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月は雲の上に
しおりを挟む「み、みんな、わたくしを、み、認めて、下さらないので、す」
ぐすぐす、ぐすぐすと鼻をすする音の合間に、ローズ・マルベリーはそんな弱音を吐く。
手にしている刺繍入りのハンカチもすでに涙でぐっしょりと濡れていた。
かすれた声にほろほろとこぼれ続ける涙、高く形の良い鼻の頭が赤くなっていることすら、誰もがつい手を差し伸べたくなるほどの痛々しい風情がある。
しかし彼女の父であるカドルシュ・マルベリーは、苛立たし気にため息を吐くばかりだ。
「お父様とお母様が喜んで下さって、ジェンティアン様と国王陛下と王妃様が認めて下さって、フロスティ様にも許して頂いたのに……まだ、足りないのでしょうか」
「…………」
そういう事ではないと、この娘は何度言えば分かるのだろう。
怒鳴りたいところをぐっとこらえて、カドルシュは額に手をやった。
どうしてこうなったのか。
そう、呻きながら。
ローズは、マルベリー家の末娘だ。
春の花のように可憐な容姿に振りまかれる愛らしい笑顔、天真爛漫な性格で、彼女は家族中、いや屋敷中で可愛がられていた。
カドルシュは、この末娘にまで政略結婚を強いることはしなかった。
上の子供たちの婚姻やら築いた人脈やらで、政略的な結びつきは十分であったし、嘘や駆け引きが下手な末娘は 貴族としては少々素直過ぎる。
非情な言い方をすれば、駒として使い道がない。
ローズはそんな娘だった。
だから、そのローズがまさか王太子ジェンティアンの目に止まるなど、考えもしなかった。
美しいがにこりともしない婚約者に辟易していたらしい王太子は、にこにこと屈託なく笑うローズが大層お気に召したようだった。
予想外ではあったが、こんな好機を逃すカドルシュ・マルベリーではない。
娘が王太子妃になれば、彼は未来の国王の義理の父親である。
もともと宰相派に反発していた王太子である。少し宰相への疑いと不平不満を囁けば、簡単に信頼を得て味方に引き入れることができた。
そして協力して、多少の誤算はあったにせよ目の上の瘤であった宰相オーキッド・レイズンとその娘で王太子の婚約者であったフロスティ・レイズンをヒュイスから追い出すことに成功したのだった。
そこまでは良かった。
問題は、新たに王太子の婚約者となった末娘ローズだった。
貴族令嬢として最低限の教育しか施さず、甘やかし育てた娘である。
それでも平民の娘が数年で終わらせることができた妃教育など、生粋の貴族である娘には簡単だろうと高をくくっていたのだが。
いま、目の前にはぐずぐずと幼子のように泣く末娘がいる。
実の父親の前とはいえ、他の目もある王城ではあまりにも無防備だ。
蝶よ花よと可愛がられ、望めばすべてのものが――王太子妃の地位でさえ手に入る。そよ風程度の風も当てず大事に育てた結果が、これであった。
極端に打たれ弱く、少しでも難しい課題が出れば泣いて嫌がる。
礼儀作法は最低限のまま、失態や失言も多い。
そんな未来の王太子妃を問題視する声は、すぐに大きくなっていった。
先日、諸外国の使者を招いたお茶会でも何か失敗したらしいローズは、現在この王城に軟禁状態である。妃教育もいっそう厳しくなっていると聞く。
が、この様子では果たして自分の置かれた状況が分かっているのか、どうか。
いっそのこと婚約を取り消し、あるいは保留にしてもらえないだろうか。
そんなことまで考えるほど、彼はこの「使えない」娘に落胆していた。
末娘がジェンティアン王子を純粋に慕っているのは知っているが、カドルシュとてそれだけで一国の王太子妃が務まるとは思っていない。
未来のヒュイス国王の義父として宰相あたりに上り詰め、盤石の地位を築けるはずだったカドルシュ・マルベリーは、王太子妃となるはずの娘によって、現在の地位でさえ脅かされ始めていた。
娘に与えられた部屋を辞したカドルシュは、深いため息をついた。
そして重い身体を引きずるようにして歩いていたところに、数人の文官らと顔を合わせる。
「これはマルベリー卿、ローズ様のご機嫌伺いですか」
「………」
他愛のない挨拶である。
しかしその中のひとりを見るなり、カドルシュはつい条件反射で顔をしかめていた。
スマルト・バーガン。
地位はそれほど高くないが、宰相派の中でもオーキッド・レイズンの腹心の部下と言われていた男だ。
中級以下の官吏などまったく気にも留めないカドルシュだが、その彼でさえ顔と名前を憶えているほど、嫌な男だった。
貴族を優遇するような案件はことごとく彼によって潰されて来たのだ。
彼自身も貴族の出であるにもかかわらずだ。
狡猾で腹黒い一面を持つくせに、さも自分は高潔ですと言わんばかりのこの態度が、カドルシュは気に食わなかった。
さらに腹立たしい事に、彼は最近になってなぜか王太子の近くで姿を見かけるようになった。
宰相が居なくなったとはいえ、宰相派というだけで彼らを毛嫌いしていた王太子が、彼らを側に置き始めたのだ。
これには誰もが驚いた。
きっかけは、おそらく“朝議”。
国王ヒューリッジと元宰相が始めた、会議の場である。
常のごとく、こちらの提出した書類に難癖をつけてきた宰相派の連中の言葉に、珍しくジェンティアンが興味を示した。
日ごろ分厚い書類と難しい言葉を使って翻弄してくる彼らが、ひどく単純な言葉で応戦してきたなと拍子抜けしていたときだ。
「ここの問題はどう解決するつもりなのだ」
こちらが配った書類を指で示しながら、ジェンティアンが問う。
それに対してカドルシュは答えた。
「すべて、こちらで良いように執り行います。どうぞご心配なきよう」
少しの不信感も与えないよう、自信たっぷりに言う。
その答えと呼べない答えに、いつもであれば「おまえに任せた」「頼んだぞ」と満足そうにうなずくジェンティアンは、気分を害したように顔をしかめていたのだった。
おそらくは、それからだ。ジェンティアンの様子がおかしくなったのは。
おかしいと思いながらも、彼には何が悪かったのかわからない。
上に立つ者はただ上に立っていればいいのであって、鷹揚に頷いてさえいればいい。
余計なことは考えず、政はこちらに任せて下さればいいのだ。
「ああ、そうだ。今度、御前会議が開かれることになりました。詳細は後日知らせが行くかと思いますが、取り急ぎお伝えを」
うっすらと笑みさえ浮かべて、スマルト・バーガンは言った。
その言葉に、カドルシュは耳を疑う。
ここのところ、信じられないようなことばかりが立て続けに起こる。
「御前、会議だと?」
「はい」
御前会議とは、国王の前で行う会議のことだ。
それを開くということは、離宮に追いやられた国王ヒューリッジが戻ってくるということでもある。
「な、陛下は国政に関わらぬと離宮に籠られたのでは……」
「そうですが、国にとっての重要事項ゆえと王太子殿下が頭を下げられたそうです」
王太子が、確執のあった国王に頭を下げただと?
自分の預かり知らぬところで、いったい何が起きているというのだ。
半ば隠居した国王陛下を引っ張り出してまで行う会議の“重要な”理由とは何なのか。
大のつく貴族である自分が、中級官吏ですら知っていることも知らないとはどういうことなのか。
スマルト・バーガンがそれをわざわざ自分に告げる意図は。
冷や汗が、止まらない。
カドルシュ・マルベリーは、文官たちの前からそそくさと退散した。
ろくに返事もしないという無作法を犯しながら。
「これは面白いなあ、スマルト」
意味もなくふんぞり返っている姿しか目にしたことがない大貴族マルベリー卿の小さな後ろ姿に、いっそ感心したように呟いたのは文官のひとり。ユンド・ネイブルスだった。
意外なことに、彼ら宰相派の者たちはいまの婚約者ローズ・マルベリーの行状については非難しなかった。
認めたわけではない。ただ沈黙し、放っているのだ。
表向きは、二度目の婚約破棄というだけで外聞が悪いのに、一度目からの間が短すぎるという理由。
ちなみに、評判の悪い現婚約者の扱いを王太子ジェンティアンも保留にしていた。
彼も二度目は慎重になっているようで、そしてまだローズ嬢に対して情が残ってもいるのだろう。
かの令嬢を「王太子妃にふさわしくない」と声高に叫び、その親であるカドルシュ・マルベリーの責任を問うているのは、同じようにフロスティ・レイズンを糾弾していた者たち。
つまり、かつて味方だった者たちなのだ。
ローズ・マルベリーを王太子の婚約者として押し上げた彼らが、今度はローズ・マルベリーの処遇をめぐって分裂してしまったのだった。
「ローズ嬢がそこにいてくれるだけで、あいつら自滅しそうだもんな」
「だろう?」
スマルト・バーガンもにやりと笑う。
いつぞやの夜会のように大々的に相手を糾弾し騒ぎ立てることは簡単だ。
それこそローズ嬢がいかに王太子妃に相応しくないか、その親であるマルベリー卿とその一派の悪行を、でっち上げではない事実として確固たる証拠付きで訴えることはできる。
が、宰相派は王太子派とは違う。
役者の真似事をするまでもなく、相手を追いつめ失脚させるだけの準備は、すでに整っているのだ。
あまりにも長い間、ヒュイスの中枢でのさばり続けた結果。
不正を不正と思わず、罪を罪と意識してもいない彼らの罪状を調べ上げるのは、簡単だった。
国王陛下と王太子、そのふたりの了承さえあれば、いつでも彼らを追い落すことができる。
「陛下と閣下のいなくなったヒュイスにいても、何の面白味もないと思っていたけど」
やってやろうじゃないか。
ユンドの生き生きとした言葉に、スマルトも大きく頷く。
オーキッドに付いて、国を出ようか。
そんなことをちらりと考えたこともある。
しかし彼らはこのヒュイスに生まれ、ヒュイスに育った者だ。そう簡単に捨てられる故郷であれば、とっくに捨てている。
二度と捨てられない故郷を作る。
それができるなら、この場に残った意味はあるのではないか。
そう、スマルトは思うのだ。
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