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ミオリはこの家に引っ越してきてから、ラーセとシュヴァー以外の人間に会ったのは、あのくだんの男とも女ともつかない人物に、不可思議な力で外へと連れ出されたときだけだった。
この現状にミオリは疑問を抱けども、大きな不満はない。そもそも、ミオリは社交的な人間ではないからだ。それでも、この世界にいるらしき他の女性と会えるかどうかは気になって聞いたりはした。ただ、そのときのラーセとシュヴァーの反応が芳しくなかったため、そういうことを尋ねるのはもうやめようと、ミオリは心に決めていた。
そんな風にどこかミオリを外の世界から遠ざけているふたりが、「どうしても」会ってもらわなければならないひとがいるという。ミオリはその理由を丁寧に説明されたものの、残念ながら完全に理解することはできなかった。税金の免除だとか、給付金の受け取りだとか。ただ「どうしても」ミオリの署名が必要なのだということだけは、わかった。
上手く理解できないままによくわからない書類にサインをしてはいけない、ということはミオリもおぼろげに知ってはいたものの、この世界のミオリは一文無しである。元の世界でもお金を持っていたかと言うとそういうことはないのだが、無い袖は振れないし、自分を巧妙に騙して手に入れられるものなんて、そもそもないだろうとミオリは考えた。
「どうしても直接会って書類にサインしてもらわないといけなくて……でも外に出るわけにもいかないでしょう? あ、家に来るのはもちろん、変なひとじゃないんだけど。そうだね、私たちとは部署が違うんだけど、同じ会社のひとではあるから」
シュヴァーに、「外に出るわけにもいかないでしょう?」と言われたものの、ミオリは未だにその明確な理由を知らないわけで、彼の言葉には曖昧にうなずくことしかできなかった。
シュヴァーはしきりにミオリがそのひとと会うことを心配していて、ラーセになだめられる始末だった。ミオリはなぜそんなにもシュヴァーが、なにに対して心配しているのかはイマイチよくわからなかった。ミオリはこの世界では異物で、珍獣みたいなものだが、だからと言って初対面の人間に比喩でなく噛みついたりはしない。
「……わたしは、書類にサインするだけでいいんですよね?」
「……ほら、お前が馬鹿みたいに心配するから、不安がってるじゃねえか」
「! ごめんね……不安にさせたいわけじゃなくて」
しかしシュヴァーはそこから先の言葉を口にはしなかった。そのまま、喉の奥へと呑み込んでしまったのは、ミオリにもなんとなくわかった。果たしてシュヴァーはなんと続けたかったのか。ミオリは気になりはしたものの、シュヴァーが言わないと決めたか、あるいは口にしたくはなかった言葉をゆすることなんて当然できなくて、黙った。
「――とにかく、早く書類揃えたいってせっつかれてる。日取りは明後日の昼前にしてもらった。シュヴァーが同席するから、なにか質問があればシュヴァーに聞け」
明後日は平日で、当然その時間帯にはシュヴァーもラーセも仕事があるだろう。ラーセが同席しない――というかできないのは仕事があるからで、一方シュヴァーはミオリの保護者としてその「同じ会社の、部署の違うひと」を連れて一時帰宅するという手はずであるらしい。さすがにそれくらいの事情や、流れはミオリの理解も追いついた。
「普通、こういうのは保護者や後見人が代理で出来るものなんだけどね……」
シュヴァーは最後まで心配そうにぼやいていた。彼らの口ぶりからして、この世界にほとんど女性がいないことが、その「普通」がまかり通らない原因であるらしいことをミオリは察した。やはり自分は、とにかくイレギュラーな存在なのだなとミオリは思い、少しだけ申し訳なくなった。
――そんな、二日前のやり取りを、場にそぐわないのにもかからずふと思い出してしまうていどに、ミオリは動揺していた。
「――本当に、おふたりに愛されてると思っていましたか?」
斜め左のひとり用のソファに腰掛けているのは、つい数分前にシュヴァーが連れてきた「同じ会社の、部署の違うひと」だ。ラーセとシュヴァーがそうしたように、ミオリに対して丁寧に書類の内容について説明してくれていた。左の目の下に泣きぼくろがあって、カッコイイというよりは、恐らくカワイイ系の顔立ちをしている。性別はもちろん、この世界で生きる人間なのだから、男性なのだろう。少なくとも、見た目はそうだ。
彼は、ミオリに丁寧に書類について説明していたときと、まったく同じ穏やかな口調で言った。
「『仕事』でだれかを愛するのって大変だと思いませんか?」
蛍光色のラインマーカーを手にしたまま、彼は微笑んでそう言った。
ミオリは、当然だが彼がなにを言っているのか、わからなかった。
彼は、聞き分けの悪い子供を相手にしているかのような、幼い子を言い聞かせるような、柔らかいけれどどこか咎めたてるような声音で言う。
「――本当に、おふたりに愛されてると思っていましたか?」
ミオリはやはり、彼がなにを言っているのかは理解できなかった。ただ、彼の言う「おふたり」がラーセとシュヴァーを指していることだけは、明瞭にわかってしまった。
ミオリの隣には、今はだれもいない。ラーセは職場にいるだろうし、シュヴァーは急な電話に出てこの場にはいなかった。そのことが急に、妙に寒々しく感じられた。
この現状にミオリは疑問を抱けども、大きな不満はない。そもそも、ミオリは社交的な人間ではないからだ。それでも、この世界にいるらしき他の女性と会えるかどうかは気になって聞いたりはした。ただ、そのときのラーセとシュヴァーの反応が芳しくなかったため、そういうことを尋ねるのはもうやめようと、ミオリは心に決めていた。
そんな風にどこかミオリを外の世界から遠ざけているふたりが、「どうしても」会ってもらわなければならないひとがいるという。ミオリはその理由を丁寧に説明されたものの、残念ながら完全に理解することはできなかった。税金の免除だとか、給付金の受け取りだとか。ただ「どうしても」ミオリの署名が必要なのだということだけは、わかった。
上手く理解できないままによくわからない書類にサインをしてはいけない、ということはミオリもおぼろげに知ってはいたものの、この世界のミオリは一文無しである。元の世界でもお金を持っていたかと言うとそういうことはないのだが、無い袖は振れないし、自分を巧妙に騙して手に入れられるものなんて、そもそもないだろうとミオリは考えた。
「どうしても直接会って書類にサインしてもらわないといけなくて……でも外に出るわけにもいかないでしょう? あ、家に来るのはもちろん、変なひとじゃないんだけど。そうだね、私たちとは部署が違うんだけど、同じ会社のひとではあるから」
シュヴァーに、「外に出るわけにもいかないでしょう?」と言われたものの、ミオリは未だにその明確な理由を知らないわけで、彼の言葉には曖昧にうなずくことしかできなかった。
シュヴァーはしきりにミオリがそのひとと会うことを心配していて、ラーセになだめられる始末だった。ミオリはなぜそんなにもシュヴァーが、なにに対して心配しているのかはイマイチよくわからなかった。ミオリはこの世界では異物で、珍獣みたいなものだが、だからと言って初対面の人間に比喩でなく噛みついたりはしない。
「……わたしは、書類にサインするだけでいいんですよね?」
「……ほら、お前が馬鹿みたいに心配するから、不安がってるじゃねえか」
「! ごめんね……不安にさせたいわけじゃなくて」
しかしシュヴァーはそこから先の言葉を口にはしなかった。そのまま、喉の奥へと呑み込んでしまったのは、ミオリにもなんとなくわかった。果たしてシュヴァーはなんと続けたかったのか。ミオリは気になりはしたものの、シュヴァーが言わないと決めたか、あるいは口にしたくはなかった言葉をゆすることなんて当然できなくて、黙った。
「――とにかく、早く書類揃えたいってせっつかれてる。日取りは明後日の昼前にしてもらった。シュヴァーが同席するから、なにか質問があればシュヴァーに聞け」
明後日は平日で、当然その時間帯にはシュヴァーもラーセも仕事があるだろう。ラーセが同席しない――というかできないのは仕事があるからで、一方シュヴァーはミオリの保護者としてその「同じ会社の、部署の違うひと」を連れて一時帰宅するという手はずであるらしい。さすがにそれくらいの事情や、流れはミオリの理解も追いついた。
「普通、こういうのは保護者や後見人が代理で出来るものなんだけどね……」
シュヴァーは最後まで心配そうにぼやいていた。彼らの口ぶりからして、この世界にほとんど女性がいないことが、その「普通」がまかり通らない原因であるらしいことをミオリは察した。やはり自分は、とにかくイレギュラーな存在なのだなとミオリは思い、少しだけ申し訳なくなった。
――そんな、二日前のやり取りを、場にそぐわないのにもかからずふと思い出してしまうていどに、ミオリは動揺していた。
「――本当に、おふたりに愛されてると思っていましたか?」
斜め左のひとり用のソファに腰掛けているのは、つい数分前にシュヴァーが連れてきた「同じ会社の、部署の違うひと」だ。ラーセとシュヴァーがそうしたように、ミオリに対して丁寧に書類の内容について説明してくれていた。左の目の下に泣きぼくろがあって、カッコイイというよりは、恐らくカワイイ系の顔立ちをしている。性別はもちろん、この世界で生きる人間なのだから、男性なのだろう。少なくとも、見た目はそうだ。
彼は、ミオリに丁寧に書類について説明していたときと、まったく同じ穏やかな口調で言った。
「『仕事』でだれかを愛するのって大変だと思いませんか?」
蛍光色のラインマーカーを手にしたまま、彼は微笑んでそう言った。
ミオリは、当然だが彼がなにを言っているのか、わからなかった。
彼は、聞き分けの悪い子供を相手にしているかのような、幼い子を言い聞かせるような、柔らかいけれどどこか咎めたてるような声音で言う。
「――本当に、おふたりに愛されてると思っていましたか?」
ミオリはやはり、彼がなにを言っているのかは理解できなかった。ただ、彼の言う「おふたり」がラーセとシュヴァーを指していることだけは、明瞭にわかってしまった。
ミオリの隣には、今はだれもいない。ラーセは職場にいるだろうし、シュヴァーは急な電話に出てこの場にはいなかった。そのことが急に、妙に寒々しく感じられた。
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