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家の中がぐちゃぐちゃになった。わたしが小学校五年生のときのことだ。
それは突然のできごとではなかった。
ある日唐突に、気がついたらそうなっていた。そんな感じだ。
理由は単純で、原因は明白だった。
お母さんが宗教に走ったから。一文で言い切れてしまう、単純な理由。
世の中にはそうやって家の中がおかしくなってしまったひとはたくさんいるのだと、そのときになって知ったのだが、それはわたしの心に与えたダメージを癒す慰めにもならなかった。
被害者の会とやらにもお父さんに連れて行かれたことはあったが、それは一度きりの話。
わたしにとってあの場はイヤな思い出を無限に思い起こさせる、苦痛の場でしかなかったからだ。
それは大なり小なり、お父さんにとっても同じことだったのだろう。
会に足しげく通っていたのは最初のうちで、じきにそれもやめてしまった。
どういった心境の変化があったのかは、わたしには推し量ることしかできないが、きっとお父さんにもパワーはなかったのだろう。わたしと同じように。
パワーというあいまいな言い方をしたが、それはやる気とか、気力とかにも言い換えができると思う。
それは心の持つ力だ。なにかを体にさせようとする力だ。
お母さんはそれをお父さんやわたしから、根こそぎうばっていってしまった。
結末は、こうだ。
オフセだキシャだとお母さんはたくさんのお金を赤の他人に渡してしまったので、当然のようにお父さんは離婚という道を選んだ。
わたしは、そのことの成り行きを黙って見ているだけだった。
お父さんはわたしになにも聞かなかった。お母さんもなにも言わなかった。そしてわたしも。
わたしは、それをすこしだけ恨んでいる。
けれども、そうする資格はわたしにはないのだということも、ちゃんと理解していた。
なぜならばこうして家族がバラバラになってしまった原因は、わたしにあるのだから。
そんな、天地がひっくり返るようなできごとがあっても、毎日は続いて行く。憎らしいことに。
お父さんはわたしを田舎の親戚に預けた。遠い親戚だ。たぶん、お葬式で会ったことがあるのかないのか、それくらいの関係の。
歳のころは子供のわたしにはよくわからなかった。でも、若くない。おじいさんおばあさんという呼び名に、届くか届かないかくらい。
親戚のひとは冷たくはなかったけれど、温かく迎え入れてくれたわけでもない。
あきらかに困惑していて、それが手に取るように伝わってきた。
たぶん、お父さんが無理を言ったんだと思う。それくらいの事情を察するくらいは、世の中を知らないわたしにだってできた。親戚のひとは、パッと見た感じ、善良そうであったから。
親戚のひとの家は大きな平屋建てで、玄関がとっても広かった。同じくらい、屋敷と呼びたくなるような家はだだっ広かった。
けれどもお金を持っているというわけではないらしい。田舎では、こんなもんなんだそうだ。
成長するにつれ手狭に感じるようになったマンション住まいからすると、それはちょっとびっくりするような「常識」ってやつだった。
びっくりしたこと、と言えば隣家がひどく遠いことにもおどろいた。
隣の騒音にイラつくことなんてないんだろうなと思うと、それはちょっとうらやましく感じると同時に、さみしいような、怖いような気にもなった。
もうひとつ、びっくりしたのはここには住む場所によって「派閥」のようなものがあるということだった。
再開発されてタケノコのようにぽこぽこと建つマンション住まいのひとと、古くからこの地に根ついているひととのあいだには、埋めがたい溝があるらしい。
なんでそんなものがあるのかは、よくわからない。
とにかくそういう溝ってやつは、当たり前だが子供にも伝染していて、学校でもこのふたつの派閥が日々バチバチと火花を散らしているのであった。
わたしは、そのどちらにも入れなかった。
新興住宅組からは村の人間とみなされて、村組からは都会っ子として疎外された。
わたしの住んでいたところはそんな都会じゃないんだけどな、と思いつつ、わたしはどのグループにも所属できなかったことに対しては、ちょっとホッとした。
輪から外れたり、疎外されたりするのは慣れている。
前の学校でだって、わたしには友達はひとりもいなかった。昔から、そうだ。
だから、ひとりでいることはわたしにとっては大した苦痛じゃなかった。
でも、まあ、先生からグループを作れって言われるのは、困ってしまうからイヤだけれど。
親戚のひとはそんなわたしの立場を知らないようだ。
まだ困惑の残る顔で、でもニコニコとした様子で、「学校はどう?」って無邪気に聞いてくるから。たぶん、わたしがどういう立場に置かれているかは知る由もないのだろう。
それはちょっと意外だった。偏見かもしれないけれど、田舎はウワサが広まるのが早い印象だったから。
それは、あるていどまでは事実のようだった。わたしがこちらにきた理由は、早いうちから広まっていたようだから。
「田舎に、療養にきた体の悪い女の子」でも「本当は親が離婚したからきたんだって」。……そんな感じ。
そのウワサはあるていどまでは真実だったし、半分はウソだった。
ウワサだから、まあそんなものなんだろう。
お父さんからは、はじめのうちは毎日電話がきた。スマホは持たされていないので、親戚の家の固定電話にかかってくる。
けれどもそれも日を追うごとに間隔があくようになった。どうやら、仕事が忙しいらしい。
わたしはそれを都合がいいと思った。だって、毎日なんてしゃべること、思いつかないから。
けれども心は身勝手なもので、その日の夜に電話がこないとわかると、わたしはちょっと傷つくのだった。
さみしくて冷たい夜は、なんとなく、この田舎に捨てられたような気になってしまう。
実際のところお父さんは養育費としていくらか親戚に支払っているようだし、親戚のひともわたしの面倒をちゃんと見てくれている。
でも、夜ひとり布団に入っていると、世界でひとりぼっちになってしまったような気になるのだ。
――こういうのを、「自意識過剰」って言うんだろうな。
そうやってどうにかわたしの心に言い聞かせるけれども、さみしさはつのっていくばかりだった。
そんなわけで、学校から帰ってからや、休みの日は本当にすることがない。
親戚の家にはゲーム機のたぐいがまったくなかったし、小説はやたらと古ぼけたものばかりで、わたしの趣味にはあわなかった。
わたしが持っていたゲーム機はもとの家に置いてきてしまっていたし、いくつか持ってきた小説もそうそうに読み終わって、読み返すのにも飽きてしまった。
周囲にあるのは田んぼと山と住宅街。コンビニは歩いて二〇分。ぜんぜん、コンビニエンスじゃない。
けれども本当に本当に、することがないので、わたしはそこらの小さな山の中を歩き回るようになった。
でもハイキングって様相ではない。散歩ていどに山のたもとをウロウロと歩き回るのが関の山だった。
ひたすら歩いて、地面に視線を落として、それでときたま背景の山に目をやる。
そうやって無限にあるような時間を潰すという、ひどく無意味な行為をするのが、わたしの日課となっていた。
そのころはちょうど暇に負けて山中を「新規開拓」と銘打って回っていた。
数日かけてようやくアタリと呼べるような、ちょっと開けた場所を見つけたのだ。
そこは花畑ができていて、付属品として虫がたくさんいたが、そっちのほうはさしてわたしには魅力的なものとは映らなかった。
「花畑かあ」
ひとりぼっちでいると、ひとりごとが多くなる。
わたしは公園でもあればいいのにという気持ちから、落胆の声を上げた。
もう、公園で遊びほうけるような歳ではないけれども、とてつもなく暇でしかたがない今なら、きっと面白おかしく楽しめるに違いない。
けれどもそういうときに限って、欲しいものは現れてくれない。
そんなうまくいかない人生に思いをはせつつきびすを返そうとしたところ、クスクスという忍び笑いが耳に入って、わたしは必要以上にびっくりしてしまった。
肩が跳ねたのをちょっと恥ずかしく思いながら周囲を見渡すと、すぐそばに男の子が立っていて、わたしは二度、びっくりしたのだった。
「だれ?」
思わず、ぶっきらぼうにたずねてしまう。言葉が口を出たあとで失礼だったかなと思ったが、目の前の男の子は特に気分を害したような様子は見せなかった。
「ヨタロ」
「それ、名前?」
「うん」
ヨタロは――ちょっとみないくらい、きれいだった。
さらさらの髪はミルクティーみたいな淡い茶色で、肌も妙に色白かったが、それが彼の神秘的な雰囲気に一役買っているようだった。
手足もひょろりと細長いので、全体的に淡い色合いとあいまって、なんとなく不鮮明で、物足りないような、頼りないような、そんな印象を受ける。
瞳の色もよくよく見ると薄茶色のようだ。ただ、木陰がかかっているので、パッと見わたしの目の色と大差はないように見える。
鼻は小さくて筋が通っている。
ちょっと、うらやましいくらい、ヨタロは顔の形が整っていた。
「きみは?」
「……葉月」
もったいぶったわけではなかったが、正体のわからないヨタロに対し名前を言ってもいいものかどうか迷った末、下の名前だけ答える。
ヨタロは大人ではないからだいじょうぶかなとも思ったのはたしかだ。
歳のころは変わらないように見えたし、それに身長はわたしのほうが上だった。腕力でも勝てるような気がした。そういう打算を経た上で、わたしはヨタロに名前を言ったのだった。
さして珍しい名前でもないし、そもそもここのあたりに住んでいるひとならば、みんなわたしの名前を知っている。
……そこまで考えたところで、なぜヨタロはわたしの名前を知らなかったのか、不思議に思った。
「いい名前だね」
「そう?」
「葉っぱの『葉』にお月さまの『月』?」
「そうだよ。なんでそんなこと聞くの?」
「おれも名前に葉っぱがつくから、おんなじだなと思って」
「『ヨタロ』じゃないの?」
「ヨータローなんだけど、みんな『ヨタロ』って呼ぶんだ」
わたしは「ふーん」と気のない返事をする。実際に、ヨタロの本名がどうであるとかいう情報は、今のわたしにとってはどうでもいいことであった。
それでもすることのないわたしはヨタロをていのいい暇つぶしの相手に選んだ。思い返せばひどく傲慢な選択であるが、そのときのわたしはとにかく暇で暇で仕方がなく、死んでしまいそうなほどに退屈だったのだ。
「ヨタロの家ってどこ? 住宅街?」
「山の中だよ」
「山の中?」
「うん」
別荘でもあるのかな、とわたしは思った。それで、普段は村のひとたちとは交流がないとか。
わたしは無意識のうちに都合のいい妄想をすることで、ヨタロに対する得体の知れなさを打ち消そうとしていたのかもしれない。
一方でそういうことを深く突っ込んで聞くのははばかられた。
なんとなく、失礼なような気がしたのもあるし、わたしだって家庭の事情に首を突っ込まれたくなかったから聞かなかったのもある。
けれどもそういうことはヨタロのほうからペラペラとしゃべってくれた。
ヨタロもまた、わたしと同じようにひとと話すことに飢えていたのかもしれない。
「体が弱くてあんまり家から出してもらえないんだ」
「今は出てるじゃん」
「抜け出してきたんだよ」
「危なくない?」
「山の中のことはよく知ってるから……」
「ふーん……」
ヨタロが自分の事情を話したことで、わたしはちょっとヒヤリとした。
この流れはよくない、と思ったからだ。
こうなると次は「葉月は?」なんて聞かれたりする。よくある流れだ。
……けれどもヨタロはそんなありきたりな言葉を口にはしなかった。
ただ、「普段もここにいるの?」とか「山の中には慣れているの?」とか、あまりわたし自身については聞いてはこなかった。
唯一のそういう質問は、年齢の話題くらいだろうか。
わたしが今年で一二になると答えると、ヨタロも「同じだ」と笑った。
その笑い方にちょっとだけ親近感を持った。なんだか、仲間を見つけられてうれしそうな、そういう笑い方だったから。
気がつけばわたしたちは日暮れの時間になるまで話しこんでいた。
なにを話したのかは、正直に言って覚えていない。それくらい他愛なく、どうでもいい話をしたのだと思う。
「もう帰らなきゃ」
ヨタロのそのつぶやきは、どこかひどくさみしげで、悲しそうな響きを伴っていた。
「また会える?」
わたしは思わずそう言っていた。
ヨタロはニコッと笑って、
「じゃあ、また明日、ここで」
……渋々、といった風でもなくて、心底それを待ち望んでいるような声で、そう言った。
それは突然のできごとではなかった。
ある日唐突に、気がついたらそうなっていた。そんな感じだ。
理由は単純で、原因は明白だった。
お母さんが宗教に走ったから。一文で言い切れてしまう、単純な理由。
世の中にはそうやって家の中がおかしくなってしまったひとはたくさんいるのだと、そのときになって知ったのだが、それはわたしの心に与えたダメージを癒す慰めにもならなかった。
被害者の会とやらにもお父さんに連れて行かれたことはあったが、それは一度きりの話。
わたしにとってあの場はイヤな思い出を無限に思い起こさせる、苦痛の場でしかなかったからだ。
それは大なり小なり、お父さんにとっても同じことだったのだろう。
会に足しげく通っていたのは最初のうちで、じきにそれもやめてしまった。
どういった心境の変化があったのかは、わたしには推し量ることしかできないが、きっとお父さんにもパワーはなかったのだろう。わたしと同じように。
パワーというあいまいな言い方をしたが、それはやる気とか、気力とかにも言い換えができると思う。
それは心の持つ力だ。なにかを体にさせようとする力だ。
お母さんはそれをお父さんやわたしから、根こそぎうばっていってしまった。
結末は、こうだ。
オフセだキシャだとお母さんはたくさんのお金を赤の他人に渡してしまったので、当然のようにお父さんは離婚という道を選んだ。
わたしは、そのことの成り行きを黙って見ているだけだった。
お父さんはわたしになにも聞かなかった。お母さんもなにも言わなかった。そしてわたしも。
わたしは、それをすこしだけ恨んでいる。
けれども、そうする資格はわたしにはないのだということも、ちゃんと理解していた。
なぜならばこうして家族がバラバラになってしまった原因は、わたしにあるのだから。
そんな、天地がひっくり返るようなできごとがあっても、毎日は続いて行く。憎らしいことに。
お父さんはわたしを田舎の親戚に預けた。遠い親戚だ。たぶん、お葬式で会ったことがあるのかないのか、それくらいの関係の。
歳のころは子供のわたしにはよくわからなかった。でも、若くない。おじいさんおばあさんという呼び名に、届くか届かないかくらい。
親戚のひとは冷たくはなかったけれど、温かく迎え入れてくれたわけでもない。
あきらかに困惑していて、それが手に取るように伝わってきた。
たぶん、お父さんが無理を言ったんだと思う。それくらいの事情を察するくらいは、世の中を知らないわたしにだってできた。親戚のひとは、パッと見た感じ、善良そうであったから。
親戚のひとの家は大きな平屋建てで、玄関がとっても広かった。同じくらい、屋敷と呼びたくなるような家はだだっ広かった。
けれどもお金を持っているというわけではないらしい。田舎では、こんなもんなんだそうだ。
成長するにつれ手狭に感じるようになったマンション住まいからすると、それはちょっとびっくりするような「常識」ってやつだった。
びっくりしたこと、と言えば隣家がひどく遠いことにもおどろいた。
隣の騒音にイラつくことなんてないんだろうなと思うと、それはちょっとうらやましく感じると同時に、さみしいような、怖いような気にもなった。
もうひとつ、びっくりしたのはここには住む場所によって「派閥」のようなものがあるということだった。
再開発されてタケノコのようにぽこぽこと建つマンション住まいのひとと、古くからこの地に根ついているひととのあいだには、埋めがたい溝があるらしい。
なんでそんなものがあるのかは、よくわからない。
とにかくそういう溝ってやつは、当たり前だが子供にも伝染していて、学校でもこのふたつの派閥が日々バチバチと火花を散らしているのであった。
わたしは、そのどちらにも入れなかった。
新興住宅組からは村の人間とみなされて、村組からは都会っ子として疎外された。
わたしの住んでいたところはそんな都会じゃないんだけどな、と思いつつ、わたしはどのグループにも所属できなかったことに対しては、ちょっとホッとした。
輪から外れたり、疎外されたりするのは慣れている。
前の学校でだって、わたしには友達はひとりもいなかった。昔から、そうだ。
だから、ひとりでいることはわたしにとっては大した苦痛じゃなかった。
でも、まあ、先生からグループを作れって言われるのは、困ってしまうからイヤだけれど。
親戚のひとはそんなわたしの立場を知らないようだ。
まだ困惑の残る顔で、でもニコニコとした様子で、「学校はどう?」って無邪気に聞いてくるから。たぶん、わたしがどういう立場に置かれているかは知る由もないのだろう。
それはちょっと意外だった。偏見かもしれないけれど、田舎はウワサが広まるのが早い印象だったから。
それは、あるていどまでは事実のようだった。わたしがこちらにきた理由は、早いうちから広まっていたようだから。
「田舎に、療養にきた体の悪い女の子」でも「本当は親が離婚したからきたんだって」。……そんな感じ。
そのウワサはあるていどまでは真実だったし、半分はウソだった。
ウワサだから、まあそんなものなんだろう。
お父さんからは、はじめのうちは毎日電話がきた。スマホは持たされていないので、親戚の家の固定電話にかかってくる。
けれどもそれも日を追うごとに間隔があくようになった。どうやら、仕事が忙しいらしい。
わたしはそれを都合がいいと思った。だって、毎日なんてしゃべること、思いつかないから。
けれども心は身勝手なもので、その日の夜に電話がこないとわかると、わたしはちょっと傷つくのだった。
さみしくて冷たい夜は、なんとなく、この田舎に捨てられたような気になってしまう。
実際のところお父さんは養育費としていくらか親戚に支払っているようだし、親戚のひともわたしの面倒をちゃんと見てくれている。
でも、夜ひとり布団に入っていると、世界でひとりぼっちになってしまったような気になるのだ。
――こういうのを、「自意識過剰」って言うんだろうな。
そうやってどうにかわたしの心に言い聞かせるけれども、さみしさはつのっていくばかりだった。
そんなわけで、学校から帰ってからや、休みの日は本当にすることがない。
親戚の家にはゲーム機のたぐいがまったくなかったし、小説はやたらと古ぼけたものばかりで、わたしの趣味にはあわなかった。
わたしが持っていたゲーム機はもとの家に置いてきてしまっていたし、いくつか持ってきた小説もそうそうに読み終わって、読み返すのにも飽きてしまった。
周囲にあるのは田んぼと山と住宅街。コンビニは歩いて二〇分。ぜんぜん、コンビニエンスじゃない。
けれども本当に本当に、することがないので、わたしはそこらの小さな山の中を歩き回るようになった。
でもハイキングって様相ではない。散歩ていどに山のたもとをウロウロと歩き回るのが関の山だった。
ひたすら歩いて、地面に視線を落として、それでときたま背景の山に目をやる。
そうやって無限にあるような時間を潰すという、ひどく無意味な行為をするのが、わたしの日課となっていた。
そのころはちょうど暇に負けて山中を「新規開拓」と銘打って回っていた。
数日かけてようやくアタリと呼べるような、ちょっと開けた場所を見つけたのだ。
そこは花畑ができていて、付属品として虫がたくさんいたが、そっちのほうはさしてわたしには魅力的なものとは映らなかった。
「花畑かあ」
ひとりぼっちでいると、ひとりごとが多くなる。
わたしは公園でもあればいいのにという気持ちから、落胆の声を上げた。
もう、公園で遊びほうけるような歳ではないけれども、とてつもなく暇でしかたがない今なら、きっと面白おかしく楽しめるに違いない。
けれどもそういうときに限って、欲しいものは現れてくれない。
そんなうまくいかない人生に思いをはせつつきびすを返そうとしたところ、クスクスという忍び笑いが耳に入って、わたしは必要以上にびっくりしてしまった。
肩が跳ねたのをちょっと恥ずかしく思いながら周囲を見渡すと、すぐそばに男の子が立っていて、わたしは二度、びっくりしたのだった。
「だれ?」
思わず、ぶっきらぼうにたずねてしまう。言葉が口を出たあとで失礼だったかなと思ったが、目の前の男の子は特に気分を害したような様子は見せなかった。
「ヨタロ」
「それ、名前?」
「うん」
ヨタロは――ちょっとみないくらい、きれいだった。
さらさらの髪はミルクティーみたいな淡い茶色で、肌も妙に色白かったが、それが彼の神秘的な雰囲気に一役買っているようだった。
手足もひょろりと細長いので、全体的に淡い色合いとあいまって、なんとなく不鮮明で、物足りないような、頼りないような、そんな印象を受ける。
瞳の色もよくよく見ると薄茶色のようだ。ただ、木陰がかかっているので、パッと見わたしの目の色と大差はないように見える。
鼻は小さくて筋が通っている。
ちょっと、うらやましいくらい、ヨタロは顔の形が整っていた。
「きみは?」
「……葉月」
もったいぶったわけではなかったが、正体のわからないヨタロに対し名前を言ってもいいものかどうか迷った末、下の名前だけ答える。
ヨタロは大人ではないからだいじょうぶかなとも思ったのはたしかだ。
歳のころは変わらないように見えたし、それに身長はわたしのほうが上だった。腕力でも勝てるような気がした。そういう打算を経た上で、わたしはヨタロに名前を言ったのだった。
さして珍しい名前でもないし、そもそもここのあたりに住んでいるひとならば、みんなわたしの名前を知っている。
……そこまで考えたところで、なぜヨタロはわたしの名前を知らなかったのか、不思議に思った。
「いい名前だね」
「そう?」
「葉っぱの『葉』にお月さまの『月』?」
「そうだよ。なんでそんなこと聞くの?」
「おれも名前に葉っぱがつくから、おんなじだなと思って」
「『ヨタロ』じゃないの?」
「ヨータローなんだけど、みんな『ヨタロ』って呼ぶんだ」
わたしは「ふーん」と気のない返事をする。実際に、ヨタロの本名がどうであるとかいう情報は、今のわたしにとってはどうでもいいことであった。
それでもすることのないわたしはヨタロをていのいい暇つぶしの相手に選んだ。思い返せばひどく傲慢な選択であるが、そのときのわたしはとにかく暇で暇で仕方がなく、死んでしまいそうなほどに退屈だったのだ。
「ヨタロの家ってどこ? 住宅街?」
「山の中だよ」
「山の中?」
「うん」
別荘でもあるのかな、とわたしは思った。それで、普段は村のひとたちとは交流がないとか。
わたしは無意識のうちに都合のいい妄想をすることで、ヨタロに対する得体の知れなさを打ち消そうとしていたのかもしれない。
一方でそういうことを深く突っ込んで聞くのははばかられた。
なんとなく、失礼なような気がしたのもあるし、わたしだって家庭の事情に首を突っ込まれたくなかったから聞かなかったのもある。
けれどもそういうことはヨタロのほうからペラペラとしゃべってくれた。
ヨタロもまた、わたしと同じようにひとと話すことに飢えていたのかもしれない。
「体が弱くてあんまり家から出してもらえないんだ」
「今は出てるじゃん」
「抜け出してきたんだよ」
「危なくない?」
「山の中のことはよく知ってるから……」
「ふーん……」
ヨタロが自分の事情を話したことで、わたしはちょっとヒヤリとした。
この流れはよくない、と思ったからだ。
こうなると次は「葉月は?」なんて聞かれたりする。よくある流れだ。
……けれどもヨタロはそんなありきたりな言葉を口にはしなかった。
ただ、「普段もここにいるの?」とか「山の中には慣れているの?」とか、あまりわたし自身については聞いてはこなかった。
唯一のそういう質問は、年齢の話題くらいだろうか。
わたしが今年で一二になると答えると、ヨタロも「同じだ」と笑った。
その笑い方にちょっとだけ親近感を持った。なんだか、仲間を見つけられてうれしそうな、そういう笑い方だったから。
気がつけばわたしたちは日暮れの時間になるまで話しこんでいた。
なにを話したのかは、正直に言って覚えていない。それくらい他愛なく、どうでもいい話をしたのだと思う。
「もう帰らなきゃ」
ヨタロのそのつぶやきは、どこかひどくさみしげで、悲しそうな響きを伴っていた。
「また会える?」
わたしは思わずそう言っていた。
ヨタロはニコッと笑って、
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……渋々、といった風でもなくて、心底それを待ち望んでいるような声で、そう言った。
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