ドグマの城

やなぎ怜

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菜虫化蝶(なむしちょうとなる)

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 モンシロチョウは別名を「夢見鳥」「夢虫」と言うらしい。

 チカはものの本で呼んだ知識を引き出し、ぼんやりと目の前にいるモンシロチョウを見た。

 モドキと表現するからには、それはモンシロチョウとは言い切り難い。たしかにそれにはモンシロチョウだと認識できる白いはねがついていたのだが――いかんせん、翅がついている部分がどう見てもオッサンなのである。

 正確を喫するのであれば、ホモ・サピエンスの中年男性の肉体にモンシロチョウの翅がついているのである。それをモンシロチョウと呼ぶのはだれだって憚られるだろう。

 けれどもチカは冷静だった。冷静と言うか、あわてるほどの情緒や思考力が今は持ち合わせていないといったほうが正しいか。

 これは夢だという自覚がチカにはあったのだ。

 こういうのも明晰夢と呼ぶのかはチカからすると定かではない。体を動かそうとしても水の中にいるかのように、重く、周囲の空間がもったりとしている。よってこの場から逃亡するのは難しそうだった。

 それでも「ああ夢だな」というような、ぼんやりとした意識はある。

 だから目の前にモンシロチョウの翅を生やしたオッサンがいても、「夢だから仕方ないな」と謎の納得をしてしまうのであった。

 覚醒時のチカであれば相応の突っ込みをしていたかもしれない。けれども夢の中にいるせいか、その頭脳はいつもよりも動きがにぶいのであった。

 オッサンはなんとも言えない顔をしている。眉を八の字にしているので困っているようにも見えるし、こちらを蔑み嘲笑しているようにも見える。

 そしてオッサンの口元にある髭の剃り跡の青い部分を見て、「リアルだなあ」とチカは思う。夢の中なので、やはり思考力が落ちているのだった。

「ここでワンポイントアドバイス」

 オッサンはなんとも言えない表情のままそう言った。

 それまで、オッサンとなんらかの会話をしていた感覚だけが残っていたので、オッサンのセリフの繋ぎにチカは不自然さを感じなかった。

「ためらっているなら突撃しちゃえ☆」

 オッサンが右目を閉じてウィンクをする。左目も閉じかかっていたので、お世辞にも上手いウィンクとは言えなかった。

「記憶がないからなんてナンセンス。押して押して押しちゃえばオッケー☆」

 オッサンのテノールボイスで吐き出されるのは、テンションの高いセリフ群で、しかも口調が若作りをしている――つもり――のようなものだったので、チカは頭の冷静な部分で「キッツイな……」などと辛辣な感想を抱く。

「エッチなパンティで誘惑しよう☆ トシゴロのオトコノコならイチコロだよっ☆」

 ワードチョイスからオッサン臭が隠せない。「そもそもセクハラでは?」とチカは徐々に夢から現実へと目覚めて行くたしかな感覚に襲われる。

 そして目覚めたときには当たり前だがモンシロチョウの翅を生やしたオッサンなど、部屋のどこにも存在しなかった。

 右隣ではいつも通りにアマネがいる。しかしなぜか犬が唸るような声を上げて、うなされているようだったので肩をゆすって起こしてやった。

 朝に弱いアマネは、寝乱れた髪を揺らしながらぼんやりとした目でチカを見る。眉間にはしわが寄っていた。よほどイヤな夢を見たのだろう。

 チカのそれも、悪夢と言うにはパンチに欠けるものの、寝起きにすっきりとしない気持ちを付与されたような、釈然としない気持ちにはなる夢だった。

 そのままアマネの支度が終わるのを待って、朝食をとるために食堂へと向かう。アマネはいつものように朝特有のぼんやりとした目をしていたが、その顔つきは常と違って険しかった。

「おはよー」

 食堂の手前でマシロたちと出会い、挨拶を交わす。

 しかしマシロとコーイチの後ろにいるアオが、名前通りに顔を青くさせて、あからさまに元気がなかったのでチカは気になった。

 アオのこんな顔を見るのは初めてではなかった――先日の虫事件の際にも見た――ものの、いつもは余裕ぶっている彼がしょんぼりとしているのは、見ているほうとしても落ち着かない。

「アオはどうしたの?」

 食堂に入っていつもの定位置についたあと、マシロとコーイチに問う。アオは青白い顔をうつむけて、明らかにグロッキー状態であった。

 ……部屋に虫でも出たのだろうか? そんなチカの疑問にマシロとコーイチは「あー……」と歯切れの悪い声を出す。

「虫の夢を見たんだと」
「……なるほど」

 やがてコーイチが答えを口にする。聞いてしまえばなんてことのない内容ではある。アオは虫がとにかくダメなのだ。指の先ほどの小さな虫ですら悲鳴を上げて逃げ惑うくらい苦手なのだ。

 なるほど、そんなものが夢の中に出てきたのであれば、アオにとってはとんでもない悪夢だろう。

 しかし、夢に出てきただけでも目に見えて疲弊するのか、とチカは感心するようなしないような、不思議な気持ちになった。

「なんで言いにくそうにしてたの?」
「他人の夢の話ほどつまんねーもんはねえだろ?」
「そう? 私は結構そういう話聞くの好きだけど」

 他人の脳みそをちょっとだけ覗くような気持ちになれるので、チカは荒唐無稽な他人の夢の話を聞くのは結構好きなのであった。

 しかしコーイチは「変なヤツ」と言って呆れている様子だ。

 そうしているあいだにも、アオはぐったりとしていて意識をヨソへやっているのがわかる。いつになったら戻ってくるのかが気になったが、気心知れた仲であるマシロとコーイチが放置しているので、チカもそれに倣う。

「私も虫? の夢を見たよ」

 ユースケとササが朝食を仕上げているあいだに、チカは新たな話題を振る。

「なんで疑問形?」
「なんかオッサンの体がついてたから……ああ、オッサンの比率のほうが高いなら虫じゃないのかな」

 チカの言葉にガタリとイスの足から音を立ててアオが食いついた。その顔はやはり青白い。

「あ、ごめん。アオがいるのに虫の話しちゃって」
「……お前も見たの?」

 てっきり虫の話題を口にしたから過剰反応したのかと思い、チカは謝罪したのだが、アオは具合の悪そうな顔のままそんなことを問う。

 チカは、意味がわからず首をかしげた。

「俺も蝶の翅生やしたオッサンの夢見たんだよ……」
「え? いっしょだ」
「ってーことはお前の見た夢に出てきたオッサン、蝶の翅生やしてたわけ?」
「そうだけど……。なんか偶然の一致にしては怖いね」

「偶然じゃないと思う」

 そう言い出したのはチカの正面に座るマシロだった。いつもの人懐こい笑みを消して、真剣な表情でこちらを見ている。

「というと?」
「オレもコーイチも同じオッサンの夢を見たんだよね。もしかしたらここにいる全員、同じ夢を見たのかも」
「オッサンはなんか言ってたか?」

 マシロが推測を披露し、次いでコーイチがチカに問う。

 チカは夢の中の出来事を一生懸命思い出す。夢というものは寝起きは鮮明であっても、時間と共に霞のごとく薄れて行く。それでもどうにか夢に出てきたオッサンのセリフを、ぼんやりとだけ思い出すことができた。

「なんか『ワンポイントアドバイス』って言ってたよ」
「……同じだ。オレの夢の中でもいらんアドバイスしてきた」
「……ってことはなんだ? なんかハッキリとした原因があるってことか?」

「……“捨品”だ」

 アオがそうつぶやいたので、チカたち三人はそちらを見た。チカの隣にいるアマネはまだ起きてこれないらしく、腕を組んだままうなだれていて、ともすれば寝入っているようにも見えた。

「それしかない!」

 アオが立ち上がった。イスと床の接地部分が悲鳴のような音を出す。

「落ち着けよ、アオ」
「まあ十中八九“捨品”絡みだとは思うけど……」
「落ち着いてられるかよ! 虫だぞ虫! 夢の中でまで虫といっしょにいたくない!!!」

 寝起きであることもあるのだろうが、いつもとはノリの違うアオにチカは戸惑いを覚えた。

 そうしているあいだにアオは「こうしちゃいられねえ!」と言って、食堂からつむじ風のごとく去ってしまう。

 マシロとコーイチはその背を見送ったあと、短くため息をついていた。

「追わなくていいの?」
「朝ごはん食べ損ねたらヤだし」

 マシロから極めてドライな言葉が返ってくる。コーイチも同意らしく、頬杖をついて食堂の大扉を呆れた目で見ている。

「ま、朝メシ食い終わったら手伝いには行く。今日はやることもないしな」

 案の定というかなんというか、アオは結局朝食は抜いた。

 朝食担当のユースケはコーイチと同じように呆れ顔をしていた。アオのぶんの朝食はササが平らげていた。

 そして食事の席でようやっと起きたアマネと、ユースケとササに夢の話を問うてみれば、彼らも同じ夢を見ていたことがわかった。

「アドバイスされたんだ?」
「アドバイスって言っても悪意が感じられたけどな。無責任と言うか」
「あー……」

 ユースケの言葉は的確だった。

「まあ、責任なんて取れない取らないヤツのアドバイスなんてそんなもんだよね」

 マシロは無邪気な顔で痛烈な言葉を口にする。

 ちなみに聞き出したところによれば、オッサンの「アドバイス」とやらは恋愛絡みのものばかりだった。しかしどれも役立ちそうにない「アドバイス」であったので、役立てられる場面は永遠に訪れないだろう。

 そして朝食を抜いてまで“捨品”をドブさらいのごとく探索したアオは、見覚えのない品を見つけて破壊していた。

 本人曰く「カン」らしいが、実際にこの日以降夢の中に迷惑なオッサンが出てくることはなかったので、アオのカンはバカにはできないようだ。そして虫に対する執念も。

 なお、くだんの“捨品”を破壊した際、皆の脳裏に悲しそうな顔をしたオッサンの幻影がよぎっていったのだが……だれも同情心を抱かなかったのは、言うまでもないことだろう。
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