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今ではミオリの体にあるアザの数々は薄くなりつつあった。それでも、この世界に迷い込んだ当初は、そのアザも色濃くあって、もちろんそれはミオリ以外の人間にも視認できるものである。
けれども、ミオリを診察した医師はアザができた理由を尋ねてきはしたものの、ミオリの「不注意の怪我」だという返答を聞いて、それ以上なにも言わなかったのだ。
当時、ミオリはそのことに安堵した。母親と義父から不当な扱いを受けている自覚はうすぼんやりとながらあったものの、それを他人に知られることはなんだか怖くて、恥ずかしかった。虐げられているという事実をおぼろげながら認識しながらも、認められなかった。ミオリのちっぽけなプライドが、それを許せなかった。
しかし今、ミオリが目をそらし続けていた事実が、ラーセの言葉で白日のもとに晒されようとしている。
「ミオリちゃん……」
ミオリは目を泳がせた。膝に乗せた両の拳を、無意識のうちにぎゅっと握り込んでいた。全身から血の気が引いて寒くなって行くような気がしたあと、かっかと体が瞬間的に発熱したような気持ちにもなった。
「ミオリちゃんが帰りたくないなら、いつまでだってここにいればいいんだよ」
「……それは――」
シュヴァーの優しい言葉は、しかしミオリの心には甘くは響かなかった。今までだって、ラーセやシュヴァーに面倒や迷惑をかけているというのに、これ以上負担を押しつけるような選択を、ミオリが取れるはずもなかった。
――自分が口にすべきは「帰りたい」という言葉だったのだ。ミオリは遅まきながらにそう気づいて、己の失敗を悟った。だってそうだろう。だれにだって親きょうだいや友人といった関係を持つ人間が、世界に存在するのだ。その世界から理不尽に引き離されれば、だれだって「元の世界に帰りたい」と切に願うのだろう。それが、普通の反応なのだ。
「……子供が、変な遠慮するなよ。大人の立場がなくなるだろ」
「遠慮、と、いうか――……」
ミオリの声が、ふたたびみっともないくらいに震えた。ラーセもシュヴァーも、ミオリには一貫して優しい。ミオリのことを心から思っているかどうかまでは、もちろんわからないけれども、ミオリのことについてたくさん考えてくれているのは、たしかで。
ミオリの目にじわじわと涙の膜が張る。その頭の中では、母親や義父との思い出が、スクランブルエッグみたいにぐちゃぐちゃになって思い出されていた。悲しくて、仕方がなかった。この世界に来るまでまったくの見ず知らずだった、赤の他人のラーセやシュヴァーの優しさに触れてしまったから、気づいてしまった。
自分はもう――いや、とっくに、母親や義父にとって「いらない子」なのだと。ミオリに優しくしてくれなくなったのは、ミオリにはもう優しくする「価値」がないからなのだと。
ミオリは、悲しみの涙をこぼれさせた。向かい側に座るラーセとシュヴァーが、戸惑いを見せる気配を感じた。みじめで恥ずかしい気持ちを抱えながらも、ミオリは泣くことをやめられなかった。嗚咽をあげ、しゃくりあげながら、ミオリは叫んでいるのとほとんど同じ切実さで、言った。
「わたし、どこにも帰れない」
言葉にして発されたそれは、そのままミオリの心臓に、まっすぐに突き刺さった。肩を震わせ涙を流し、鼻をすする。顔面が涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていることを恥じる気持ちが妙に冷静にあって、ミオリはふたりから顔を隠すようにして深くうつむいた。
「ミオリちゃんが、帰る場所はここだよ」
ミオリが座るソファの、右側のクッションが沈む。シュヴァーが向かい側から移動してきたのだった。
「……『ここにいていい』って言ってるやつがふたりもいるなら、ここはもうお前の居場所だ」
ミオリの左側から、白いタオルが差しだされた。ミオリは恥ずかしくてそちらを見れなかったものの、声から、タオルを持ってきてくれたのはラーセだとわかった。ミオリはゆっくりと、さぐるような手つきでタオルを受け取る。申し訳なさが先だったものの、いつまでも見苦しい顔を晒しているわけにもいかないと思ったからだ。
柔らかく、ほのかに柔軟剤の香りがするタオルを顔にくっつける。震えるミオリの背中を、シュヴァーが優しい手つきで撫でているのがわかった。タオルで顔をぬぐえば、ミオリも少しだけ落ち着くことができた。
「すいません……」
みっともなく泣きわめいたことを恥ずかしく思い、ミオリは謝罪の言葉を口にした。もうすぐ小学校を卒業する年齢なのに、こんな風に泣くことになるとは、ミオリは想像だにしなかった。
ミオリは涙と鼻水をぬぐったタオルを膝に置く。その小さな手の甲に、不意にシュヴァーの節くれ立った大きな手が重なった。
「こういうときは謝るより『ありがとう』って言って欲しいかな」
「あ……ありがとうございます……」
「……別に、今は謝罪も感謝もいらないとは思うがな」
今度はソファの左側のクッションが沈み込んで、ラーセがそちらに腰を下ろしたことがわかった。
「……不用意に踏み込みすぎた。謝るべきは俺だ。……すまない」
ラーセの手が、遠慮がちにミオリの左手に触れる。ミオリはあわててラーセの顔を見た。
「ラーセさんは、なにも悪くないです」
「不躾だった。お前にだってプライバシーはある。それはいついかなるときにも尊重してしかるべきものだ」
「いえ……でも」
「まあまあミオリちゃん。ここは素直にラーセの謝罪を受け取っておきなよ。それで許してやれとかは私たちは言わないし」
「わ、わたしは怒ってるとかじゃないので、別にゆるさないとかそんな気持ちはないですけど――」
「――だってさ、ラーセ。よかったね?」
シュヴァーの、どこか悪戯っぽい口調を聞いて、ラーセはため息まじりの息を吐いた。
「ラーセはミオリちゃんのことが大切だから、嫌われたくなくて、さっきはめちゃくちゃあせってたんだよ」
ミオリはラーセから視線を外しシュヴァーのほうを向いたが、彼の言っていることがよく呑み込めず、目をぱちくりとさせた。
そしててっきりシュヴァーのからかい口調の言葉を、ラーセはすぐ否定するだろうとミオリは半ば確信していたが――そのような言葉は、ラーセの口からはついぞ出なかったのであった。
けれども、ミオリを診察した医師はアザができた理由を尋ねてきはしたものの、ミオリの「不注意の怪我」だという返答を聞いて、それ以上なにも言わなかったのだ。
当時、ミオリはそのことに安堵した。母親と義父から不当な扱いを受けている自覚はうすぼんやりとながらあったものの、それを他人に知られることはなんだか怖くて、恥ずかしかった。虐げられているという事実をおぼろげながら認識しながらも、認められなかった。ミオリのちっぽけなプライドが、それを許せなかった。
しかし今、ミオリが目をそらし続けていた事実が、ラーセの言葉で白日のもとに晒されようとしている。
「ミオリちゃん……」
ミオリは目を泳がせた。膝に乗せた両の拳を、無意識のうちにぎゅっと握り込んでいた。全身から血の気が引いて寒くなって行くような気がしたあと、かっかと体が瞬間的に発熱したような気持ちにもなった。
「ミオリちゃんが帰りたくないなら、いつまでだってここにいればいいんだよ」
「……それは――」
シュヴァーの優しい言葉は、しかしミオリの心には甘くは響かなかった。今までだって、ラーセやシュヴァーに面倒や迷惑をかけているというのに、これ以上負担を押しつけるような選択を、ミオリが取れるはずもなかった。
――自分が口にすべきは「帰りたい」という言葉だったのだ。ミオリは遅まきながらにそう気づいて、己の失敗を悟った。だってそうだろう。だれにだって親きょうだいや友人といった関係を持つ人間が、世界に存在するのだ。その世界から理不尽に引き離されれば、だれだって「元の世界に帰りたい」と切に願うのだろう。それが、普通の反応なのだ。
「……子供が、変な遠慮するなよ。大人の立場がなくなるだろ」
「遠慮、と、いうか――……」
ミオリの声が、ふたたびみっともないくらいに震えた。ラーセもシュヴァーも、ミオリには一貫して優しい。ミオリのことを心から思っているかどうかまでは、もちろんわからないけれども、ミオリのことについてたくさん考えてくれているのは、たしかで。
ミオリの目にじわじわと涙の膜が張る。その頭の中では、母親や義父との思い出が、スクランブルエッグみたいにぐちゃぐちゃになって思い出されていた。悲しくて、仕方がなかった。この世界に来るまでまったくの見ず知らずだった、赤の他人のラーセやシュヴァーの優しさに触れてしまったから、気づいてしまった。
自分はもう――いや、とっくに、母親や義父にとって「いらない子」なのだと。ミオリに優しくしてくれなくなったのは、ミオリにはもう優しくする「価値」がないからなのだと。
ミオリは、悲しみの涙をこぼれさせた。向かい側に座るラーセとシュヴァーが、戸惑いを見せる気配を感じた。みじめで恥ずかしい気持ちを抱えながらも、ミオリは泣くことをやめられなかった。嗚咽をあげ、しゃくりあげながら、ミオリは叫んでいるのとほとんど同じ切実さで、言った。
「わたし、どこにも帰れない」
言葉にして発されたそれは、そのままミオリの心臓に、まっすぐに突き刺さった。肩を震わせ涙を流し、鼻をすする。顔面が涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていることを恥じる気持ちが妙に冷静にあって、ミオリはふたりから顔を隠すようにして深くうつむいた。
「ミオリちゃんが、帰る場所はここだよ」
ミオリが座るソファの、右側のクッションが沈む。シュヴァーが向かい側から移動してきたのだった。
「……『ここにいていい』って言ってるやつがふたりもいるなら、ここはもうお前の居場所だ」
ミオリの左側から、白いタオルが差しだされた。ミオリは恥ずかしくてそちらを見れなかったものの、声から、タオルを持ってきてくれたのはラーセだとわかった。ミオリはゆっくりと、さぐるような手つきでタオルを受け取る。申し訳なさが先だったものの、いつまでも見苦しい顔を晒しているわけにもいかないと思ったからだ。
柔らかく、ほのかに柔軟剤の香りがするタオルを顔にくっつける。震えるミオリの背中を、シュヴァーが優しい手つきで撫でているのがわかった。タオルで顔をぬぐえば、ミオリも少しだけ落ち着くことができた。
「すいません……」
みっともなく泣きわめいたことを恥ずかしく思い、ミオリは謝罪の言葉を口にした。もうすぐ小学校を卒業する年齢なのに、こんな風に泣くことになるとは、ミオリは想像だにしなかった。
ミオリは涙と鼻水をぬぐったタオルを膝に置く。その小さな手の甲に、不意にシュヴァーの節くれ立った大きな手が重なった。
「こういうときは謝るより『ありがとう』って言って欲しいかな」
「あ……ありがとうございます……」
「……別に、今は謝罪も感謝もいらないとは思うがな」
今度はソファの左側のクッションが沈み込んで、ラーセがそちらに腰を下ろしたことがわかった。
「……不用意に踏み込みすぎた。謝るべきは俺だ。……すまない」
ラーセの手が、遠慮がちにミオリの左手に触れる。ミオリはあわててラーセの顔を見た。
「ラーセさんは、なにも悪くないです」
「不躾だった。お前にだってプライバシーはある。それはいついかなるときにも尊重してしかるべきものだ」
「いえ……でも」
「まあまあミオリちゃん。ここは素直にラーセの謝罪を受け取っておきなよ。それで許してやれとかは私たちは言わないし」
「わ、わたしは怒ってるとかじゃないので、別にゆるさないとかそんな気持ちはないですけど――」
「――だってさ、ラーセ。よかったね?」
シュヴァーの、どこか悪戯っぽい口調を聞いて、ラーセはため息まじりの息を吐いた。
「ラーセはミオリちゃんのことが大切だから、嫌われたくなくて、さっきはめちゃくちゃあせってたんだよ」
ミオリはラーセから視線を外しシュヴァーのほうを向いたが、彼の言っていることがよく呑み込めず、目をぱちくりとさせた。
そしててっきりシュヴァーのからかい口調の言葉を、ラーセはすぐ否定するだろうとミオリは半ば確信していたが――そのような言葉は、ラーセの口からはついぞ出なかったのであった。
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