蛇の殺し方

やなぎ怜

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後編

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「直士」

 玄関で靴を履いたまま、直士は固まった。部屋に帰って来た途端、玄関で雪仁が待ち構えていた上に、どういうわけかシャツと下着をつけただけの姿でしなだれかかってきたのである。

「ゆ、ユキ……? どうしたんだ? そんな格好して……風邪引くぞ」

 雪仁の肩をつかみ、体から引き剥がすも、雪仁は嫌がって直士の手から逃れようとする。どうにも様子がおかしい。今日もカフェテリアでいつものようにコーヒーを注文したと思えば、突然店を飛び出して行ってしまい唖然としたものだ。

「体調悪いのか? いきなり帰っちゃうからびっくりしたぞ」
「迷惑かけて、ごめん……。――体調は……ううん。……気分は悪いけど」
「え?! そうなのか?!」
「うん……。直士のこと考えると、ぐちゃぐちゃになってわかんなくなる。……ねえ、直士。僕のことひとりにしないで。僕のもの、ぜんぶあげるから……どこにも行かないで。キスもしていいから……セックスだって」

 そう言いながら直士を見上げる雪仁の目には涙の膜が張っていた。少しでも揺らせば、たちまちのうちにそのまなじりから涙がこぼれるであろうことは明白だ。

 雪仁のこんな顔を見るのは、直士にとって初めてのことだ。よって彼はじゅうぶんに動揺し、動きを止めそうになる。

 けれどもどうにか頭を回転させて、自身に抱きついたままの雪仁を部屋のほうへと押し込んだ。

「ちょ、ちょ、ちょっと待て、な? と、とりあえず中に入らせてくれ」

 リビングへ向かい、雪仁をふたりがけのソファに座らせる。そこで改めて彼の格好を見た直士は、思わず生唾を飲み込んだ。

 白いシャツから除く肌は、例の行為をするときにしか拝めないもので――そして晒された下着だけをまとった下半身は、風呂場の前でしか見られない。いずれも、あの性的な行為を連想させるにはじゅうぶんな光景であった。

 荷物を置いてから直士は雪仁の隣に腰を下ろす。今にも泣きそうな目を向ける雪仁を見ると、心のうちにある庇護欲と加虐心がくすぐられる。

 そんな雪仁をなだめるように、直士は彼の肩に腕を回し、その手で小さな頭を引き寄せた。

「――で、いきなりどうしたんだよ」
「直士が」

 震える声で雪仁が唇を開く。今にもあふれ出そうな感情をたたえた姿を見るのは初めてで、どっしりと構えているフリをしながらも、直士は内心で気が気ではない。なにせあれほど嫌がって、体が拒絶していたセックスすらしてもいいと言うのである。これはただごとではない。

「直士、が、遠くにいっちゃいそうで。僕、ひとりぼっちだし、面白い人間じゃないし……だから、捨てられるんじゃないかと思って」
「なんでそんなこと思ったんだよ……。――もしかしてカフェでなにかあったか?」

 直士の言葉に雪仁はためらいがちにうなずいた。

「なんか、楽しそうにしてる直士を見たら……不安になって。前はこんなことなかったのに……」
「俺に捨てられるんじゃないかって?」
「うん……」

 思ったよりも深刻ではない内容に直士は脱力した。いや、雪仁からすればそれは至極深刻な出来事なのであろうが、直士からすればそれは可愛いやきもちに過ぎない。

 だがそんなことはわからない雪仁であるから、深いため息をついた直士を見てますます瞳を潤ませ、体を震わせた。

「ごめん、直士。ごめん……僕、もっと普通だったら、普通の人間だったらよかったのに」
「普通ってなんだよ。つか泣くなよ……」
「ごめん……」

 ついにたまらなくなって雪仁のまなじりから涙がこぼれ落ちた。ひとつぶ落ちればそれを皮切りにあとからあとから温かな水の粒が流れて止まらない。

「俺は今のままのユキが一番好きだ」
「今のままの、僕?」
「あ、変わったら嫌いになるとかじゃないからな? 今のままっていうか、自然体のお前が好きっていうか……あー! とにかく俺はお前が好きなんだよ! 高校卒業する前に、そう言っただろ?」
「うん……言った」
「ぜってー俺はお前を捨てないからな。ユキがいやだって言っても捨てない」

 ぐいと雪仁に顔を近づけて直士はすごむように言った。そんな直士の顔を見て、雪仁はぱちくりと瞳を瞬かせる。絶対わかってないなと直士は内心でちょっと呆れた。

 雪仁はとかくコミュニケーション能力が低いので、自身の感情を相手に伝えるのも不得手だし、相手の感情を汲み取るのも下手なのだ。だから、雪仁にはちょっと大げさなくらいの表現をぶつけるくらいがちょうどいいのである。

「そりゃ俺だって健全な男子大学生だからさ、セックスしてーよ。でもそこらへんの女とか男とかじゃダメだ。ユキがいいんだ。でもユキがいやだって言うならしない。ユキが好きだから、そういうことして嫌われたくない」

 未だに直士の真意をよくつかめていない雪仁を前に、直士は言葉を続けた。

「俺だってさ、お前にいつか別れて欲しいって言われないかヒヤヒヤしてたんだぜ?」
「そんなこと……言わない」
「でも俺はそう思ってた。だって、俺、お前がセックスとか……そういう関係のものがいやだって知ってるのに、やってるから」
「それは……。そう、だけど。でも、僕直士が好きだから」
「うん。まあ、そういうことだな」

 雪仁は首をかしげる。

「俺はユキが好きで、ユキは俺が好きなんだよ。両思いだな」

 にっと口角を上げて笑みを作れば、雪仁も釣られたようにぎこちない微笑を見せる。

 それは完全な不意打ちだった。

 なぜなら、今まで直士の前で雪仁が微笑んだことなど、一度としてなかったのだから。

「ユキ……いま、わらっ……」
「ん……。変……?」
「いや、いや、ぜんぜん変じゃない。いいよそれ。うん」
「そっか」
「うん。可愛かった」

 直士にそう言われて、雪仁は頬を染めて目を伏せる。そんななにげない仕草のひとつひとつが、今の直士には愛おしくて仕方がない。

 直士は思わず雪仁に抱きつく。雪仁はおどろいて見せたものの、しばらくしておずおずとためらいがちにその背に手を回してくれた。今までにないそんな行動をされてしまっては、もう収まりがつかないというものである。

「ユキ……なあ、いつものしたい」
「直士」
「いやか?」
「ううん。……あのね、ええと、それ……僕にもしてくれる?」

 思わぬひとことに雪仁は体を離し、彼の顔を見た。雪仁は真剣な眼差しで直士を見ている。そこに卑屈さはなく、直士の歓心を買うために無理をしている様子はない。

「え? それっていっしょにオナニーしようってこと? あ、でもいやじゃないの?」
「わかんない。でも、今なら大丈夫な気がする」

 直士は再び生唾を飲んだ。据え膳食わぬはなんとやら、である。葛藤はあったが、それはすぐ目の前にぶら下げられたごちそうを前にどこかへ流れて行ってしまった。


「あ……なんか、変な感じ」

 使いきりのローションの封を切り、手のひらに出して温めてやったあと、直士は雪仁の分身をその手で擦ってやる。

「いやじゃないか? 気分悪くなったらすぐ言えよ?」
「ん、まだだいじょうぶ。なんか、あったかくて気持ちいい」
「そうか。オナニーってこうやって――っていつも見てるよな」
「うん……」

 そんな他愛のない言葉を交わしながらも、直士はゆっくりと優しい手つきで雪仁のそれをしごいて行く。同時にその白い素肌に唇を落とし、空いたもう片方の手でいつものように皮膚の薄いところをくすぐってやる。

 雪仁はしばらくのあいだくすぐったさに体をよじり、楽しげな声を出していた。思えばこれこそが、快楽への前触れだった。今までの雪仁は、直士の愛撫に一切の反応を見せなかったのだから。

 それは雪仁の中にあった性行為に対する忌避の殻が破れつつあることを示していた。

「あっ……ん、ふ、うん……」

 くすくすと笑う声は、いつのまにか艶めいた媚声へと変わっていた。雪仁の自身は初めて外的刺激により昂ぶりを見せ、芯に熱を持って先端を上へと向ける。ローションだけではなく、先走りも混じって淫らな水音を立てる陰部を見ても、雪仁の心が萎えることはなかった。むしろもっと直士による刺激を求めてすらいた。

 そしてそのことに嫌悪感を覚える暇もなく、彼の脳内は快楽一色に塗り潰されて行く。

 自然、ふたりのあいだに言葉はなくなる。

 雪仁は与えられる快楽に囚われて、そして直士は淫らに乱れる雪仁に釘付けとなって。

「あっ、ああーっ! だめっ、だめ、直士っ、なんか出ちゃ――!」

 雪仁はぎゅっと目をつぶり、押し寄せる快楽の波に耐える。まぶたの裏が真っ白に塗り潰され、排尿にも似た開放感が腰をくすぐる。下腹部と内腿がぴくぴくと痙攣して悦楽に震え――そして先端から欲望をほとばしらせた。


 *


「いやじゃなかった」

 直士に抱きしめられたまま、未だ夢見心地の中で湯船に浸かる。今はいっときでも長く直士に触れていたかった。そんな心境の変化に雪仁は驚く。

「そうか」

 直士はただ短くそう答えて、けれどもそれ以上の感情を雪仁を抱きしめるという行為で伝えて来る。

 あれほど忌避していた行為は、ガラスを割るよりも簡単なことだった。いやではなかった。それが、答えなのだと思う。

「キス、したい」

 ためらいながらもそう直士に申し出れば、彼はなにも言わずにただ微笑んだ。それから噛みつくように雪仁の唇を食む。ふわふわとしたあたたかい感情が、胸の奥から湧き上がり、そのくすぐったさに雪仁は震えた。

 雪仁はまだ本人も気づかない、しかしたしかな感情と、体に満ちる充足感の中で、恋人との口づけに陶酔した。
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