上 下
4 / 4

(4)

しおりを挟む
 ――あの森へは二度と行かない。

 そうスズは心に決めていたものの、時間と共にその決意もゆるんでくる。

 繁忙期が明け、あと数日で狩りのシーズンに突入する。そうなれば、日暮れ近くとは言えども、犬に変身して森を駆け回るのは危険だ。となるとがぜん、スズは「変身収め」とでも言うべき、狩りのシーズンの前に一度犬になって森を走り回りたくなってしまう。

 スズは酒や煙草はたしなまなかったし、散財や暴食することにも特に魅力を感じていなかった。犬に変身して野を駆け回ることは、スズのほとんど唯一のストレス発散方法だったのだ。

 けれどもルーがスズの上司になった……なってしまったことで、スズは犬に変身することを控えていた。だが、そうやって我慢するのもそろそろ限界だ。

 ほんの少しだけ。ほんのいっとき、森へ行きたい――。

 スズはその誘惑に抗えなかった。

 ……そしてこのザマである。

「ごめんね、レイシーさん。ふたりきりで秘密の話をするには、この森が一番ちょうどいいかなって思って……」

 スズのファミリーネームを申し訳なさそうに呼んだのは、ほかでもないルーである。人語を話しているのだから、今は当然人間の姿をしている。木立ちのあいだから不意に現れたルーに、おどろいて比喩ではなくスズは飛び上がった。久々に森を駆け回る快感に夢中になっていたら、これだ。

「あ――に、逃げないで……!」

 スズはまた例によって遁走しようとしたが、ルーの声があまりにも哀れっぽかったこともあるし、そもそも正体が上司でもあるルーにバレていることを考慮して、逃げ出したい気持ちをどうにか押さえ込むことには成功した。

 犬に変身したまま、スズが立ち止まって振り返れば、ルーはあからさまにほっとした顔をして近寄ってきた。

「元に戻りたくないなら、そのままでもいいよ。ただ、私の話は聞いて欲しくて……」

 スズは迷った。そして悩んだ末に、犬でいることにした。犬でいるあいだは人語をしゃべることはできない。だんまりでも、不自然ではない。そういう少々卑怯な心境から、スズは白い犬のままでいることを選んだ。

 ルーは精悍な顔つきに反して、目元を和らげて、膝を折る。その場で地面に尻をつけ、「お座り」の体勢を取るスズと、大体同じ目線の位置になる。ルーのこういった行動にわざとらしさやぎこちなさがないから、スズの中から、逃げ出したい気持ちも自然と抜けていく。

「……貴女が半獣半人だろうことは、なんとなくわかっていた」

 ……スズはいきなり落とされた爆弾に、その場から逃げ出したい気持ちが首をもたげたのを感じた。

「このあたりの森は数年前に大規模な野犬狩り、狼狩りをしていて……町の中には半分野良の犬はちらほら見られるけれど、森の中にはほとんど姿を見なくなっていたから」

 スズは地方の……言ってしまえば、田舎の出身である。就職と同時に王都にやってきたので、ルーが告げてきたような事情があったことは、まったく知らなかった。

「だから私も、安心して狼になってのんびりしていたんだけれど」

 ……思えば、スズはルー以外の狼には会ったことがなかった。しかしそれを不自然だと捉えられるほどの知識がスズにはなかったのだ。それとスズがどちらかといえばのん気な性格をしていたことも理由のひとつだろう。「そういうこともあるだろう」と楽観的に考えていたのだ。

「先に言ったように貴女が半獣半人の、人間だろうことは薄々わかっていた。それでも――」

 ルーはそこで一度言葉を切り、それから万感の思いがこもっていそうな声で言った。

「あんまりにも疲れていたから……その、貴女とのスキンシップには大いに癒されていて――」

 ルーは恥ずかしそうに目を伏せた。

 スズは黒い目をぱちくりとまたたかせた。

 そして――スズはやおら人間に戻った。

「わかります! もふもふの動物と触れ合うと癒されますよね!」

 そしてルーと同じように膝を折った体勢のまま、大いに同意した。今度は、ルーが目をまたたかせる番だった。

「部長はもふもふしていて可愛くて……でも顔つきとかがとてもかっこよかったので……そのギャップがまた――ハッ!」

 ルーがおどろいたような顔をしたまま固まっているのを認め、スズは熱弁していた顔から反転、青ざめさせて謝罪する。

「体をすりつけたりとか……セクハラですよね……ごめんなさい」
「い、いえ……それなら私のほうこそ、ですよ。貴女が半獣半人だとなかばわかっていたのに色々と……その、色々としましたし……」
「いえ、その……お気になさらず……」
「でも……」
「いえいえ……」

 ふたりのあいだに、気まずい沈黙が落ちる。

 ややあってから、それを先に切り取ったのはスズだった。

「でも……部長のおかげで助かりました」
「……え?」
「つらいとき、苦しいとき。部長がいてくれたから頑張れたんです。魔方陣職人はずっと昔からの、わたしの夢だったんですけど、前の部長はあんな感じでしたから……」

 スズは、この森で出会える若い狼に――ルーを心の支えに、職場にまかり通っていた理不尽にも耐えることができた。それだけはゆるぎようのない事実だった。だから、その感謝の気持ちだけは伝えたいと思ったのだ。

「私も同じようなものだよ。そのころは前の上司の不正の証拠を積み上げていたんだけれど、やっぱり、色々とつらくてね……。だから狼になってこの森にいるあいだだけは、そのつらさを忘れられた」
「そうだったんですか。……わたしたち、似たもの同士だったんですね」
「……ありがとう」
「え?」
「そう言ってくれてうれしい。貴女には嫌われても仕方がないと思っていたから」
「……嫌うわけ、ないじゃないですか。部長は密猟者からわたしを助けるために、人間に戻ってくれたんですから……」

 ルーはほっと安堵したように微笑んだ。その顔がなぜか狼のときの姿と重なる。犬となったスズとじゃれあっているときの狼の表情は、安心しきっているときの顔だったのだと、スズは今さらながらに悟った。

 そんなルーの顔を見て、スズは自然とこんなことを口走っていた。

「――部長がよければ、なんですけど」
「……なにかな?」
「『モフり同盟』、結成しませんか?」

 ルーがまたおどろいた様子で目をぱちくりとさせる。その顔にはやはり、狼になったときの面影がなんとなく見て取れた。

「お互いをもふもふしあって、お互いに癒されませんか?」

 スズの言葉に、平素であれば精悍な印象を与えるルーの目元が、柔らかく緩んだ。

「いいね、それ。……愛らしい貴女とこれからもいっしょにいられるのは――うれしい」

 「愛らしい」がかかっているのは、犬の姿のときのことだろうと察しながらも、スズは気恥ずかしくも嬉しい気持ちになった。

 かくして「モフり同盟」が結成されたが――そんなふたりが恋人同士の関係になるのは、そう遠くない未来の話である。
しおりを挟む

この作品は感想を受け付けておりません。

あなたにおすすめの小説

姉の身代わりで冷酷な若公爵様に嫁ぐことになりましたが、初夜にも来ない彼なのに「このままでは妻に嫌われる……」と私に語りかけてきます。

恋愛
姉の身代わりとして冷酷な獣と蔑称される公爵に嫁いだラシェル。 初夜には顔を出さず、干渉は必要ないと公爵に言われてしまうが、ある晩の日「姿を変えた」ラシェルはばったり酔った彼に遭遇する。 「このままでは、妻に嫌われる……」 本人、目の前にいますけど!?

冷酷王子が記憶喪失になったら溺愛してきたので記憶を戻すことにしました。

八坂
恋愛
ある国の王子であり、王国騎士団長であり、婚約者でもあるガロン・モンタギューといつものように業務的な会食をしていた。 普段は絶対口を開かないがある日意を決して話してみると 「話しかけてくるな、お前がどこで何をしてようが俺には関係無いし興味も湧かない。」 と告げられた。 もういい!婚約破棄でも何でも好きにして!と思っていると急に記憶喪失した婚約者が溺愛してきて…? 「俺が君を一生をかけて愛し、守り抜く。」 「いやいや、大丈夫ですので。」 「エリーゼの話はとても面白いな。」 「興味無いって仰ってたじゃないですか。もう私話したくないですよ。」 「エリーゼ、どうして君はそんなに美しいんだ?」 「多分ガロン様の目が悪くなったのではないですか?あそこにいるメイドの方が美しいと思いますよ?」 この物語は記憶喪失になり公爵令嬢を溺愛し始めた冷酷王子と齢18にして異世界転生した女の子のドタバタラブコメディである。 ※直接的な性描写はありませんが、匂わす描写が出てくる可能性があります。 ※誤字脱字等あります。 ※虐めや流血描写があります。 ※ご都合主義です。 ハッピーエンド予定。

私も一応、後宮妃なのですが。

秦朱音@アルファポリス文庫より書籍発売中
恋愛
女心の分からないポンコツ皇帝 × 幼馴染の後宮妃による中華後宮ラブコメ? 十二歳で後宮入りした翠蘭(すいらん)は、初恋の相手である皇帝・令賢(れいけん)の妃 兼 幼馴染。毎晩のように色んな妃の元を訪れる皇帝だったが、なぜだか翠蘭のことは愛してくれない。それどころか皇帝は、翠蘭に他の妃との恋愛相談をしてくる始末。 惨めになった翠蘭は、後宮を出て皇帝から離れようと考える。しかしそれを知らない皇帝は……! ※初々しい二人のすれ違い初恋のお話です ※10,000字程度の短編 ※他サイトにも掲載予定です ※HOTランキング入りありがとうございます!(37位 2022.11.3)

王宮医務室にお休みはありません。~休日出勤に疲れていたら、結婚前提のお付き合いを希望していたらしい騎士さまとデートをすることになりました。~

石河 翠
恋愛
王宮の医務室に勤める主人公。彼女は、連続する遅番と休日出勤に疲れはてていた。そんなある日、彼女はひそかに片思いをしていた騎士ウィリアムから夕食に誘われる。 食事に向かう途中、彼女は憧れていたお菓子「マリトッツォ」をウィリアムと美味しく食べるのだった。 そして休日出勤の当日。なぜか、彼女は怒り心頭の男になぐりこまれる。なんと、彼女に仕事を押しつけている先輩は、父親には自分が仕事を押しつけられていると話していたらしい。 しかし、そんな先輩にも実は誰にも相談できない事情があったのだ。ピンチに陥る彼女を救ったのは、やはりウィリアム。ふたりの距離は急速に近づいて……。 何事にも真面目で一生懸命な主人公と、誠実な騎士との恋物語。 扉絵は管澤捻さまに描いていただきました。 小説家になろう及びエブリスタにも投稿しております。

俺の妖精すぎるおっとり妻から離縁を求められ、戦場でも止まらなかった心臓が止まるかと思った。何を言われても別れたくはないんだが?

イセヤ レキ
恋愛
「離縁致しましょう」 私の幸せな世界は、妻の言い放ったたった一言で、凍りついたのを感じた──。 最愛の妻から離縁を突きつけられ、最終的に無事に回避することが出来た、英雄の独白。 全6話、完結済。 リクエストにお応えした作品です。 単体でも読めると思いますが、 ①【私の愛しい娘が、自分は悪役令嬢だと言っております。私の呪詛を恋敵に使って断罪されるらしいのですが、同じ失敗を犯すつもりはございませんよ?】 母主人公 ※ノベルアンソロジー掲載の為、アルファポリス様からは引き下げております。 ②【私は、お母様の能力を使って人の恋路を邪魔する悪役令嬢のようです。けれども断罪回避を目指すので、ヒーローに近付くつもりは微塵もございませんよ?】 娘主人公 を先にお読み頂くと世界観に理解が深まるかと思います。

「白い結婚最高!」と喜んでいたのに、花の香りを纏った美形旦那様がなぜか私を溺愛してくる【完結】

清澄 セイ
恋愛
フィリア・マグシフォンは子爵令嬢らしからぬのんびりやの自由人。自然の中でぐうたらすることと、美味しいものを食べることが大好きな恋を知らないお子様。 そんな彼女も18歳となり、強烈な母親に婚約相手を選べと毎日のようにせっつかれるが、選び方など分からない。 「どちらにしようかな、天の神様の言う通り。はい、決めた!」 こんな具合に決めた相手が、なんと偶然にもフィリアより先に結婚の申し込みをしてきたのだ。相手は王都から遠く離れた場所に膨大な領地を有する辺境伯の一人息子で、顔を合わせる前からフィリアに「これは白い結婚だ」と失礼な手紙を送りつけてくる癖者。 けれど、彼女にとってはこの上ない条件の相手だった。 「白い結婚?王都から離れた田舎?全部全部、最高だわ!」 夫となるオズベルトにはある秘密があり、それゆえ女性不信で態度も酷い。しかも彼は「結婚相手はサイコロで適当に決めただけ」と、面と向かってフィリアに言い放つが。 「まぁ、偶然!私も、そんな感じで選びました!」 彼女には、まったく通用しなかった。 「なぁ、フィリア。僕は君をもっと知りたいと……」 「好きなお肉の種類ですか?やっぱり牛でしょうか!」 「い、いや。そうではなく……」 呆気なくフィリアに初恋(?)をしてしまった拗らせ男は、鈍感な妻に不器用ながらも愛を伝えるが、彼女はそんなことは夢にも思わず。 ──旦那様が真実の愛を見つけたらさくっと離婚すればいい。それまでは田舎ライフをエンジョイするのよ! と、呑気に蟻の巣をつついて暮らしているのだった。 ※他サイトにも掲載中。

身代わりの公爵家の花嫁は翌日から溺愛される。~初日を挽回し、溺愛させてくれ!~

湯川仁美
恋愛
姉の身代わりに公爵夫人になった。 「貴様と寝食を共にする気はない!俺に呼ばれるまでは、俺の前に姿を見せるな。声を聞かせるな」 夫と初対面の日、家族から男癖の悪い醜悪女と流され。 公爵である夫とから啖呵を切られたが。 翌日には誤解だと気づいた公爵は花嫁に好意を持ち、挽回活動を開始。 地獄の番人こと閻魔大王(善悪を判断する審判)と異名をもつ公爵は、影でプレゼントを贈り。話しかけるが、謝れない。 「愛しの妻。大切な妻。可愛い妻」とは言えない。 一度、言った言葉を撤回するのは難しい。 そして妻は普通の令嬢とは違い、媚びず、ビクビク怯えもせず普通に接してくれる。 徐々に距離を詰めていきましょう。 全力で真摯に接し、謝罪を行い、ラブラブに到着するコメディ。 第二章から口説きまくり。 第四章で完結です。 第五章に番外編を追加しました。

【完結】女神さまの妹に生まれたので、誰にも愛されないと思ったら、ついでに愛してくれる伯爵に溺愛されていて、なんだか複雑です

早稲 アカ
恋愛
子爵令嬢のフェリネットには、美しすぎる姉のアネリスがいた。あまりにも神々しいため、『女神様』と呼ばれてモテモテの姉に、しだいにフェリネットは自信を無くして、姉に対しても嫌悪感を抱いてしまう。そんな時、姉が第二王子に見初められて王家に嫁ぐことになり、さらにフェリネットにも婚約者が現れる。しかし、彼も実は姉を慕っていることが判明して……?

処理中です...