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「寒い……」

 肌触りの良い寝具の上で丸くなったトレイシーがつぶやく。そうして横に並ぶウィルフへ半ば抱きつくようにして体を寄せた。それでも背に腕を回すことはなく、ウィルフの簡素な寝間着の裾をつかむのみだ。そんな仕草がいじらしくて、ウィルフは欲望が鎌首をもたげてくるのを感じた。

「暖めましょうか」

 欲望を抑えながらもそう問えば、体を横たえたままトレイシーは小さくうなずいた。了承を得たウィルフは遠慮がちにトレイシーへと手を伸ばす。まずは背に指を置き、次に滑るように腰へと。ウィルフが分け与えた熱はとっくに冷めてしまったようで、その体はどこかひんやりとしていた。

 腰を抱きかかえるようにすれば、トレイシーが「ん」と鼻に抜けるような声を出す。そうしてよりいっそう、ウィルフへと体を寄せた。ウィルフの厚い胸板にトレイシーの鼻先が当たり、ついで折りたたんだ腕が接触する。胸板を、指先を通じて伝わってくるトレイシーの触り心地にウィルフは心を持って行かれそうになった。こんな風に欲望を直接感じることは久しく、心はなお乱されて行く。

「トレイシー様……」

 思わず名を呼べば、トレイシーはウィルフの腕の中で顔を上げ、上目遣いに彼を見る。鮮やかさのない、もったりとした濃い夜闇を切り取ったような瞳にウィルフが映る。そこに映った彼の顔は、雄の表情をたたえていた。

「ウィルフ」

 ウィルフの腕に囲われたトレイシーがもぞもぞと動く。ウィルフが腕をゆるめれば、トレイシーは少しだけ身を乗り出すようにして彼の顔へと近づいた。瞬間、ウィルフの唇の横を温かいものがかすめて行く。それがトレイシーからの口づけだと悟ったウィルフは、顔へ一度に熱が集まるのを感じた。

「おやすみ」

 トレイシーは弱弱しいながらも笑みを浮かべる。それが夜にひっそりと咲く花のようで、ウィルフは釘づけになった。しかしその微笑みはすぐに瞳の奥へと引っ込んでしまう。それを残念に思いながらウィルフは「おやすみなさいませ」と返すのであった。

 トレイシーのことを愛しい、と思う。守ってやりたいと思う。こんな風にだれかを思うのは初めてで、ウィルフは戸惑ってしまう。相手はウィルフを奴隷として貰い受けた相手だというのに、だ。だというのにそこへ憎しみを感じることはなく、それとは真逆の邪心を抱く始末である。

 すべてはトレイシーの態度のせいだとウィルフは思う。奴隷のような扱いをせず、まるで普通の使用人のようにウィルフと接して来るから、気安い感情を抱いてしまうのだとウィルフは考える。

 こんな思いは捨てるべきなのだとわかってはいても、本能の入り混じったその感情はなかなか心を離れてはくれない。特に、このようにトレイシーがあからさまに甘えて来てくれた晩に捨てることなど難しい。

 ウィルフは消化しにくい感情を抱いたまま、いつの間にやら眠りについていた。


 翌日のトレイシーはいささか体調が回復したようであった。ただ相変わらず体温は低めであったが。

「今日の水浴びはひとりでするから」

 トレイシーが少し恥ずかしげにしてそう言ったので、ウィルフは代わりに朝食のパンを用意することになる。

 ちょうどウィルフがパンにナイフを入れたとき、トレイシーが行水をする中庭が騒がしくなった。それは明確な音ではない。ウィルフの明察な感覚が捉えたものだ。気配が増え、騒々しくなったのを察知したウィルフはナイフを片手に素早く中庭へと躍り出る。

 そこには顔を布で隠した不届き者が裸身のトレイシーの口をふさぎ、明らかにその身を連れ去ろうとしていた。見れば中庭に設けられた小さな門扉が開け放たれている。賊はそこから侵入したようであった。

 頭の芯がカッと熱くなる。激昂しているのだ。あの主を害されて。

「トレイシー様!」

 ウィルフがそう叫ぶとトレイシーの青の瞳が見開かれる。抵抗していた彼の動きが一瞬止まったのを見るや、間髪入れずウィルフは手にしたナイフを繰り出し、賊の腕に突き立てる。賊は痛みにうめくものの、トレイシーを離す気配はない。ウィルフは剣闘で鍛えられた本能の赴くがまま、賊へナイフを振り上げる。闖入者もそれに応戦せんと腰に提げた剣を引き抜くが、ウィルフに指を切りつけられ取り落とすのはすぐだった。

 剣闘奴隷として生き抜いてきたウィルフにとって、この賊は他愛のない相手であった。

「ウィルフ、ウィルフ、もういいから。このままじゃ死んでしまう」

 久しぶりに見た血で知らず興奮していたウィルフは、トレイシーの言葉で我に返る。足元には小さなナイフで体を切り刻まれた賊が虫の息で倒れていた。その脇に裸身のまま座り込んだトレイシーの顔は青ざめている。顔色の悪い彼を見た瞬間、ウィルフは後悔に襲われた。血のにおいに昂ぶった自身を見て、トレイシーはどう思ったのだろうか? 野蛮だと思ったかも知れない。そう思うと先ほどまで高揚していたウィルフの気分は見る見るうちにしぼんで行った。

 そんなウィルフに対しトレイシーは「表に出て官憲を呼んでもらって」と指示を出す。その場から離れたいという気持ちと、虫の息とはいえ賊といっしょにトレイシーを残しては置けないという気持ちが入り混じり、ウィルフは動きを止める。

 トレイシーはそんな彼を一瞥して「わたしはだいじょうぶだから」と言ってウィルフの腕に触れた。そこは返り血がかかっている。ウィルフは表へ出る前に一度体をふいた方が良いなと考えながら、トレイシーの言葉に返事をして背を向けた。

 隣近所の顔見知りの女性に話せば官憲はすぐに呼んでもらえた。官憲が戻ってくるころにはトレイシーは服を着て賊の手当てをしていた。それを見てウィルフはなんとも言いがたい感情に襲われる。それは嫉妬と独占欲であったのだが、ウィルフにはその正体がなんであるのかわからなかった。

 トレイシーの手で血止めをされた賊は官憲の手で引き立てられる。トレイシーは官憲からの覚えも明るいようで、ここでも「先生」と呼ばれていた。これならしっかりとした取調べがなされるだろうとウィルフも一息つく。

 さてこのあと暴漢を寄越したのは先の感じの悪い客――ゴードンだということがのちのち判明するのであるが、このときのウィルフたちには知る由もないことである。

 官憲が帰ったあとのトレイシーはどこか暗い表情をしてウィルフを見ていた。その視線にウィルフは苦いものを感じる。

「トレイシー様」
「……なに?」
「その、嫌になりましたか」
「え?」

 気がつけばウィルフは、人が引いてふたりきりになった居間でそんなことを聞いていた。奴隷がするような質問ではないと理解しつつも、今のウィルフにはそんなことを聞かずにはおれなかったのだ。

 長椅子に座ったトレイシーはぱちぱちとまばたきをする。

「嫌、とは」

 くすみがなくなり、鮮やかさを取り戻し始めたトレイシーの青の目がまっすぐにウィルフを射抜く。しかしそこにはわずかながら戸惑いがにじんでいた。

「私は野蛮な奴隷です……。ですから、その……嫌に、なったかと」
「そんなことはない!」

 急にトレイシーが声を張り上げるものだから、ウィルフは驚いて目を丸くした。するとトレイシーはばつが悪そうな顔をして「大声を出して悪かった」と謝って来る。

「ただ、どうしてそんなことを、と思って……」
「先ほどの件があってから、トレイシー様の顔色が、いえ、私への視線が気になりまして」
「ウィルフには感謝している。わたしを助けてくれて。つ、月のもののときは魔法が弱まるから……だから助かった」
「なら」

 なら、どうして目を伏せているのだ。それを言ってしまっていいのかウィルフはわからず、口をつぐんでしまう。トレイシーはウィルフが好むあの青色の瞳を彼から外し、視線を床へと落としていた。

「その……逃げなかったのだなと思って」
「そんなこと! そんなことはいたしません……」
「奴隷には、逃げるいい機会だっただろう?」

 どこか自虐的な笑みを浮かべるトレイシーにウィルフは言葉をなくす。同時に信用されていなかったのだ、という絶望感が彼を襲った。短いあいだではあるが、閨に入るのを許可し、まるで甘えるような態度を取るトレイシーは自分に心を許してくれているのだと、ウィルフはそう思っていたのだ。

「逃げるいい機会などと……私は、トレイシー様の元を離れるなど」
「どうして? 奴隷なら、自由になりたいとは思わない?」
「……思いはしないと言えば嘘になります。けれども、トレイシー様の元を離れるのは……本意ではありません」

 ウィルフは懇願するように、長椅子に腰掛けたトレイシーの足元へ寄ると膝を折った。

「なぜそんなことをおっしゃるのですか。私が嫌になりましたか」
「嫌ではない……」
「それなら――」

 言い募ろうとしたウィルフはトレイシーの形の良い瞳がかすかに歪んでいることに気づいた。

「ただ……不安で。嫌、ではないかと」
「……私が?」

 こくりとトレイシーはうなずいた。

「わたしには家族はない。だから、さみしくて、お前を貰った。本当は少し狙っていた。闘技場に連れられて行ったときに……その一目惚れ、して。そばにいるのならばウィルフのような人間がいいと、思った。だからお前を貰った。奴隷として。……奴隷ならば、どこかへ行くことはないだろうと思って」

「けど」とトレイシーは言葉を続ける。

「本当は嫌ではないのかと。夜伽も、わたしが甘えるのも……そう考えると不安で。でもお前は嫌な素振りは見せないから、思い上がってしまう……」

 恥ずかしそうに頬を染めて顔を伏せたトレイシーを見て、ウィルフは夜毎に感じていた欲望がにわかに湧き上がって来るのを感じた。

 奴隷の気持ちについて考える主人がどれだけいるだろう。そう思うとトレイシーが愛しく感じられてウィルフはなにもかもを投げ打ち、彼を抱きしめたくなった。

 トレイシーはまだ泣きそうな顔で両の手を膝に置き、服をぎゅっと握り締めている。そんな仕草のひとつひとつがなんとも愛らしく、ウィルフの心をかき乱した。

「なぜ、ならば性奴隷などと?」
「一番合ってるかなと」
「閨で、その夜の相手をさせる気だったんですよね?」
「夜の相手はしてもらっているだろう?」

 最初から思っていた疑問をぶつければ、心底不思議そうな顔でそんなことを返されるものだから、よりいっそうウィルフの心は締めつけられた。

 体の芯までぐずぐずに甘やかして、守ってやりたいという感情があとからあとから溢れ出して止まらない。

「そう言うのは性奴隷とは言わないと思うのですが」
「そうなのか? なら、なんだ……愛玩奴隷?」

 小首をかしげるトレイシーにウィルフは口元が緩んでしまいそうになる。「先生」と呼ばれて慕われて、立派な人物だろうに、どこまで無防備で――そこが愛らしい。主人に抱くような感情ではとうていなかったが、どうにもこらえようがない。

「もっと甘えてくださってもいいんですよ」
「え?」
「いえ、もっと甘えてください。そうされるのは嫌ではないんです……」
「本当に」
「はい」
「じゃあ、口づけても……嫌じゃ、ない?」

 ウィルフは思わずトレイシーの唇へと目をやる。薄紅色の、薄くもなく厚くもない唇。昨日の晩、ウィルフの口元をかすめて行った唇。思わずウィルフはつばを飲み込んだ。

「……はい」
「ほんとうに?」
「はい。本当です」
「じゃあ、してもいい?」
「はい」

 ひざまずくウィルフの頬をトレイシーの両手が包む。ウィルフが目をつむれば、やわらかい感触と共に温かなものが額に触れる。他愛もない口づけであったが、ウィルフの欲を刺激するにはじゅうぶん過ぎるほどの接触であった。

「これからも、こうしていい?」
「はい。なんなりと」

 ウィルフがそう言うと、トレイシーは安堵の表情を浮かべる。その笑みは弱弱しいがどこか満足げで、愛らしいという感情を的確に刺激して来る。

「ウィルフは、わたしだけのものだ。わたしだけの……」

 そう言ってトレイシーはまたウィルフの額に口づける。それがぞくぞくするほどに心地良い。この年下の青年が自身に甘えて来るという状況は、あまりに甘美であった。

 ずいぶん参ってしまったものだとウィルフは思う。しかしトレイシーが主人ならば愛玩奴隷というのも悪くないと、心のうちでほくそ笑んだ。


 その晩、いつもよりトレイシーが甘えてきたためにウィルフの理性が試されたのだが、それはまた別のお話。
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