隣にマギサ 〈連作短編〉

やなぎ怜

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 シバはアスファルトの地面を蹴り、疾駆する。

 その背中にマギサの声がかかるが、今のシバにはそれに答える余裕はない。

 否、そんなことをしている場合ではないのだ。

 シバの視界は、シバのさらに前を全力疾走する男を捉えていた。

 男は、シバの組織がケツモチをしている、いわゆる「闇金」から金を借りたまま行方をくらませていた債務者であった。

 シバがなぜそんな男を追って疾走しているのかと言えば、功名心ゆえではない理由がある。

 債務者の男から金を回収するべく差し向けられた組織の構成員が、行方不明なのだ。

 そして同じく債務者の男も、つい今しがたまで行方不明の状態だった。

 そんな男がどういうわけかマギサを連れ歩いていたシバの目の前を横切った。

 そうなれば追うしかない。

 しかし債務者の男も、これまで組織の目をかいくぐって逃げおおせていたくらいだ。

 シバが声をかけた時点でシバの正体を察したのか、脱兎のごとく走り出し――シバも続けて走り出した、という次第である。

 そして突如走り出したシバの背をマギサも追っている。

 奇怪な鬼ごっこのような様相を呈していた三人は、やがて空きテナントが目立つひとつのビルへと到着する。

 債務者の男は猛スピードで古い雑居ビルの中へと吸い込まれるようにして入った。

 シバもそれに倣い、ビルの中へと足を踏み入れる。

 建物の中に入られたのは少し面倒だと思ったが、いずれにせよ袋のネズミだとシバは思った。

 しかし――

「出てこなかったらどうするの?」

 ビルの正面出入り口の近くに立つシバとマギサだったが、債務者の男は一向に姿を現さない。

 シバを追って走ったために、まだ肩で軽く息をしているマギサは、シバに当然の疑問をぶつける。

 シバはスマートフォンの画面に目を落としていた。

 債務者の男を取り押さえようと人手を呼びたかったが、メッセージを送っても既読マークがつかない。

 通知を切っているわけがないから、メッセージ自体に気づいていないのか、未読のままスルーされているかのどちらかだ。

 シバがメッセージを送信した相手は、シバとそう年のころが変わらない準構成員だの半ゲソだのといった男たちである。

 彼らには昔気質かたぎのヤクザにはある人情だとか情熱だとかいうものは備わっておらず、こうして手助けを乞うメッセージへの反応がにぶいのはいつものことであった。

 彼らには普通の社会性というものはなく、ゆえに裏社会にいるわけで、場面場面で律儀さを発揮するシバのほうが裏社会ここでは異端なのだ。

 そういうわけで、今シバの手元の使える駒はマギサだけであった。

 シバは舌打ちをするとスマートフォンをスリープさせ、ポケットに突っ込んだ。

「出てくるまで待つか、こっちから行くか、しかねえ」

 シバはそう答えたが、債務者の男がとる行動のうち、最悪のものはもちろん想定していた。

「……逃げられるより飛び降りでもされるほうがメンドくせえ。こっちから行くか」

 尻の毛までむしりとり、骨の髄までしゃぶりつくすのがヤクザであったが、しかしなにごとにも手間はかかる。

 債務者の男が飛び降り自殺でもしてしまえば、取り立ての矛先は男の肉親などに向かうわけだが、だがその肉親を探し出すにも労力や金がかかる。

 となると債務者の男には生きていてもらったほうがよい。

 シバは気を引き締めて、寒々とした雑居ビルの内階段をのぼり始めた。

 マギサはそれに当然のようについてくる。

「おい、ついてくるのかよ」

 シバは「ついてくんな」とは言わなかった。

 先ほどのセリフでさえ、怒っているというよりは呆れが含まれていた。

 シバには、マギサから返ってくる答えなどわかりきっていたからだ。

「待っててもヒマじゃん」

 シバは当然オママゴトでヤクザをやっているわけではないのだが、マギサにはイマイチそれが伝わっていないような気持ちになった。

 マギサはいつも通り糸目をなお細くして弧を描き、ニコニコと笑っているような顔をしている。

 シバには面白いことなどひとつもないので、そんなマギサの表情を見ると呆れの感情が浮かんでくる。

 マギサとて、まさか債務者がヤクザにどつかれているところを見て楽しむわけでもあるまい。

 とは言えども、相手はマギサだ。

 こちらが予想だにしないような行動を取ったとしても、なんら不思議はない――とシバは思う。

「……オレの前に出るなよ」
「ここは『オレのうしろにいろよ。守ってやるぜ……』って言う場面じゃない?」
「頭腐ってんのか?」

 マギサは直近で恋愛が主体の少女漫画でも読んだのだろう。

 シバは己が、マギサが言うようなクサいセリフを口にするところを想像し、ひとり鳥肌を立てた。

 たしかにマギサには下手に怪我などして欲しくはない、くらいのことは常々思ってはいるが、それとこれとはシバの中では別の話であった。

「なに読んでもオレの知ったこっちゃねえけど、ヘンな趣味押しつけんな」
「ええ? カッコよくない?」
「どこが」

 フィクションを真に受けてすぐに影響されるのは、マギサの悪いところのひとつであった。

 そして古びたビルの、これまた薄汚れた階段をのぼり始めてしばらく――。

 シバの背後できゅう、とマギサの腹が鳴いた。

 マギサの悪いところのうち、もうひとつが顔を出したことで、シバは追っている債務者の男が、無策でこのビルに入ったわけではないらしいことを悟った。
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