月が隠れるとき

いちい千冬

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月と雲と星々と

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「ジェンティアン王子様とわたくしの婚約を、認めて下さい!」


 そう言って王子の元・婚約者であるフロスティ・レイズンのもとへといきなり乗り込んで来たのは、現・婚約者であるはずのローズ・マルベリー嬢であった。

 大きな薄紅色の花を飾った豊かな髪は、極上の蜂蜜のような濃い黄金色。
 明るい栗色の瞳は、愛らしさと艶やかさを程よく秘めた、人を惹きつけずにはいられない魅力がある。
 髪も瞳の色も薄く、寒々しいと言われるフロスティとは大違いだ。
 レースをふんだんに使った華美なドレスは、彼女が身に付ければ幼さよりも上品さが際立つ。自分の魅せ方をよく知っている装いだった。
 彼女の感性が優れているのか、腕のいいメイドがいるのか、それは分からないが。
 この対外的な華やかさは未来の王妃にふさわしいものかもしれない。

 それはともかく。
 相変わらずだなあ、というのがフロスティの感想である。

 外見はともかくとして、この常識のなさだ。
 通常、貴族宅への訪問というものは、数日前に相手へと伺いを立てるものだ。緊急の場合でも、いまから向かいますよという先ぶれくらいは出す。それによって相手も客を迎え入れる準備をすることができる。
 その辺の手順を、ローズ嬢はまるっと無視してやって来た。
 宰相を務めていたとはいえレイズン家はもと平民なので、貴族の礼儀など不要と思われたのかもしれない。
 が、しかし訪問してきたのはれっきとした家柄の貴族のご令嬢だ。
多少のおもてなしは必要となるわけで、それを突然、しかも朝っぱらから強いられたレイズン家の使用人たちはいい迷惑である。
 そして急ごしらえながらお茶の席を整え、座ったとたんに飛んできたのが冒頭の言葉であった。

 給仕をお願いした使用人が、いっしゅん足を止めてこちらを見たのが気配で分かる。
 レイズン家の優秀な使用人でさえそれなのだ。言われた彼女は、ただ「はあ」と気の抜けた返事をするので精一杯だった。

「あの、ローズ様?」
「お願いしますフロスティ様!」

 大きな目を潤ませて迫られても、困る。
 別にあの元・婚約者はどうでもいい。心の底からどうでもいい。
 向こうもそれは同じだろう。少しでもこちらを気にかけてくれるのなら、公衆の面前で一方的に婚約破棄などやらかさないと思うのだ。

 分からないのは、どうして今さらローズ嬢が彼女を訪ねてきたのか、ということだ。
 とりあえず落ち着こう、と彼女は温かい紅茶をひとくち、こくりと飲んだ。
 落ち着き払った態度にローズ嬢が息を飲んだが、知った事ではない。忙しい中で淹れてくれた紅茶だ。むしろ彼女にも紅茶をぜひ味わって、飲み干していただきたい。

「わたくしが認めるもなにも、おふたりは婚約なさったのではないのですか?」

 ひと月前の、夜会。
 国外からの来賓も迎えた大規模なそこで、王太子ジェンティアンは、高らかにフロスティとの婚約を破棄しローズ嬢と婚約する旨を宣言した。
 そしてそれは後日、公にも認められたはずだ。
 見世物になるのが分かっていたので早々に会場から逃げ出したフロスティだが、その大まかな様子は知っている。婚約を解消する書類にも、ちゃんとサインをした。
 むしろ、喜んで。
 ただ、注文をつけるならもうちょっと穏便にできなかったのか、とは思う。
 今頃になって「認めろ」などと押しかけてくるくらいならば。

「あ、あの、でも……」

 ローズ嬢は、なぜかちらちらと周囲を見回した。
 れっきとした貴族令嬢の彼女には、この家はひどく手狭に見えるだろう。

 レイズン家はもともと貴族位を持たない平民である。大がつく商人なのでその辺の貴族の邸宅よりよほど手の込んだ作りをしているが、全体的にこじんまりとしているそこを、父オーキッドが宰相を務めた後も使い続けていた。
 量より質。家族そろって物欲が少なく、必要以上の華美は好まない。
 さすがに来客の目に止まるような場所の調度品や美術品は逸品と呼ばれるものを揃えていたが、しかしいまはそれもほとんど見当たらない。
 この応接間にしても、壁にかかっていた絵画は残らず外され、切り花も観葉植物もなく、かろうじてイスとテーブルが残っているだけだ。これも、先ほどまでは埃よけの白布がかけられていた。

「あの、国を出られるとお聞きしたのですが……」
「はい」

 フロスティは頷く。
 そう。実は家を引き払い、出立する予定だったのだ。それも、今日。
 ローズ嬢が来なければ、とっくに出発していたはずだった。
 なので、フロスティの装いもドレスではなく、ブラウスにロングスカートという簡素で動きやすいものだ。来客に合わせて着替えようにも売るか人にあげてしまい、手元に残したお気に入りの数点も荷馬車に積んだ衣装箱の中である。
 突然の来訪のおかげで、予定はかなり押している。
 なぜよりによってこんな日に来るのか、皆目わからない。

「怒っていらっしゃるのですよね……」

 しょんぼりと令嬢は肩を落とす。
 手を差し伸べたくなるほどに儚げな風情だが、フロスティは呆れていた。
 何を今さら。
 彼らの仕打ちには、怒るなと言うほうが無理だろう。
 しかし、フロスティはこれで良かったと思っている。

「ローズ様、わたくしはおふたりの婚約をちゃんと祝福していますよ」

 それは書面だけではなく。虚勢でもなく。
 何故なら、彼女はただの一度もジェンティアン王子に良い感情を抱けなかったのだから。

 確かに、顔かたちはきれいに整っていると思う。初めて会ったときに思わず見とれた程には。
 しかし次の瞬間、彼はそのきれいな顔をくしゃりと歪めて言ったのだ。
 忌々しい成り上がり者めが、と。

 王子がローズ嬢の前ではどれだけ甘く優しくなるのか想像もつかないが、少なくともフロスティの前ではいつも不機嫌で、不誠実で、不遜であり続けた。
 そもそも会話らしい会話など、させてもらえた例がない。
 恋心以前に、好感など抱く余地もなかった。

「お似合いだと思います。どうぞお幸せになって下さい」

 これだけ迷惑をかけられたのだ。むしろ幸せになってもらわないと割に合わない。
 やけくそのようにフロスティが微笑むと、ローズ嬢はぱっと花がほころぶように顔を輝かせた。

「あっありがとうございます、フロスティ様! あなた様の分も、ジェンティアン様を幸せにしてみせます!」

 歓喜のあまり両手を前で合わせるご令嬢。
 その勢いでテーブルに手がぶつかり、上に乗せられた茶器ががちゃりと音を立てる。
 せっかくの美味しい紅茶をこぼされては大変と、フロスティは自分用のカップを取り上げて飲み干した。
 ローズ嬢も自分のドレスの白レースに紅茶が飛びそうになり、慌てて手を引っ込めた。
 これではどちらが貴族令嬢かわからない。

 ほんとうに、この令嬢は自分を落ち込ませる天才である。
 彼女を見ていると、「これが貴族だから」と自分がいままで叩き込まれた礼儀作法はなんだったのかと思ってしまう。
 講師の先生方に厳しく仕込まれたそれらも、ほとんどが無駄になってしまった。

 ため息をどうにか堪えて、フロスティは立ち上がった。
 目上の人を前に先に席を立つのは少々マナー違反だが、もうどうでもいいだろう。

「それでは、わたくしはこれで」

 もう会う事もないかと思いますが、どうぞお元気で。
 そう続けようとしたのに、ローズ嬢にがしっと腕をつかまれた。

「あの、ローズ様?」
「……ほんとうに、行ってしまうのですか?」

 なにを今さら。

「あなた様は、わたくしたちを祝福して下さいました。わたくしたちの間には、もうわだかまりなどないはずではありませんか」
「はああ?」

 曇りのない栗色の瞳で、ひたむきに真っ直ぐにこちらを見上げてくる令嬢。
 呆気に取られて、腕を振り払う事も忘れていた。その隙をついて、ローズ嬢は逃がさないとばかりにさらにがっちりと腕をからめてくる。

「出て行くなど、悲しいことをおっしゃらないで下さい。同じ殿方を好きになった者同士、わたくしたちはきっと仲良くなれるはずなのです!」

 だから、好きじゃないってば。
 とっさに呟いたが、ご令嬢は聞いていない。

「………わたくしを追い出したかったのではないのですか?」
「そんな、とんでもない!」

 令嬢はぶるぶると首を横に振る。
 公の場であれほど邪険に扱っておいて、それに悪意がないというのなら、いっそ感心する。
 たとえ悪意がないとしても、このご令嬢、自分たちが何をしたのかちゃんとわかっているのだろうか。

「わ、わたくしは、いろいろとフロスティ様に教わりたいことが―――」
「貴族令嬢のあなたに、わたしが何を教えろと言うのですか」

 呆れかえってフロスティは言い返した。
 この娘とはジェンティアン王子同様、これまでほとんど会話をしたことがなかった。
 が、話には聞いていた。ローズ・マルベリー嬢はお花畑の住人だと。
 その噂を、フロスティは実感した。この令嬢、話がまるで通じない。

「ローズ様」

 見据えれば、令嬢の細い肩がびくりと波打つ。

「確かにわたくしはあなた方おふたりを祝福すると申し上げました。でも、あなた方を許す気はありません。あなた方がわたくしに、いえわたくしたちに何をしたのか、分からないのですか?」
「そ、それは……」

 ローズ嬢は戸惑っているようだった。
 ほんとうに分からないのか、とフロスティはため息をつく。

「この国にわたくしの居場所はありません。あなた方が、そう仕向けた」
「そんな、居場所など――」
「ありません。冤罪でもあれだけ悪し様に言われ、婚約を破棄された身に良縁など望めませんから。ローズ様は、それをわたくしに押し付けるのですか」
「で、でもそれは宰相様が」
「はい。父が、汚名をそそいでくれました。それで、汚名をかぶせたあなた方は何をしてくれたのですか」
「………」

 謝罪に来たのだと思ったのだ。
 どうせもう会う事もない。出立の前にそれくらいは受け入れてもいいかと、追い返そうとする使用人たちを宥めて迎え入れた。
 非常に不本意な顔をして、それでも美味しいお茶を用意してくれた彼らにはほんとうに申し訳ない。

「先ほど、わたくしが怒っているとおっしゃいましたね。無実の罪を着せられて何の償いも、謝罪の言葉ひとつさえ頂けず、どこで怒りをおさめろと? 笑顔で許せるほどわたくしはお人よしではありません」

 あるいは、同じ人と思われていないのかもしれない、とフロスティは考える。
 王子をはじめとした貴族至上主義の彼らは、平民の自分たちを決して対等に見ない。
 淑女らしく、未来の王太子妃らしくなどと言いながら、いくら彼女が頑張ったところで彼らが彼女をそうとして扱ったことはない。
 国王夫妻はとても優しく可愛がってくれたが、婚約を持ち出してきたのは父オーキッドをヒュイスに引き留めておくためだ。

 もちろん、ちゃんとフロスティを見てくれる人もいる。身分にこだわらない大切な友人たちもできた。

 だが、もうたくさんだった。いいように扱われるのは。

「お帰り下さい、ローズ・マルベリー様」
「ふ、フロスティ様……」

 ローズ嬢が大きな目を見開く。
 そこからほろりと大粒の涙がこぼれても、もう何とも思わなかった。
 いまだに彼女を捕まえて放す気配のないご令嬢に、こっちが泣きたいくらいだとフロスティが再びため息を吐こうとしたとき。

 思わぬところから、解放の手助けが入った。



「ローズ!!」

 その声に、フロスティは耳を疑った。
 開け放たれていた応接間の扉から、記憶にある限り一度もレイズン邸を訪れたことのないジェンティアン王子がずかずかと歩いてくる。
 そして彼女と現・婚約者をべりっと引きはがし現・婚約者をその腕に庇い、元・婚約者には殺気のこもった視線を投げつけた。

「貴様、ローズに何をした!」

 むしろされていたのはこっちだ。
 ああ、恋は盲目ってこのことなのね、と現実逃避気味に感心していれば、フロスティが何も言わないことにさらに苛立ったらしい。
 彼女の前に、鞘に入ったままの剣が突き出される。
 剣の刃以上に鋭く睨みつけ、ジェンティアンが怒鳴った。 

「これで満足だろう! これ以上我々に何をしようというのだ!」

 フロスティは腕をさすりながら、内心で首をかしげた。
 どうやらローズ嬢の華奢な指にはめられた大きな指輪がひっかかったらしいのだ。皮膚がひりひりするし、嫌な音もしたのでブラウスのどこかが破れているかもしれない。

 満足と言えば、満足である。もともとこの婚約は、うまくいくわけがなかったのだ。
 しかし王子の言い方では、まるでこちらが加害者のようだ。
 ローズ嬢が彼に何か言ったのかな、と思い見れば、彼女は止めるでもなく煽るでもなく、ただ大人しく彼の背中に縋っているだけだった。
 ………意味がわからない。

「わたくしが、何かしましたか?」

 正直に聞けば、王子はきっと眉を吊り上げる。

「しらばっくれるな悪女が! 卑劣だとは思わないのか!?」
「………」

 あなたにだけは言われたくない。
 とっさに返したくなったが、とりあえずため息をつくだけで堪えた。
 が、それさえも王子は気に入らない様子で、憎々し気にこちらをにらみ、剣先をさらに突きつけて来る。

 なんだか、めまいがしてきた。
 恐怖からではない。途方に暮れたのだ。
 今までと、なにも変わらない。きっと何を言ってもこうしてにらまれ怒鳴り返され会話らしい会話などできないのだろう。そう思って。

 これはもう、これまで通り何を言われても黙って俯いてやり過ごそうとフロスティが覚悟を決めた時。

「その暴言、聞き捨てならん」

 別の声が、さらに割って入って来た。
 フロスティは、今度は自分の眼を疑った。
 硬い声とともにレイズン家の執事に案内されてその場に現れたのは、長身の偉丈夫である。

「ヒーザー様!」

 ローズ嬢に声高に名前を呼ばれた隣国クロムの第三王子は、眉間にしわを寄せた。

「あなたに名前を呼ぶ許可を出した覚えはない。そもそもそこまで親しいわけではないだろう、ローズ・マルベリー嬢」

 名前を呼んでほしいと願う女性すら、いまだ「殿下」呼びだというのに。
 こっそりと付け加えられた愚痴を聞いてしまった執事が、少し気の毒そうにヒーザー・クロムを見ながら部屋の隅へと下がった。
 ついでに倒れていた茶器を手早く片付ける。
 おそらくわざとだろう。かちゃかちゃと音を立てていれば、興奮していたジェンティアン王子も少し冷静になったようだった。

「ローズ」

 婚約者をたしなめたジェンティアンは、自身も突き出していた剣を下げた。
 元・婚約者はともかく、隣国の王子まで敵に回すつもりはない。
 勝てる相手でもない。そもそも国力が違うのだ。戦など始めようものなら、ヒュイス王国などすぐに潰されてしまう。

 長身の引き締まった体躯。暗い色合いの髪と双眸を持ち黒い衣服を好んで身に着けるクロム王国のヒーザー王子は、かの国の将軍職をも務めている剣豪である。
 王位継承順位が低く身軽な彼は、勉強を兼ねて他国の使者として立つ事も多い。この前の夜会も、クロムの使者として出席していた。

「……殿下?」

 どうしてここへ、と首をかしげるフロスティ。夜会の後、すぐに国へ帰ったと聞いていたのだが。
 困惑する彼女を広い背に庇い、王子は背中ごしに言った。

「あなたを迎えに来たんだ」
「わたし……ですか?」

 最初にふたりが顔を合わせた場所は、王宮でもそれに準じる堅苦しい場所でもなかった。
 お互いに王子だともレイズン商会の一人娘だとも知らないまま、友人になったのだ。
 なので、気が抜けるとどうしても言葉遣いが気安いものになってしまう。
 これではローズ嬢のことをとやかく言えない、と思い気合を入れ直していると、ヒーザーに腕を取られた。
 ローズ嬢に捕まったのと同じ腕だったので、思わず呻けばブラウスが裂けていたのも知られてしまう。

 ヒーザーのまとう空気が、一気に冷えた。
 今すぐにでも抜刀しそうなクロム王国の将軍様の殺気に、フロスティは慌てる。

「あ、あの殿下!」
「この国は、どれだけあなたを傷つければ気が済むのだろうな」

 この言葉には、ジェンティアン王子が顔をしかめた。

「ヒーザーどの、あなたはそこの女が何をしたのか、ご存じないのだろう」
「少なくとも貴殿よりは彼女を知っている」

 ヒーザーは冷笑を返す。

「婚約を破棄された以上、フロルがここに留まる理由はない。彼女とレイズン家はわがクロムが受け入れる。貴殿がなにを言おうとそれは変わらない。わが父クロム国王も乗り気だしな」

 “何か”を仕出かしたのは、彼女ではなく貴殿だ。
 王子は低い声で、言い聞かせるように言った。

「レイズン商会が手を引いたとたん、この国の物流が滞りはじめたというのだろう。策を弄するまでもない。当然の成り行きだ」

 たとえば、ローズ嬢のドレスを飾る精緻なレース。
 それは父オーキッド・レイズンがもたらした、東方からの交易品である。
 同様に、夜会でジェンティアン王子とおそろいで身に着けていた正装も、光の加減によって色の濃淡が変わる北方の最高級の反物から仕立てられたものだった。
 なぜ王家に献上したはずの品が、王子はともかく当時婚約者でもなかった令嬢の身を飾っているのか。
 追求すべきなのかもしれないが、それはフロスティたちの役目ではない。

 ともかく、レイズン商会がヒュイス王国から手を引いたことで、これらの品物が手に入りにくくなった。
 そしてそれ以外の、レイズン商会が関わらない品物についても、嗜好品だけでなく、生活に必要な食糧や物品まで同様のことが起こっている。
 夜会からたった一か月で、数年かけて立て直したはずのヒュイスの経済に再び陰りが見え始めているのだ。

 未来のヒュイス国王であるジェンティアンによってレイズン家が見せしめのように一時断罪されたことは事実。
 それが冤罪でありきっちりとオーキッドが無実を証明して見せたとしても、レイズン商会は王家の信頼と後ろ盾をなくしたのだと、瞬く間に国中に広まった事だろう。
 彼らは政治家としてのオーキッドを否定することで一介の商人に戻ってくれればそれで良かったのだろうが、彼らは商人としてのオーキッドの評判も落としてしまったのだ。
 商売は、信用が第一。商会の業績は、がくりと落ちた。
 逆境であれば余計に燃えるのが根っからの商売人であるオーキッド・レイズンだが、娘まで巻き込んだ今回のことは腹に据えかねたのだろう。宰相職を自ら辞すと、商売においてもさっさとこの国から手を引く決断を下した。

 また、ほかの商人たちも国に不信を持ち始めている。
 ヒュイス経済の基盤のひとつであったレイズン商会の後釜を狙う野心家もいるにはいるが、ヒュイス王家の仕打ちを考えればとても信頼に足る商売相手とは言えない。いつ手のひらを返されるか分かったものではないからだ。
 こうしてほかの商人たちの足もヒュイスから遠のきはじめたというわけだ。

「それをわが国では自業自得という。ヒュイス王国では違うようだが」

 ヒーザーが言葉でぐっさりと止めをさす。
 ジェンティアン王子が持つ王家の剣よりも、よほど鋭い刃である。

「座学が嫌いなわたしですら予想がつくことなのだがな。そもそもあのオーキッドが、一人娘を侮辱されて怒らないわけがないだろう。彼が直接手を下さないだけ、貴殿らはまだ救われている」

 ヒーザーが言えば言うだけ、ジェンティアン王子の顔から血の気が引いていく。
 この様子では、フロスティがどうにかオーキッドを宥め押しとどめていたことも、どうせ知らないのだろう。  知っていたら彼女を「悪女」などと蔑めるわけがない。

 フロスティにしても、彼らが知らなかったことが驚きだった。道理で話がかみ合わないはずだ。
 いま思えば、ローズ嬢が彼女を引き留めようとしたのは、さらにレイズン商会を引き留めようという意図が多少はあったのかもしれない。もっとも、事の重大さがほんとうに分かっているかどうかは怪しいようだが。

「少なくとも、貴殿らに彼女に恨まれるだけのことはしたのだという自覚はあるようで何より。好き勝手に婚約者をすげ替えたのだ。その代償は、甘んじて受けるのだな」

 念のため迎えに来てよかった、とヒーザーは息をつく。
 フロスティに許しを請うならまだしも、この後に及んでまだ彼女に悪役を押し付けようとは。よほどジェンティアン王子は自分の仕出かした現実を直視するのが怖いと見える。
 本来ならば王太子である彼は、ここで彼女をなじる暇すらないはずなのだ。

 もはやぐうの音も出ないふたりにはさっさと背を向け、ヒーザーはフロスティを振り返る。

「逆恨みを逆恨みと思わない者もいる。フロル、安全のため、しばらくはクロムの離宮で過ごすといい」
「えっ……いえ、そこまでしていただく必要は―――」
「オーキッドは了承済みだ」
「父が?」

 オーキッド・レイズンは宰相位を丸投げした後、商会をヒュイス王国から撤退させるべく、駆けずり回っている。いまは一足先にクロムの支店に入っているはずだった。
 クロムが新しい本拠地になるだろう、と父は言っていた。
 もともと大きな支店があるそこは、国王が事情を知り同情的で、出来る範囲で力も貸すと申し出て下さっている。クロム程の大国の庇護があれば、ヒュイスも容易に手出しできないだろう。
 フロスティもヒュイス王国を出た後は、クロムに行く予定だった。
 が、滞在先の話は初耳だ。

 ヒーザーの穏やかな声音と、何より向けられる表情の差にジェンティアン王子とローズ嬢は驚く。彼の言葉に、簡単に狼狽え表情を変えるフロスティの様子にも。
 そういえば彼は、フロスティのことを“フロル”と呼んでいなかったか。

「父がオーキッドご自慢の娘を見たいとうるさかったのだが。フロルが気楽に過ごせるように、郊外の離宮に部屋を整えている。いつまで滞在してくれても構わない」

 父王がフロスティに会いたがっているのは、本当は適齢期を迎えても浮いた噂ひとつない堅物息子を射止めた女性が気になって気になってしょうがないからなのだが、それは言わないでおく。
 はた目にはばればれなヒーザーの態度だが、気付かないのか気付かないようにしているのか、とにかく彼女の反応は淡白だった。
 気楽な三男とはいえ、すぐに王子妃などと言い出せばいまの彼女は逃げてしまうだろう。
 それだけの思いを、彼女はヒュイス王国でしている。

 彼女であればたとえクロムの王宮に連れて行ったとしても、決して見劣りしないだろう。
 ヒュイスの王太子妃となるべく叩き込まれた礼儀作法やもろもろの知識は、クロムでも十分に通用する代物だ。
 少なくとも、いま王太子に庇われている精神的に幼い令嬢よりはよほどましである。
 あえて難を言うなら卑屈なまでの謙虚さと自信のなさだが、ヒュイスを出ればどれだけでも彼女は変わるだろう。

 だから、ヒーザーは考え得る限りの優しさでフロスティに接すると決めていた。
 彼にとって彼女と他の男との婚約解消は、この上もなく幸いだったのだから。

「クロム王国とこの名にかけて誓おう。この先、あなたを利用するような真似は一切しない。あなたがあなたであれば、わたしはそれでいい」

 フロスティは、困ったように微笑んだ。

「あまり、甘やかさないで下さい。大切な方だからこそ、これ以上あなたにご迷惑をおかけしたくないのに」
「フロルの言う迷惑は、わたしの迷惑にはなり得ない」

 フロスティに、ヒーザーの手が差し出される。
 先ほどのように、無理にでもつかもうと思えばすぐにでも捕らえることができるというのに、彼は触れずにただ差し出した。
 その大きな手に、フロスティは一瞬ためらった末に自らの手を置く。
 同性であるローズ嬢に捕まれたときでさえ嫌悪しか抱かなかったのに、どうして彼の手は何ともないのだろう。

 そんなことを、思いながら。




「お二方、どうぞお元気で」

 今度こそ、フロスティは別れの挨拶を口にした。
 婚約中であれば「お幸せに」だろうし先ほどローズ嬢には祝福すると言った。
 だが今は、請われても口にする気にはなれなかった。

 彼らが「お幸せ」になるためには、かなりの困難が容易に予想できたのだから。
 そしてフロスティには、もはやどうすることもできないのだ。





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