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バススポンジで立てられたきめの細かい泡で冬司にすっかり洗い上げられる。肩から胸へ、二の腕から指の先へ。足の指のあいだまで綺麗に洗われる――そのあいだ、それを嫌がらずに受け入れるのが譲の仕事と言っても過言ではなかった。
譲はもう一七なのだ。来年には車の免許も取得できる。正直に言って、冬司に幼子のごとく全身を洗われるのは好きではない。
甲斐甲斐しくされることに対して恥ずかしい、といった感情が先立つのは、譲の精神が健全な成長を果たしている証拠でもあったのだが、冬司はまるでそれを拒絶しているようだ。
周囲の友人たちはとうの昔に親と入浴する……ましてや、体を洗われることなど卒業してしまっているのに。そう思うと譲はなんとも言えない気持ちになる。
優しい手つきでバススポンジを肌に滑らされるのは心地よいし、大事にされていると実感できる行為でもある。けれどもそれをするにはいささか自分は年嵩が過ぎるということもまた、譲は理解していた。
「次は髪だよー」
けれどもそうして譲を丸ごと洗ってやっているあいだの冬司は、至極楽しそうなので、そういった感情を吐露することはどうしてもためらわれる。
譲も人並みにこの保護者を鬱陶しいと思う年齢である。けれども彼の境遇――つまり、両親の代わりを担ってもらっているという事実――が、冬司を疎む心を諌めるのであった。
譲の柔らかい髪が濡らされ、泡立ったシャンプーでゆっくりと洗われる。他人の手で洗髪されるのが妙に心地よいのはなぜだろうと、譲は己の心中を倦む気持ちから目をそらすようにそのようなことを考える。
コンディショナーまでしっかりとケアされて、人肌の湯でゆっくりと流される。髪に差し込まれた冬司の指が気持ちよくて、地肌を彼の指の腹で撫でられるたびに、なんだか下腹のあたりがむずむずした。
「気持ち良かった?」
「どうしたの、急に」
そわそわとした気持ちを悟られたのかと譲はドキリとする。けれどもそんな胸中には知らん振りを決め込んで返事をした。しかしすぐに返した言葉がそっけなさ過ぎたかもしれない、と少々落ち込む。
「いや、なんとなくね」
「……変な冬司さん」
変なのはこのごろの自分だということにはふたをして譲はそう返す。冬司は「変かな?」とわざとらしく首をかしげる。
不意に、鏡越しに目が合った。いつも涼しげな冬司の瞳はどこか熱を帯びている。そのことに気づいて、譲はあわてて視線をそらした。
わかりやすすぎるとか、そういったことが頭をかすめたのはすぐで、自分の行動に後悔する。なんだか、そんなことばかりだなと譲は心の中でそっとため息をついた。
だから、冬司の行動にはすぐに気づけなかったのだ。
「――ひゃい?!」
口から漏れ出た素っ頓狂な声に、譲はあわてて自身の口に手でふたをする。それから今しがた己の背筋をからかうように指でなぞった保護者を振り返った。
「……冬司さん?」
いささかの怒りを込めて穏やかげな声でそう問うたが、当の彼はにこにこと微笑むばかりだ。遊ばれていることが不服な譲はすぐに唇を尖らせた。それがまた彼の子供っぽさ――思わずいたずらを仕掛けたくなるような――に拍車をかけているのだと、譲本人は気づかない。
「ごめんごめん」
そう言いながらも冬司に反省した素振りは見えない。それどころか今度は尖った譲の上唇を指でつまむ始末である。
譲が虫でも払うかのような動作でうっとうしげに手を振れば、ようやく冬司の腕が離れた。
「ごめんね譲」
「ぜんぜん謝ってる風じゃないね」
「譲が可愛くって仕方がなくてやってしまったからね」
「可愛いって……」
「うれしくない」と譲はまた唇を尖らせた。
「じゃあ、こういうのをやめようか」。ぐに、と冬司の人差し指が尖った唇を押す。譲の薄い唇は、男子高校生にしてはずいぶんとすべらかで整っている。否、整えられている。リップクリームでケアするように指導したのは、もちろん冬司だ。
ぐにぐにと何度か唇を押してやると、譲はヘソを曲げたようにじとっと半目になって冬司を見やった。
「子供っぽいのはわかってるよ」
「わかってるのにやめないんだ」
譲は答えなかった。ただ、冬司から視線をそらしただけだ。
こういうやり取りを本気で嫌だと思っていないことは、譲本人もわかっている。冬司も、見透かしているだろう。
子供であるうちは彼に甘えていられる。譲はそう思っていた。
つまり、子供でなくなった瞬間には、もうそれらは許されない行いになるのだ。それが、どうにも名残惜しい。だから子供っぽいとは理解している仕草や癖を、譲はなかなか直せないでいるのであった。
冬司といっしょにいたい。けれどもそれは期間限定のもの。いずれ譲は冬司のもとを離れなければならないし、そうするべきだろう。冬司の人生は、譲だけのためにあるものではないのだから。――それが、近頃の譲を支配する考えだった。
冬司の家のバスタブは広い。広いが、いい大人の冬司と、オメガとはいえ男性である譲が入れば狭苦しいことこの上ない。それでも冬司は譲といっしょに湯につかることをやめない。
自然、できるだけ足を伸ばせるようにと、譲が冬司の足のあいだに挟まる形で入浴するハメになる。これはいろいろ危ないなと、正直なところ、譲はそう思っていた。なにが危ないのかは――いろいろ、としか言いようがない。
「譲、大学のことなら心配しないで」
今日の夕食の席で譲は進路指導のプリントを貰ってきたと、いつものように冬司に報告した。
今日あったことを報告するのはたいてい夕食の場で、あのソファでの一件は実のところイレギュラーだった。そうなったのはもちろん、譲の羞恥心に起因するところだというのは、言及するまでもないだろう。
「……うん」
両親が遺した資産自体はそう多くはないが、事故死ということでかなりの額の保険金と賠償金が入って来たと聞いている。それでも金銭面だけではどうしようもない部分――特に保護者としての役割は冬司にかなり負担をかけてもらっている状態だった。
おまけにどうも冬司は譲と暮らしていながら、それらの金には手をつけていないようなのだ。詳しいところは譲も知らない。ただ冬司は自身になにかあったときのためにも、そういった資産には手をつけたくないと言っている。
譲としては色々と心苦しいのが本音である。けれども冬司はまったく譲歩する気配を見せてはくれないので、現状は彼に甘えてしまっている。
「心配なら勉強のことを心配しときなよ~」
「おれ、これでも結構成績はいいんだよ?」
「体育は?」
「知ってるでしょ!」
肘で冬司を小突けば、彼からは笑い声が返って来る。
「やりたいことがあって就職したいって言うならいいけどね。まあ、なかったり大卒のほうが有利なら進学して勉強しなよ。ね?」
「言われなくても……」
「言わないと譲はわかんないでしょ~?」
ぐりぐりとやや乱暴に頭を撫でられる。視界がぐわんぐわんと揺れて「ぐえ」と譲は奇妙な声を出した。それがまた面白かったのか、頭上から冬司の笑い声が降ってきた。
譲はかつて中学の進路相談で就職を選んだために保護者――冬司を呼び出されたという前科がある。冬司が大学に進学しろと繰り返し言って聞かせてくるのは、釘を刺しているつもりなのだろう。
譲には今のところ将来の夢と呼べるようなたいそうなものはない。ひとまずの目標は冬司からの自立であったが、これはまだ彼には話したことがなかった。結果がどうなるか、なんとなく目に見えていたからだ。
冬司はずっとここにいていいと言う。いつまでもそばにいてやる。――そう言われたのは両親が亡くなってしばらくしてからのことだ。
冬司に引き取られるにあたって転校を余儀なくされた譲は、内向的な性格からもちろんすぐには新しいクラスに馴染めなかった。両親の死、友人との別れ、馴染めない環境。そういったことが重なって、ストレスから譲は遁走癖と徘徊癖を見せるようになった。
見て字のごとく、授業中でも学校を抜け出して住宅街や公園をさまよったり、冬司の家からこっそりと出かけてはぼんやりと歩きまわっていたのである。
今、思い出しても迷惑極まりない子供だ。冬司はよく見捨てなかったなと譲は思う。
冬司は見捨てるどころか、毎回譲を捜しまわっては根気よく連れ帰っていたのだから、たいしたものである。
「頼むから、なにも言わずにいなくなるのはやめてくれ」
抱きしめられて、そう言われて、甲斐甲斐しく世話を焼かれる。いっしょに食事を囲み、いっしょにテレビを見て笑って、いっしょにお風呂に入って、いっしょのベッドで眠りにつく。そんなことを繰り返しているうちに、譲のそういった悪癖も鳴りを潜めていったのである。
「譲は俺の運命なんだ。だから、どこにいても譲の場所がわかるんだよ」
ことあるごとに冬司は譲にそう言った。
運命のつがい。そういうものがあることを譲が知ったのはのちのちになってからだ。
アルファとオメガの中には、出会った瞬間から強く惹かれあう「運命のつがい」と呼ぶつながりがある……と言われている。
しかし本当にそういったつながりが存在するのかどうかについては、実のところよくわかっていないのが現実だ。いわゆる、都市伝説の域を脱しない――しかし、ロマンチックな俗説であった。
冬司が運命を口にしたのは、生まれながらのオメガ性である譲を安心させるためだったのかもしれない。「運命のつがい」なのだから、遠慮する必要はないのだと言い聞かせたかったのだろう。嘘も方便、というやつだ。
譲は「運命のつがい」のことを信じてはいなかったし、また逆に懐疑主義というわけでもなかった。ただ、アルファとしての冬司には惹かれながらも、それ以上のアルファとオメガの「運命的なナニカ」を感じないことから、あのときの言葉は方便だったのだろうと判じたのである。
なんにせよそういった言動に救われたのは事実であり、ゆえに譲が冬司の行動に本気で嫌がって見せたり、彼になにかしら強く言うことが出来ないのは、彼に頭が上がらないから、というのも原因のひとつであった。
「あっ」
肩をとんとんと指で叩かれて振り返れば、今度は鼻先にキスを落とされた。譲と同じく、綺麗に手入れされたすべすべの唇が鼻先をかすめる。
「もー……」
「譲、ずっと俺のそばにいてくれよ」
言葉とは裏腹に、冬司は奇妙に軽薄な笑みを浮かべてそう言う。
「ずっとって」
そんなの無理に決まってる。その言葉は飲み込んだ。
「ずっと、だよ」
譲の細い腰に冬司の腕が回る。そのままその手指の先が、譲の腰のくびれをくすぐった。背筋を駆け抜けたくすぐったさに、譲は反射的に腰をくねらせる。
冬司はそんな譲の動きを封じるように、腕に力を入れて自身の胸の中に引き寄せた。
「譲。俺のそばにいてくれるって、約束したよね?」
耳元で囁かれる。重くも心地よいテノール。鼓膜を振るわされただけで、譲は下腹のあたりがざわざわと落ち着かない気分になる。
ゆっくりと首を縦に振る。その言葉は譲が冬司のそばにいる大義名分を与えるためのもののはずだった。劇的な環境の変化から情緒不安定になった譲を、安心させるための言葉のはずだった。
けれど、今は違う。
「譲。譲がそばにいてくれないと、困るんだ」
今のそれは、譲をこの家に縛りつける。縛りつけて、抜け出ることを許さない。
けれども、それを心地よいと感じてしまう自分がいるのはたしかで。
けれども、それを否定して冬司のそばを離れるのが正しいともわかっているわけで。
「……うん」
譲は首を縦に振るばかりで、決して「そばにいるよ」とは言わなかった。
そんな譲をうしろから見る、冬司の顔も知らずに。
譲はもう一七なのだ。来年には車の免許も取得できる。正直に言って、冬司に幼子のごとく全身を洗われるのは好きではない。
甲斐甲斐しくされることに対して恥ずかしい、といった感情が先立つのは、譲の精神が健全な成長を果たしている証拠でもあったのだが、冬司はまるでそれを拒絶しているようだ。
周囲の友人たちはとうの昔に親と入浴する……ましてや、体を洗われることなど卒業してしまっているのに。そう思うと譲はなんとも言えない気持ちになる。
優しい手つきでバススポンジを肌に滑らされるのは心地よいし、大事にされていると実感できる行為でもある。けれどもそれをするにはいささか自分は年嵩が過ぎるということもまた、譲は理解していた。
「次は髪だよー」
けれどもそうして譲を丸ごと洗ってやっているあいだの冬司は、至極楽しそうなので、そういった感情を吐露することはどうしてもためらわれる。
譲も人並みにこの保護者を鬱陶しいと思う年齢である。けれども彼の境遇――つまり、両親の代わりを担ってもらっているという事実――が、冬司を疎む心を諌めるのであった。
譲の柔らかい髪が濡らされ、泡立ったシャンプーでゆっくりと洗われる。他人の手で洗髪されるのが妙に心地よいのはなぜだろうと、譲は己の心中を倦む気持ちから目をそらすようにそのようなことを考える。
コンディショナーまでしっかりとケアされて、人肌の湯でゆっくりと流される。髪に差し込まれた冬司の指が気持ちよくて、地肌を彼の指の腹で撫でられるたびに、なんだか下腹のあたりがむずむずした。
「気持ち良かった?」
「どうしたの、急に」
そわそわとした気持ちを悟られたのかと譲はドキリとする。けれどもそんな胸中には知らん振りを決め込んで返事をした。しかしすぐに返した言葉がそっけなさ過ぎたかもしれない、と少々落ち込む。
「いや、なんとなくね」
「……変な冬司さん」
変なのはこのごろの自分だということにはふたをして譲はそう返す。冬司は「変かな?」とわざとらしく首をかしげる。
不意に、鏡越しに目が合った。いつも涼しげな冬司の瞳はどこか熱を帯びている。そのことに気づいて、譲はあわてて視線をそらした。
わかりやすすぎるとか、そういったことが頭をかすめたのはすぐで、自分の行動に後悔する。なんだか、そんなことばかりだなと譲は心の中でそっとため息をついた。
だから、冬司の行動にはすぐに気づけなかったのだ。
「――ひゃい?!」
口から漏れ出た素っ頓狂な声に、譲はあわてて自身の口に手でふたをする。それから今しがた己の背筋をからかうように指でなぞった保護者を振り返った。
「……冬司さん?」
いささかの怒りを込めて穏やかげな声でそう問うたが、当の彼はにこにこと微笑むばかりだ。遊ばれていることが不服な譲はすぐに唇を尖らせた。それがまた彼の子供っぽさ――思わずいたずらを仕掛けたくなるような――に拍車をかけているのだと、譲本人は気づかない。
「ごめんごめん」
そう言いながらも冬司に反省した素振りは見えない。それどころか今度は尖った譲の上唇を指でつまむ始末である。
譲が虫でも払うかのような動作でうっとうしげに手を振れば、ようやく冬司の腕が離れた。
「ごめんね譲」
「ぜんぜん謝ってる風じゃないね」
「譲が可愛くって仕方がなくてやってしまったからね」
「可愛いって……」
「うれしくない」と譲はまた唇を尖らせた。
「じゃあ、こういうのをやめようか」。ぐに、と冬司の人差し指が尖った唇を押す。譲の薄い唇は、男子高校生にしてはずいぶんとすべらかで整っている。否、整えられている。リップクリームでケアするように指導したのは、もちろん冬司だ。
ぐにぐにと何度か唇を押してやると、譲はヘソを曲げたようにじとっと半目になって冬司を見やった。
「子供っぽいのはわかってるよ」
「わかってるのにやめないんだ」
譲は答えなかった。ただ、冬司から視線をそらしただけだ。
こういうやり取りを本気で嫌だと思っていないことは、譲本人もわかっている。冬司も、見透かしているだろう。
子供であるうちは彼に甘えていられる。譲はそう思っていた。
つまり、子供でなくなった瞬間には、もうそれらは許されない行いになるのだ。それが、どうにも名残惜しい。だから子供っぽいとは理解している仕草や癖を、譲はなかなか直せないでいるのであった。
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冬司の家のバスタブは広い。広いが、いい大人の冬司と、オメガとはいえ男性である譲が入れば狭苦しいことこの上ない。それでも冬司は譲といっしょに湯につかることをやめない。
自然、できるだけ足を伸ばせるようにと、譲が冬司の足のあいだに挟まる形で入浴するハメになる。これはいろいろ危ないなと、正直なところ、譲はそう思っていた。なにが危ないのかは――いろいろ、としか言いようがない。
「譲、大学のことなら心配しないで」
今日の夕食の席で譲は進路指導のプリントを貰ってきたと、いつものように冬司に報告した。
今日あったことを報告するのはたいてい夕食の場で、あのソファでの一件は実のところイレギュラーだった。そうなったのはもちろん、譲の羞恥心に起因するところだというのは、言及するまでもないだろう。
「……うん」
両親が遺した資産自体はそう多くはないが、事故死ということでかなりの額の保険金と賠償金が入って来たと聞いている。それでも金銭面だけではどうしようもない部分――特に保護者としての役割は冬司にかなり負担をかけてもらっている状態だった。
おまけにどうも冬司は譲と暮らしていながら、それらの金には手をつけていないようなのだ。詳しいところは譲も知らない。ただ冬司は自身になにかあったときのためにも、そういった資産には手をつけたくないと言っている。
譲としては色々と心苦しいのが本音である。けれども冬司はまったく譲歩する気配を見せてはくれないので、現状は彼に甘えてしまっている。
「心配なら勉強のことを心配しときなよ~」
「おれ、これでも結構成績はいいんだよ?」
「体育は?」
「知ってるでしょ!」
肘で冬司を小突けば、彼からは笑い声が返って来る。
「やりたいことがあって就職したいって言うならいいけどね。まあ、なかったり大卒のほうが有利なら進学して勉強しなよ。ね?」
「言われなくても……」
「言わないと譲はわかんないでしょ~?」
ぐりぐりとやや乱暴に頭を撫でられる。視界がぐわんぐわんと揺れて「ぐえ」と譲は奇妙な声を出した。それがまた面白かったのか、頭上から冬司の笑い声が降ってきた。
譲はかつて中学の進路相談で就職を選んだために保護者――冬司を呼び出されたという前科がある。冬司が大学に進学しろと繰り返し言って聞かせてくるのは、釘を刺しているつもりなのだろう。
譲には今のところ将来の夢と呼べるようなたいそうなものはない。ひとまずの目標は冬司からの自立であったが、これはまだ彼には話したことがなかった。結果がどうなるか、なんとなく目に見えていたからだ。
冬司はずっとここにいていいと言う。いつまでもそばにいてやる。――そう言われたのは両親が亡くなってしばらくしてからのことだ。
冬司に引き取られるにあたって転校を余儀なくされた譲は、内向的な性格からもちろんすぐには新しいクラスに馴染めなかった。両親の死、友人との別れ、馴染めない環境。そういったことが重なって、ストレスから譲は遁走癖と徘徊癖を見せるようになった。
見て字のごとく、授業中でも学校を抜け出して住宅街や公園をさまよったり、冬司の家からこっそりと出かけてはぼんやりと歩きまわっていたのである。
今、思い出しても迷惑極まりない子供だ。冬司はよく見捨てなかったなと譲は思う。
冬司は見捨てるどころか、毎回譲を捜しまわっては根気よく連れ帰っていたのだから、たいしたものである。
「頼むから、なにも言わずにいなくなるのはやめてくれ」
抱きしめられて、そう言われて、甲斐甲斐しく世話を焼かれる。いっしょに食事を囲み、いっしょにテレビを見て笑って、いっしょにお風呂に入って、いっしょのベッドで眠りにつく。そんなことを繰り返しているうちに、譲のそういった悪癖も鳴りを潜めていったのである。
「譲は俺の運命なんだ。だから、どこにいても譲の場所がわかるんだよ」
ことあるごとに冬司は譲にそう言った。
運命のつがい。そういうものがあることを譲が知ったのはのちのちになってからだ。
アルファとオメガの中には、出会った瞬間から強く惹かれあう「運命のつがい」と呼ぶつながりがある……と言われている。
しかし本当にそういったつながりが存在するのかどうかについては、実のところよくわかっていないのが現実だ。いわゆる、都市伝説の域を脱しない――しかし、ロマンチックな俗説であった。
冬司が運命を口にしたのは、生まれながらのオメガ性である譲を安心させるためだったのかもしれない。「運命のつがい」なのだから、遠慮する必要はないのだと言い聞かせたかったのだろう。嘘も方便、というやつだ。
譲は「運命のつがい」のことを信じてはいなかったし、また逆に懐疑主義というわけでもなかった。ただ、アルファとしての冬司には惹かれながらも、それ以上のアルファとオメガの「運命的なナニカ」を感じないことから、あのときの言葉は方便だったのだろうと判じたのである。
なんにせよそういった言動に救われたのは事実であり、ゆえに譲が冬司の行動に本気で嫌がって見せたり、彼になにかしら強く言うことが出来ないのは、彼に頭が上がらないから、というのも原因のひとつであった。
「あっ」
肩をとんとんと指で叩かれて振り返れば、今度は鼻先にキスを落とされた。譲と同じく、綺麗に手入れされたすべすべの唇が鼻先をかすめる。
「もー……」
「譲、ずっと俺のそばにいてくれよ」
言葉とは裏腹に、冬司は奇妙に軽薄な笑みを浮かべてそう言う。
「ずっとって」
そんなの無理に決まってる。その言葉は飲み込んだ。
「ずっと、だよ」
譲の細い腰に冬司の腕が回る。そのままその手指の先が、譲の腰のくびれをくすぐった。背筋を駆け抜けたくすぐったさに、譲は反射的に腰をくねらせる。
冬司はそんな譲の動きを封じるように、腕に力を入れて自身の胸の中に引き寄せた。
「譲。俺のそばにいてくれるって、約束したよね?」
耳元で囁かれる。重くも心地よいテノール。鼓膜を振るわされただけで、譲は下腹のあたりがざわざわと落ち着かない気分になる。
ゆっくりと首を縦に振る。その言葉は譲が冬司のそばにいる大義名分を与えるためのもののはずだった。劇的な環境の変化から情緒不安定になった譲を、安心させるための言葉のはずだった。
けれど、今は違う。
「譲。譲がそばにいてくれないと、困るんだ」
今のそれは、譲をこの家に縛りつける。縛りつけて、抜け出ることを許さない。
けれども、それを心地よいと感じてしまう自分がいるのはたしかで。
けれども、それを否定して冬司のそばを離れるのが正しいともわかっているわけで。
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譲は首を縦に振るばかりで、決して「そばにいるよ」とは言わなかった。
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