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「京太郎は勘違いしている」
いつも通り京太郎の部活動――剣道部である――が終わるのを待って、ふたりは夕暮れに沈む街を並んで歩いていた。
すると、ふいに在雅がそんなことを口にする。
「なんの話だ?」
当然、そう返すのが普通だろう。
けれども在雅は、それがまさに自分の言わんとしていることなのだとばかりに首を振った。
「オメガのことだ」
「勘違い?」
「そうだ。オメガのことを可愛くて守ってやらなくてはならない存在だと思っているだろう?」
「……それはな」
京太郎にとっては、それは当たり前の認識だった。
オメガは、男性性女性性問わず体に筋肉がつきにくい。逆に、ふわふわと柔らかな肉がつきやすい。
それだけを持ってしても、なんとも庇護欲をそそる体の構造だと京太郎は思う。
加えて身長もさほど伸びない。事実、縦にも横にも貧弱なオメガが、今、京太郎の隣を歩いている。
体が成長しきっていない幼い子どもを守らねばと思うように、身体構造上、圧倒的な弱者であるか弱いオメガを守らねばと思うのは、京太郎にとってはごく自然の流れだった。
……しかし、それが大いなる勘違いなのだと在雅は言いたいらしい。
「オメガにだって性欲はある。支配欲もある。独占欲だってある。それを京太郎はわかっていない」
「そんなことはない」
「そうか? ……その身体的特徴を持ってアルファがオメガを屈服できるように、オメガもアルファを支配しようと思えばできる」
オメガは弱い。けれどもそんな彼ら彼女らにだって武器はある。
アルファを誘引する性フェロモンがそれだ。
どれほど肉体的に、精神的に優れたアルファであろうと、オメガが発情期に発する性フェロモンに抗うのは難しい。
理性をとろかせ、本能を突き動かし、アルファの心を絡め取る――。
しかしそれは、京太郎に言わせれば諸刃の武器であった。
「たしかにオメガのフェロモンはアルファを支配できるが……すべてのオメガがフェロモンをコントロールできるわけじゃない」
そうなのだ。
多くのオメガは発情期に伴って性フェロモンを際限なく周囲に垂れ流すしかない。
なかにはフェロモンの指向を完全にコントロールできるオメガもいるらしいが、それはほとんど都市伝説上の存在と言ってもよかった。
だからこそ有史以来、オメガのフェロモンとそれにまつわる悲劇は枚挙に暇がないのである。
「けれども狙うことはできる。それこそ漁や狩りのように、発情期を狙ってアルファに近づくこともできる」
「それで、すべてのアルファがオメガに屈するわけじゃない」
「……お前のように?」
在雅が意味ありげに京太郎へと視線を寄越す。
「そうだ」
京太郎はそれに肯定を返す。
そう。オメガの性フェロモンはアルファを惹きつけてやまないが、それに抗いきれないわけではない。
強靭な精神力と理性を持ってすれば、発情期の――非常に魅力的な――オメガを跳ね除けることもできなくはないのだ。
事実、京太郎はかつてそうした。
それでも――珍しく――在雅が助けに入っていなければ、その後どうなっていたかまではわからないが。
それほどまでにオメガの性フェロモンは、アルファにとっては抗いがたい魅力を持つものなのである。
「主将……ぼくのつがいになって」
その声は甘やかであると同時に、ひどく耳障りな印象を伴って、しばらく京太郎の脳裏に焼きついて離れなかった。
中学三年生の初夏。プレハブの部活棟に与えられた剣道部の部室に、部長として最後まで残っていた京太郎は、マネージャーに襲われた。
つい先ほどまで、ベータだと疑っていなかった男に、だ。
京太郎の印象では、彼はよく働く男だった。いつも健気に走り回って、よく気のつくマネージャー。
性格はどちらかと言えば体育会系に似つかわしくない、控えめで大人しいタイプ。
それでもどういうわけか剣道部でマネージャーをしている。
それが彼への印象のすべてだった。
……悪い人間だとは、一度も思ったことがなかった。
むしろ無意識のうちに彼は常識ある、善良な人間だと京太郎は思い込んでいたと言える。
しかしそれはいまや木っ端微塵に砕かれた。
京太郎の名を呼ぶのと同じ甘さでフェロモンを発し、アルファである己を誘引する――。
明らかな非常事態だ。
「抑制剤は?」
迫るマネージャーの肩をつかんで距離を取る。
少々、力が入りすぎた。
それでも彼は嫌な顔をひとつせず、むしろその些細な接触に喜悦の色をにじませる。
もう一度言う。――非常事態だ。
普段の彼とは違うその表情を見て、京太郎はすぐさまそう断じた。
そして京太郎はそのときまでマネージャーの良心を疑ってはいなかった。
マネージャーにとってもこの発情は不測の事態なのだろうと、京太郎は思っていた。
しかしそれもすぐに覆されて、京太郎の彼に対する評価は粉微塵にされたのである。
「いらないよ、そんなの」
「そんなのって――」
思わず絶句する京太郎に、マネージャーは妖艶な笑みを浮かべる。
働き者の手指が、するりと京太郎の股のあいだに伸ばされて、すすっと指先で彼のものの形をなぞった。
ぞくり、と京太郎の背筋を不愉快な快感が駆け上る。
反射的にマネージャーの手を払いのけて、距離を取ろうと一歩後ろへ下がった。
がこん。
軽い金属の音が背中に伝わる。京太郎のすぐ背にはロッカーが迫っていた。
「落ち着け」
搾り出すようにそう告げるも、マネージャーは意に介していないようだ。
あまりに強すぎるフェロモンに初めて曝された京太郎は、頭がガンガンと痛むのを感じる。
過ぎたフェロモンは、快楽より先に頭痛を引き起こしたらしい。
しかし、今の京太郎にとっては不幸中の幸いと言えた。
「主将ってアルファだよね?」
痛む頭に思わず目元を細める。
マネージャーはそれをどう受け取ったのか、また京太郎と距離を詰めた。
鼻腔がマネージャーのフェロモンを甘いと感じ取る。
けれどもそれは京太郎には不愉快な甘さに感じられた。
まるでその甘さにどぎつい、ビビッドでケミカルな色がついて見えるようだった。
「違う」
反射的にウソをついた。
ただ、マネージャーのフェロモンという名の毒牙から逃れたい。
その思いだけで、京太郎はその――ときどき在雅に注意されるほどの――愚直すぎる性格にしては珍しく、ウソをついた。
だがもちろん、そんな付け焼刃のウソがマネージャーに通じるはずもない。
中学三年生にしてすでに一八〇センチを超える身長に加え、分厚い筋肉のついた肉体を見れば、だれだって彼はアルファなのだろうと予測をつけられる。
それがわからない京太郎ではなかったが――ただ、今はマネージャーから逃れたいがために、そんな稚拙なウソが口を突いて出たのだ。
体をぐるぐると熱が巡っているようだった。
それは待ち望んだ興奮とは程遠い――不快な感覚。
芯を持ち始めた自身とは対照的に、京太郎の心は萎んでいくばかりだった。
言うまでもなく、京太郎は今までマネージャーに対して性的な感情を抱いたことがない。
そういう目で見たことも、一度もなかった。
たしかにマネージャーはすべての性の平均に比べれば小柄だったし、顔も二次性徴を迎えたとは思えないような、中性的な面立ちをしている。
だから部員の中には彼をそういう目で――もちろん深く考えず――見ている輩がいることも、京太郎は把握していた。
けれども京太郎は、天と親に誓って一度も彼をそういう目で見たこともなかったし、ましてやどうこうしたいなどと考えたことはなかった。
――もちろん、だからこそ、彼がオメガだという可能性にすら思い至らなかった。
そしてその結果が――この非常事態である。
天は不平等だ。
京太郎は強くそう思った。
「ねえ、主将……しよ?」
――しかし天は同時に救いをももたらした。
あまりにも遅い京太郎を心配した在雅が、部室を訪れたのである。
そしてオメガである在雅は扉を開ける前に事態を察した。
オメガのフェロモンが同じオメガを誘引することはないが、ほとんどそれを感知できないベータとは違って、嗅ぎ分けることはできる。
だからこそ在雅はすぐさま京太郎が非常事態に晒されていることを悟った。
もちろん、京太郎がオメガと望んでくんずほぐれつしている可能性もなくはなかったが、逆に親がその愚直さを心配するほどの品行方正さで通っている彼のことだ。
それはないだろうと在雅はすぐに断じた。
彼との長い付き合いがあったからこそ、すぐにそう思えた――という面もあった。
勢いよく開け放たれた簡素なアルミの扉から、マネージャーの甘ったるいフェロモンが抜け出て行く。
同時に新鮮な空気がもったりとした部室の中にもたらされて、京太郎は自分が無意識のうちに息を止めていたことを知った。
「……あっ、宮益……くん」
マネージャーが突如現れた在雅を見て、おどろき半分、忌々しさ半分といった声を出す。
「学校でこんなことをするのは、いただけないな」
在雅の切れ長の目が、マネージャーと京太郎を射抜く。
京太郎はとっさにあわてた。在雅に誤解されていると思ったからだ。
「違う」
それだけを搾り出すように口にしたあと、距離の近いマネージャーの肩を軽く押した。
眼下で、マネージャーは傷ついたような顔をしたが、そうしたいのはむしろ京太郎のほうだった。
けれども頭に上ったのは、マネージャーを糾弾しようとする思いよりも、むしろ彼の発情期をどうにかしなければという感情だった。
「抑制剤を飲まないと――」
「抑制剤はどこだ? 動けるのか?」
京太郎と在雅がそう言ったのはほとんど同時だった。
それがどうにもこうにも、マネージャーの神経を逆なでしたらしい。京太郎にはさっぱりその心の機序はわからなかったが。
「っ……! 抑制剤、飲むから出て行って!」
そうして締め出された京太郎と在雅は、互いに顔を見合わせた。
京太郎の顔は疑問符と大いなる安堵で埋め尽くされていただろうが、在雅のほうはまた違った。
京太郎をどこか同情に満ちた目で見るや、そのがっしりとした肩をポンと叩く。
「……まあ、なにを言われたかは知らないが、気にするな。発情期のことだ。彼も理性的にはなれなかったんだろう」
どこかマネージャーをかばうようなセリフに、思わないところもなくはなかったが、京太郎はため息をつくだけに留めた。
この件は結局おおやけにはならずに済んだものの、部活動を引退するまでの数ヶ月、気まずい思いをしたことだけは確かだ。
「……まあ、在雅はそんなことをしないだろう?」
そう、中学時代のときもそんなことを京太郎は在雅に向かって問うた気がする。
そのときは彼はなんと返したのだったか記憶はおぼろげだが、肯定が返ってきたような感触が残っていた。
……けれども、高校生になった在雅は――どんな心境の変化があったのか――違った。
「わからないぞ?」
どこかおどけて言う在雅に、京太郎は密かに動揺する。
そんな、道徳にもとるような行為はしないと、在雅が返してくれるのだとばかり、京太郎は思っていたからだ。
そんな京太郎の心境を知ってか知らずか、なんでもないことのように在雅は言葉を続けた。
「――恋に狂った人間はなにをするかわからない。……近頃、そう感じるようになった」
「らしくないな」
「そうでもない」
「好きなやつでもできたか?」
京太郎は気軽な調子でそう言った。
「――ああ」
けれども、返ってきた在雅のそのひとことに、京太郎は心を打ち砕かれたような気になった。
「……そ、そうか」
「……ああ」
京太郎はひどく狼狽し、動揺した。
そしてあっという間にそんな風になってしまった自身の心情におどろき、またショックを受ける。
――いつか、在雅が愛しい相手を見つけるまで、彼を守る。
それが恵まれた体格を持って生まれた自身の役目のはずだ。
そう、京太郎は信じて疑っていなかった。
いつかは在雅にも愛する相手が現れるのは、ごく自然なこととして京太郎は――受け止めていた、はずだった。
けれども現実はどうだろうか。
いざ在雅から好きな相手がいると取れる言質をもらったのに、この醜態。
――馬鹿な、と京太郎は思う。
そう、馬鹿だ。ショックを受けるなんて。
そしてそのときになって京太郎は気づいたのだ。
永遠に在雅が隣にいるというような錯覚を、自分がしていたということに。
そして在雅を守っていくのは自分なのだと思い上がっていたということに。
その場所が、在雅の愛しい相手にとって変わられる可能性を、京太郎は見落としていた。
――そのすべてに、今この瞬間、京太郎は気づいたのだ。
……待ち望んだ答えのはずだったのに、それを自分は望んでなどいなかったという事実に。
荒れ狂う心情を抱えては、もはや外のことに対して意識を向けることなどできない。
結局、京太郎は在雅にその相手がどんな人間なのかというような質問も出来ぬまま、気がつけば彼と別れの言葉を交わして、自分の家の門扉の前に立っていた。
いつも通り京太郎の部活動――剣道部である――が終わるのを待って、ふたりは夕暮れに沈む街を並んで歩いていた。
すると、ふいに在雅がそんなことを口にする。
「なんの話だ?」
当然、そう返すのが普通だろう。
けれども在雅は、それがまさに自分の言わんとしていることなのだとばかりに首を振った。
「オメガのことだ」
「勘違い?」
「そうだ。オメガのことを可愛くて守ってやらなくてはならない存在だと思っているだろう?」
「……それはな」
京太郎にとっては、それは当たり前の認識だった。
オメガは、男性性女性性問わず体に筋肉がつきにくい。逆に、ふわふわと柔らかな肉がつきやすい。
それだけを持ってしても、なんとも庇護欲をそそる体の構造だと京太郎は思う。
加えて身長もさほど伸びない。事実、縦にも横にも貧弱なオメガが、今、京太郎の隣を歩いている。
体が成長しきっていない幼い子どもを守らねばと思うように、身体構造上、圧倒的な弱者であるか弱いオメガを守らねばと思うのは、京太郎にとってはごく自然の流れだった。
……しかし、それが大いなる勘違いなのだと在雅は言いたいらしい。
「オメガにだって性欲はある。支配欲もある。独占欲だってある。それを京太郎はわかっていない」
「そんなことはない」
「そうか? ……その身体的特徴を持ってアルファがオメガを屈服できるように、オメガもアルファを支配しようと思えばできる」
オメガは弱い。けれどもそんな彼ら彼女らにだって武器はある。
アルファを誘引する性フェロモンがそれだ。
どれほど肉体的に、精神的に優れたアルファであろうと、オメガが発情期に発する性フェロモンに抗うのは難しい。
理性をとろかせ、本能を突き動かし、アルファの心を絡め取る――。
しかしそれは、京太郎に言わせれば諸刃の武器であった。
「たしかにオメガのフェロモンはアルファを支配できるが……すべてのオメガがフェロモンをコントロールできるわけじゃない」
そうなのだ。
多くのオメガは発情期に伴って性フェロモンを際限なく周囲に垂れ流すしかない。
なかにはフェロモンの指向を完全にコントロールできるオメガもいるらしいが、それはほとんど都市伝説上の存在と言ってもよかった。
だからこそ有史以来、オメガのフェロモンとそれにまつわる悲劇は枚挙に暇がないのである。
「けれども狙うことはできる。それこそ漁や狩りのように、発情期を狙ってアルファに近づくこともできる」
「それで、すべてのアルファがオメガに屈するわけじゃない」
「……お前のように?」
在雅が意味ありげに京太郎へと視線を寄越す。
「そうだ」
京太郎はそれに肯定を返す。
そう。オメガの性フェロモンはアルファを惹きつけてやまないが、それに抗いきれないわけではない。
強靭な精神力と理性を持ってすれば、発情期の――非常に魅力的な――オメガを跳ね除けることもできなくはないのだ。
事実、京太郎はかつてそうした。
それでも――珍しく――在雅が助けに入っていなければ、その後どうなっていたかまではわからないが。
それほどまでにオメガの性フェロモンは、アルファにとっては抗いがたい魅力を持つものなのである。
「主将……ぼくのつがいになって」
その声は甘やかであると同時に、ひどく耳障りな印象を伴って、しばらく京太郎の脳裏に焼きついて離れなかった。
中学三年生の初夏。プレハブの部活棟に与えられた剣道部の部室に、部長として最後まで残っていた京太郎は、マネージャーに襲われた。
つい先ほどまで、ベータだと疑っていなかった男に、だ。
京太郎の印象では、彼はよく働く男だった。いつも健気に走り回って、よく気のつくマネージャー。
性格はどちらかと言えば体育会系に似つかわしくない、控えめで大人しいタイプ。
それでもどういうわけか剣道部でマネージャーをしている。
それが彼への印象のすべてだった。
……悪い人間だとは、一度も思ったことがなかった。
むしろ無意識のうちに彼は常識ある、善良な人間だと京太郎は思い込んでいたと言える。
しかしそれはいまや木っ端微塵に砕かれた。
京太郎の名を呼ぶのと同じ甘さでフェロモンを発し、アルファである己を誘引する――。
明らかな非常事態だ。
「抑制剤は?」
迫るマネージャーの肩をつかんで距離を取る。
少々、力が入りすぎた。
それでも彼は嫌な顔をひとつせず、むしろその些細な接触に喜悦の色をにじませる。
もう一度言う。――非常事態だ。
普段の彼とは違うその表情を見て、京太郎はすぐさまそう断じた。
そして京太郎はそのときまでマネージャーの良心を疑ってはいなかった。
マネージャーにとってもこの発情は不測の事態なのだろうと、京太郎は思っていた。
しかしそれもすぐに覆されて、京太郎の彼に対する評価は粉微塵にされたのである。
「いらないよ、そんなの」
「そんなのって――」
思わず絶句する京太郎に、マネージャーは妖艶な笑みを浮かべる。
働き者の手指が、するりと京太郎の股のあいだに伸ばされて、すすっと指先で彼のものの形をなぞった。
ぞくり、と京太郎の背筋を不愉快な快感が駆け上る。
反射的にマネージャーの手を払いのけて、距離を取ろうと一歩後ろへ下がった。
がこん。
軽い金属の音が背中に伝わる。京太郎のすぐ背にはロッカーが迫っていた。
「落ち着け」
搾り出すようにそう告げるも、マネージャーは意に介していないようだ。
あまりに強すぎるフェロモンに初めて曝された京太郎は、頭がガンガンと痛むのを感じる。
過ぎたフェロモンは、快楽より先に頭痛を引き起こしたらしい。
しかし、今の京太郎にとっては不幸中の幸いと言えた。
「主将ってアルファだよね?」
痛む頭に思わず目元を細める。
マネージャーはそれをどう受け取ったのか、また京太郎と距離を詰めた。
鼻腔がマネージャーのフェロモンを甘いと感じ取る。
けれどもそれは京太郎には不愉快な甘さに感じられた。
まるでその甘さにどぎつい、ビビッドでケミカルな色がついて見えるようだった。
「違う」
反射的にウソをついた。
ただ、マネージャーのフェロモンという名の毒牙から逃れたい。
その思いだけで、京太郎はその――ときどき在雅に注意されるほどの――愚直すぎる性格にしては珍しく、ウソをついた。
だがもちろん、そんな付け焼刃のウソがマネージャーに通じるはずもない。
中学三年生にしてすでに一八〇センチを超える身長に加え、分厚い筋肉のついた肉体を見れば、だれだって彼はアルファなのだろうと予測をつけられる。
それがわからない京太郎ではなかったが――ただ、今はマネージャーから逃れたいがために、そんな稚拙なウソが口を突いて出たのだ。
体をぐるぐると熱が巡っているようだった。
それは待ち望んだ興奮とは程遠い――不快な感覚。
芯を持ち始めた自身とは対照的に、京太郎の心は萎んでいくばかりだった。
言うまでもなく、京太郎は今までマネージャーに対して性的な感情を抱いたことがない。
そういう目で見たことも、一度もなかった。
たしかにマネージャーはすべての性の平均に比べれば小柄だったし、顔も二次性徴を迎えたとは思えないような、中性的な面立ちをしている。
だから部員の中には彼をそういう目で――もちろん深く考えず――見ている輩がいることも、京太郎は把握していた。
けれども京太郎は、天と親に誓って一度も彼をそういう目で見たこともなかったし、ましてやどうこうしたいなどと考えたことはなかった。
――もちろん、だからこそ、彼がオメガだという可能性にすら思い至らなかった。
そしてその結果が――この非常事態である。
天は不平等だ。
京太郎は強くそう思った。
「ねえ、主将……しよ?」
――しかし天は同時に救いをももたらした。
あまりにも遅い京太郎を心配した在雅が、部室を訪れたのである。
そしてオメガである在雅は扉を開ける前に事態を察した。
オメガのフェロモンが同じオメガを誘引することはないが、ほとんどそれを感知できないベータとは違って、嗅ぎ分けることはできる。
だからこそ在雅はすぐさま京太郎が非常事態に晒されていることを悟った。
もちろん、京太郎がオメガと望んでくんずほぐれつしている可能性もなくはなかったが、逆に親がその愚直さを心配するほどの品行方正さで通っている彼のことだ。
それはないだろうと在雅はすぐに断じた。
彼との長い付き合いがあったからこそ、すぐにそう思えた――という面もあった。
勢いよく開け放たれた簡素なアルミの扉から、マネージャーの甘ったるいフェロモンが抜け出て行く。
同時に新鮮な空気がもったりとした部室の中にもたらされて、京太郎は自分が無意識のうちに息を止めていたことを知った。
「……あっ、宮益……くん」
マネージャーが突如現れた在雅を見て、おどろき半分、忌々しさ半分といった声を出す。
「学校でこんなことをするのは、いただけないな」
在雅の切れ長の目が、マネージャーと京太郎を射抜く。
京太郎はとっさにあわてた。在雅に誤解されていると思ったからだ。
「違う」
それだけを搾り出すように口にしたあと、距離の近いマネージャーの肩を軽く押した。
眼下で、マネージャーは傷ついたような顔をしたが、そうしたいのはむしろ京太郎のほうだった。
けれども頭に上ったのは、マネージャーを糾弾しようとする思いよりも、むしろ彼の発情期をどうにかしなければという感情だった。
「抑制剤を飲まないと――」
「抑制剤はどこだ? 動けるのか?」
京太郎と在雅がそう言ったのはほとんど同時だった。
それがどうにもこうにも、マネージャーの神経を逆なでしたらしい。京太郎にはさっぱりその心の機序はわからなかったが。
「っ……! 抑制剤、飲むから出て行って!」
そうして締め出された京太郎と在雅は、互いに顔を見合わせた。
京太郎の顔は疑問符と大いなる安堵で埋め尽くされていただろうが、在雅のほうはまた違った。
京太郎をどこか同情に満ちた目で見るや、そのがっしりとした肩をポンと叩く。
「……まあ、なにを言われたかは知らないが、気にするな。発情期のことだ。彼も理性的にはなれなかったんだろう」
どこかマネージャーをかばうようなセリフに、思わないところもなくはなかったが、京太郎はため息をつくだけに留めた。
この件は結局おおやけにはならずに済んだものの、部活動を引退するまでの数ヶ月、気まずい思いをしたことだけは確かだ。
「……まあ、在雅はそんなことをしないだろう?」
そう、中学時代のときもそんなことを京太郎は在雅に向かって問うた気がする。
そのときは彼はなんと返したのだったか記憶はおぼろげだが、肯定が返ってきたような感触が残っていた。
……けれども、高校生になった在雅は――どんな心境の変化があったのか――違った。
「わからないぞ?」
どこかおどけて言う在雅に、京太郎は密かに動揺する。
そんな、道徳にもとるような行為はしないと、在雅が返してくれるのだとばかり、京太郎は思っていたからだ。
そんな京太郎の心境を知ってか知らずか、なんでもないことのように在雅は言葉を続けた。
「――恋に狂った人間はなにをするかわからない。……近頃、そう感じるようになった」
「らしくないな」
「そうでもない」
「好きなやつでもできたか?」
京太郎は気軽な調子でそう言った。
「――ああ」
けれども、返ってきた在雅のそのひとことに、京太郎は心を打ち砕かれたような気になった。
「……そ、そうか」
「……ああ」
京太郎はひどく狼狽し、動揺した。
そしてあっという間にそんな風になってしまった自身の心情におどろき、またショックを受ける。
――いつか、在雅が愛しい相手を見つけるまで、彼を守る。
それが恵まれた体格を持って生まれた自身の役目のはずだ。
そう、京太郎は信じて疑っていなかった。
いつかは在雅にも愛する相手が現れるのは、ごく自然なこととして京太郎は――受け止めていた、はずだった。
けれども現実はどうだろうか。
いざ在雅から好きな相手がいると取れる言質をもらったのに、この醜態。
――馬鹿な、と京太郎は思う。
そう、馬鹿だ。ショックを受けるなんて。
そしてそのときになって京太郎は気づいたのだ。
永遠に在雅が隣にいるというような錯覚を、自分がしていたということに。
そして在雅を守っていくのは自分なのだと思い上がっていたということに。
その場所が、在雅の愛しい相手にとって変わられる可能性を、京太郎は見落としていた。
――そのすべてに、今この瞬間、京太郎は気づいたのだ。
……待ち望んだ答えのはずだったのに、それを自分は望んでなどいなかったという事実に。
荒れ狂う心情を抱えては、もはや外のことに対して意識を向けることなどできない。
結局、京太郎は在雅にその相手がどんな人間なのかというような質問も出来ぬまま、気がつけば彼と別れの言葉を交わして、自分の家の門扉の前に立っていた。
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