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信じる事、願う事

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 鷹臣がかさねを連れて帰宅した頃には、既に辺りは夜闇の帳が下りていた。

 胡蝶様が何者かに拐かされた上に、それを追って当主も姿を消した。
 あってはならない騒ぎに顔色を変えていた人々は、二人の姿を見ると安堵した様子で駆け寄って来る。
 かさねの肩を抱いたまま、鷹臣は手近な女中にすぐに湯を用意するように命じる。
 女中が慌ただしく駆けだしていくのとほぼ同時に、血相を変えた燁子が玄関ホールに姿を現した。

「かさね、無事だったのね……!」

 燁子は見て分かる程に蒼褪めている。
 何事も無かったのか、と問いたいように見えるけれど、躊躇している様子だ。
 大丈夫だと、かさねが何とか少しでも笑みを作って伝えようとした時だった。

「白々しい……」

 かさねは思わず耳を疑ってしまった。
 嫌悪の響きの籠った呟きを零したのは鷹臣だった。
 弾かれたようにそちらを見れば、鷹臣は糾弾するような眼差しを妻に向けている。
 それを受けて、蒼かった燁子の顔から更に色が失せる。燁子はわなわなと震えだしたかと思えば、呻くように口を開いた。

「まさか、わたくしが仕組んだとでもいいたいの……⁉」

 鷹臣は何も言わなかったが、沈黙と燁子に向ける鋭い眼差しが答えだった。
 彼は、燁子が人を雇ってかさねを攫わせたと思っている。
 どれ程可愛がってみせたとしても、本当の処では目障りと忌々しく思っていたのだろう、と信じて疑わない様子が見て取れて、かさねの血の気も失せる。
 そんな筈がない、例え不思議で歪と言われるような関係であっても、向けられるあの情に偽りがあったとは思えない。
 夫と妻が、一触即発といった空気になり狼狽える周囲。重く痛い沈黙が満ちた時。

「奥様が……奥様が、このような事をする筈がありません!」

 何と、叫んだのは此度の被害者であるかさねだった。
 震えそうになるのを必死に抑えながら、燁子を庇うように立って正面から鷹臣に抗議を口にする。
 その場に居た者達も、険悪を極めた夫婦も、これには唖然としてしまっていた。
 かさねは、勇気を振り絞り尚も続ける。

「奥様なら、私が目障りと思ったら直接仰る筈です! こんな卑怯な謀をされると思いません!」

 そう、燁子はこんな事はしない。
 夫を厄と忌み嫌い、その厄を引き受ける形代としてかさねを迎え入れた燁子。
 燁子の人となりは接する時間を通して見えてきた。
 妾にも余裕を以て接し、気を配ってやってこそ賢婦人の条件とも言われていたが、その建前とも関係なしにかさねに優しかった。
 不可思議な関係であっても、心からの慈しみと愛情を注いでくれていた。
 そして、その高い教養に裏打ちされる誇り高さを持つ。
 燁子は、例え目障りと思ってもここまで短慮な真似に及ぶはずがない。思ったなら、正面から堂々と拒絶するだろう。
 それに……。
 一瞬だけ、燁子の顔に酷く傷ついた表情が過ったように見えたのだ。
 濡れ衣を着せられて責められている事に、ほんの僅かだけれど傷ついた少女のような雰囲気が過ったように思えた。
 何か、燁子の心の傷に触れでもしたのだろうか……。

「私より長く一緒にいらっしゃるのに、旦那様は何故奥様を信じられないのですか!」

 思い詰めた表情のかさねにぴしゃりと言われて、鷹臣が目を丸くする。
 鷹臣に口答えするなどとんでもない事とは思うけれど、燁子に対する誤解を見過ごせなかった。
 黙り込んでしまった鷹臣に、怒らせてしまったかとかさねは不安が過る。
 けれど。

「お前という奴は……」
「も、申し訳ありません……!」

 盛大な嘆息交じりに呟かれた言の葉は、呆れた風ではあったが語調は思いの外優しかった。
 怖々と見つめるかさねを見て更にひとつ息を吐いた後、鷹臣は妻へと視線を向ける。

「燁子」

 短い呼びかけに、燁子は応えない。色の失せた固い表情で険しい眼差しを夫に向けるだけだ。
 しかし、それが次に鷹臣が発した言葉にて崩れる。

「……済まなかった」

 周囲がざわめいたのが聞こえた。
 先程とは対照的に、今度は燁子が目を丸くする番だった。流石の燁子も咄嗟に返す言葉を失っているようである。
 それもそうだ、男が女に謝罪するなどそうそうない事であるし、ましてや名家の主である男が、妻である女になど。
 疑いを向けて糾弾してきた相手が詫びた事に、燁子は何時もの貴婦人然とした様子も崩して茫然としていた。
 先程とはまた違う形の沈黙がその場に満ちようとした時、慌ただしい足音と叫び声が聞こえてくる。

「旦那様……!」

 何やら物々しい雰囲気にそちらを見て見たならば、タキが居た。
 タキは一人ではない。引きずるように忍を連れて足早に歩んできている。
 忍は離せと抗っているようだが、タキは老いた身の何処にそれほどの力がという程の強さで忍を捕えている。

「この女が……忍が、企んだ事でございました……!」

 その場にいた人間に衝撃が走る。何を企んだのかなど聞く間でもない。
 問われていたのは主人の大事な『胡蝶』に邪な企てをした犯人についてだった。
 タキによると、忍が例の男達と遣り取りしたのを立ち聞きしたものがあったようだ。
 部屋を探れば企ての証拠ともいえる書付が見つかったという。
 忍は尚も暴れタキを振り払おうとし続けたが、それを見た鷹臣が下男たちに命じて忍を取り押さえさせる。
 今度こそ抵抗の余地すら封じられた形の忍は、違うのだ、私は悪くないなどと喚き散らしながら必死で藻掻いていたが、やがてある一点を睨みつける。
 女の毒々しい眼差しは……かさねに据えられていた。

「お前なんか、卑しい田舎娘の癖に! 何で私が、お前なんかの面倒を見なければいけないのよ!」

 鋭い言葉の礫がかさねに打ち付ける。
 思えば忍は最初から不本意そうだった。
 かさね付になるまでは燁子付の女中であったという。
 きっと高貴な生まれの優雅な女主人に仕えられる事を喜んでいたのだろう。
 紫園家に奥女中として奉公出来ているのだから、出自とて確かな筈だ。
 けれども他でもない女主人によって、ぽっと湧いた妾の傍仕えをする事になる。
 しかも、相手は生まれも定かではない田舎出の小娘。
 家柄にも勤めにも誇りを持っていた忍の矜持を傷つけるには充分過ぎた。
 かさねは、続く嫌がらせの主が忍である事に早い段階で気付いていた。
 忍の心情を慮れば無理もないと思ったから、耐える事を選んだ。
 けれども、それが今日のような一大事を招いてしまったと思えば、心中には苦いものが満ちる。

「お前なんて『胡蝶様』なんて大層な呼び方をされたって、所詮妾よ! 金で買われた……操を売った汚らわしい女じゃない!」

 血走った目で、忍は尚もかさねへの蔑みを叫び続けている。
 誇りも慎みも何もかもかなぐり捨てて、ひたすらにかさねへの嫌悪と憎悪を口走り続ける忍は、狂乱状態と言っても過言ではない。
 戒めを解けば、そのままかさねの喉首を喰いちぎりかねない程の忍は、絶える事なく呪詛を口にし続ける。

「お前みたいな女が、奥様を差し置いて大切にされるなんて……私が傅かなければならないなんて……!」

 あまりの剣幕と狂乱ぶりに使用人達は皆揃って完全に顔色を失くしてしまっている。
 かさねは気を抜けば震えてしまいそうだった。しかし、真正面からその禍々しい眼差しを受けてたった。
 全ては自分が沈黙を選んだが為に辿り着いた事であるならば。
 そして、自分はここで生きていく事を選んだのならば。怯む事なく、受け止めてやろうと思ったのだ。

 誰もが言葉を発する事を忘れてしまったかのような空間の中で、忍だけは絶えず怨嗟を叫び続ける。
 その時、何かが動いたような気がした。
 空気の揺れを感じたと思った次の瞬間、宙を裂くような甲高い悲鳴が響き渡る。
 血飛沫があがり、忍が悲痛な呻き声をあげながら激しく藻掻き苦しんでいる。
 鷹臣の手には、抜き放たれた刀があった。
 刀は新しい血に塗れており、忍の顔に刻まれた一文字の線状からは鮮やかな赫が滴り落ちては着物を染めていく。
 鷹臣が忍の顔を斬ったのだと気付いたのは、一瞬遅れて後だった。
 あまりに容赦のない……女の顔に傷をつけるという無慈悲な事をしてのけた鷹臣は、家令に命じる。

「今日は、見張りを立てて物置に籠めておけ」

 鷹臣が忍に向ける眼差しは凍てつく氷よりもなお冷たい。
 吹雪の声音は、更に慈悲無き命令を紡ぐ。

「明日になったら女衒を呼んで、その女を切見世に売れ」

 かさねは、その場の温度が更に下がったのを感じ取った。
 鷹臣は忍を遊郭に、それも最底辺の店へと売り飛ばせと命じたのだ。
 彼女が忌まわしいと叫んだ、操を売る存在に貶めようとしているのだ。

「忍の家が……」
「紫園を相手取りたいというのであれば、とだけ言っておけ」

 タキが燁子を伺いながら問うたところを見ると、忍は燁子に縁があるらしい。
 もしかしたら遠い血縁などで、その筋の紹介であるのかもしれない。おそらく、それなりに確かな家の出である筈だ。
 忍は血に塗れた眼差しで僅かな望みを託して燁子を見つめた。
 しかし。

「わたくしにも異論はないわ。……その女を、二度とわたくしの目に触れさせないで頂戴」

 燁子が忍を見据える眼差しは、鷹臣のものと遜色ない程に血の通わぬ冷たいものだった。
 忌まわしいと思う心を隠そうともせず、慈悲を乞うように自分を見る女を見下ろしている。
 眼差しは、人に対して向けるものではなかった。まるで、無価値な『もの』を見るかのような視線だった。
 最後の望みを失った忍は完全に打ちのめされた様子で、がくりとその場に膝をついた。
 もはや怨嗟を紡ぐ力とて残っていない様子である。下男たちに引きずられるようにしてその場から消えていく。
 止めるべきなのだと思っても、口の中が乾き切って痛い。掠れた響きが漏れるだけで意味ある言葉が紡げない。

 鷹臣の他者への容赦なさを垣間見てしまったから。
 燁子が、かさね以外の人間をまるで『もの』と見る様子を目にしてしまったから。

 呆然と立ち尽くしているかさねに、女中が控えめに風呂の準備が出来た事を伝えてくる。
 それでも彫像のように動けずにいるかさねは、ふわりと何かが包む感触を覚えた。

「お前が無事でよかった。……お前が『胡蝶』で本当に良かった」

 燁子だった。
 折を見てするように、かさねを抱き締めてくれている。
 上品な香水の香りが鼻を擽り、柔らかな衣服の感触が肌に心地良い。
 鷹臣が此方を見ているのが見える。何か言いたげではあるが止める様子はない。
 少し苦しい程にかさねを抱き締める燁子は、数多の感情が綯交ぜとなった複雑な声音で、ただ紡いだ。

「ありがとう、かさね」



 タキの手を借りて湯を使い、暫し後にかさねの姿は与えられた部屋にあった。
 硝子窓の外は星灯りすら見えない漆黒の夜闇に包まれている。広がる庭園も何も見えはしない。
 かさねは固い表情のまま、思わず我が身を抱き締める。気を抜けば震えそうになる指先を必死に抑える。
 少しでも油断すれば蘇ってくる。押さえつける腕や、馬乗りになりながら伸ばされる手が。

 唇を噛みしめたまま、かさねは窓外の……恐らく物置小屋があるだろう方角を見遣る。
 忍は、今どんな思いで閉じ込められているだろう。彼女に待っているのは世の地獄とも言える未来だ。
 鷹臣を止めるべきだと思う。『胡蝶』の願いが何よりも優先されるのであれば、自分が止めれば、或いは……。
 そう思うのに、先程は遂にその言葉が出なかった。紡ごうとするたびに、忌まわしい感触が身体にありありと蘇って。

「かさね、どうした」

 声を聞いて弾かれたように振り返ると、何時の間にか鷹臣が居た。
 一応入室前に声をかけてくれたらしいが、待てども応えがなかったと鷹臣は言う。
 ついつい物思いに耽り過ぎてしまった事を悔いながら、かさねは出窓から離れる。
 鷹臣に歩み寄ろうとした瞬間、強く腕を引かれる。

「だ、旦那様……」
「あの女の処遇に関しては、お前が何を言ったとしても撤回する心算はない」

 気が付いた時には、かさねは鷹臣の腕の中に居た。
 広い胸に抱かれ戸惑うかさねの耳に、静かな声音で紡がれた決意が聞こえる。
 思わず顔をあげると、深い光を讃えた優しい表情で鷹臣がかさねを見つめている。
 その瞳の奥には、揺らぐ事のない意思があった。

「お前を害する者に情けなど必要ない。……全て滅びてしまえ」

 見上げるかさねの頬を、鷹臣の指が撫でるように伝う。
 触れる感触に思わず身じろぎしながら見上げ続けるかさねを覗き込むように、鷹臣は更に続ける。

「お前はけして許さずとも良い。……自分を傷つける者を誰であろうと、けして」

 一瞬、かさねは怪訝に思った。
 言葉を紡いだ瞬間、鷹臣が微かに辛そうな表情を過らせたように見えたからだ。
 まるで自らを責めるような……。気のせいとも思う程の、ほんの刹那の事ではあったけれど。

「咎は私が全て引き受ける。だからお前は」
「旦那様……」

 強く抱きしめられる。息をするのが苦しいと思う程に強いけれど、同時にかさねを気遣う心も感じる。
 何処にも行くなと言ってくれている。けして離さないと言ってくれている。
 そんな気がして、抱き寄せる腕を受け入れるように、自ら鷹臣の胸に顔をうずめた。

 暫しの間、どちらも一言も発しなかった。
 だが、不意に空気が揺れて、次いでかさねの口から狼狽の声があがる。
 鷹臣は、かさねを横抱きに抱え上げたかと思えば、足早に寝室へと進み始めたのだ。
 戸惑いの声にも揺れることなく迷いない足取りで寝台に至ったと思えば、かさねを静かに下す。
 今日の出来事を思えば、応える事が出来るはずがない。
 動揺するかさねを他所に、鷹臣は自らも寝台に横になるとかさねをゆるく抱き寄せる。

「何もしない。……こうして眠るだけだ」

 小柄なかさねを腕の中にすっかり収めてしまいながら、鷹臣はまるであやすようにかさねの背をゆるく叩いた。
 物思いに耽るような、どこかを遠くを思うような声音で呟かれる言葉に、かさねは言葉を紡げない。
 鷹臣の鼓動が伝わってくる。ここにこの人が確かにいるのだと、伝えてくれる……。

「ただ、お前がここにいる事を確かめたいだけだ……」

 温かな鼓動に緩やかに時間は流れる。
 互いに相手の存在を傍に感じたいと願う思いに満ちた、優しい静かな時間。
 かさねは、鷹臣という人を思った。
 金でかさねを妾と買った人。
 一年の猶予を与え、溺れるような幸福を与え、不思議な愛情を向けてくれる人。
 かさねを唯一の宝のように大事に扱い、慈しみ守ってくれる一方で、他者に対しては苛烈なまでであり、慈悲も容赦も与えはしない。
 凍土のような冷たさと、木漏れ日を思う温かな一面と。そのどちらが本当の鷹臣なのだろうと思う。
 違う、どちらが、ではないのだ。
 どちらもこの鷹臣という人なのだ。かさねが唯一人の人と思う男性の……。
 戸惑いがないと言えば嘘だ。けれども、それをも受け入れたい。それ以上に、この人が愛しい。
 鷹臣という男性を傍に感じる事ができる『胡蝶』である事を、かさねは初めてしあわせだ、と思った……。
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