隣にマギサ 〈連作短編〉

やなぎ怜

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 シバが借金の取り立てを首尾よく終えたころには、空は橙と紺のグラデーションを描いており、その上に白っぽい星々を瞬かせていた。

 帰路に就く多くの人間に混じって、シバも駅のプラットホームから見慣れたカラーリングの電車に乗り込んだ。

 ちょうど運よくシートに座れて……そこまでは、しっかりと覚えている。

 問題はそのあとのことだ。

 その育ちのせいか、警戒心が強く、眠気があってもなかなか寝つけないのが常であったシバだが、その日はなぜか電車内で急激な眠気に襲われて――気がついたら意識が落ちていた。

 仮に寝つけても眠りが浅いのか、先の通りに警戒心が強いせいか、少しの物音でもシバは目を覚ましてしまう。

 しかし、その日はなぜか電車のシートで深く寝入って――ゆるゆると意識が覚醒すると同時に、終点を告げるアナウンスが耳に入って脳を揺り起こした。

 降りるべき駅をとっくに乗り過ごしたことを瞬間的に察して、シバはあわててシートから腰を上げると、開いた電車の扉から駅のプラットホームへと降り立つ。

 その判断は正解であったのか、はてまた間違いであったのか――。

 ひとつたしかなのは、その駅はシバがまったく見知らぬものであったどころか――路線図にも載っていない駅だったということである。

 「やっちまった」と思うより、「やられた」とシバは思った。

 シバの頭の中で、「異界駅」という言葉がフォークダンスをしているようだった。

 「異界駅」――文字通り、ひとびとが普段暮らす世界とは別の、異世界にある駅のことである。

 電車に乗っていてなにかの拍子にその駅に迷い込んで……という怪談話がひと昔ふた昔前にネットで流行ったことをシバは知らないが、「異界駅」という言葉自体は仲間内で話される伝聞の怖い話から知識として得ていた。

 シバはプラットホームを覆う天井から下がる駅名入りの看板を見上げる。

 看板上では、シバには読みくだせない文字が、ミミズが這ったかのごとく書き綴られている。

 プラットホームの天井にある電灯が煌々と輝いているから、どうにか周囲を見渡すことはできる。

 しかし見渡しても広がっているのはぼうぼうと生い茂る草っぱらと山だけであった。

 明らかにサラダボウル・シティではない。

 サラダボウル・シティからでも山並みは見えるが、こんなに近くはない。

 日が落ちた真っ暗闇の中で、シバが降りたプラットホームだけがきっと白く輝いていることだろう。

 シバが乗っていた電車は、とっくに去って久しい。

 シバはまた「やられた」と思って、その場で頭を抱えたくなった。

 シバは「異界駅」の都市伝説は知っていたが、その都市伝説に対処法があるのかまでは知らない。

 この話をしてくれた男は最後、「異界駅」に迷い込んだ人間は未だ行方知れずである――と締めくくったとシバは記憶していた。

 「役に立たねえ」とばかりにシバは舌打ちをする。

 電灯が煌々と輝くプラットホームに、その音がよく響いたような気がした。

 一縷の望みをかけてポケットに入れていたスマートフォンを取り出す。

 が、当然のように圏外。

 「こういうときって都合よくつながってるんじゃねえのかよ」とシバはまた舌打ちをした。

 取り立てが上手くいって、上機嫌だったシバの気持ちはすでに底をついている。

 ネットに繋がらないスマートフォンの画面をタップし、なんとなくマギサの連絡先を眺める。

 しかしいつまでもそうしていても、埒が明かない。

 シバは大きな、それはそれは大きなため息をひとつ吐き出して、駅の外に出てみることにした。

 改札口を出ても、やはりそこには草っぱらが広がるだけで、獣道のような心もとない道筋が山へと通じているだけだった。

 スマートフォンのライトを点灯し、周囲を照らしてみるものの、背の高い草に邪魔をされて遠くは見通せそうにない。

 シバは三度目の舌打ちをして、いつか顔も思い出せない男が話してくれた「異界駅」の都市伝説を思い出そうとする。

 ――たしか、駅から出て線路を道なりに進むとトンネルがあって……。

 というところまで思い出して、しかし「体験者は行方不明になった」というオチも再度思い出す。

 その都市伝説を詳細に思い出したところで、今の己がこの「異界駅」から脱出するのにどれほど役に立つか――ということに気づいた。

 それでも、じっとしても仕方がないので、シバは線路を左手に、道なりに進むことにした。

 山に囲まれていることからもわかる通り、当然のように山を貫通するトンネルが見つかる。

 スマートフォンのライトをトンネルの内部へと向けるが、夜ということもあってか、出口の光が見える様子はない。

 シバは注意深くトンネルの内部を観察する。

 だれかが、あるいはなにかがいる気配はしない。

 音もない。

 シバはそこで初めて、こんなにも草っぱらが広がっているのに、虫のひとつしないことに気づいた。

 じわじわと、心臓の底から湧き立つような不安感を、舌打ちをすることでかき消そうとする。

 こういうときにマギサがいれば――。

 シバがそんなことを考え始めると、鈴の音がした。

 あわてて周囲を見回す。

 鈴の音は草っぱらをかきわけて、こちらへと近づいてくるようだった。

 リン、リン、と断続的に鳴るそれは、なにかが鈴を身につけて歩行していることを容易に想像させる。

 シバはトンネルの暗がりに身を隠すべきかどうか悩んだ。

 その一瞬の逡巡ののち、目の前に広がる背丈の大きな草が左右にかきわけられて――

「あれ? シバだ」

 マギサが現れた。

「ハアア?!」

 シバは、見知った顔が出てきたことによる安堵感や、そんな感情を瞬時に抱いたことに対する羞恥心といったもので心をかき乱される。

 その果てに出てきたのが、大きなため息とも、威嚇のような呼気ともとれる声だった。

「は? おま、なん――」

 シバは混乱しつつも目ざとくマギサを観察する。

 薄茶色の髪に、開いているんだかいないんだかわからない糸目。ローティーンほどしかない身長――。

 どこからどう見てもシバの知るマギサだった。

 しかし、今のマギサはその小さな背にネイビーカラーの、縦長のリュックサックを背負っている。

 そしてそのリュックサックの脇には、大きな銀色の鈴がついていた。

 先ほどシバが耳にした鈴の音は、これらしい。

「シバも山登りにきたの?」
「……んなわけあるか」

 さしものシバも、いつもの威勢のよさをなくしており、マギサに返す言葉も若干力ない。

「そうだよね。そんな軽装で山登りしないよね!」

 しかしマギサはそんなシバの様子に気づいているのかいないのかわからない顔をして、納得したとばかりにうんうんと頷く。

 そのマギサのしたり顔にも似た表情を見て、シバはちょっとイラっときた。

「お前……そんな趣味あったわけ?」
「趣味……?」

 シバが気を取り直してそう問えば、マギサは首をかしげた。

「この装備は『怪異』を食べるためのものだよ!」

 しかしすぐにはつらつと宣言する。

 そこでシバは今己が「異界駅」とやらに囚われていることを思い出した。

「駅、食うのか」
「駅なんてあるの?」
「向こうにあるの、見えるだろ」

 シバがマギサの左向こうにある駅を指差せば、マギサは素直にそちらを向く。

 シバが降り立ってしまった駅は、相変わらず夜の暗闇の中にあっても電灯を煌々と輝かせていたから、見つけるのは容易だろう。

 だがマギサは今気づいたとばかりに、「本当だ」と声を上げる。

「やったー! 夕ごはん!」

 マギサの声に呼応するように、マギサの腹からきゅう、という音がした。

 マギサがそう言うからには、あの駅には「怪異」があるらしい。

 食い意地だけは妙に張っているマギサが、駅を見て「夕ごはん」と言ったのだから間違いないだろう。

 マギサと出会ったことで、自分は「異界駅」などにはきていなかったのではないか――というシバの憶測は瞬時に消失する。

 シバは、マギサを見て雲散霧消した不安感のことを思うと、なんだか気恥ずかしい気持ちにさせられて、マギサの顔を見れなくなる。

 そうしているあいだにも、マギサはウキウキとした様子で、リュックサックについた鈴を鳴らしながら駅へと向かって行く。

 シバはその場に留まる理由もなかったので、そんなマギサのあとをついて行くことにした。


 その後、マギサはリュックサックに入れていたコンロつきの小型ガスバーナーとコッヘルを用いて、料理をし始めた。

 し始めたのだが、シバにはコッヘルの中にはなにも見えなかった。

 しかし残念ながらシバにはもうツッコミをする余裕がなかったので、マギサが「怪異」を調理しているらしい場面を見守ることしかできなかった。
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