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31_労いの言葉
しおりを挟む――――日が沈み、空から下りてきた夜のとばりが、窓の外から光を摘み取っていった。
皇宮の部屋で、鏡台の前に腰かけ、額の包帯をとった私は、一息ついた。
包帯を外すと、額に残った瘡蓋と青紫色の傷跡がよく見えて、憂鬱な気持ちになる。
「寝衣を用意いたしました」
「ありがとう」
寝衣を受けとっても、疲れから、すぐには着替える気になれなかった。
望み通りの結末になったとはいえ、これはまだ第一段階に過ぎないし、これからはいっそう、ヘレボルスは攻撃的になるだろうから、私はさらに気を引きしめなければならない。
――――そう思っているのに、疲れのせいか、霧を流し込まれたように、頭が朦朧としている。
「ローナ様、ローナ様!」
ぼんやりしていた私は、部屋に駆け込んできたカタリナの声で、自分を取り戻した。
「どうしたの、カタリナ。あまり、大きな声を出しては駄目よ」
「も、申し訳ありません」
カタリナは動揺している。
「どうしたの?」
「陛下がここへ、いらっしゃるそうです!」
「陛下が?」
頭が真っ白になった。
(どうしてカエキリウスが?)
一瞬、夜伽という言葉が頭をよぎったけれど、すぐに違うと自分に言い聞かせる。他の女性のところに行くことを、ルジェナは許さないだろうし、カエキリウスは私に、興味がない。
「どうしましょう?」
「断るわけにはいかないわ。お迎えしましょう」
動揺を引き摺りながら、私は立ち上がる。
テーブルや紅茶の準備が整ったところで、カエキリウスが入ってきた。
「陛下に拝謁いたします」
挨拶すると、カエキリウスは軽く頷く。
「失礼します」
私とカエキリウスがテーブルに座ったところで、カタリナ達は一礼し、部屋から出ていった。
私とカエキリウスは、二人きりになる。
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
(・・・・気まずい)
夫婦として同じ建物の中で暮らしていたこともあったのに、公務の話以外はほとんどしなかったから、何を話せばいいのかわからない。
「・・・・怪我の具合はどうだ?」
しばらくして、カエキリウスが口を開いた。
「・・・・痛みは、だいぶ引きました」
昼間も聞いたことなのに、と私は不思議に思う。まさかそれを聞くためだけに、部屋を訪ねてきたのだろうか。
(・・・・もしかして私のことを心配して、わざわざ訪ねてきてくれたの?)
カエキリウスの表情を窺う。
(この人も、本当の悪人ではなかったのね・・・・)
皇子だった頃のカエキリウスは、公明正大な人物で知られていたそうだ。
皇帝に即位し、変わってしまったのだろうと思っていたけれど、もしかしたら今でも、彼は正しい施政者としての心は、失っていないのかもしれない。
――――彼の判断力を鈍らせているのは、ヘレボルスとルジェナだ。カエキリウスは、二人のことを正しい人物だと信じていて、彼らの助言は何でも聞き入れてしまう。
愛は盲目と言うけれど、ルジェナへの愛が、本当に彼の目を曇らせている。
彼が愛した女性が、本当に優しく、愛らしいだけの女性だったのなら、彼は今でも、正しい人でいられたのかもしれない。
(・・・・でも、許すことはできない)
たとえ、カエキリウスに悪意がないのだとしても、彼が正しい判断をしてくれなかったせいで、私は家族を失い、大勢の人が亡くなった。
――――許せるはずがなかった。
「申し訳ありません、陛下。今はあまり、気分が優れないのです」
「そうだな、すまない。君を休ませるべきだったのだろう」
カエキリウスは立ち上がる。
そのまま退室するだろうと思っていたのに、なぜか彼は私の前に立った。
カエキリウスは、驚いて、身動きがとれずにいる私の額に触れる。
その時になってようやく、私は額の傷口を、包帯で隠すことを忘れていたことに気づいた。
「・・・・怒り狂う民衆を前にするのは、怖かっただろう?」
私は顔を伏せる。
「・・・・逃げるわけにはいかないと思いました」
確かに、突き刺さる敵意に、恐怖心を抱かなかったわけじゃない。
でも逃げるわけにはいかないという意思が、私の足を立たせてくれた。
「・・・・そうか。それはとても――――立派な心掛けだ」
顔を上げると、カエキリウスと目が合う。彼は笑っていた。
「それでは、私は戻る。数日、君の予定を開けておくから、その間、ゆっくり休みなさい」
「はい」
カエキリウスは部屋を出ていき、扉は閉められた。
「・・・・何だったの・・・・?」
結局、カエキリウスが何をしに訊ねてきたのか、わからないままだった。
カエキリウスが退室した後もしばらく、私はその行動について、悩まされることになった。
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