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霞始靆(かすみはじめてたなびく)
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迷子になった。
チカはそのことに気づいた瞬間はどうともならなかったものの、一拍置いてからドッと冷や汗をかいた。
チカは記憶喪失者である。とある時点から前の、記憶が欠けている状態だ。
しかしそれは今現在の状況を招いたこととはあまり関係がないように感じた。
なぜならばチカが行く“城”の廊下には、白い霞が充満しているのだ。
ランタンの光を照らし向けても、二メートルから先は見えないような霞が周囲に漂っている。家屋の内部に霞が発生する――。まことに不可思議な現象だったが、この“城”ならばあり得ると思ってしまうのは、現状に毒されているのかもしれない。
しかしいくら考えても「迷子になった」という事実は覆らない。
そう、迷子なのだ。前へ進んでも進んでもどこにも行き当らないのである。ちょっと泣きそうになってしまうのは致し方ないことだろう。
しかし戻ってみるのもそれはそれで無駄足のような気がして、結局チカは前へ前へと歩みを進めるしかないのであった。
なぜこんなことになったのか。それは、チカ自身が一番聞きたいことだった。
ただ地下図書館から一階へ戻って、昼食の準備に取り掛かろうと思い移動していた。ただそれだけ。いつも通りの日常の行動を取ったに過ぎないのに、なぜか迷子になっている。
理不尽さに打ちのめされる――というほどではないにしても、釈然としない気持ちにはなる。「なんにも悪いことをしていないのに」という感じである。
いや、しかしチカは記憶喪失者である。記憶を失う前の自分がどうであったかなど知りはしないので、以前の己の悪い因果が巡っているだけという可能性もあるにはある。
そこまで考えて、チカは以前の己についてまったく知らないことに思い至る。
チカのつたない知識によれば、記憶を失った人間に対し、記憶が戻るように色々と急くのはよくないらしい。
それでも以前のチカについて、他の六人が一切触れてこないのは異常ではないだろうかと考える。
前述のチカのおぼろげな知識のような認識を他の六人も持っていて、気遣ってあえて言わないでいるのだろうか?
……もし、チカのことなどどうでもいいと考えていて、放置しているのであればちょっと悲しい。迷子という状況も相まって、チカは勝手に悲観的になる。
「おーい」
そんなチカの妄想を打ち切ったのは、聞きなれた少女の声だった。
顔を上げて周囲を見回せば、霞の向こうでキラキラとランタンの光が輝いているのがわかった。それだけで重苦しかった心が急に晴れやかになるのだから、己は単純だなとチカは思う。
「マシロー?」
チカもランタンを揺らして少女――マシロの名を呼ぶ。
「あ? そっちー? 今行くー!」
やがてその言葉通りに霞の向こうからマシロが現れた。手にはランタンを持っているものの、心なしかいつも彼女が持っているものとはデザインが違うような気がする。
加えて、マシロが持っているランタンの光は時折キラキラと明滅しているようだったし、光の輪郭がパッキリとしておらず、ぼんやりとしているように感じた。
「うおー。いたいた」
「きてくれてありがとう……」
チカはマシロに対して発した己の声が、思ったよりも疲労に満ち満ちていたので内心でおどろく。
小走りで駆けてきたマシロは、ランタンをチカへと向けるとその無事を確認したらしく、小さく息を吐く。
「ごめんごめん。言うの忘れてた! この時期になる時々こんな風に霞が出てさ。特別なランタンを持っていないと迷子になっちゃうんだよね。まあ、迷子っていうか、正確には別の空間に閉じ込められている感じなんだけど……」
「ええ……こわ。別の空間ってなに……」
「さあ? どこの部屋も見つからないし、延々と進んでも戻っても出られないから、オレたちがいるのとは別の空間に移動させられてるんじゃないかってユースケが」
「こわい」
「じゃあちゃっちゃと戻ろうか」
「お願い……」
マシロはそう言って先を行き始める。チカはその隣に並んで再び歩き出した。
「ねえ、特別なランタンってなに?」
「いつものランタンとは違うやつ。……うーん、説明できないや。でもこういう霞を抜ける用のランタンがあるんだよ」
「この霞専用の?」
「そう。専用の。チカたちの部屋にもあるはずだよ。でもアマネがなにもしてなかったってことは、アマネも忘れてるっぽいね」
ここでもチカが、アマネがわざと言っていなかったらイヤだなと思った。
あのアマネがそういう狡いマネをするとは思えなかったが、なぜだかこの霞の中にいると悲観的になってしまう。二メートルより先を視認できない閉塞感がそうさせるのかもしれないとチカは思うことで、くだらない考えを頭から払拭しようとした。
「チカが忘れてること忘れてた。ごめんね」
「いや、それは別にいいけど……。あの、記憶を失う前の私と今の私ってもしかして、そんなに差がない?」
聞いてしまった。いや、実際にチカが聞きたかったことそのものズバリを口にしたわけではなかった。そうするにはさすがに度胸が足りなかったのだ。
それでも「聞いてしまった」と、「やってしまった」というような気持ちになる。
チカは平常心をと己に言い聞かせ、ポーカーフェイスを心がける。隣を歩くマシロが、ちらりと横目でチカを見やったのがわかった。その視線の意味を類推できるほどの余裕は、チカにはなかった。
やがてマシロが口を開く。ひどく長い時間を要したようにチカは感じたが、実際は数秒の出来事だろう。
「だねー。あんまりにも同じだから、ときどきチカが記憶喪失だってこと忘れる」
「へー。そんなに変わらないんだ……」
それはいいことなのか悪いことなのか、そもそもそういう問題なのか、チカにはわからなかった。
「お、食堂」
そう言ってマシロが立ち止まる。彼女がランタンの光を向けた先へ視線を動かせば、見慣れた食堂の大扉が目に入った。
「食堂に行きたかったんだよね? もうすぐ昼食だし」
「あっ。そうだ時間!」
「お昼ごはんの準備ならもうアマネがやってるんじゃないかな。アマネが『チカがこねえ』って大騒ぎしてオレたちが捜しに行ったわけだし」
「え? アマネが? ……大騒ぎ?」
「……してねえよ」
食堂の大扉が開いていた。そこから仏頂面の顔を出したアマネが、不機嫌そうな声を出す。眉間には今日もしわが刻まれている。クセにならないのかなとチカはどうでもいいことを考える。
そうしているあいだにマシロがにやにやとした笑みを浮かべてアマネの腕を肘でつつく。
「えー? メチャクチャあせってたじゃん」
「あせってねえ」
「『心配してた』くらいは言ってあげたら?」
「……昼メシやんねえぞ」
「それはカンベン!」
マシロはくるりとチカのいるほうを振り返るや、「帰りはアマネと帰ってね」と言い置いてさっさと食堂に入ってしまった。
そうか、自室への帰りの際もあの霞に出会う可能性があるのかと考えて、チカはちょっと背筋が寒くなる思いをする。迷子になるのはもうイヤだ。
「アマネ……帰りはよろしくね?」
「……仕方ないからよろしくしてやるよ」
アマネはぷいと横を向いてしまったので、彼がその言葉を口にしたとき、どういった顔をしていたのかチカは正確には読めなかった。
――ツンデレの「ツン」だといいなあ……。
そんなことを考えながら、チカはアマネと共に食堂へ入るのだった。
チカはそのことに気づいた瞬間はどうともならなかったものの、一拍置いてからドッと冷や汗をかいた。
チカは記憶喪失者である。とある時点から前の、記憶が欠けている状態だ。
しかしそれは今現在の状況を招いたこととはあまり関係がないように感じた。
なぜならばチカが行く“城”の廊下には、白い霞が充満しているのだ。
ランタンの光を照らし向けても、二メートルから先は見えないような霞が周囲に漂っている。家屋の内部に霞が発生する――。まことに不可思議な現象だったが、この“城”ならばあり得ると思ってしまうのは、現状に毒されているのかもしれない。
しかしいくら考えても「迷子になった」という事実は覆らない。
そう、迷子なのだ。前へ進んでも進んでもどこにも行き当らないのである。ちょっと泣きそうになってしまうのは致し方ないことだろう。
しかし戻ってみるのもそれはそれで無駄足のような気がして、結局チカは前へ前へと歩みを進めるしかないのであった。
なぜこんなことになったのか。それは、チカ自身が一番聞きたいことだった。
ただ地下図書館から一階へ戻って、昼食の準備に取り掛かろうと思い移動していた。ただそれだけ。いつも通りの日常の行動を取ったに過ぎないのに、なぜか迷子になっている。
理不尽さに打ちのめされる――というほどではないにしても、釈然としない気持ちにはなる。「なんにも悪いことをしていないのに」という感じである。
いや、しかしチカは記憶喪失者である。記憶を失う前の自分がどうであったかなど知りはしないので、以前の己の悪い因果が巡っているだけという可能性もあるにはある。
そこまで考えて、チカは以前の己についてまったく知らないことに思い至る。
チカのつたない知識によれば、記憶を失った人間に対し、記憶が戻るように色々と急くのはよくないらしい。
それでも以前のチカについて、他の六人が一切触れてこないのは異常ではないだろうかと考える。
前述のチカのおぼろげな知識のような認識を他の六人も持っていて、気遣ってあえて言わないでいるのだろうか?
……もし、チカのことなどどうでもいいと考えていて、放置しているのであればちょっと悲しい。迷子という状況も相まって、チカは勝手に悲観的になる。
「おーい」
そんなチカの妄想を打ち切ったのは、聞きなれた少女の声だった。
顔を上げて周囲を見回せば、霞の向こうでキラキラとランタンの光が輝いているのがわかった。それだけで重苦しかった心が急に晴れやかになるのだから、己は単純だなとチカは思う。
「マシロー?」
チカもランタンを揺らして少女――マシロの名を呼ぶ。
「あ? そっちー? 今行くー!」
やがてその言葉通りに霞の向こうからマシロが現れた。手にはランタンを持っているものの、心なしかいつも彼女が持っているものとはデザインが違うような気がする。
加えて、マシロが持っているランタンの光は時折キラキラと明滅しているようだったし、光の輪郭がパッキリとしておらず、ぼんやりとしているように感じた。
「うおー。いたいた」
「きてくれてありがとう……」
チカはマシロに対して発した己の声が、思ったよりも疲労に満ち満ちていたので内心でおどろく。
小走りで駆けてきたマシロは、ランタンをチカへと向けるとその無事を確認したらしく、小さく息を吐く。
「ごめんごめん。言うの忘れてた! この時期になる時々こんな風に霞が出てさ。特別なランタンを持っていないと迷子になっちゃうんだよね。まあ、迷子っていうか、正確には別の空間に閉じ込められている感じなんだけど……」
「ええ……こわ。別の空間ってなに……」
「さあ? どこの部屋も見つからないし、延々と進んでも戻っても出られないから、オレたちがいるのとは別の空間に移動させられてるんじゃないかってユースケが」
「こわい」
「じゃあちゃっちゃと戻ろうか」
「お願い……」
マシロはそう言って先を行き始める。チカはその隣に並んで再び歩き出した。
「ねえ、特別なランタンってなに?」
「いつものランタンとは違うやつ。……うーん、説明できないや。でもこういう霞を抜ける用のランタンがあるんだよ」
「この霞専用の?」
「そう。専用の。チカたちの部屋にもあるはずだよ。でもアマネがなにもしてなかったってことは、アマネも忘れてるっぽいね」
ここでもチカが、アマネがわざと言っていなかったらイヤだなと思った。
あのアマネがそういう狡いマネをするとは思えなかったが、なぜだかこの霞の中にいると悲観的になってしまう。二メートルより先を視認できない閉塞感がそうさせるのかもしれないとチカは思うことで、くだらない考えを頭から払拭しようとした。
「チカが忘れてること忘れてた。ごめんね」
「いや、それは別にいいけど……。あの、記憶を失う前の私と今の私ってもしかして、そんなに差がない?」
聞いてしまった。いや、実際にチカが聞きたかったことそのものズバリを口にしたわけではなかった。そうするにはさすがに度胸が足りなかったのだ。
それでも「聞いてしまった」と、「やってしまった」というような気持ちになる。
チカは平常心をと己に言い聞かせ、ポーカーフェイスを心がける。隣を歩くマシロが、ちらりと横目でチカを見やったのがわかった。その視線の意味を類推できるほどの余裕は、チカにはなかった。
やがてマシロが口を開く。ひどく長い時間を要したようにチカは感じたが、実際は数秒の出来事だろう。
「だねー。あんまりにも同じだから、ときどきチカが記憶喪失だってこと忘れる」
「へー。そんなに変わらないんだ……」
それはいいことなのか悪いことなのか、そもそもそういう問題なのか、チカにはわからなかった。
「お、食堂」
そう言ってマシロが立ち止まる。彼女がランタンの光を向けた先へ視線を動かせば、見慣れた食堂の大扉が目に入った。
「食堂に行きたかったんだよね? もうすぐ昼食だし」
「あっ。そうだ時間!」
「お昼ごはんの準備ならもうアマネがやってるんじゃないかな。アマネが『チカがこねえ』って大騒ぎしてオレたちが捜しに行ったわけだし」
「え? アマネが? ……大騒ぎ?」
「……してねえよ」
食堂の大扉が開いていた。そこから仏頂面の顔を出したアマネが、不機嫌そうな声を出す。眉間には今日もしわが刻まれている。クセにならないのかなとチカはどうでもいいことを考える。
そうしているあいだにマシロがにやにやとした笑みを浮かべてアマネの腕を肘でつつく。
「えー? メチャクチャあせってたじゃん」
「あせってねえ」
「『心配してた』くらいは言ってあげたら?」
「……昼メシやんねえぞ」
「それはカンベン!」
マシロはくるりとチカのいるほうを振り返るや、「帰りはアマネと帰ってね」と言い置いてさっさと食堂に入ってしまった。
そうか、自室への帰りの際もあの霞に出会う可能性があるのかと考えて、チカはちょっと背筋が寒くなる思いをする。迷子になるのはもうイヤだ。
「アマネ……帰りはよろしくね?」
「……仕方ないからよろしくしてやるよ」
アマネはぷいと横を向いてしまったので、彼がその言葉を口にしたとき、どういった顔をしていたのかチカは正確には読めなかった。
――ツンデレの「ツン」だといいなあ……。
そんなことを考えながら、チカはアマネと共に食堂へ入るのだった。
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