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水始涸(みずはじめてかる)
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じゃんけんに負けた。ので、アマネといっしょに植物園へ行くことになった。ふたつの大きな樽をかついで。
なぜこんなことをすることになったのかと問われれば、植物園の水が涸れたからと答えるしかない。
チカは当然、植物園の水が涸れたことにおどろいたが、しかし他の六人は「もうそんな時期か」という態度であった。それは恒例行事、風物詩のようなものであるらしい。
しかしその解決方法は、「干物を詰めた樽をふたつ用意して植物園の所定の位置に供える」というものであり、そんな重労働はしたくないと思うのは自然な流れであった。
そしてじゃんけんである。シンプルな勝負で決着はつき、無事チカとアマネが樽を供える役割を担うことになったわけであった。
フタをしても樽から漂ってくる海産物のにおいに若干うんざりしつつも、チカは黙って運び終えた。干物は軽いが、チカが抱えるほどの樽いっぱいに詰められれば、少々重量を感じるし、そもそも樽が重い。労働から解放されたチカは、思わず大きなため息をついていた。
前を見ればアマネもひと息ついているようだったが、チカに比べれば涼しい顔だ。それはそうだろう。チカとアマネでは体格差があるし、性差による筋肉量の違いも明らかだった。
アマネは男なんだよな、とチカは当然の事実を改めて認識する。
「……それにしてもよくわかったね、こんな解決方法」
チカは樽のフタをなんとなくひと撫でしたあと、アマネに言った。
植物園の水が涸れた際の解決方法が「干物を詰めた樽をふたつ用意して植物園の所定の位置に供える」だなんて、チカでなくともまず思いつくような内容ではない。逆立ちしたってこんな発想は無理だ。
となると当然疑問に思う。他の六人なり信者の“黒子”なり、だれかが編み出したものなのか、それとも当初からそういうものとして“城”に伝わっていたものなのか。チカは気になった。
するとこちらに背を向けていたアマネが、ちらりと振り返って言う。
「……教えてくれたのは、お前だ」
「え? ……え? 私?」
アマネの言葉が予想外すぎたため、チカは呑み込むのに時間がかかった。自分自身を指さすチカを見て、アマネは「ああ」と短い返事で答える。しかしなぜか、決してチカのほうには体を向けない。
「お前は色んなことを教えてくれた。おれにも、他のやつらにも」
アマネがこうしてしゃべってくれることを、チカは珍しいと感じた。しかし茶化す気は起きない。アマネがどこか、苦しそうな横顔をしていたからだ。
チカと視線を合わせないアマネが見ているのはどこだろうか。失われてしまった以前のチカを見ているのだろうか。チカは複雑な気持ちになった。
「アマネたちは……教えてくれないの? 私に」
今なら聞けるような気がした。聞いてもいいような気がした。
これまでも何度も疑問をぶつけたいと思いはしたものの、関係を崩したくなくて問題を先送りにしていた自覚はチカにもあった。
チカ自身が押しの強い性格というわけではなかったこともあるし、“城”という閉鎖空間でいたずらに関係をこじらせたくないという恐怖心もあった。
けれども、この流れながら自然に聞ける気がして、チカは一歩、足を前へと踏み出す。
以前のチカはどんな人間だったのか。どんな顔をして六人と話をしていたのか。そしてなぜ、チカは記憶を失ってしまったのか。
聞きたいことはたくさんあった。けれどもなかなか、うまく言葉にできない。
「知りたいよ」
ようやく口にできたのは、それだけだった。
アマネはやはりこちらに背を向けたまま、答える。
「……別にお前が嫌いだからとか、意地悪で教えないわけじゃない」
「それは、なんとなくわかってるよ。みんな、記憶がない私にも普通に接してくれてきたし。でも」
でも、記憶を失う前のチカについては、不自然なほど触れてこない。
それはいつまで経っても記憶を取り戻せないチカを慮ってのことなのか、それとも――。
「それは、言えない」
「……どうして?」
「どうしてもだ」
「私がイヤなやつだったとか」
「それはない。それはないが……言えない。おれが言えるのは――お前は以前の記憶を思い出さないほうがいいってことだ」
チカはまたアマネの言葉がうまく呑み込めず、呆然としてしまう。
「なんで?」
うめくような声が漏れた。それはチカの口から出てきたものだった。
意味がわからなかった。普通、よほどの理由がない限り、記憶は戻ったほうがいいのではないのだろうか。アマネだって、以前のチカが戻ってきたほうが、うれしいのではないか。チカは混乱した。
「……記憶が戻っても戻らなくても、お前はお前だ。でも、記憶は戻らないほうが……お前にとっても幸せなんだと思う」
「とって『も』って、どういうこと?」。浮かんだ疑問をアマネにぶつけるだけの余裕は、チカにはなかった。
アマネから明らかに話をそらされたと感じたが、チカはそれを追求しようとする言葉を見つけられなかった。
「思い出さないほうがいい」――アマネの言葉がぐるぐると脳裏で渦を描く。そんな可能性をチカは微塵も考えはしなかった。記憶を取り戻せばハッピーエンドなのだと、信じて疑っていなかった。
けれどもどうやら、それはチカの思い違いだったらしい。
「ごめん」
アマネが吐息のような声で謝罪の言葉を口にした。
チカはそのあと、アマネとどんな会話をしたのか、どうやって部屋に戻ったのか思い出せなかった。
ただただ、アマネとのあいだに気まずい空気だけが重く横たわっていた。
なぜこんなことをすることになったのかと問われれば、植物園の水が涸れたからと答えるしかない。
チカは当然、植物園の水が涸れたことにおどろいたが、しかし他の六人は「もうそんな時期か」という態度であった。それは恒例行事、風物詩のようなものであるらしい。
しかしその解決方法は、「干物を詰めた樽をふたつ用意して植物園の所定の位置に供える」というものであり、そんな重労働はしたくないと思うのは自然な流れであった。
そしてじゃんけんである。シンプルな勝負で決着はつき、無事チカとアマネが樽を供える役割を担うことになったわけであった。
フタをしても樽から漂ってくる海産物のにおいに若干うんざりしつつも、チカは黙って運び終えた。干物は軽いが、チカが抱えるほどの樽いっぱいに詰められれば、少々重量を感じるし、そもそも樽が重い。労働から解放されたチカは、思わず大きなため息をついていた。
前を見ればアマネもひと息ついているようだったが、チカに比べれば涼しい顔だ。それはそうだろう。チカとアマネでは体格差があるし、性差による筋肉量の違いも明らかだった。
アマネは男なんだよな、とチカは当然の事実を改めて認識する。
「……それにしてもよくわかったね、こんな解決方法」
チカは樽のフタをなんとなくひと撫でしたあと、アマネに言った。
植物園の水が涸れた際の解決方法が「干物を詰めた樽をふたつ用意して植物園の所定の位置に供える」だなんて、チカでなくともまず思いつくような内容ではない。逆立ちしたってこんな発想は無理だ。
となると当然疑問に思う。他の六人なり信者の“黒子”なり、だれかが編み出したものなのか、それとも当初からそういうものとして“城”に伝わっていたものなのか。チカは気になった。
するとこちらに背を向けていたアマネが、ちらりと振り返って言う。
「……教えてくれたのは、お前だ」
「え? ……え? 私?」
アマネの言葉が予想外すぎたため、チカは呑み込むのに時間がかかった。自分自身を指さすチカを見て、アマネは「ああ」と短い返事で答える。しかしなぜか、決してチカのほうには体を向けない。
「お前は色んなことを教えてくれた。おれにも、他のやつらにも」
アマネがこうしてしゃべってくれることを、チカは珍しいと感じた。しかし茶化す気は起きない。アマネがどこか、苦しそうな横顔をしていたからだ。
チカと視線を合わせないアマネが見ているのはどこだろうか。失われてしまった以前のチカを見ているのだろうか。チカは複雑な気持ちになった。
「アマネたちは……教えてくれないの? 私に」
今なら聞けるような気がした。聞いてもいいような気がした。
これまでも何度も疑問をぶつけたいと思いはしたものの、関係を崩したくなくて問題を先送りにしていた自覚はチカにもあった。
チカ自身が押しの強い性格というわけではなかったこともあるし、“城”という閉鎖空間でいたずらに関係をこじらせたくないという恐怖心もあった。
けれども、この流れながら自然に聞ける気がして、チカは一歩、足を前へと踏み出す。
以前のチカはどんな人間だったのか。どんな顔をして六人と話をしていたのか。そしてなぜ、チカは記憶を失ってしまったのか。
聞きたいことはたくさんあった。けれどもなかなか、うまく言葉にできない。
「知りたいよ」
ようやく口にできたのは、それだけだった。
アマネはやはりこちらに背を向けたまま、答える。
「……別にお前が嫌いだからとか、意地悪で教えないわけじゃない」
「それは、なんとなくわかってるよ。みんな、記憶がない私にも普通に接してくれてきたし。でも」
でも、記憶を失う前のチカについては、不自然なほど触れてこない。
それはいつまで経っても記憶を取り戻せないチカを慮ってのことなのか、それとも――。
「それは、言えない」
「……どうして?」
「どうしてもだ」
「私がイヤなやつだったとか」
「それはない。それはないが……言えない。おれが言えるのは――お前は以前の記憶を思い出さないほうがいいってことだ」
チカはまたアマネの言葉がうまく呑み込めず、呆然としてしまう。
「なんで?」
うめくような声が漏れた。それはチカの口から出てきたものだった。
意味がわからなかった。普通、よほどの理由がない限り、記憶は戻ったほうがいいのではないのだろうか。アマネだって、以前のチカが戻ってきたほうが、うれしいのではないか。チカは混乱した。
「……記憶が戻っても戻らなくても、お前はお前だ。でも、記憶は戻らないほうが……お前にとっても幸せなんだと思う」
「とって『も』って、どういうこと?」。浮かんだ疑問をアマネにぶつけるだけの余裕は、チカにはなかった。
アマネから明らかに話をそらされたと感じたが、チカはそれを追求しようとする言葉を見つけられなかった。
「思い出さないほうがいい」――アマネの言葉がぐるぐると脳裏で渦を描く。そんな可能性をチカは微塵も考えはしなかった。記憶を取り戻せばハッピーエンドなのだと、信じて疑っていなかった。
けれどもどうやら、それはチカの思い違いだったらしい。
「ごめん」
アマネが吐息のような声で謝罪の言葉を口にした。
チカはそのあと、アマネとどんな会話をしたのか、どうやって部屋に戻ったのか思い出せなかった。
ただただ、アマネとのあいだに気まずい空気だけが重く横たわっていた。
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