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3_二度目の人生のはじまり
しおりを挟む「――――お嬢様、ルーナティアお嬢様!」
誰かの声が、私の意識を、眠りの中から引きずり出した。
「ん・・・・?」
微睡みに引きずられながら、私は瞼をこじ開ける。
視界はぼやけていたけれど、ベッドの天蓋と、私を覗き込む誰かの顔が薄っすらと見えた。
「お嬢様、起きてください!」
まだ眠りに浸っていたいのに、その人物は、執拗に私を起こそうとする。
「もう少し眠らせて・・・・」
「駄目です、起きてください!」
「んん・・・・あれ?」
自分がいる場所を確かめると、微睡みに支配された意識の中に、違和感が滑り込んできた。それで、眠気が弱まる。
カーテン、絨毯、棚まで、淡い色合いで統一されたその部屋は、間違いなくリーベラ家の屋敷にある、私の私室だった。
死にゆく町の騒乱が嘘のように、部屋の中には静寂が満ちている。窓からは、穏やかな朝を象徴するような、白絹の朝陽が差し込んでいた。
(・・・・私、どうしてここに?)
――――私は塔から身を投げて、死んだはず。
なのに今、私は温かいベッドで、微睡みの心地よさに浸りながら、天蓋を見つめている。
眠りに落ちる前のことを思い出そうとするけれど、浮上してくるのは、バルコニーまで舞い上がってくる熱風と、火の粉の熱さだけだ。――――あの悪夢の日々が夢だったなんて、とても思えない。
(死んだということかしら?)
もしかしたら私は今、天国にいるのだろうか。いや、たいした善行を積んでいない私が天国に行けるとは思えない。かといって、地獄の灼熱も感じないから、天国でも地獄でもない、煉獄という可能性もある。
「お嬢様、さっさと起きてください。いつまで、惰眠を貪るいぎたない姿を晒すおつもりですか」
毒舌でちくちくと刺してくる、この女性の名前はフアナ、我が家の侍女ではなく、結婚を目前にして、王室が派遣してきた付き人だ。輿入れの準備をするために、この家にやってきた。
「・・・・フアナ、あなた、生きてるの?」
思わず、呟くように問いかけてしまう。
フアナはエセキアスが狂王の片鱗を見せはじめた頃に、危険を感じたのか、王宮を去った。その後ブランデを離れようとしたところで野盗に襲われ、亡くなったと聞いている。
「いえ、あの世で再会したってことかしら?」
フアナが先に渡っていた彼岸に、私も到達したということだろうか。
だけど私の言葉を聞いたフアナは、苦虫を噛み潰したような顔になった。
「・・・・お嬢様、寝ぼけているんですか?」
「私は死んだはずなのよ・・・・」
「そうですか。死にたいのなら、息を止めなければなりませんね。枕で口を塞いで差し上げましょうか?」
「・・・・・・・・」
フアナの毒舌は相変わらずだ。威勢がいいその姿は、とても幽霊には見えない。
(考えるだけ、無駄よね)
自分とフアナがここにいる理由を考えていたけれど、しばらくして考えることを馬鹿らしいと感じ、思考に蓋をした。
(私は、死んだんだ)
――――私は、塔から身を投げ、死んだ。生前、味わわされてきた痛みや恐怖、屈辱も、すべては過去のもの、苦しみのない世界で、今後は自由に過ごすことができる。
私はベッドから飛び下りると、晴れ晴れした気持ちで窓を開け放った。
夜明けの空には、溌溂とした青が芽生え、清潔な朝の風が、蜘蛛の糸のような悪夢の余韻を、吹き飛ばしてくれた。
私は手足を大きく伸ばして、清涼な空気を肺いっぱいに吸い込む。
「お嬢様! 何をしてるんですか!」
だけど、ここでもフアナが邪魔に入った。
「寝衣のまま、窓から姿を晒すなんて、はしたない! 誰かが見ていたらどうするおつもりですか! リーベラ家のご令嬢らしく振舞ってください!」
「ここはあの世なのよ。もうリーベラ家の令嬢らしく、なんていう言葉に振り回される必要もないわ」
「ここはあの世ではありません! いいかげん、起きてください!」
フアナの言葉で、私は我に返る。
「あの世じゃない・・・・?」
「ええ、お嬢様は生きてます! 死んだなんて、なぜそんな勘違いをなさったんですか!?」
フアナに睨まれ、私は考える。
(私・・・・生きてるの?)
そんなはずはない。焼けた町から吹き上げてくる熱風も、塔から飛び下りた時の浮遊感も、はっきりと覚えているのだ。
「それに明日は、結婚式なんですよ! よりいっそう、気を引きしめなければならないこの時期に、迂闊なことはなさらないでください!」
――――結婚式。
その言葉で、眠気は強風に煽られたように、粉微塵になる。だけど同時に、思考力も凍り付いてしまい、冷静に考えられなくなった。
「・・・・結婚式? 誰と、誰の?」
フアナは、聞こえよがしに大きな溜息を吐き出す。
「お嬢様と、この国の国王、エセキアス・カルデロン陛下の結婚式に決まってるじゃないですか!」
――――雷に打たれたように、身体が震える。
「まったく・・・・これから王妃になられる方が、寝ぼけて破廉恥な真似をするなんて、カーヌスの先行きが思いやられますよ」
文句を言いながら、フアナはシーツの交換をはじめる。
「・・・・フアナ。今は何年?」
「はい?」
「今は何年なの? 教えて」
「し、神聖カーヌス歴325年ですが・・・・」
それは、私がエセキアスに嫁いだ年だった。
――――時を遡ったという可能性に思い至り、頭が真っ白になる。
エセキアスに嫁ぎ、カルデロン一族の一員になった、悪夢のはじまりの日に、戻ってきたというのだろうか。
「・・・・あ、あの、お嬢様? 本当に大丈夫なんですか?」
フアナもさすがに不安になったのか、私の顔を覗き込んできた。
「え、ええ、大丈夫よ。・・・・フアナ、一人になりたい気分なの。だから今は、一人にしてくれる?」
「ですが――――」
「お願い」
強く言いきると、フアナは迷いを残しつつ、シーツを抱えて部屋から出ていった。
「一体、何が起こったの・・・・?」
フアナを部屋から追いだした後、私はふらつきながら、窓辺に移動する。
そして窓辺に立ち、眼下に広がる優美な街並みを見つめた。
カーヌス神聖王国の首都、ブランデ。赤い屋根の民家の合間に点在する、古から存在する飾り気のない石造りの建造物が、この町の歴史の古さを物語っている。
ブロックのような家並みの奥には、この国の国王の居城、オレウム城の輪郭が、薄っすらと浮かび上がっていた。
町のどこにも、火の手は見えない。
――――私が最期に目撃した、火で爛れ、瘡蓋のように赤黒く染まった町の景色は、どこにもなかった。
「・・・・・・・・」
混乱しながら、私は鏡台の前に腰かける。
「私は死んだはずよ・・・・なのにどうして、ここにいるの?」
鏡の中の自分に向かって、問いかけを投げるけれど、当然、答えは帰ってこない。フアナの様子を見るに、私の疑問に答えを与えてくれる人は、この城にはいなさそうだ。
『――――あなたにも、呪いの影響が出始めたようですね』
この部屋には私以外に、誰もいない――――はずだった。私は一瞬硬直し、それから錆びついた機械の関節を動かすように、ぎこちなく首を動かす。
部屋の中には、私以外の人間はいなかった。
――――だけど人外の侵入者なら、窓辺にいた。
外側の窓枠に、一羽の鴉が留まっている。餌を求めて現れたのかと思いきや、その鴉はテーブルに置かれたお菓子には目もくれずに、黒曜石のような瞳で私を見つめていた。
『驚くことはありません。私はある方の使いで、ここに参ったのです』
その声は間違いなく、鴉の嘴から発せられた。
「・・・・・・・・」
私は呆然とする。長い時間をかけて、ようやく視覚と聴覚から入った情報が、脳に到達した。
「か、鴉が――――鴉が喋ってる!?」
慌てて鴉から距離を取ろうとして、私は鏡台に腰をぶつけてしまった。
『落ち着いてください。私は怪しいものではありません』
「窓から不法侵入して、自分は怪しいものじゃないと言い張る鴉の言葉なんて、誰が信じると思うの?」
『それもそうですね』
意外にも鴉はすんなりと私の言葉を受け入れた。
『ですが、本当に私は、あなたの敵ではないのです』
ちょんちょんと、小さな足を動かして、鴉は窓枠の上を移動する。
『我が名はムニン、我が主の言葉を届けるため、ここに参りました』
鴉は、頭を前に倒した。人間のお辞儀を真似た仕草なのだろう。
『我が主ならば、あなた様の疑問に答えることができるでしょう』
「あなたの、主?」
『――――我が主、オディウム様ならば』
その名前を聞いて、私の心臓は跳びはねる。
「オディウムって魔王の・・・・!?」
――――魔王、オディウム。
カーヌス神聖王国の人々は長年、その名前を恐れてきた。
ドラゴンレーベンの力で、他国の侵略をことごとく退けてきたカーヌスだけれど、三百年の歴史の中、戦渦まですべて退けられたわけじゃない。
魔王と呼ばれる存在に、何度か国土を蹂躙されているのだ。魔王オディウムは魔物達を束ね、何度も国土を焼いたと言い伝えられている。
魔王オディウムについては、何もかもが謎に満ちている。どこで生まれ、どんな風に育ち、何を目的として、人々を襲うのか――――その一切が謎だ。
だけど、その姿と能力については、いくつか伝説が残っている。伝説によるとオディウムは、トカゲに似た姿をしていて、その体高は三メートルにも及ぶらしい。
牙は鋭く、厚い鉄製の盾すら噛み砕き、腕の一振りで大勢の兵士を薙ぎ払う。そして炎を吐いて、町を火の海にしてしまう。――――そんな恐ろしい伝説だけは、山ほどあった。
攻撃を加えても、オディウムの回復力は高く、傷はすぐに塞がってしまうらしい。透明化する力を持っているという噂もある。
『主が、あなたに会いたがっています。答えを知りたいと望むならば、白煙の樹海においでください』
私の声を遮って、ムニンは言葉を続ける。
『――――そこに、あなたが求める答えがあるでしょう』
ムニンは意味ありげな言葉を残して、窓の外に身を投じる。
「あ、待って!」
止めようとしたけれど、私の手は届かなかった。タイミングよく勢いを増した風に、ムニンは両翼を乗せ、飛び去っていく。
私は窓辺に立ち尽くし、青空の中で小さくなっていくムニンの後ろ姿を、じっと見つめ続けた。
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