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嵐が過ぎて、固まる
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嵐の後には、抜けるような青空が拡がっていた。
まるであの嵐がわだかまるものを持っていってくれたように。
ただ、良い事だけではない。無論、嵐の傷痕も大きかった。
せっかく下男たちが手を入れてくれていた塀などの修繕はやり直しになってしまったし、まだ残っていた木も幾本か倒れてしまっている。
進み始めた道を戻ってやり直しする羽目になってしまったが、ウルリーケは落ち込んでは居なかった。
自然というのは人の意思を介さずに巡るものであり、自然を相手にする以上、進んだ道を引き返す事もよくある事。
それでも、命ある存在はその巡りの中で生きていくのだと、緑を愛し育て続けた亡き父は教えてくれた。
それに何故か、目の前に困難がある事も楽しいと感じている。
どう乗り越えようかと考える事ができるのを、嬉しいとすら感じている。
ウルリーケは手を貸してくれる下男たちに感謝を伝え、よろしくお願いしますと改めて頭を下げた。
下男たちは恐縮した様子だったが、やがては頼もしい笑顔を見せて作業を再開してくれた。
自分も道具を手に忙しく立ち働いていたウルリーケ。
そんな彼女に、背後から声がかけられた。
「ウルリーケ。届いた新しい苗は、どこに運べばいい?」
「え、ええと。あの、そちらの塀の側にお願いします……!」
何気ない声音で声をかけられて、思わずウルリーケの肩が跳ねる。
視線の先には、何時もからはかけ離れた簡素な装いのスヴェンがいる。
美しい銀の髪も作業の邪魔にならないようにと一括りにまとめ、手には花苗の詰められた箱を軽々と抱えている。
あまりにごく自然に指示を求められ、思わず震えかけた声を抑えながら手で方向を指し示す。
ひとつ頷いてスヴェンはそちらへと箱を抱えたまま歩んでいく。
未だに慣れないが、何とスヴェンが手を貸してくれるようになったのだ。
今までのように手伝いの采配をしてくれたり、必要なものを揃えるよう指示してくれるだけではない。直接細かな作業まで手伝ってくれるようになっていた。
最初は、スヴェン様に土いじりをさせるわけには……と狼狽えたものの、お前はやっているのに俺は駄目などずるい、と悪戯っ子のように笑われては何も言い返せない。
フィーネもスヴェンに庭仕事をさせるのに抵抗がある様子だった。
しかし『自分にもさせろ、命令だ』と言われてしまえば、渋々引き下がるしかない。
今では二人が恙無くその日の庭仕事を終えられるように気配りをしてくれるし、終わった後には労いつつ茶を入れてくれる。
最近では、その日を振り返りながら二人で茶の時間を持つのが日課となりつつあった。
フィンストーゼの育種を許可してくれただけでも有難いのに、まさか庭園の復興まで手伝ってくれるとは思わなかった。
戸惑いながら見つめるウルリーケへと、スヴェンは語ったものだ。
『……変わりいくものを見るのも、悪くないと思っただけだ』
その言葉の通り、庭園は少しずつ緑と、そしてささやかではあるが彩りが見られるようになっていた。
スヴェンが花や苗木を集めるように指示した商人たちは、城の庭園が本格的に修復され始めたのだと知ると、遠方からも苗を取り寄せるようなったらしい。
村で苗を増やせれば助かるのですが、と苦笑いしていたのを思い出す。
荒れ野にある村では日々の糧となる食べられるものを作るだけで精一杯であるし、それすら満足に出来無い時もあるという。そんな中で如何に領主の求めがあるとはいえ、ただ眺めるだけの花を作る事は無駄な労力であり、酷い贅沢な事なのだろう。薬用・食用の植物の区画を作ってはいるものの、恐らく村人にしてみれば実に貴族的な道楽としか映っていないかもしれない。
ウルリーケもそれは察していた。
だからこそ、荒れ野を進んでいた時に気付いた幾つかの事を村人に伝えたいし、試したい事もありはする。
だが、同時に幾つもの事を進めるにはウルリーケはまだこの『枯れ谷』の事を知らないし、住む人々の事も知らな過ぎる。フィーネとフェリクスが時折村に降りる事があるらしいが、この城と村との交流はほぼ無いといっても過言ではない最低限であるとか。
今はまだ、目の前にある出来る事から取り組んで行こう。
そう思い直してウルリーケは庭園を、立ち止まり手をいれながら、全体の様子を確認していく。
そして、そよ風に花弁を揺らす幻の花の前に立つ。
フィンストーゼは、まだ花期にある。
肥料を与え環境を整えた事で見違えて元気になりはしたが、まだ株を分けるには早い。
もう少し季節が過ぎて夜の温度が下がるようになってきた頃、根が育つまで待たなければならない。
確認できているだけでも壁の向こうにあった株だけなのだ。慎重に運ばねば増やすどころか今度こそ消え失せてしまうだろう。
こういう時にお父様が生きていらしたら、と嘆いてみても始まらない。教わった全てを活かして頑張るしかないのだ。
皇宮にて父についていた人々に声をかける事も考えはした。
だがウルリーケ自身が何故かそれを躊躇してしまう事と、スヴェンが出来ればそれは避けろと言ったので止めた。
知らない人間が城に立ち入る事を嫌がっている、という風ではなかったが……。
気付いたら、スヴェンが歩いてきて隣に並んでいた。
ウルリーケの視線の向く先にあるフィンストーゼを見つめながら、ふと身をかがめると土を指先で土をひとつかみする。
感触を確かめるように少し指先で転がすと、ふと呟いた。
「皇宮の庭の土と同じ手触りがするな」
「多分……父の言いつけ通りに作ったからだと思います」
荒れた土を根気よく手入れして蘇らせる方法も、花にとって良い状態を保つ術も教えられた通りに。
おかげでしっとりとした良い土になったと思わず微笑むウルリーケ。
だが、ふとある事に気づいて首を傾げつつ問いかける。
「……スヴェン様が、庭園の土に触れる事があったのですか?」
皇宮にて暮らしていた頃、スヴェンが庭園に足を踏み入れる事はあっただろう。
しかし、花を眺める以外に、土に触れる事があったとは意外だった。
皇子に庭いじりをさせるとも思えないし……。
「ヘルムフリートの奴と遊ぶ事があった時期だから……大分小さな頃だが」
従兄弟同士の二人は、割と大きくなるまで共に過ごす事があったという。
剣についても同じ師について学んでいたとのことだ。
成程、とウルリーケは思う。
二人は従兄弟とはいえ、半ば兄弟のような関係なのだろう。二人のあの日のやり取りにも、どこか相手への親しみの感情が滲んでいた気がする。
スヴェンは遠い日々に思いを馳せるように目を伏せながら続ける。
「何が原因だったかはもう覚えていないが……ヘルムフリートと、土まみれになっても構わず喧嘩してな」
花が植えられる前の一角にて、土の上を転げまわりながら掴みあいの喧嘩をしたらしい。
その時の土の温かな感触を覚えているという。
あの温和なヘルムフリートにも、そんな喧嘩をするやんちゃな頃があったとはと驚くウルリーケ。
続けるスヴェンは苦笑いを浮かべながらも、どこか楽しそうである。
「遂には、もう何故喧嘩していたのかも忘れるぐらい楽しくなってしまっていた」
しまいには柔らかい土の上で転げまわるのが楽しくなってしまって、二人で思う存分転げまわった。
ただし、喧嘩は終わったものの、彼らには試練が待ち受けていた。
「……女官長に、特大の雷を落された」
何と、二人の実質的な養育係であった女官長に散々にお説教をされた挙句に、土を跳ね飛ばしたりして散らかした場所を二人で片づけさせられたのだという。
それを見た庭園の若い管理者の困ったような笑い顔は覚えている、とスヴェンは結んだ。
もしかして、その庭園の管理者というのは……と疑問を浮かべながら見つめた先、スヴェンは「多分な」というように笑みを返してくれた。
怒られて終わりはしたものの、土に触れたことも、道具を手にした事も楽しい思い出として残っているらしい。
だから、こっそりと庭園の手入れをしようとしたとき、最初スヴェンは自分で園芸道具を手にしようとした。
しかし、実際に手を動かしていたのは主にフェリクスだったとスヴェンは少し悔しそうに語った。
「フェリクスのやつ。俺が道具を持とうとしただけで血相変えて止めるから……」
「殿下に庭仕事をさせたなんてばれたら、俺が姉貴に殺されてました!」
スヴェンのぼやきを耳にしたフェリクスは、届いた若木の苗を肩に抱えながら飛び上がらんばかりの様子で叫んだ。
それを聞いてフィーネが、その通りです、などと頷いている。
「……フィーネがお姉さん!?」
ウルリーケは、そのやり取りを聞いて思わず叫んでいた。
三人はきょとんとした表情を浮かべた後、そういえば教えていなかったかと苦笑いを浮かべている。
フィーネは小柄で華奢な少女……に見える女性で、フェリクスは長身で体格のいい少年……に見える男性だ。見ただけでは、色々な先入観もあってフィーネが妹と思ってしまうし、実際そう思っていた。
思い返せば、目にした少しのやり取りの中でもフィーネが立場が上だと思わせるものはあったのに。思い込みとはかくも恐ろしいもの、とウルリーケは心の中で呟いていた。
それに、ここにきて大分たつのに、そんな事にも気付かなかったのかと思えば気落ちしてしまう。
改めて、ウルリーケは自分のここに来てからを思い返す。
城に来た時のウルリーケは何も見ていなかった。そして、何もみようとしていなかった。
自分を取り巻く環境がどう変わったのかも。開いた世界の先に何があるのかも。
見ようと思うようになったから、色々なものが見えてきたのだ。知ろうと思ったから、色々なものが分かるようになってきた。
今、ウルリーケを取り巻く環境はとても温かだという事を、ウルリーケはかつての『世界』の外にいるからこそ、知る事が出来ている……。
それからまた日が昇っては沈み、何時しか強烈な陽射しが、少しずつ穏やかなものに代わりつつある頃。
やがて、命を繋いだ若い芽が伸びてつけた蕾が、小さな花を開いた。
それは皇宮の庭に咲く大輪の花々とは比べようもない小さなものだったけれど、ウルリーケの目には今まで目にした中で一番美しいと映った。
スヴェンもまた、小さなささやかな花を美しいと言ってくれた。そして……。
「あの死にかけていた小さな芽が、随分と変ったものだ」
穏やかな表情を浮かべたスヴェンは、目を細めながら噛みしめるように呟く。
彼が厭っていた姿を変えゆく『移ろうもの』。それを彼は今美しいと言ってくれている。
「変わり行くものだからこそ、その刹那を尚更美しいと思うのかもしれないな」
その言葉を聞いて、ウルリーケの胸に熱いものがこみ上げてくる。それは胸を満たし、ウルリーケの全てに伝わっていく。
これはきっと、幸せという感情なのだろう。
一つのものをみて同じ思いを共有できたこと。スヴェンが頑張った末に咲いた花を見て美しいと言ってくれたこと。それらがあまりにも嬉しくて。
ウルリーケの顔には花が綻ぶような笑みが咲いていた。
ウルリーケを黙ったまま優しい眼差しで見つめていたスヴェンだったが、何かを思い出したような表情をした後、突然視線を彷徨わせ始める。
何事かあったのかを怪訝そうにするウルリーケに向けて、僅かな逡巡の後にとうとうスヴェンはそれを口にした。
「……東翼の……恐らく、女主人用の部屋が空いたままだ。移ってこないか?」
双子に東翼と西翼をあまり行き来させるのも気が引ける、せっかくの部屋が空いたままなのは勿体ない。こうして顔を合わせる事になったのだから、わざわざ部屋を遠ざけておく必要ももう無い。
……等々、何故か焦ったような早口でスヴェンは次々に述べていたが、視線を彷徨わせた後に少し気まずそうにしながら、きょとんとした表情のウルリーケを見つめる。
「お前が、嫌でなければだが……」
少し顔を逸らしながら俯くスヴェンの白皙の頬に赤みがさして見えるのは気のせいだろうか。
ウルリーケは思わず目を瞬いたまま、咄嗟に答えが紡げない。
沈黙が満ちてしまったことに、スヴェンの横顔に徐々に不安げな様子が滲み始める。
スヴェンが、何かを口にしようとした時だった。
ウルリーケが、破顔しながら口を開いたのは。
「お引越し、頑張ります……!」
戸惑いと嬉しさの鬩ぎあいの末に、紡ぎだしたのはウルリーケの心からの喜び。
少し離れた場所で、フィーネとフェリクスが頷き合いながら笑っているのが見えた。
けれど今のウルリーケとっては、スヴェンが安心したように……そして嬉しそうに笑ってくれたのが、何よりも大事な事だった。
まるであの嵐がわだかまるものを持っていってくれたように。
ただ、良い事だけではない。無論、嵐の傷痕も大きかった。
せっかく下男たちが手を入れてくれていた塀などの修繕はやり直しになってしまったし、まだ残っていた木も幾本か倒れてしまっている。
進み始めた道を戻ってやり直しする羽目になってしまったが、ウルリーケは落ち込んでは居なかった。
自然というのは人の意思を介さずに巡るものであり、自然を相手にする以上、進んだ道を引き返す事もよくある事。
それでも、命ある存在はその巡りの中で生きていくのだと、緑を愛し育て続けた亡き父は教えてくれた。
それに何故か、目の前に困難がある事も楽しいと感じている。
どう乗り越えようかと考える事ができるのを、嬉しいとすら感じている。
ウルリーケは手を貸してくれる下男たちに感謝を伝え、よろしくお願いしますと改めて頭を下げた。
下男たちは恐縮した様子だったが、やがては頼もしい笑顔を見せて作業を再開してくれた。
自分も道具を手に忙しく立ち働いていたウルリーケ。
そんな彼女に、背後から声がかけられた。
「ウルリーケ。届いた新しい苗は、どこに運べばいい?」
「え、ええと。あの、そちらの塀の側にお願いします……!」
何気ない声音で声をかけられて、思わずウルリーケの肩が跳ねる。
視線の先には、何時もからはかけ離れた簡素な装いのスヴェンがいる。
美しい銀の髪も作業の邪魔にならないようにと一括りにまとめ、手には花苗の詰められた箱を軽々と抱えている。
あまりにごく自然に指示を求められ、思わず震えかけた声を抑えながら手で方向を指し示す。
ひとつ頷いてスヴェンはそちらへと箱を抱えたまま歩んでいく。
未だに慣れないが、何とスヴェンが手を貸してくれるようになったのだ。
今までのように手伝いの采配をしてくれたり、必要なものを揃えるよう指示してくれるだけではない。直接細かな作業まで手伝ってくれるようになっていた。
最初は、スヴェン様に土いじりをさせるわけには……と狼狽えたものの、お前はやっているのに俺は駄目などずるい、と悪戯っ子のように笑われては何も言い返せない。
フィーネもスヴェンに庭仕事をさせるのに抵抗がある様子だった。
しかし『自分にもさせろ、命令だ』と言われてしまえば、渋々引き下がるしかない。
今では二人が恙無くその日の庭仕事を終えられるように気配りをしてくれるし、終わった後には労いつつ茶を入れてくれる。
最近では、その日を振り返りながら二人で茶の時間を持つのが日課となりつつあった。
フィンストーゼの育種を許可してくれただけでも有難いのに、まさか庭園の復興まで手伝ってくれるとは思わなかった。
戸惑いながら見つめるウルリーケへと、スヴェンは語ったものだ。
『……変わりいくものを見るのも、悪くないと思っただけだ』
その言葉の通り、庭園は少しずつ緑と、そしてささやかではあるが彩りが見られるようになっていた。
スヴェンが花や苗木を集めるように指示した商人たちは、城の庭園が本格的に修復され始めたのだと知ると、遠方からも苗を取り寄せるようなったらしい。
村で苗を増やせれば助かるのですが、と苦笑いしていたのを思い出す。
荒れ野にある村では日々の糧となる食べられるものを作るだけで精一杯であるし、それすら満足に出来無い時もあるという。そんな中で如何に領主の求めがあるとはいえ、ただ眺めるだけの花を作る事は無駄な労力であり、酷い贅沢な事なのだろう。薬用・食用の植物の区画を作ってはいるものの、恐らく村人にしてみれば実に貴族的な道楽としか映っていないかもしれない。
ウルリーケもそれは察していた。
だからこそ、荒れ野を進んでいた時に気付いた幾つかの事を村人に伝えたいし、試したい事もありはする。
だが、同時に幾つもの事を進めるにはウルリーケはまだこの『枯れ谷』の事を知らないし、住む人々の事も知らな過ぎる。フィーネとフェリクスが時折村に降りる事があるらしいが、この城と村との交流はほぼ無いといっても過言ではない最低限であるとか。
今はまだ、目の前にある出来る事から取り組んで行こう。
そう思い直してウルリーケは庭園を、立ち止まり手をいれながら、全体の様子を確認していく。
そして、そよ風に花弁を揺らす幻の花の前に立つ。
フィンストーゼは、まだ花期にある。
肥料を与え環境を整えた事で見違えて元気になりはしたが、まだ株を分けるには早い。
もう少し季節が過ぎて夜の温度が下がるようになってきた頃、根が育つまで待たなければならない。
確認できているだけでも壁の向こうにあった株だけなのだ。慎重に運ばねば増やすどころか今度こそ消え失せてしまうだろう。
こういう時にお父様が生きていらしたら、と嘆いてみても始まらない。教わった全てを活かして頑張るしかないのだ。
皇宮にて父についていた人々に声をかける事も考えはした。
だがウルリーケ自身が何故かそれを躊躇してしまう事と、スヴェンが出来ればそれは避けろと言ったので止めた。
知らない人間が城に立ち入る事を嫌がっている、という風ではなかったが……。
気付いたら、スヴェンが歩いてきて隣に並んでいた。
ウルリーケの視線の向く先にあるフィンストーゼを見つめながら、ふと身をかがめると土を指先で土をひとつかみする。
感触を確かめるように少し指先で転がすと、ふと呟いた。
「皇宮の庭の土と同じ手触りがするな」
「多分……父の言いつけ通りに作ったからだと思います」
荒れた土を根気よく手入れして蘇らせる方法も、花にとって良い状態を保つ術も教えられた通りに。
おかげでしっとりとした良い土になったと思わず微笑むウルリーケ。
だが、ふとある事に気づいて首を傾げつつ問いかける。
「……スヴェン様が、庭園の土に触れる事があったのですか?」
皇宮にて暮らしていた頃、スヴェンが庭園に足を踏み入れる事はあっただろう。
しかし、花を眺める以外に、土に触れる事があったとは意外だった。
皇子に庭いじりをさせるとも思えないし……。
「ヘルムフリートの奴と遊ぶ事があった時期だから……大分小さな頃だが」
従兄弟同士の二人は、割と大きくなるまで共に過ごす事があったという。
剣についても同じ師について学んでいたとのことだ。
成程、とウルリーケは思う。
二人は従兄弟とはいえ、半ば兄弟のような関係なのだろう。二人のあの日のやり取りにも、どこか相手への親しみの感情が滲んでいた気がする。
スヴェンは遠い日々に思いを馳せるように目を伏せながら続ける。
「何が原因だったかはもう覚えていないが……ヘルムフリートと、土まみれになっても構わず喧嘩してな」
花が植えられる前の一角にて、土の上を転げまわりながら掴みあいの喧嘩をしたらしい。
その時の土の温かな感触を覚えているという。
あの温和なヘルムフリートにも、そんな喧嘩をするやんちゃな頃があったとはと驚くウルリーケ。
続けるスヴェンは苦笑いを浮かべながらも、どこか楽しそうである。
「遂には、もう何故喧嘩していたのかも忘れるぐらい楽しくなってしまっていた」
しまいには柔らかい土の上で転げまわるのが楽しくなってしまって、二人で思う存分転げまわった。
ただし、喧嘩は終わったものの、彼らには試練が待ち受けていた。
「……女官長に、特大の雷を落された」
何と、二人の実質的な養育係であった女官長に散々にお説教をされた挙句に、土を跳ね飛ばしたりして散らかした場所を二人で片づけさせられたのだという。
それを見た庭園の若い管理者の困ったような笑い顔は覚えている、とスヴェンは結んだ。
もしかして、その庭園の管理者というのは……と疑問を浮かべながら見つめた先、スヴェンは「多分な」というように笑みを返してくれた。
怒られて終わりはしたものの、土に触れたことも、道具を手にした事も楽しい思い出として残っているらしい。
だから、こっそりと庭園の手入れをしようとしたとき、最初スヴェンは自分で園芸道具を手にしようとした。
しかし、実際に手を動かしていたのは主にフェリクスだったとスヴェンは少し悔しそうに語った。
「フェリクスのやつ。俺が道具を持とうとしただけで血相変えて止めるから……」
「殿下に庭仕事をさせたなんてばれたら、俺が姉貴に殺されてました!」
スヴェンのぼやきを耳にしたフェリクスは、届いた若木の苗を肩に抱えながら飛び上がらんばかりの様子で叫んだ。
それを聞いてフィーネが、その通りです、などと頷いている。
「……フィーネがお姉さん!?」
ウルリーケは、そのやり取りを聞いて思わず叫んでいた。
三人はきょとんとした表情を浮かべた後、そういえば教えていなかったかと苦笑いを浮かべている。
フィーネは小柄で華奢な少女……に見える女性で、フェリクスは長身で体格のいい少年……に見える男性だ。見ただけでは、色々な先入観もあってフィーネが妹と思ってしまうし、実際そう思っていた。
思い返せば、目にした少しのやり取りの中でもフィーネが立場が上だと思わせるものはあったのに。思い込みとはかくも恐ろしいもの、とウルリーケは心の中で呟いていた。
それに、ここにきて大分たつのに、そんな事にも気付かなかったのかと思えば気落ちしてしまう。
改めて、ウルリーケは自分のここに来てからを思い返す。
城に来た時のウルリーケは何も見ていなかった。そして、何もみようとしていなかった。
自分を取り巻く環境がどう変わったのかも。開いた世界の先に何があるのかも。
見ようと思うようになったから、色々なものが見えてきたのだ。知ろうと思ったから、色々なものが分かるようになってきた。
今、ウルリーケを取り巻く環境はとても温かだという事を、ウルリーケはかつての『世界』の外にいるからこそ、知る事が出来ている……。
それからまた日が昇っては沈み、何時しか強烈な陽射しが、少しずつ穏やかなものに代わりつつある頃。
やがて、命を繋いだ若い芽が伸びてつけた蕾が、小さな花を開いた。
それは皇宮の庭に咲く大輪の花々とは比べようもない小さなものだったけれど、ウルリーケの目には今まで目にした中で一番美しいと映った。
スヴェンもまた、小さなささやかな花を美しいと言ってくれた。そして……。
「あの死にかけていた小さな芽が、随分と変ったものだ」
穏やかな表情を浮かべたスヴェンは、目を細めながら噛みしめるように呟く。
彼が厭っていた姿を変えゆく『移ろうもの』。それを彼は今美しいと言ってくれている。
「変わり行くものだからこそ、その刹那を尚更美しいと思うのかもしれないな」
その言葉を聞いて、ウルリーケの胸に熱いものがこみ上げてくる。それは胸を満たし、ウルリーケの全てに伝わっていく。
これはきっと、幸せという感情なのだろう。
一つのものをみて同じ思いを共有できたこと。スヴェンが頑張った末に咲いた花を見て美しいと言ってくれたこと。それらがあまりにも嬉しくて。
ウルリーケの顔には花が綻ぶような笑みが咲いていた。
ウルリーケを黙ったまま優しい眼差しで見つめていたスヴェンだったが、何かを思い出したような表情をした後、突然視線を彷徨わせ始める。
何事かあったのかを怪訝そうにするウルリーケに向けて、僅かな逡巡の後にとうとうスヴェンはそれを口にした。
「……東翼の……恐らく、女主人用の部屋が空いたままだ。移ってこないか?」
双子に東翼と西翼をあまり行き来させるのも気が引ける、せっかくの部屋が空いたままなのは勿体ない。こうして顔を合わせる事になったのだから、わざわざ部屋を遠ざけておく必要ももう無い。
……等々、何故か焦ったような早口でスヴェンは次々に述べていたが、視線を彷徨わせた後に少し気まずそうにしながら、きょとんとした表情のウルリーケを見つめる。
「お前が、嫌でなければだが……」
少し顔を逸らしながら俯くスヴェンの白皙の頬に赤みがさして見えるのは気のせいだろうか。
ウルリーケは思わず目を瞬いたまま、咄嗟に答えが紡げない。
沈黙が満ちてしまったことに、スヴェンの横顔に徐々に不安げな様子が滲み始める。
スヴェンが、何かを口にしようとした時だった。
ウルリーケが、破顔しながら口を開いたのは。
「お引越し、頑張ります……!」
戸惑いと嬉しさの鬩ぎあいの末に、紡ぎだしたのはウルリーケの心からの喜び。
少し離れた場所で、フィーネとフェリクスが頷き合いながら笑っているのが見えた。
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