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「お兄様のその頭じゃ目立つでしょう? それに、わたくしを狙うなんて輩はそうそういません。お母様の心配性にも困ったものだわ」
戦力外通告だ。俺は異母妹のマリルーから押し付けられた、くたびれた帽子を流れで受け取る。なにか言いたげな目でこちらを見上げるマリルーの視線に従って、俺は帽子を目深にかぶった。
それでも肩よりも長い白髪は――ひとつに束ねてはいるが――目立つ。俺のようなまだ老齢とはとうてい言い難い男が総白髪なのだ。先の戦争に出征した者ならば、それが意味することを瞬時に察することができるだろう。
とは言え、マリルーが疎んでいるのはそのことではない。思春期に入って鬱陶しくなってきた母親――セヴリーヌのお目付け役だと俺のことを認識しているから、同じように煙たがっているだけだ。
「母親にアレコレと口を挟まれなくたって、自分は立派にできるのよ」……そう言いたげに俺のことをきつい目で見るマリルーに、ため息をついてやりたくなった。
セヴリーヌもそうだが、マリルーも、俺がこんなことをする以外に仕事がないとでも思っているのだろうか? ……もちろん、前倒しにできる分の仕事は全部片付けてここにいる。それでも領地を留守にしていることには変わりがなかった。
しかしここで、そのことに腹を立てるつもりはなかった。セヴリーヌやマリルーに、いくらそのことを説いても理解される気がまるでしなかったからだ。
それに――と俺は隣を見る。
「さ、あなたもそれを被って!」
マリルーが俺の隣に入る先生にも、女物の――やはり古ぼけた印象のある――帽子を押し付ける。先生も特に文句を言うことはなく、しばらくしげしげと帽子を眺めたあと、それを軽く頭に乗せて被った。
たしかに先生の銀の髪も目立つ。そうでなくても人形のように整った美貌は、先ほどからちらちらと男たちの視線を頂戴していた。
先生がちらりと俺を見上げる。まるで、「これでいいか」と言わんばかりに。俺は先生の帽子に手をやって、その美貌を隠すように目深に被り直させた。
「それじゃあ終わるまでそこらへんをぶらぶらしていたらいいわ」
「それだと俺がセヴリーヌに怒られる」
「お母様なんて怖くないわよ」
そりゃあ、溺愛されているマリルーからすれば、セヴリーヌの持つ権力なんぞは鼻で笑えるほどに怖くはないのだろう。しかしそれが世間知らずな認識から出ている言葉なのか、自分が愛されていることをわかった上で発せられているセリフなのかまでは、わからなかった。……マリルーの場合、前者であっても特段おどろくべきことではないだろう。
意気地なしとばかりに呆れたような目で俺を見るマリルーに、なにかこれ以上言葉を重ねる気にはなれなかった。とにかくマリルーにとって、今の俺は鬱陶しい小言を言う兄貴なのだ。その認識がすぐに変わるとは思えなかったし、変えるための労力を払う気にもなれない。
「妙な人間が近づいてきたら、うしろに下がるんだぞ」
「そんな人いないわよ!」
俺は心の中で大きなため息をひとつ吐くと、先生に向き直って「あっちに行こう」と告げる。
今回の王都入りにも、先生は着いてきた。それを俺は鬱陶しいとは微塵も思わず、むしろうれしく受け止めている。
「お前に着いて行きたいんだが……いいか?」
先生の言葉は、まるで俺と離れている時間を惜しむかのように聞こえた。甘美に俺の心に響くその問いに、否と答えられるはずもなかった。これは都合のいい解釈なのか、それとも……。
その場では先生の真意を問うことはしなかった。しかし時間が経った今となっては、あのときに問い質せばよかったのではないかと思い始めている。
……いや、きちんとその真意を問い質すべきだ。俺に対して、恋愛感情を抱いているのか、あるいは抱ける可能性はあるのかどうか。もし、恋愛感情を抱けないのだとしても、俺のそばにいてくれるかどうか――。
「そばにいて欲しい」。そのたったひとことを告げるための決意を固めるのに、たっぷりと時間を取ってしまったが、すでに俺の心は決まっていた。
「そばにいて欲しい」。それは、どうとでも取れる言葉だと思う。けれども先生を追い込むようなセリフはさすがに告げられなくて、結局のところ意気地なしな俺は逃げ場を用意してしまう。それは先生の逃げ場であり、俺の逃げ場でもあった。
「そばにいて欲しい」。妻としてでなくてもいい。今まで通り、先生のままそばにいてくれるのなら、それはそれでよかった。
何度も何度も心の中で短い言葉を告げる練習をして、いつ切り出すべきか頭を悩ませる。少なくとも、今はそうではないとわかっていた。今考えるべきは――残念なことに――マリルーのことである。せめて、マリルーが安全にバザーを終えるのを見届けてから、言葉を言おうと決めた。
チャリティーバザーが始まれば、様々な人間が往来を行き交う。マリルーはその強気な性格に反して可憐で完璧な笑みを浮かべて接客をしている。それを俺と先生は往来の邪魔にならない場所から見守る。……ハッキリ言って、手持無沙汰で暇なのだが、こればかりは仕方がない。この場を離れるわけにはいかないのだから。
あえて建物の陰にいるからか、俺たちの髪を物珍しげに見る人間はいなかった。俺がバケモノだと気づく人間も。
当たり前だが、マリルーには既にあからさまな護衛がついている。その護衛をつけた上で、セヴリーヌはバケモノである俺にもマリルーを守れと言ってきたのだ。つくづく、俺たちがいる意味を考え込んでしまう日だ。
「ジル」
先生が小声で俺を呼んだ。その意味を俺はすぐに察して、マリルーの周囲に視線を巡らせる。
マリルーが手伝っている出店の人の輪に、ひとり挙動不審な男がいた。左手を包帯で巻いているが、それが不自然に膨らんでいるように見える。ギプスをしているのだ、と言い訳をされれば、納得してしまうような。
刃物か拳銃でも隠しているのかもしれない。動きも妙に周囲を気にかけて、こそこそとしているように映る。
「先生は――」
「行こう、ジル」
「先生はここで待っていてくれ」と言い切る前に、先生は物陰からスッと出て行ってしまう。俺はあわててそれを追いかける。
「俺が声をかけるから」
女性だと甘く見て逆上するような輩であれば、先生が危険だ。そう思い俺は先生の肩をうしろへ押した。先生は水晶のような瞳で俺を見た。どこか心配そうな色がそこには見える。「大丈夫だ」。俺は先生へそう言って、不審な男へと近づいた。
「すみません」
声をかけられた男は、あからさまに視線をそらしたが、ぎょろりとした目でもう一度俺を見て、それからびっくりしたような顔になる。年齢的には先の戦争で従軍していたと見て間違いないだろう。となれば、おどろいたのは俺の髪を見たからか。
「すみません。その手を見せてもらってもいいですか?」
男はぎょろりとした――一種、病的にも見える目を動揺に揺らす。どうするべきか悩んでいるように、何度か肩を向ける方向を変える。あからさまな逡巡の色を見てとり、これは危険かもしれないと俺は判断する。
「すみません」
そう言って男の不自然に膨らんだ、包帯が巻かれた左手を押さえようとする。しかし、それは男が身を翻す方が早かった。俺の手は、空を切る。そして――。
「て、て、て、て、天罰だっ!」
異様に震えた声。どもる言葉。ぎょろりとした一種病的な目。右手にはライター、左手には古ぼけた手投げ弾――。これから起こることをなにひとつ理解していない群衆は、変人を見つけた目で男を見た。
有象無象のざわめきの中で、ライターが火を点ける音だけが、妙に俺の耳に残った。
手投げ弾が炸裂する音は、腹に響くようだった。
俺の鼻は腐臭と鉄くさい血の香りを捉えた。そのうち、腐臭だけはただの幻覚だった。俺の視界は戦場とオーバーラップして正しく現実を認識できない。
どっと周囲から悲鳴が上がり、子供が泣き叫ぶ声がする。しかし男が放った――いや、放り損ねた手投げ弾の犠牲者は、ひとりだけだった。
肉片が飛び散った血の海の中で、手足がちぎれた先生がただ倒れ伏していた。
戦力外通告だ。俺は異母妹のマリルーから押し付けられた、くたびれた帽子を流れで受け取る。なにか言いたげな目でこちらを見上げるマリルーの視線に従って、俺は帽子を目深にかぶった。
それでも肩よりも長い白髪は――ひとつに束ねてはいるが――目立つ。俺のようなまだ老齢とはとうてい言い難い男が総白髪なのだ。先の戦争に出征した者ならば、それが意味することを瞬時に察することができるだろう。
とは言え、マリルーが疎んでいるのはそのことではない。思春期に入って鬱陶しくなってきた母親――セヴリーヌのお目付け役だと俺のことを認識しているから、同じように煙たがっているだけだ。
「母親にアレコレと口を挟まれなくたって、自分は立派にできるのよ」……そう言いたげに俺のことをきつい目で見るマリルーに、ため息をついてやりたくなった。
セヴリーヌもそうだが、マリルーも、俺がこんなことをする以外に仕事がないとでも思っているのだろうか? ……もちろん、前倒しにできる分の仕事は全部片付けてここにいる。それでも領地を留守にしていることには変わりがなかった。
しかしここで、そのことに腹を立てるつもりはなかった。セヴリーヌやマリルーに、いくらそのことを説いても理解される気がまるでしなかったからだ。
それに――と俺は隣を見る。
「さ、あなたもそれを被って!」
マリルーが俺の隣に入る先生にも、女物の――やはり古ぼけた印象のある――帽子を押し付ける。先生も特に文句を言うことはなく、しばらくしげしげと帽子を眺めたあと、それを軽く頭に乗せて被った。
たしかに先生の銀の髪も目立つ。そうでなくても人形のように整った美貌は、先ほどからちらちらと男たちの視線を頂戴していた。
先生がちらりと俺を見上げる。まるで、「これでいいか」と言わんばかりに。俺は先生の帽子に手をやって、その美貌を隠すように目深に被り直させた。
「それじゃあ終わるまでそこらへんをぶらぶらしていたらいいわ」
「それだと俺がセヴリーヌに怒られる」
「お母様なんて怖くないわよ」
そりゃあ、溺愛されているマリルーからすれば、セヴリーヌの持つ権力なんぞは鼻で笑えるほどに怖くはないのだろう。しかしそれが世間知らずな認識から出ている言葉なのか、自分が愛されていることをわかった上で発せられているセリフなのかまでは、わからなかった。……マリルーの場合、前者であっても特段おどろくべきことではないだろう。
意気地なしとばかりに呆れたような目で俺を見るマリルーに、なにかこれ以上言葉を重ねる気にはなれなかった。とにかくマリルーにとって、今の俺は鬱陶しい小言を言う兄貴なのだ。その認識がすぐに変わるとは思えなかったし、変えるための労力を払う気にもなれない。
「妙な人間が近づいてきたら、うしろに下がるんだぞ」
「そんな人いないわよ!」
俺は心の中で大きなため息をひとつ吐くと、先生に向き直って「あっちに行こう」と告げる。
今回の王都入りにも、先生は着いてきた。それを俺は鬱陶しいとは微塵も思わず、むしろうれしく受け止めている。
「お前に着いて行きたいんだが……いいか?」
先生の言葉は、まるで俺と離れている時間を惜しむかのように聞こえた。甘美に俺の心に響くその問いに、否と答えられるはずもなかった。これは都合のいい解釈なのか、それとも……。
その場では先生の真意を問うことはしなかった。しかし時間が経った今となっては、あのときに問い質せばよかったのではないかと思い始めている。
……いや、きちんとその真意を問い質すべきだ。俺に対して、恋愛感情を抱いているのか、あるいは抱ける可能性はあるのかどうか。もし、恋愛感情を抱けないのだとしても、俺のそばにいてくれるかどうか――。
「そばにいて欲しい」。そのたったひとことを告げるための決意を固めるのに、たっぷりと時間を取ってしまったが、すでに俺の心は決まっていた。
「そばにいて欲しい」。それは、どうとでも取れる言葉だと思う。けれども先生を追い込むようなセリフはさすがに告げられなくて、結局のところ意気地なしな俺は逃げ場を用意してしまう。それは先生の逃げ場であり、俺の逃げ場でもあった。
「そばにいて欲しい」。妻としてでなくてもいい。今まで通り、先生のままそばにいてくれるのなら、それはそれでよかった。
何度も何度も心の中で短い言葉を告げる練習をして、いつ切り出すべきか頭を悩ませる。少なくとも、今はそうではないとわかっていた。今考えるべきは――残念なことに――マリルーのことである。せめて、マリルーが安全にバザーを終えるのを見届けてから、言葉を言おうと決めた。
チャリティーバザーが始まれば、様々な人間が往来を行き交う。マリルーはその強気な性格に反して可憐で完璧な笑みを浮かべて接客をしている。それを俺と先生は往来の邪魔にならない場所から見守る。……ハッキリ言って、手持無沙汰で暇なのだが、こればかりは仕方がない。この場を離れるわけにはいかないのだから。
あえて建物の陰にいるからか、俺たちの髪を物珍しげに見る人間はいなかった。俺がバケモノだと気づく人間も。
当たり前だが、マリルーには既にあからさまな護衛がついている。その護衛をつけた上で、セヴリーヌはバケモノである俺にもマリルーを守れと言ってきたのだ。つくづく、俺たちがいる意味を考え込んでしまう日だ。
「ジル」
先生が小声で俺を呼んだ。その意味を俺はすぐに察して、マリルーの周囲に視線を巡らせる。
マリルーが手伝っている出店の人の輪に、ひとり挙動不審な男がいた。左手を包帯で巻いているが、それが不自然に膨らんでいるように見える。ギプスをしているのだ、と言い訳をされれば、納得してしまうような。
刃物か拳銃でも隠しているのかもしれない。動きも妙に周囲を気にかけて、こそこそとしているように映る。
「先生は――」
「行こう、ジル」
「先生はここで待っていてくれ」と言い切る前に、先生は物陰からスッと出て行ってしまう。俺はあわててそれを追いかける。
「俺が声をかけるから」
女性だと甘く見て逆上するような輩であれば、先生が危険だ。そう思い俺は先生の肩をうしろへ押した。先生は水晶のような瞳で俺を見た。どこか心配そうな色がそこには見える。「大丈夫だ」。俺は先生へそう言って、不審な男へと近づいた。
「すみません」
声をかけられた男は、あからさまに視線をそらしたが、ぎょろりとした目でもう一度俺を見て、それからびっくりしたような顔になる。年齢的には先の戦争で従軍していたと見て間違いないだろう。となれば、おどろいたのは俺の髪を見たからか。
「すみません。その手を見せてもらってもいいですか?」
男はぎょろりとした――一種、病的にも見える目を動揺に揺らす。どうするべきか悩んでいるように、何度か肩を向ける方向を変える。あからさまな逡巡の色を見てとり、これは危険かもしれないと俺は判断する。
「すみません」
そう言って男の不自然に膨らんだ、包帯が巻かれた左手を押さえようとする。しかし、それは男が身を翻す方が早かった。俺の手は、空を切る。そして――。
「て、て、て、て、天罰だっ!」
異様に震えた声。どもる言葉。ぎょろりとした一種病的な目。右手にはライター、左手には古ぼけた手投げ弾――。これから起こることをなにひとつ理解していない群衆は、変人を見つけた目で男を見た。
有象無象のざわめきの中で、ライターが火を点ける音だけが、妙に俺の耳に残った。
手投げ弾が炸裂する音は、腹に響くようだった。
俺の鼻は腐臭と鉄くさい血の香りを捉えた。そのうち、腐臭だけはただの幻覚だった。俺の視界は戦場とオーバーラップして正しく現実を認識できない。
どっと周囲から悲鳴が上がり、子供が泣き叫ぶ声がする。しかし男が放った――いや、放り損ねた手投げ弾の犠牲者は、ひとりだけだった。
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