月が隠れるとき

いちい千冬

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月が隠れる

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 星のきれいな夜だった。

 このヒュイス王国特産のダイヤモンドをいっぱいに散りばめたような天空は、とっくに日は沈んだというのに白亜の王城をほの青く浮かび上がらせるほど明るい。
 月は空の主を星々に譲ったかのように、空の端に細く慎ましやかに控えている。
 三日月にかからんとする灰色の雲が少々気がかりではあるが、この様子なら後に用意されている花火は問題なく打ち上げられるだろう。
 外国の賓客も招待されている大規模な夜会である。
 最後を飾る花火まで問題なく、滞りもなく終わればいいのだが。

 心の底からそう思い、フロスティ・レイズンは薄青のドレスの裾を翻した。
 ―――華やかな夜会の会場に背を向けて。



 建物の外へと向かう下り階段に足をかけようとしたとき。
 硬質な足音が彼女を追いかけてきた。
 ほとんどの招待客が入場し、あたりは閑散としている。そんな中で慌てたように響く靴音に、フロスティは一瞬びくりと肩をすくめた。
 しかし後に続いた低い声に、ほっと息をつく。
 この声の主は、決して彼女を傷つけない。決して彼女を追いつめることはしないから。

「帰るのか」

 低い、けれども優しげな声。
 短い言葉だがはっきりとにじむ気遣わしげな色に、なんだか泣きたくなる。

「帰りますわ」

 振り返らずに、フロスティは返した。

「両陛下に退出の許可はいただいております」
「宴は、まだこれからだろう」
「わたくしに、黙ってさらし者になれとおっしゃるのですか?」

 かすかに、息を飲む気配がした。
 その後ちっ、と聞こえたのはもしかして舌打ちだろうか。
 いや、大国クロムの王子ともあろうお方が、隣国でそんな無作法なことをしでかすわけがない。ない、と思いたい。
 もっともこの場には、他に誰もいないのだが。

「あれは、まだそんなバカげたことを企んでいたのか」
「はい」
 確かな筋からの情報だ。間違いない。

 今晩、フロスティはこの国の王太子であるジェンティアンから婚約を破棄される。
 それも夜会の最中、多くの招待客の前で。
 まるで、見せしめのように。

「国外からのお客様もいらっしゃる夜会です。そこで発表してしまえば、押し通せると思っておられるのでしょうね」

 フロスティ・レイズンとの婚約破棄。
 彼女に代わって大貴族マルベリー家の末娘ローズ嬢との婚約宣言。

 正当化する理由として、フロスティの日ごろの素行の悪さと傍若無人ぶり、ローズ嬢とその家に行ったとされる嫌がらせの数々などを証拠付きで公表し、さらには父である宰相オーキッド・レイズンの目に余る専横ぶりを断罪する予定であるらしい。

 フロスティも父も、まるで身に覚えのないことばかりだ。
 ご苦労なことに王太子とローズ嬢、そしてその一派は、気に入らない親子を追い落とすために証拠のねつ造をそれは熱心に行っていたそうだ。
 もう、笑うしかない。
 そんなことをしなくても、未来の王太子妃などという息苦しい肩書きなど、お花とお菓子付きで彼女に譲って差し上げたというのに。

「それはまずいだろう」
「まずいですね」

 国外からの賓客も顔を揃える場での発表は確かに衝撃的で、なかったことにはできない。
 言い方を変えれば、取り返しがつかない。それが、彼らには分かっていない。
 レイズン家がヒュイス王国を陰に日向に支えてきたのは周知の事実。それをヒュイス王国の次期国王が一方的に断罪し切り捨てようとしているのだ。
 それをみて諸外国がどう出るか。国に忠誠を誓う臣下が何を思うか。何も考えなかったのだろうか。
 そんな危険な三文芝居の、しかも無理やり悪役に仕立て上げられると分かっていて、舞台に上がれるほど彼女はお人よしではない。
 だから彼女は「気分がすぐれない」と早々に広間を抜け出してきたのだ。

 華やかな夜会での余興にしても、あまりにまずい。
 せめて、フロスティがいないことで余興がなくなるか、穏便なものになればいいのだが。

「あなたは、それでいいのか」

 いつの間にか、背後にいたはずの王子が隣に並んでいた。
 転びそうに高いヒールを履いてなお、見上げる程に背が高い。
 この長身と、本人の持つ暗い髪色や黒い装い、切れ長の鋭い双眸が近寄りがたい印象を周囲に与えているのだが、本人は意外にも気さくでお人よしであることを彼女は知っている。
 悪役にされかけている自分を、気にかけずにはいられない程に。
 そんな彼の前だから、フロスティは自然に微笑むことができた。

「婚約者の地位については、未練などまったくありませんから」
 
 もともとレイズン家は、貴族ではなかった。
 商人で王宮に出入りしていたオーキッド・レイズンを、現国王フォーリッジが宰相補佐に抜擢したのだ。
 オーキッドは期待に応え、さまざまな要因からがたがたにぐらついていた国を見事に根幹から立て直した。
彼はほどなく宰相へと昇進し、国王の代理人とまで呼ばれ、娘を王太子の婚約者に据えるほどの権勢をふるっている。

 ただし、平民出の商人の大出世を快く思わない者たちもいる。
 残念ながらその筆頭が王太子ジェンティアンであり、事あるごとに反発し彼ら親子を「成り上がり」と蔑んだ。

 フロスティも、いちおう頑張ったのだ。
 これだから平民は、と言われないよう行儀作法を必死に身に着け、貴族としての社交術を学び、王家の歴史やしきたりも覚えた。
 勉強は決して嫌いではない彼女だが、それがあの王子の嫁になるためかと思うとなかなかやる気が起きず、それがいちばん苦労した。どうにか講師の先生方には太鼓判を頂くことができたが。
 今回の茶番劇を仕立てるにあたり、王子側が罪をねつ造でもしなければ見つからない程度には、完璧な淑女を演じていたと思う。

 夫となる王子を陰日向に支え、世の女性の手本となるようにと教えを受けたフロスティだが、王子のために悪役まで演じる義理はない。
 そのあたりは、父である宰相にも了承を得ていた。
 先程も「あとは任せろ」と実に頼もしいような、そら恐ろしいような笑みを返されたところだ。


 清々しいとも形容できそうなフロスティの笑みを見て、隣国の王子は困ったように片眉をあげた。

「婚約はともかく、あなたが大人しく濡れ衣を被る必要はないんじゃないか?」
「父が、完全に汚名を晴らして濡れ衣はきっちり返品して来るから心配するなと」
「………なるほど。それは頼もしいな」

 それでも婚約を破棄された娘というのは、どちらが悪いにしても世間ではあまりいい印象を持たれない。
 これまでの努力が無駄になるのは明らかなのに、彼女は朗らかに笑っている。

 ――――ああ、いや。そうでもないのか。

 王子も、くつりと楽し気に喉を鳴らした。

「オーキッドとあなたはこの国を出るつもりなのだろう?」
「はい」

 素直にフロスティは頷いた。
 近々このヒュイス王国から出て行かねばならないことは、ほとんど確実だ。 

「フロスティ嬢、いやフロル。それなら我が国に来ないか? 何かあれば、クロムがあなた方を守ろう。あなたも、何なら王宮にいつまで滞在していただいて構わない」
「殿下のお心遣い、感謝いたしますが」

 縁があって、フロスティと彼は彼女がジェンティアン王子と婚約する前からの顔見知りである。
 が、この王子以外のクロム王家の人々を、彼女は知らない。
 教育の一環として名前くらいは知っているが、それだけだ。
 申し出はとても嬉しい。しかし、この王子に迷惑をかけることはしたくない。

「迷惑ではないよ」

 彼女の心を見透かしたかのように、彼は言う。

「でも……」
「あなた方を引き取ったところでクロムの立場が揺らぐことはないから」
「……」
「これはむしろ、うちの父のほうが乗り気なくらいなんだ。ヒュイス一国を立て直してしまったほどの手腕を持つ大商人オーキッド・レイズンと繋がりを持ちたくて仕方ないんだから」

 戸惑うフロスティに王子はにっと笑った。

「しかもその愛娘は美しく聡明で、貴族令嬢よりも貴族令嬢らしいと評判ときた」
「あの、それはいくらなんでも大げさ……」
「少なくとも、あのローズ嬢よりはあなたのほうが何倍も淑女らしい」
「………」

 それは、否定できないのが少し残念だ。
 ローズ・マルベリーは、フロスティにはない華やかさがある。美しさと愛らしさをバランスよく混ぜ合わせたような容姿と、そこにいるだけで場がぱっと明るくなるような雰囲気は、周囲を惹きつけてやまない。
 が、なんというか、非常に子供っぽいお方でもある。
 無作法を無邪気と勘違いしているようなところがあり、不用意な発言も、行動も目立つ。
 たしか同じ年齢だったと思うのだが、フロスティがやれば眉をひそめきつく叱られそうな振る舞いも周囲から苦笑のみで許されているのを見ると、なんだか釈然としないものを感じてしまう。
 それが嫉妬だというならそうかもしれない。
 彼女のようにふるまうことは、どう頑張っても自分には無理だと思うから。

「ジェンティアン王子はあのご令嬢がよろしいようですから」

 実は、少しほっとしてもいるのだ。
 あのまま自分が王子と結婚していたとしても、絶対にうまくいかなかっただろうから。



 背にした王城の奥から、何やら異様なざわめきが聞こえてきた。
 どうやら、始まってしまったらしい。

 小さなため息をひとつ落とし、フロスティは傍らの隣国王子を見上げる。

「殿下、どうかもうお戻り下さい」

 今夜は、彼も隣国からの賓客として招待されている。
 一時の休憩ならばともかく、あまり長く会場を離れるのはよろしくない。
 王子でありながら、彼が華やかな社交場を苦手としていることは知っている。広間の喧騒とは離れた場所にいたからこそ、出ていく彼女に気が付いたのだろう。
 しかし今となっては、彼女と話していること自体が彼の名誉を傷つけることにもなりかねない。

「フロル」

 のばされた手を避けるように、フロスティは階段へと靴先を進める。
 階段下には、すでに家の馬車が待機しているはずだ。

「殿下、わたくしのような者にも気を留めて下さり、ありがとうございました」
「フロル」

 少し苛立ったような声に、フロスティは思わず振り返る。
 他国の王子に対して無難な対応をしていると思う。しかし昔馴染みに対してはとても素っ気なく他人行儀な振る舞いだと自覚してもいた。
 だがこのヒュイスの王城で、隣国の王子である彼を「殿下」と呼ぶたびにひっそりと眉をひそめられても、彼女にはどうすることもできないのだ。

 怒らせてしまっただろうか。そんな不安が顔に出ていたのだろう。
 クロムの王子は肩をすくめるように腕を組み、そして苦笑を浮かべた。
 引き留めることは諦めたようだ。

「あなたにはなんの落ち度もない。あなたはあなたのまま、胸をはっていればいいんだ」

 フロスティは目を見開く。
 国が違うにしろ、同じ“王子”からそんな言葉をもらえるなんて、思ってもみなかった。

「……ありがとうございます」

 ドレスの裾をつまむ、略式の礼を彼女はとった。
 そんな簡単な仕草でさえ洗練されて見えるのが彼女だ。それにはにかんだような笑みまで加われば、誰もが見惚れてしまうに違いない。
 たとえ貴族でも王族でも、生まれて最初からそれらしい振る舞いができるわけではない。
それは、彼女の努力の証。
 そして彼女の武器となるものだ。



「誰のために、ヒュイスまで来たと思ってるんだ」

 かつんかつんと靴を鳴らしながら階段を下りていく令嬢に、ため息混じりの呟きは聞こえない。
 靴音がより軽快に感じられるのは、そうであって欲しいと願うからだろうか。

 王子は、彼女がちゃんと階下の馬車に乗り込むところまで見守った。
 そして穏やかな笑みをすっと消し、踵を返す。
 三文芝居が繰り広げられているだろう広間へと。
 隣国の王子として事の顛末を見届け、本国へ伝えるために。








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