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「御前様はわたしのことが気に入らないのかな?」
武藤の言葉に森川は驚いた顔をする。
「そんなわけないだろ」
「でもさ、なんか最近ツイてないんだよね。私だけじゃなくって、私の家族もさ……」
「気にしすぎだって」
「そうだよ武藤さん。偶然だと思うよ。だって武藤さんはこんなにも舞いの練習、がんばってるもの」
森川と穂高に宥められた武藤は言葉を引っ込めるが、それでもその顔は納得がいかないという風に歪んでいた。
武藤の弟が発作を起こして病院に運ばれたというあの日から早くも一週間が経っていた。
鏡子は未熟ゆえに神社の外の世界については上手く関知することが出来ず、武藤の弟がどうなったのか、武藤はどうしているのかとやきもきした時間を過ごしていた。
そうして今日になってやっと三人揃って神社に姿を現したわけだが、その様子はいささか不穏である。
事実、神楽殿に上がった武藤の動きは明らかに精彩を欠いていた。
なにかに追い立てられるような舞いは堂々たる笙の音からの乖離が甚だしくとても見ていられるものではなかった。
そして武藤からは他事に気を取られているといった雰囲気が大いに感じられ、舞いに身が入っていないのはだれの目にも明らかだ。
どうやらその原因は武藤の家族にあるらしい。
それを練習に付き合っている年配の禰宜も理解しているのか、こうして一度切り上げて休憩を挟んでいるのである。
浮かない顔をする武藤を前に森川と穂高はどうにか彼女を励まそうとしている。
いや、正確には本気でそうしようと思っているのは森川だけか。
「あの女の方、泉美とやらのことをあまりよく思うておらぬようだな」
一週間前に御前様が発した言葉を鏡子は反芻する。
この時になるとなんとなく鏡子にも状況が察せられて来たのだ。
神社に武藤が来るのは一週間ぶりであるが、そのあいだにも森川と穂高はこの境内に来ていた。
そして森川は武藤の弟の体がよくなること、武藤が神楽舞の奉納を無事に終えることが出来るよう柏手を打っていた。
一方の穂高は口では武藤の心配をし、御前様にお祈りしようという森川の言に同意していたが、その本心は口と違っている。鈴緒を引いても彼女はなにも祈らない。
森川が丁寧に祈願の言葉を心中で口にする中、ずっと穂高はだんまりを決め込んでいるのだ。
そして穂高の態度や纏う雰囲気から鏡子はようやく彼女の本心を知った。
穂高はどうやら森川のことを好いているようなのだ。
けれども見るからに内気そうな彼女はそんなことを口にする勇気はない。
あるいは狭いコミュニティーの中でそういった波風を立てるのは憚られたのかもしれない。
そうして恋情を内に秘めていた穂高の前に現れたのが武藤だ。
森川たちの会話から武藤が引っ越してきたのは気管支の弱い弟の転地療養のためだということがわかった。
そして森川には武藤の弟と同じ年の弟がおり、その関係で武藤と親しくなったということも察せられた。
穂高は突然現れた余所者に思い人の気を引かれてよく思っていないのだろう。
呪いの言葉こそ穂高は吐かなかったが、そうしてやりたいと思っていることは明らかである。
口に出さずとも穂高が纏う空気が雄弁にそう語っているのだ。
鏡子は人の心をそっくりそのまま読み取ることはできないが、ある程度まで理解することは出来た。
だから穂高の本心を知ることが出来たのだ。
正確には出来てしまった、というべきか。
なぜなら鏡子も武藤のことをよく思っていなかったからだ。
「武藤さんはなにも悪いことはしていないじゃない」
そう、武藤はなにも悪くはない。悪いは己なのだ。
それは鏡子もよく理解していた。そして穂高もそう思っているだろう。
「そうだけど洸希はまだ退院できないし、おねえも一昨日骨折したし……」
「じゃあ二人のためにも頑張ろうぜ、な? 御前様って厄除けとかに御利益があるらしいし、舞いを奉納したら色々とよくなるって……たぶん」
「そうだよ武藤さん。お姉さんも武藤さんの舞い楽しみにしてるって言ってたじゃない」
本殿から三人を眺める鏡子は穂高から目が離せなかった。
穂高の目はまるで人形のように無機質な色をしている。
それにだれも気づかないのだろうか?
あるいは、今自分もこんな目をしているのかもしれない。
鏡子はそっとまぶたに指を滑らせる。
そうして眼窩の曲線をなぞるようにして白い指先を動かした。
「がんばりたいけど、そう思いたいけど……なんか不気味なんだよね。ここに来る前だって車に轢かれそうになったし。それに石段を上っている時もなんか足元がぐにゃってしたんだよ。……やっぱりよそものが引き受けるべきじゃなかったんだよ」
「どうしたんだよ。武藤らしくないぞ。いつもならそれくらい気のせいだって言うじゃねえか」
「森川くん、この一週間でいろいろあったから武藤さんも疲れてるんだよ。ねえ武藤さん、今日は佐伯さんに言って練習切り上げてもらおう? 一回間を置いて落ち着いてからでもいいと思うよ。御前祭までまだまだ時間があるからあせることないと思う」
穂高の言葉に武藤は「うん……」と力なく頷いた。そのあと困ったような笑みを浮かべて穂高を見る。
「ごめんなんかネガティブになっちゃって。私らしくないよね。やっぱ疲れてるみたい」
「じゃー俺も佐伯さんに頼むから休み貰おうぜ。武藤頑張りすぎなんだよ」
「ごめん。二人ともありがとうね」
そうして三人は佐伯という名の禰宜と話し合い、その日の練習をこれで取りやめることにした。
「あれ? 雨降って来てない?」
「え? ほんとだ。やべー傘持ってきてねえぞ」
「早く帰ろうか」
いつの間にか頭上には重苦しい鈍色の曇天が垂れ込んでいた。
そしてそこからぽつぽつと水滴が地上へと降り注ぎ始める。
森川と武藤は慌てた様子で鳥居へ向かうが穂高だけはその場に留まっている。
どうしたのだろうと鏡子が思うのと同時に森川が穂高に声をかけた。
「どうしたんだよ穂高ー。早く帰ろうぜ」
「ごめん! 本殿の方に落し物したみたいだから二人とも先に帰ってて!」
「え? いっしょに探すよ!」
「だいじょうぶ。すぐに見つかると思うから先に帰ってて、ね? 武藤さんは休まないと。あと森川くんはちゃんと武藤さんのこと送って行ってあげてね」
「本当にいいのか?」
「だからいいってば。ほんと、だいじょうぶだから」
穂高の声に押されて森川と武藤は彼女に背を向けて雨に濡れ始めた石段を下りて行く。
一人境内に残った穂高は雨脚から逃れるように本殿へと駆け寄る。
しかし先程の言葉に出て来た落し物とやらを捜すそぶりは見せない。
ひさしの下に入った穂高は賽銭箱の前に立つ。
そして硬貨を一枚投げ込むと鈴緒を引いて音を鳴らす。
柏手を打ち、目を閉じる。
その瞬間、鏡子は言いようのない恐怖を感じた。
自分の体が自分のものでなくなるような感覚だ。
芯から先へと体が痺れて行くような気味の悪い感覚。
そして飛び込んできたのは黒い感情だ。
靄のように正体がなくそれでいてもったりと糸を引くような粘着質な黒い感情。
鏡子は肺が押しつぶされたように息苦しくなり、唇を開いてはくはくと呼吸をしようとする。
しかし息苦しさはなくなるどころか増していく。
そして頭の中でがんがんと音が――言葉が響く。
重い重い、錆びついた金属のような言葉が、鏡子の内で跳ねまわる。
明朗快活で伸びやかな武藤は眩しいと鏡子は思う。
自分は到底そんな人柄ではないから。
美しく繊細な舞いを若木のような四肢で表現する武藤を羨ましいと鏡子は思う。
自分はそんな舞いは踊れないから。
武藤が妬ましいと鏡子は思う。
御前様の視線を奪ってしまったから――。
武藤なんて――いなくなってしまえばいいのに。
「宝珠」
鏡子は肩を揺らして振り返る。
そこには御前様が立っていた。
いつもの白い狩衣を着て初雪のように白く長い髪を垂らしている。
瞳孔が縦に裂けた黒目がちの双眸はわずかに見開かれ、艶やかな眼球に鏡子の姿がいびつに映る。
けれども鏡子は御前様の瞳の中にいる己を正視することが出来なかった。本能的な恐怖が鏡子にそうさせたのだ。
恐怖?
どうして怖いんだろう?
鏡子にはわからなかった。わかっていた。けれども知りたくなかった。知らない。理解していない。理解していて痛いほどわかっている。どうしてこうなってしまったのか、どうして自分はこうなのか、どうしてわからないのか、どうしてわからなければならなかったのか、どうして、どうして、どうしてどうしてどうしてどうして――
わたしは。
「宝珠、あの舞い手を呪っていたのはそなただったのか」
鏡子は脇目も振らずその場から逃げ出した。
武藤の言葉に森川は驚いた顔をする。
「そんなわけないだろ」
「でもさ、なんか最近ツイてないんだよね。私だけじゃなくって、私の家族もさ……」
「気にしすぎだって」
「そうだよ武藤さん。偶然だと思うよ。だって武藤さんはこんなにも舞いの練習、がんばってるもの」
森川と穂高に宥められた武藤は言葉を引っ込めるが、それでもその顔は納得がいかないという風に歪んでいた。
武藤の弟が発作を起こして病院に運ばれたというあの日から早くも一週間が経っていた。
鏡子は未熟ゆえに神社の外の世界については上手く関知することが出来ず、武藤の弟がどうなったのか、武藤はどうしているのかとやきもきした時間を過ごしていた。
そうして今日になってやっと三人揃って神社に姿を現したわけだが、その様子はいささか不穏である。
事実、神楽殿に上がった武藤の動きは明らかに精彩を欠いていた。
なにかに追い立てられるような舞いは堂々たる笙の音からの乖離が甚だしくとても見ていられるものではなかった。
そして武藤からは他事に気を取られているといった雰囲気が大いに感じられ、舞いに身が入っていないのはだれの目にも明らかだ。
どうやらその原因は武藤の家族にあるらしい。
それを練習に付き合っている年配の禰宜も理解しているのか、こうして一度切り上げて休憩を挟んでいるのである。
浮かない顔をする武藤を前に森川と穂高はどうにか彼女を励まそうとしている。
いや、正確には本気でそうしようと思っているのは森川だけか。
「あの女の方、泉美とやらのことをあまりよく思うておらぬようだな」
一週間前に御前様が発した言葉を鏡子は反芻する。
この時になるとなんとなく鏡子にも状況が察せられて来たのだ。
神社に武藤が来るのは一週間ぶりであるが、そのあいだにも森川と穂高はこの境内に来ていた。
そして森川は武藤の弟の体がよくなること、武藤が神楽舞の奉納を無事に終えることが出来るよう柏手を打っていた。
一方の穂高は口では武藤の心配をし、御前様にお祈りしようという森川の言に同意していたが、その本心は口と違っている。鈴緒を引いても彼女はなにも祈らない。
森川が丁寧に祈願の言葉を心中で口にする中、ずっと穂高はだんまりを決め込んでいるのだ。
そして穂高の態度や纏う雰囲気から鏡子はようやく彼女の本心を知った。
穂高はどうやら森川のことを好いているようなのだ。
けれども見るからに内気そうな彼女はそんなことを口にする勇気はない。
あるいは狭いコミュニティーの中でそういった波風を立てるのは憚られたのかもしれない。
そうして恋情を内に秘めていた穂高の前に現れたのが武藤だ。
森川たちの会話から武藤が引っ越してきたのは気管支の弱い弟の転地療養のためだということがわかった。
そして森川には武藤の弟と同じ年の弟がおり、その関係で武藤と親しくなったということも察せられた。
穂高は突然現れた余所者に思い人の気を引かれてよく思っていないのだろう。
呪いの言葉こそ穂高は吐かなかったが、そうしてやりたいと思っていることは明らかである。
口に出さずとも穂高が纏う空気が雄弁にそう語っているのだ。
鏡子は人の心をそっくりそのまま読み取ることはできないが、ある程度まで理解することは出来た。
だから穂高の本心を知ることが出来たのだ。
正確には出来てしまった、というべきか。
なぜなら鏡子も武藤のことをよく思っていなかったからだ。
「武藤さんはなにも悪いことはしていないじゃない」
そう、武藤はなにも悪くはない。悪いは己なのだ。
それは鏡子もよく理解していた。そして穂高もそう思っているだろう。
「そうだけど洸希はまだ退院できないし、おねえも一昨日骨折したし……」
「じゃあ二人のためにも頑張ろうぜ、な? 御前様って厄除けとかに御利益があるらしいし、舞いを奉納したら色々とよくなるって……たぶん」
「そうだよ武藤さん。お姉さんも武藤さんの舞い楽しみにしてるって言ってたじゃない」
本殿から三人を眺める鏡子は穂高から目が離せなかった。
穂高の目はまるで人形のように無機質な色をしている。
それにだれも気づかないのだろうか?
あるいは、今自分もこんな目をしているのかもしれない。
鏡子はそっとまぶたに指を滑らせる。
そうして眼窩の曲線をなぞるようにして白い指先を動かした。
「がんばりたいけど、そう思いたいけど……なんか不気味なんだよね。ここに来る前だって車に轢かれそうになったし。それに石段を上っている時もなんか足元がぐにゃってしたんだよ。……やっぱりよそものが引き受けるべきじゃなかったんだよ」
「どうしたんだよ。武藤らしくないぞ。いつもならそれくらい気のせいだって言うじゃねえか」
「森川くん、この一週間でいろいろあったから武藤さんも疲れてるんだよ。ねえ武藤さん、今日は佐伯さんに言って練習切り上げてもらおう? 一回間を置いて落ち着いてからでもいいと思うよ。御前祭までまだまだ時間があるからあせることないと思う」
穂高の言葉に武藤は「うん……」と力なく頷いた。そのあと困ったような笑みを浮かべて穂高を見る。
「ごめんなんかネガティブになっちゃって。私らしくないよね。やっぱ疲れてるみたい」
「じゃー俺も佐伯さんに頼むから休み貰おうぜ。武藤頑張りすぎなんだよ」
「ごめん。二人ともありがとうね」
そうして三人は佐伯という名の禰宜と話し合い、その日の練習をこれで取りやめることにした。
「あれ? 雨降って来てない?」
「え? ほんとだ。やべー傘持ってきてねえぞ」
「早く帰ろうか」
いつの間にか頭上には重苦しい鈍色の曇天が垂れ込んでいた。
そしてそこからぽつぽつと水滴が地上へと降り注ぎ始める。
森川と武藤は慌てた様子で鳥居へ向かうが穂高だけはその場に留まっている。
どうしたのだろうと鏡子が思うのと同時に森川が穂高に声をかけた。
「どうしたんだよ穂高ー。早く帰ろうぜ」
「ごめん! 本殿の方に落し物したみたいだから二人とも先に帰ってて!」
「え? いっしょに探すよ!」
「だいじょうぶ。すぐに見つかると思うから先に帰ってて、ね? 武藤さんは休まないと。あと森川くんはちゃんと武藤さんのこと送って行ってあげてね」
「本当にいいのか?」
「だからいいってば。ほんと、だいじょうぶだから」
穂高の声に押されて森川と武藤は彼女に背を向けて雨に濡れ始めた石段を下りて行く。
一人境内に残った穂高は雨脚から逃れるように本殿へと駆け寄る。
しかし先程の言葉に出て来た落し物とやらを捜すそぶりは見せない。
ひさしの下に入った穂高は賽銭箱の前に立つ。
そして硬貨を一枚投げ込むと鈴緒を引いて音を鳴らす。
柏手を打ち、目を閉じる。
その瞬間、鏡子は言いようのない恐怖を感じた。
自分の体が自分のものでなくなるような感覚だ。
芯から先へと体が痺れて行くような気味の悪い感覚。
そして飛び込んできたのは黒い感情だ。
靄のように正体がなくそれでいてもったりと糸を引くような粘着質な黒い感情。
鏡子は肺が押しつぶされたように息苦しくなり、唇を開いてはくはくと呼吸をしようとする。
しかし息苦しさはなくなるどころか増していく。
そして頭の中でがんがんと音が――言葉が響く。
重い重い、錆びついた金属のような言葉が、鏡子の内で跳ねまわる。
明朗快活で伸びやかな武藤は眩しいと鏡子は思う。
自分は到底そんな人柄ではないから。
美しく繊細な舞いを若木のような四肢で表現する武藤を羨ましいと鏡子は思う。
自分はそんな舞いは踊れないから。
武藤が妬ましいと鏡子は思う。
御前様の視線を奪ってしまったから――。
武藤なんて――いなくなってしまえばいいのに。
「宝珠」
鏡子は肩を揺らして振り返る。
そこには御前様が立っていた。
いつもの白い狩衣を着て初雪のように白く長い髪を垂らしている。
瞳孔が縦に裂けた黒目がちの双眸はわずかに見開かれ、艶やかな眼球に鏡子の姿がいびつに映る。
けれども鏡子は御前様の瞳の中にいる己を正視することが出来なかった。本能的な恐怖が鏡子にそうさせたのだ。
恐怖?
どうして怖いんだろう?
鏡子にはわからなかった。わかっていた。けれども知りたくなかった。知らない。理解していない。理解していて痛いほどわかっている。どうしてこうなってしまったのか、どうして自分はこうなのか、どうしてわからないのか、どうしてわからなければならなかったのか、どうして、どうして、どうしてどうしてどうしてどうして――
わたしは。
「宝珠、あの舞い手を呪っていたのはそなただったのか」
鏡子は脇目も振らずその場から逃げ出した。
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