも思うのだろう。
真実を知るのはロビンを含め、ごく限られた人間だけだ。
「ただいま、コマドリちゃん」
屋敷の玄関扉を抜けてすぐ、そう広くはないホールに入るや、リディアは籐で編まれた小さな鳥籠に近づく。どこかうれしそうな足取りを見て、ロビンは少しだけ嫌な気分になった。
「いい加減やめてくださいよ、その名前」
この怪我を負った小さなコマドリを庭先で見つけてから、リディアがこのように甘ったるい声で「ロビン」と呼ぶのはもう何度めだろうか。
同じ名前で呼ばれるのが不愉快とまでは言わないが、複雑な感情を呼び起こされるロビンはリディアに何度もそう言っているのだが、かの令嬢は言うことを聞いてはくれない。
「いいじゃないの、ロバート」
呼び名に苦言を呈すれば、決まってリディアはロビンのことを「ロバート」と呼ぶ。そうするとロビンは思わず眉根に皺を寄せてしまうのだが、そのあとは決まってリディアはにっこりと笑う。普段、口うるさいことへの意趣返しのつもりなのだ。
「普通はコマドリと呼ばれることのほうを嫌がると思うのだけれど」
「……今さら貴女にロバートと呼ばれても、尻が落ち着かない」
「それだけの理由で?」
リディアの視線が喉元に向かったのを感じて、ロビンは少しの優越感を得た。
ロビンの喉元から胸元にかけて残る赤茶色の火傷跡は、彼の勲章であった。激しく巻き起こる熱風と火勢の中に飛び込んで、取り残されたリディアを助け出したときに負ったこの傷は、さながらコマドリの逸話のようである。そうであるからロビンは、リディアにその名で呼ばれるのを嫌だと感じたことはなかった。
当初は随分とロビンの火傷跡を気にしていたリディアも、時とともにああやって揶揄の対象にしてしまうくらいには、彼に対して気安さを得るようになった。思うにあのことがなければ、今でもリディアとロビンは打ち解けられなかったに違いない。
「ああ、食事の時間ね」
コマドリの催促するようなさえずりに、リディアは再び小鳥へと目をやる。そのことに名残惜しさを感じながらも、ロビンはコマドリにやるすり餌を用意すべく厨へと向かった。
「あまり熱心に世話をすると情が移りますよ」
「なあに? 嫉妬しているの?」
くすくすと笑いながらコマドリに餌をやるリディアに、ロビンは不機嫌そうに鼻を鳴らした。的外れな意見が不愉快だったからではない。図星を突かれたからこそいつも顔に貼りつけている愛想笑いを引っ込めたのだ。
「もっと仲良くしたら? ――ねえ?」
リディアがコマドリへ視線を送れば、小鳥はわかっているのかいないのか、それに応えるようにさえずりをひとつ残した。
「……もう飛べるでしょう?」
「そうね。でも、もう少しだけ……」
「いけませんよ」
たしなめるようにそう言えば、リディアはちょっと困ったような目でロビンを見た。けれども哀願にも似たその視線に屈するほど、ロビンは甘い人間ではない。特にコマドリちゃんなどと呼ばれている相手が絡んでいるのだ。
「野生に戻れなくなります」
「わかっているわ」
「なんなら、私が扉を開け放って差し上げましょうか」
「もう、わかってるわよ。……明日。いえ、明後日にでも……」
「……もう、今すぐ放しませんか?」
呆れた声を出すロビンに、リディアは子供っぽく頬を膨らませた。
「あら?」
しかし鳴り響いたドアノッカーの音に、リディアはすぐに不機嫌そうな顔を戻して玄関扉に目をやる。
「お客様が来る予定はなかったはずだけれど……」
「私が応対しますので、リディア様は奥へ」
昼間と言えども屋敷が位置するのは街の郊外である。それに加えてこの屋敷にはリディアと使用人であるロビンのふたりしかいないことは、界隈では知られ渡っている。賊の類いとも否定できず、ロビンはホールの窓から門構えを窺った。
視界に入って来たのは立派な馬車である。家紋はついていないが、車の造りからして上等であるのはひと目でわかった。馬もそこらで見つくろってきたようなものではない。
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「リディア! リディア! ここを開けてはくれないか!」
騒々しい若い男の声が響き、ロビンはこの予定にない訪問者がだれであるのかを悟った。
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