鬼の花嫁

炭田おと

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59_転落_佳景視点

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 しばらく実家に帰省していた久遠鳴くおんめいが、花蘇芳はなずおうの宮に戻ってきたのは、御政堂の一件が決着してから、数日が過ぎてからだった。


「ただいま戻りました、佳景よしえ様」


 鳴は私の前に三つ指をつき、深く頭を下げる。


「・・・・戻らなくてもよかったのに」

「久遠の容疑は晴れました」

 ハッと、私は鼻で笑う。

「それが何だと言うの? ――――あなたが私の顔に、泥を塗った事実に、変わりはないわ」

「・・・・・・・・」

「もうここには来なくていいわよ。・・・・あなたは家に帰りなさい」

 犬を追い払うように、手をひらひらと振る。

 だけど久遠鳴は微笑むばかりで、動こうとしなかった。

「何をしてるの? 出ていけ、と言ったのよ」

「・・・・残念ながら、それはできません」

「なんですって?」


「お入りください、父上。それから、七条鷺唯ななじょうろい様」


 鳴の言葉に耳を疑っていると、襖が開いて、二人の男が入ってくる。


 久遠鳴の父親の、久遠崔落くおんさいらくと、私の父上、七条鷺唯ななじょうろいだった。


「父上、どうしてここに・・・・」

「・・・・・・・・」

 父上はなぜか、私と目を合わせようとせず、険しい顔のまま、私の隣に座った。久遠崔落は、鳴の隣に正座する。

「父上、これは一体・・・・」

「お前は黙っていなさい」

 質問を、ぴしゃりと跳ね除けられてしまった。ただならぬ空気に、息が詰まる。

「襲撃犯は捕まり、首謀者は京月から追いだされました。――――ですがまだ、問題が残っています、佳景様」

 鳴が口を開く。

「問題?」

「ええ、御政堂襲撃の件です」

「あれは解決したでしょ? ・・・・何が問題なのよ」

「ええ、確かに事件は解決しました。・・・・ですが今後は、警備の穴について議論されることになるでしょう」

「警備の穴・・・・?」


「ええ。――――なぜあの日、閻魔の門に衛士がいなかったのか、その点も問題視されるはずです」


「・・・・・・・・」


 束の間、何を言われたのかわからなくて、私はじっと鳴の顔を見つめていた。だけどしばらくして、私は鳴の言葉の意味に気づき、血の気が引く。


「あの日、佳景様は、突然神輿に乗りたいと仰って、衛士を呼び出しましたね? そのせいで、閻魔の門の守り手がいなくなってしまった」

「そ、それは・・・・」

「事実なのか、佳景」

 父上が鋭い声で、問いかけてきた。

「あ、あの時は、刑門部や鬼峻隊がいたから・・・・! あんなことが起こるなんて、予想できなかったもの!」

「だが実際に、事件は起こってしまったんだ! このことが露見すれば、七条家の権威は、地に落ちるのだぞ!」

「そ、そんな・・・・私は・・・・」

「落ち着いてください、佳景様」

 鳴の声だけが、不安に揺れることもなく、とても落ち着いていた。

「事件が起こった直後に、私が父上に頼み、口止めしておきました。だからこのことは、まだ明らかになっていません。ご安心ください」

「で、でも、それは今だけの話でしょう! 衛士達が裁かれることになったら、自分の身を護るために、私のことを売るはずよ!」

「ええ・・・・ですから、手を打たなければなりません」

「手を打つって・・・・どうやって? どんなに言い訳しても、きっと御主様は耳を貸してくださらないわ!」

 鳴の分厚い唇が、三日月の形に吊り上がった。女面おんなめんのようなその表情の変化にぞっとして、私は束の間、彼女の顔から目が逸らせなくなっていた。

「言い訳などする必要はありません。――――すべて、なかったことにしてしまえばいいのですから」

「なかったことに・・・・?」


「はい。――――証言する者が一人もいなければ、佳景様が衛士を呼びだした事実は、゛なかったこと゛になります」


 そう言った鳴は、満面の笑顔を浮かべていた。

「ど、どうやってなかったことにするっていうの・・・・?」

「衛士に金を渡し、口封じをします」

 今度は、久遠崔落が口を開いた。

「衛士達は今は、自宅に軟禁されています。彼女らに十分な金を渡し、遠くに逃がすのです。証言する者がいなければ、この事実は存在しないことになるのです」

「ば、買収するって言うこと・・・・?」

「余計なお喋りを、やめてもらうだけですよ。口は禍のもと、と言いますからね」

 にこにこと、鳴は笑っている。

「女衛士は、良家の女子から選出されています。だから、彼女らの家にも十分な口止め料を支払わなければなりません」

「で、でも、そんなお金・・・・うちには・・・・」

 七条家は、四条家と張り合うほどの財力があると思われている。

 だけどそれは、父上がそう見せかけているだけだ。多くの領地を持ち、商売もうまくいっている四条家と違い、七条家の財政は火の車だった。

 だから父上は、私が若君達に見染められる可能性に賭けていたのだ。

「ご安心ください。そのお金は、我々が支払います」

 久遠崔落の言葉に、私は面食らった。

「どうして、あなたが――――」

「しかし、この作戦を完璧にするために、佳景様にご相談しなければならないことがあります」

「相談?」

 鳴と久遠崔落の目は、父上に向かっていた。

「・・・・衛士を黙らせることができても、この事実を多くの女中が知っている」

 父上は言いにくそうに、もごもごと話しはじめる。

「口止め料を払うことで、こちらも黙らせることができるだろうが――――必ずまた誰かが、この事実を蒸し返そうとするだろう。他の花嫁が、お前を攻撃する材料に使うはずだ」

「そんな・・・・」


「大奥にいる、すべての人間の口に蓋をすることは、不可能だ。解決方法は、ただ一つ。――――家に帰ろう、佳景」


「・・・・え?」

 束の間、私は何を言われたのかわからなくて、呆然としていた。父上に、目で問いかけようとするけれど、父上は目を合わせようとしない。

「・・・・どういうことなの?」


「閻魔の花嫁を辞退して、うちに戻ってきなさい。それで問題は、すべて解決する」


「なっ・・・・!」

 血液が沸騰しているように、全身が熱くなった。

「何を言ってるのよ、父上! そんなことをしたら、閻魔の花嫁が一人少なくなっちゃうじゃない!」


「大丈夫だ。――――穴埋めのための花嫁は、すでにここにいる」


 父上の視線が、鳴のほうへ動く。


 私は頭を、金槌で撃たれたような衝撃を受けていた。


「こ、この女が私の身代わりをするって言うの・・・・?」

 父上は目を上げず、久遠崔落は私を見ようともしない。鳴だけが真っ直ぐ、私のことを見つめていた。

「馬鹿なこと言わないでよ! 身分の低い女が、閻魔の花嫁なんて・・・・!」

「身分の問題があり、娘の鳴は閻魔の花嫁になることができなかった。・・・・だが、今回の件で、代役を立てなければならないとなると、鳴以上の適材はいないだろう」

「御主様がお認めにならないわ!」

 怒りに身を焼かれて、私は叫びながら、立ち上がる。

「・・・・いいや。御主様の了解は、すでに得ている」

「・・・・え・・・・?」

「・・・・御主は今回、お前が何をしたのか、薄々察しているのだろう。だが、七条家を弱らせないために、気づかないふりをしてくれている。お前が罰せられることになれば、七条家の権威は揺らぐのだ。久遠様の手助けで、衛士を口止めし、体調不良を理由に花嫁を変えれば、御主は追及はしないでいてくれるはず」

「・・・・・・・・」

「引き下がるんだ、佳景。今回のことはお前の落ち度だし、これが七条家のためになるのだ」

 父上は膝の上で、固くこぶしを握っている。

「そ、そんな・・・・」

 涙の膜のせいか、水面の向こう側にあるように、目の前の景色が揺らぐ。

「わ、私は、閻魔の花嫁になるために、ただそれだけのために色々頑張ってきたのよ! なのに・・・・!」

「・・・・ならば、軽率な振る舞いはするべきではなかったな」

 噛み締めるように、父上は声を絞り出す。

「だ、だけど・・・・だけど」


「・・・・すでに、何もかも遅いのだ。諦めろ、佳景」


 父上は、議論すらさせてくれなかった。それだけ言い捨てて、すっと立ち上がってしまう。


 父上と、後を追うように出ていった久遠崔落の後ろ姿が見えなくなった後も、私は呆然と、障子戸を見つめ続けた。


「どうか、気落ちしないでください、佳景様」


 鳴にそんな言葉をかけられ、私は息を呑む。


 信じられない。この女は、私から閻魔の花嫁という地位を奪っておきながら、私を慰めようとしているのだ。


「・・・・なんて女なの・・・・」

 必死に虚勢を張ろうとしていたけれど、声は震えていた。

「・・・・あなたには、心がない。私からすべてを奪っておきながら、よくもそんなことが言えたものね!」

 手に持っていた扇子を、鳴に投げ付ける。扇子は鳴の肩に当たったけれど、彼女は顔色一つ、変えなかった。

「まあまあ、すべてを奪われた、なんて、あまりにも大袈裟ですよ。あなたはいまだに、多くのものを持っているじゃありませんか。美貌、才能、そして温かい血が流れる、健康な身体――――すべて、持たざる者が、喉から手が出るほど欲しているものです」

「・・・・・・・・」

「それに今回、咎めを免れるのですから、あなたは七条家という後ろ盾も失いません。花嫁の役割を全うできなかったことで、やや格は下がるかもしれませんが、それなりに良家のご子息とのご縁に恵まれることでしょう。平凡な幸せを、手に入れることができるんです。・・・・なのに、何を悲しむことがありましょうか」

「あんたって奴は・・・・あんたって奴は・・・・!」

 潮騒のような、血流の音が聞こえる。怒りが、ぐつぐつと煮える音だ。その怒りはあまりにも大きくて、内側から食い破られてしまいそうだった。


「――――あなたはいずれ、私に感謝することになるでしょう」


 すっと、鳴の顔から笑顔が消えて、彼女は真顔になっていた。


「なんですって? 私があなたに、感謝する?」

 怒りを通り越して、私は笑ってしまう。本当に、なんていう女だろう。

塞翁さいおうが馬、という言葉があります。訪れる禍福かふくは、変転するという考えです。負けるが勝ち。そんな言葉もありますね」

「負けるが勝ち・・・・?」


「あなたは敗北したと思い、屈辱を感じていることでしょう。確かに今の点だけ見れば、あなたは敗北したことになるのかもしれません。・・・・でも、長い目で見れば、違います。――――あなたは喜ぶべきです。この呪われた場所から、去ることができる幸福を」


「・・・・あ、あなたは、何を言ってるの・・・・?」

 鳴は答えなかった。ただ意味ありげな微笑を残して、立ち上がる。


 鳴が花蘇芳の宮を出ていって、その足音が聞こえなくなっても、私はその場を動けなかった。


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