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1巻
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「恋愛小説が大好きでね、色々集めているし読んでいるのよ。種族違いの恋も素敵だし、凛々しい殿方同士やうつくしい女性同士の恋も素敵ね」
普通の男女の恋愛だけではなく、異種族の恋愛も、男色も女色もいけるとはかなり間口の広い方だわ、と奏子は内なる独り言を呟く。この方とは仲良くなれるかもしれない、とまで思った。
満面の笑みを浮かべる望は奏子を見つめながら、感嘆の息をつく。
「色々見せてあげた甲斐があったわ。こんなに素敵なお話を書けるようになるなんて。新しい連作の続き、楽しみにしているのよ!」
色々見せてあげた、とはこれはいかに。
曖昧に微笑みつつ相槌を打っていた奏子は、その感慨深げな言葉に首を傾け、再び固まる。何気なく呟いたから流しそうになったけれど、何とも言えない表情になる。
この狐の女性を知ったのは夜会にお邪魔させてもらうようになってからで、初めて言葉を交わしたのはつい先程。
眼差しの先で望は上機嫌であり、朔は不機嫌なまま奏子を見つめている。
「あの、ありがとうございます」
疑問は募るばかりだが、褒められたということは理解できている。それならば礼を伝えようと、奏子はまず頭を下げた。
人であろうとなかろうと、自分の作品を愛してくれている方に会えたのは素直に嬉しい。楽しんで読んでくれたのだと伝わってきて、書いてきて良かったと胸が温かくなる。
けれど、と心に哀しく呟く。楽しみにしてもらっているからこそ、伝えなければならないことがある。
「もうじき書けなくなるのです。縁談が決まりそうで」
望が目を見張った。その背後で朔が身を強ばらせる。
伏し目がちになってしまった奏子を覗き込むようにしながら、望が静かに問いかける。
「もうお相手は決まっているの?」
「誰かまでは決まっていませんが、そろそろ婿を取らせると父が」
父が言い出している以上覆らない決定で、奏子に逆らう術はない。そして結婚したら、今までのように密かに筆を執ることもできなくなるのは間違いない。だから、奏子の夢の終わりはすぐそこまできているのだ。
哀しげに奏子が告げると、暫く沈黙が流れる。
朔は何故だか不機嫌になったし、望は何やら考え込んでいる。
そして、ややあって口を開いたのは望だった。
「じゃあ、朔をあげるわ」
「え?」
間の抜けた声を発してしまった奏子は、視界の端で朔が目を見開いて絶句したのを捉えた。
何を言われたのかすぐには理解できず、そして理解した後には何と返答して良いか分からない。引き攣った表情で眼差しを向けた。
「朔に相応の身分と持参金をつけて、お婿にあげる。この子なら執筆の邪魔になることはないし、奏子さんは気兼ねなく続きを書けるわ」
「え、え……?」
「勝手に決めるな」
望は具体的に伝えるけれども、奏子の困惑は深まるばかりだ。どう見ても当の本人は乗り気ではないし、そもそもこの二人は……
「あの、そもそもお二人はどのようなご関係で……?」
奏子はおずおずと問いかける。
「姉弟よ、私がお姉さん。朔は私の弟なの」
女性は男性に従う立ち位置にあり、跡取りとなり得る男兄弟の方が発言力が強いのは自明の理である。しかしそれは人の価値観であり、あやかしには関係ないものらしい。もしかしたら男子でなければ跡取りになれないという決まり自体がないのではと思う。
確かに面差しは似通っているし、纏う色彩も同じである。血縁と言われたら頷ける。
ただ、本気なのだろうか。要らないと言ったらたとえ冗談であっても失礼だし、くださいというわけにもいかないだろう。犬猫の子ではあるまいし。
この場合、どう答えるのが正しいのだろうか。
何やら苦情を申し立てる朔を無視して、望は楽しそうに笑いながら「遠慮しなくていいのよ」と言葉を重ねる。
遠慮しているのではない。どう返答すれば一番失礼にならないのかを熟考していただけである。まさか本気ではあるまいと思うけれど、いかにすれば弟の面子を潰さず、姉の配慮を無下にせずにいられるか。
答えが出ないまま、思案顔で凍り付く奏子。
「どういうことだ、先程といい今といい」
「何よ」
人前であろうと不機嫌さを隠さない弟に対し、姉は拗ねたような眼差しを向ける。
先程というのは、大広間でのダンスだろう。やはりあれはこの男性の本意ではなかったのだ。そう思えば、心に暗いものが立ち込める。
望は盛大な溜息を一つ零した後、肩を大仰に竦めながら呆れた口調で言い放つ。
「煮え切らないから背中を押してあげただけよ」
「余計な真似を」
このひねくれもの、天邪鬼、と望は盛大に朔をこき下ろしている。
言葉を失い二人のやり取りを茫然と見る奏子の前で、狐の姉弟はなおも会話を続けている。
「お嬢様が槿花であることに気付いた誰かがいる以上、守ってあげなくちゃいけないでしょう?」
望が何ごとか朔の耳元で囁いたが、奏子にはよく聞こえなかった。
目に見えて朔の顔色が変わり表情が強ばる。
朔の様子を確かめながら身体を離し、望はさらに続ける。
「遠くで気を揉んで見守るより近くで守ってあげた方が良いでしょう?」
そう望は言うが、朔は唇を引き結び、険しい表情をしたまま沈黙している。
詳しいことは分からないが、どうやら望は奏子を守ろうとしてくれているようだ。何故と視線で問うものの、返ってきたのは微笑みだった。
奏子を様々な意味で守る手段として結婚があげられているらしいが、問題は、そのために差し出されようとしている朔の心情である。
朔は暫しの間、眉間に縦皺を寄せながら沈黙していたが、口から零れたのは溜息交じりの言葉だった。
「俺はもう繰り返すつもりはない。……時期がきたら別れる。本当に夫婦になる心算も、愛する心算もない」
「好きにしたら?」
その言葉は、望が申し出た内容を受諾していた。
奏子は弾かれたように顔を上げ、朔を見つめた。
愛する心算はない。
その言葉が何故か刺さった棘のようで、結婚は彼の本意ではないのだと、嘆息交じりの声で思い知らされる。それは当然だと思うけれど、同時に何故か痛くて、哀しくて仕方ない。
見上げた先で、奏子の眼差しと朔の視線が不意に交差した。
朔が奏子の瞳に何を見たのかは、奏子には分からない。だが、目が合った瞬間、朔は焦ったように何かを言いかけ、瞳には希うような光があった。
それは刹那のことで、朔は二人に背を向けて足早にその場から去っていく。
朔が姿を消していった方角を見据えながら、望は深い溜息をついて肩を竦める。
「愛するつもりはない、ねえ。……もう手遅れだと思うけど」
望はもう一度苦い吐息を零し、奏子に向き直る。
「あんなことを言っているけれど、あなたを嫌っているわけではないから」
「そうですか……」
慰めるようにかけられた言葉は優しいけれど、奏子の表情は晴れないままだ。
不思議に思う程、朔の拒絶が胸に堪えた。奏子を守るためだけに意に沿わない婚姻をしろと言われたのだから不快に思うのは当然だ。
それなのにどうしてこんなに自分は寂しいのだろう。
近くにあったはずのものが隔ての向こうにあるような、理由が分からない不思議な感覚がある。それがあまりに冷たくて、哀しい。裡にある想いに『何故』が巡り続けている。
不意に、肩に柔らかな感触が生じた。
「大丈夫よ。すぐに申し込ませて頂くわ。安心して、待ってらっしゃいな」
気遣うように奏子の肩に手を置き、安心させるような穏やかな声音で望は告げた。
それを聞いた奏子は夢見心地のまま、こくりと頷いた。
その後のことは、ぼんやりとしか覚えていない。
気が付けば自室にいた、いつの間にか帰宅していたようだ。
あまりに衝撃的で、夢でも見ていたのかと思う。ふわふわとした心地がして、どうも現にある気がしない。いつもであれば夜会で見聞きした出来事はすぐに書き出すが、筆を取る気力はなかった。
言葉が少ないことを心配するシノに手伝ってもらって、ぼうっとしたまま寝支度を整え寝てしまった。
翌日、目が覚めると、いつも通りの光景であり、いつも通りの朝だった。
あれは夢であったろうと思いながら、黒髪を揺らしてゆるりと身体を起こす。
なかなか凄い夢を見たものだ。何かの形で新しい話に活かせないものだろうか、面白いかもしれないなどと思いながら、いつも通りに登校した。
そして……すぐに奏子は令嬢達に囲まれた。
どうやら誰かが親から昨夜のことを聞き、それが瞬く間に他の令嬢達に伝わった様子である。少女達は瞳を輝かせて、素敵な殿方と踊られたと聞きましたと聞いてきたのだ。
その様子を見て奏子は実感する。あれは紛れもない現実だったのだと。
家のためと諦めながらも、物語のような恋をも夢見る少女達の追及をかわすのは実に難儀だった。
途中で佳香が先生の用事と口実を付けて連れ出してくれたから何とか乗り切れたが、明日も同様になるのが見えている。奏子の唇からは溜息しか出てこない。
まず家に帰ろう、と奏子は思った。家に帰って、お茶とお菓子で一息入れよう。そして、心を落ち着かせて日課である執筆に勤しもう。
きっとあの夢のような出来事はいずれ笑い話になる。あの狐の女性とて、弟をくれてやるなど本気ではあるまい。弟も嫌がっていたし。
だがしかし。
女学校から帰った時には、既に仲人が立てられ婿入りの申し込みがなされていた。
昨日の今日の話であるというのに、一分の綻びもない完璧な形式と手順にのっとった申し込みであった。
他にも候補はいたはずなのに、父はすぐさまそれを受け入れて、あれよあれよという間に縁組は整えられた。熱に浮かされたような父の様子から、何がしかの妖術が使われた気もしている。
狐の姉弟は、御一新時――明治維新――の功績が認められて爵位を賜った名門の子息令嬢ということになっているらしい。弟は次男故に婿入り先を探していたという設定まで作りあげたようだ。
二人の素性と奏子との婚姻は社交界の話題をさらい、朔は奏子の夫として迎えられることになったのだった。
結婚にあたって、奏子は女学校を退学することとなった。学びたいという意欲は消えていなかったものの、こればかりは世の倣いであるから仕方ない。
時を同じくして、佳香も結婚のために退学した。もうあの庭で語らうことができなくなると寂しかったが、手紙のやり取りを約束し、二人は学び舎を去った。
そして、婚礼の日を迎えたのである。
奏子は強張った表情で正座していた。
緊張しているのだ、しないわけがない。
目の前に用意されたのは洞房花燭の……いわゆる初夜の床である。シノに身支度を手伝ってもらい、あれこれと初夜の心得など聞かされ、今は一人きりである。
頭がついていかない、気持ちはもっとついていかないと奏子の裡は混乱したままである。先程婚礼をあげたのもどこか夢心地だ。
だが、頬をつねれば確かに痛いから現実には違いない。
初夜の床で何があるかを全く知らぬわけではない。ただ自分がここにいるというのが信じられないだけだ。
結婚を想定していた以上、いつかはと思っていた。床では殿方のなさるように、と教えられてはいたが、相手が人間ではない想定なんてもちろんしていない。
相手は人ならざる者。
千年を生きた天狐という立派なあやかしである。
このままでいいのか、いっそ逃げ出すか、いやそれでは……と言葉のないまま思案し続けていた時、襖が音もなく開いた。
その向こうには今宵の主役の片割れである花婿の姿があった。紋付の正装姿は凛々しかったが、簡素な寝衣姿も飾らぬ美しさがある。
美しい男性って何を着ていてもそうなのね、と思わず見つめてしまう。
朔は奏子から少し距離を置いて座った。
二人の間に横たわる沈黙。痛い程のそれを終わらせたのは、沈痛な声音であった。
「望の我儘につき合わせてしまい、このような事態となったのは申し訳ないと思う。姉は昔から言い出したら、人に何を言われても聞かないから……」
朔の口から実に実に深い溜息と共に言葉が零れる。その何とも言い難い表情から、奏子は改めて姉弟の力関係を窺い知る。
深々と頭を下げる様子を見て、奏子は慌てた。
男性がそのように女に頭を下げるものではないと思うけれど、朔が意に介した様子はない。朔は人の男性のように高圧的であったり、一方的であったりするところがなく、奏子の目には新鮮に映る。
奏子の父は暴君ではないし、どちらかというと進歩的な考えの持ち主である。だが、それでも元々武家の主で、この時代の男性の例に漏れず女は従って当然といったところがある。
けれども、朔からはそのような雰囲気を感じない。あくまで対等な個として奏子を見てくれているように感じる。
思索に耽りながら見つめる奏子に、朔はさらに溜息交じりに続けた。
「この結婚は、あなたが無事に連作を書き上げるまでの仮のものだ。望むように執筆できるよう取り計らうと約束する。それが終わればあなたを自由にする」
この騒動の発端は、奏子の結婚により連作が永久に中断してしまうかもしれない、という危惧である。
つまり連作が無事完結を迎えたなら、その必要はなくなる。時が来たら朔は奏子と離縁するつもりなのだと知る。
「無論この家のことには責任をもつし、一人となった後もあなたは好きなように過ごせるように約束する。あなたの名誉も傷つけないとも約束する」
離縁された女というのは、あまり良い印象を抱かれないものだ。奏子は左程気にしないが。
むしろ婿養子という立場である朔の方が不利になるはずである。そうは言っても、そもそも人の世の事情である。あやかしの彼には、さして大きなことではないのかもしれない。
朔はきっと自分を慮ってくれているのだ。それは伝わってくる。奏子が不利益を被らないように細心の注意を払ってくれている。恐らく離縁の後に生じる問題を全て解決し、奏子の生活の安寧を保証してくれるだろう。
それなのに、何故かこの間に横たわる距離を寂しいと感じる自分がいる。
配慮の名のもとに引かれた一本の線。決して越えることを望まない境界線。
「本当の夫婦になる心算はない」
拒絶を確固とする一言を朔は告げた。
それは、奏子と契るつもりはないという意味でもあるだろう。そして、同時に奏子に心を許す心算は……愛する心算はないという明確な意思を改めて示したのだろう。
この美しい狐のあやかしは奏子を拒絶するのだ。必要な関わり以外を持たないし、いずれこの関係は終わるものだと言う。
確かにその方がありがたいはずなのだ。奏子は元々結婚に希望を抱いていなかったし、相手が人でないというのも恐怖でしかなかったから。
なのに、何故こんなに。
本音を表情に出さぬよう気を付けなければ、何か返答しなければと思いながらも、今はそれができない。置き去りにされた子供のような、寂しげで哀しい表情が知らず知らずのうちに浮かんでいるだけだった。
朔は奏子の表情を見て一瞬だけ辛そうな様子を見せたものの、それは錯覚だと思う程の刹那だった。
音もなく立ち上がり、奏子に背を向ける。
複雑な事情はあろうとこれは初夜の床、どこへ行こうというのか、と奏子は顔を上げる。
「……ゆっくり休んでくれ」
最後に一度だけ肩越しの眼差しと、視線が交わった。
哀しい心持ちなのは奏子のはずなのに、何故か朔がひどく傷ついているように見えた。
花婿の姿は一呼吸後に、その場から消えていた。
妖術でどこかへ去ったのだろう、足で出ていかなかったのは初夜に置き去りにされたと奏子が後ろ指をさされないようにするための配慮であろうか。
一人取り残されて奏子は盛大に深い溜息をついた。気が進まなかったのだから良かったではないかと捨て鉢に呟いてみるけれど、気分が晴れるはずもない。
休めるものなら休みたい、奏子は釈然としない心持ちのまま裡に呟いた。
あの夜会で感じた不思議な懐かしさと温かさ、それが否定された気がする。最初から気のせいだったのだと言われたら返す言葉もない。
だって彼は人ではないのだから。
人の理と情の外に生きる者なのだから。
心中がどれだけ複雑であろうと、もう朔はいないし、その心は拒絶の壁の向こう側だ。
奏子はもう一度溜息をつく。
早くこの夜が明けないかと――この状況も夢であってくれないかと思うばかりだった。
◇ ◇ ◇
漆黒の空を照らす銀月の下、朔の姿は屋敷を見下ろす屋根の上にあった。
危なかった、と苦い溜息をつく。
奏子のあのような表情を見てしまった以上、あのまま留まっていたらどうなっていたか。
触れてはいけない、歩み寄ってはいけない。
痛みを感じるなら、それが『あの時』の自分への戒めなのだから……
「考え事ですか?」
「ああ……お前か」
不意に女の声が耳に飛び込んでくるものの、聞き覚えのある声で朔が驚くことはなかった。
そこには女中の装いをした一人の若い女がいる。奏子付の女中のシノである。
シノはにこにこと笑いながら、明らかに何かを楽しんでいる声音で問いかけてくる。
「今宵は待ちに待った新妻との初夜では? 募る想いがあるでしょうに、こんなところで何をなさっておいでです?」
「……深芳野」
彼女が面白がっているとしか思えなくて、朔は渋い顔をしながら呻くように一つの名を呟く。
そもそも、ここは屋敷の屋根瓦の上で、通りかかる場所ではない。
事情を全て分かったうえで笑う女中の瞳は人ならざる虹彩を有していた。
シノという名で奏子に仕えるこの女の本当の名は深芳野。天狐の長たる統領姫である望に古くから仕える腹心の狐である。
つまりは、立派なあやかしなのだ。
事情があって、奏子の身の回りの世話と共に護衛につかせていたのだ。
奏子と上手くやれているようで安心していたが、文才を見出したのは朔にとって予想外のことだった。
「あらまあ、申し訳ございません。わたくしとしたことが下世話な物言いを――」
「どこから情報が抜けたかは分かったのか」
事情が筒抜けの相手に些か分が悪いことは承知している。姉に似た面白がりの女が笑顔で揶揄ってくるのを遮って、朔は問うた。
『お嬢様が槿花であることに気付いた誰かがいる以上、守ってあげなくちゃいけないでしょう?』
あの夜、渋い顔をする自分に囁いた姉の声が蘇る。
男は何者かに金になると言われて忍び込み奏子を狙ったものの、詳しいところまでは聞いていなかったらしい。金蔓だからと、他者に話した様子はなかった。
記憶を消しておいたのであの男に関しては大丈夫だが、懸念は消えない。
男に情報を吹き込んだ元凶については分かっていないのだ。気付いた者がまだどこかにいる以上、再び似たような輩が現れる可能性がある。
「現在必死に探っております。今暫くお待ち頂きたいとのことです」
シノの顔からすっと笑みが消える。
編集長……シノの兄も、シノも持てる全てで槿花の正体を隠蔽していた。けれども、情報は漏れたのだ。
奏子自身が、という可能性もあるが、迂闊に明かしたとは考えづらい。
露見することを恐れた奏子は必死に口を閉ざしていた。彼女が事実を明かしたのは唯一人の親友にだけだ。それ故の懸念はある。だが……
「奏子様に関する情報は、やり取りの際にも守りを重ねておりました。兄も奏子様に関する情報については幾重もの防護を重ねた場所に秘していたと」
シノの兄もまた力ある狐である。その細心の注意を払った術がどれ程緻密なものであるかは言わずとて知れたもの。
けれども先日、兄は蒼褪めた顔である事実をシノに零したのだ。
普通の男女の恋愛だけではなく、異種族の恋愛も、男色も女色もいけるとはかなり間口の広い方だわ、と奏子は内なる独り言を呟く。この方とは仲良くなれるかもしれない、とまで思った。
満面の笑みを浮かべる望は奏子を見つめながら、感嘆の息をつく。
「色々見せてあげた甲斐があったわ。こんなに素敵なお話を書けるようになるなんて。新しい連作の続き、楽しみにしているのよ!」
色々見せてあげた、とはこれはいかに。
曖昧に微笑みつつ相槌を打っていた奏子は、その感慨深げな言葉に首を傾け、再び固まる。何気なく呟いたから流しそうになったけれど、何とも言えない表情になる。
この狐の女性を知ったのは夜会にお邪魔させてもらうようになってからで、初めて言葉を交わしたのはつい先程。
眼差しの先で望は上機嫌であり、朔は不機嫌なまま奏子を見つめている。
「あの、ありがとうございます」
疑問は募るばかりだが、褒められたということは理解できている。それならば礼を伝えようと、奏子はまず頭を下げた。
人であろうとなかろうと、自分の作品を愛してくれている方に会えたのは素直に嬉しい。楽しんで読んでくれたのだと伝わってきて、書いてきて良かったと胸が温かくなる。
けれど、と心に哀しく呟く。楽しみにしてもらっているからこそ、伝えなければならないことがある。
「もうじき書けなくなるのです。縁談が決まりそうで」
望が目を見張った。その背後で朔が身を強ばらせる。
伏し目がちになってしまった奏子を覗き込むようにしながら、望が静かに問いかける。
「もうお相手は決まっているの?」
「誰かまでは決まっていませんが、そろそろ婿を取らせると父が」
父が言い出している以上覆らない決定で、奏子に逆らう術はない。そして結婚したら、今までのように密かに筆を執ることもできなくなるのは間違いない。だから、奏子の夢の終わりはすぐそこまできているのだ。
哀しげに奏子が告げると、暫く沈黙が流れる。
朔は何故だか不機嫌になったし、望は何やら考え込んでいる。
そして、ややあって口を開いたのは望だった。
「じゃあ、朔をあげるわ」
「え?」
間の抜けた声を発してしまった奏子は、視界の端で朔が目を見開いて絶句したのを捉えた。
何を言われたのかすぐには理解できず、そして理解した後には何と返答して良いか分からない。引き攣った表情で眼差しを向けた。
「朔に相応の身分と持参金をつけて、お婿にあげる。この子なら執筆の邪魔になることはないし、奏子さんは気兼ねなく続きを書けるわ」
「え、え……?」
「勝手に決めるな」
望は具体的に伝えるけれども、奏子の困惑は深まるばかりだ。どう見ても当の本人は乗り気ではないし、そもそもこの二人は……
「あの、そもそもお二人はどのようなご関係で……?」
奏子はおずおずと問いかける。
「姉弟よ、私がお姉さん。朔は私の弟なの」
女性は男性に従う立ち位置にあり、跡取りとなり得る男兄弟の方が発言力が強いのは自明の理である。しかしそれは人の価値観であり、あやかしには関係ないものらしい。もしかしたら男子でなければ跡取りになれないという決まり自体がないのではと思う。
確かに面差しは似通っているし、纏う色彩も同じである。血縁と言われたら頷ける。
ただ、本気なのだろうか。要らないと言ったらたとえ冗談であっても失礼だし、くださいというわけにもいかないだろう。犬猫の子ではあるまいし。
この場合、どう答えるのが正しいのだろうか。
何やら苦情を申し立てる朔を無視して、望は楽しそうに笑いながら「遠慮しなくていいのよ」と言葉を重ねる。
遠慮しているのではない。どう返答すれば一番失礼にならないのかを熟考していただけである。まさか本気ではあるまいと思うけれど、いかにすれば弟の面子を潰さず、姉の配慮を無下にせずにいられるか。
答えが出ないまま、思案顔で凍り付く奏子。
「どういうことだ、先程といい今といい」
「何よ」
人前であろうと不機嫌さを隠さない弟に対し、姉は拗ねたような眼差しを向ける。
先程というのは、大広間でのダンスだろう。やはりあれはこの男性の本意ではなかったのだ。そう思えば、心に暗いものが立ち込める。
望は盛大な溜息を一つ零した後、肩を大仰に竦めながら呆れた口調で言い放つ。
「煮え切らないから背中を押してあげただけよ」
「余計な真似を」
このひねくれもの、天邪鬼、と望は盛大に朔をこき下ろしている。
言葉を失い二人のやり取りを茫然と見る奏子の前で、狐の姉弟はなおも会話を続けている。
「お嬢様が槿花であることに気付いた誰かがいる以上、守ってあげなくちゃいけないでしょう?」
望が何ごとか朔の耳元で囁いたが、奏子にはよく聞こえなかった。
目に見えて朔の顔色が変わり表情が強ばる。
朔の様子を確かめながら身体を離し、望はさらに続ける。
「遠くで気を揉んで見守るより近くで守ってあげた方が良いでしょう?」
そう望は言うが、朔は唇を引き結び、険しい表情をしたまま沈黙している。
詳しいことは分からないが、どうやら望は奏子を守ろうとしてくれているようだ。何故と視線で問うものの、返ってきたのは微笑みだった。
奏子を様々な意味で守る手段として結婚があげられているらしいが、問題は、そのために差し出されようとしている朔の心情である。
朔は暫しの間、眉間に縦皺を寄せながら沈黙していたが、口から零れたのは溜息交じりの言葉だった。
「俺はもう繰り返すつもりはない。……時期がきたら別れる。本当に夫婦になる心算も、愛する心算もない」
「好きにしたら?」
その言葉は、望が申し出た内容を受諾していた。
奏子は弾かれたように顔を上げ、朔を見つめた。
愛する心算はない。
その言葉が何故か刺さった棘のようで、結婚は彼の本意ではないのだと、嘆息交じりの声で思い知らされる。それは当然だと思うけれど、同時に何故か痛くて、哀しくて仕方ない。
見上げた先で、奏子の眼差しと朔の視線が不意に交差した。
朔が奏子の瞳に何を見たのかは、奏子には分からない。だが、目が合った瞬間、朔は焦ったように何かを言いかけ、瞳には希うような光があった。
それは刹那のことで、朔は二人に背を向けて足早にその場から去っていく。
朔が姿を消していった方角を見据えながら、望は深い溜息をついて肩を竦める。
「愛するつもりはない、ねえ。……もう手遅れだと思うけど」
望はもう一度苦い吐息を零し、奏子に向き直る。
「あんなことを言っているけれど、あなたを嫌っているわけではないから」
「そうですか……」
慰めるようにかけられた言葉は優しいけれど、奏子の表情は晴れないままだ。
不思議に思う程、朔の拒絶が胸に堪えた。奏子を守るためだけに意に沿わない婚姻をしろと言われたのだから不快に思うのは当然だ。
それなのにどうしてこんなに自分は寂しいのだろう。
近くにあったはずのものが隔ての向こうにあるような、理由が分からない不思議な感覚がある。それがあまりに冷たくて、哀しい。裡にある想いに『何故』が巡り続けている。
不意に、肩に柔らかな感触が生じた。
「大丈夫よ。すぐに申し込ませて頂くわ。安心して、待ってらっしゃいな」
気遣うように奏子の肩に手を置き、安心させるような穏やかな声音で望は告げた。
それを聞いた奏子は夢見心地のまま、こくりと頷いた。
その後のことは、ぼんやりとしか覚えていない。
気が付けば自室にいた、いつの間にか帰宅していたようだ。
あまりに衝撃的で、夢でも見ていたのかと思う。ふわふわとした心地がして、どうも現にある気がしない。いつもであれば夜会で見聞きした出来事はすぐに書き出すが、筆を取る気力はなかった。
言葉が少ないことを心配するシノに手伝ってもらって、ぼうっとしたまま寝支度を整え寝てしまった。
翌日、目が覚めると、いつも通りの光景であり、いつも通りの朝だった。
あれは夢であったろうと思いながら、黒髪を揺らしてゆるりと身体を起こす。
なかなか凄い夢を見たものだ。何かの形で新しい話に活かせないものだろうか、面白いかもしれないなどと思いながら、いつも通りに登校した。
そして……すぐに奏子は令嬢達に囲まれた。
どうやら誰かが親から昨夜のことを聞き、それが瞬く間に他の令嬢達に伝わった様子である。少女達は瞳を輝かせて、素敵な殿方と踊られたと聞きましたと聞いてきたのだ。
その様子を見て奏子は実感する。あれは紛れもない現実だったのだと。
家のためと諦めながらも、物語のような恋をも夢見る少女達の追及をかわすのは実に難儀だった。
途中で佳香が先生の用事と口実を付けて連れ出してくれたから何とか乗り切れたが、明日も同様になるのが見えている。奏子の唇からは溜息しか出てこない。
まず家に帰ろう、と奏子は思った。家に帰って、お茶とお菓子で一息入れよう。そして、心を落ち着かせて日課である執筆に勤しもう。
きっとあの夢のような出来事はいずれ笑い話になる。あの狐の女性とて、弟をくれてやるなど本気ではあるまい。弟も嫌がっていたし。
だがしかし。
女学校から帰った時には、既に仲人が立てられ婿入りの申し込みがなされていた。
昨日の今日の話であるというのに、一分の綻びもない完璧な形式と手順にのっとった申し込みであった。
他にも候補はいたはずなのに、父はすぐさまそれを受け入れて、あれよあれよという間に縁組は整えられた。熱に浮かされたような父の様子から、何がしかの妖術が使われた気もしている。
狐の姉弟は、御一新時――明治維新――の功績が認められて爵位を賜った名門の子息令嬢ということになっているらしい。弟は次男故に婿入り先を探していたという設定まで作りあげたようだ。
二人の素性と奏子との婚姻は社交界の話題をさらい、朔は奏子の夫として迎えられることになったのだった。
結婚にあたって、奏子は女学校を退学することとなった。学びたいという意欲は消えていなかったものの、こればかりは世の倣いであるから仕方ない。
時を同じくして、佳香も結婚のために退学した。もうあの庭で語らうことができなくなると寂しかったが、手紙のやり取りを約束し、二人は学び舎を去った。
そして、婚礼の日を迎えたのである。
奏子は強張った表情で正座していた。
緊張しているのだ、しないわけがない。
目の前に用意されたのは洞房花燭の……いわゆる初夜の床である。シノに身支度を手伝ってもらい、あれこれと初夜の心得など聞かされ、今は一人きりである。
頭がついていかない、気持ちはもっとついていかないと奏子の裡は混乱したままである。先程婚礼をあげたのもどこか夢心地だ。
だが、頬をつねれば確かに痛いから現実には違いない。
初夜の床で何があるかを全く知らぬわけではない。ただ自分がここにいるというのが信じられないだけだ。
結婚を想定していた以上、いつかはと思っていた。床では殿方のなさるように、と教えられてはいたが、相手が人間ではない想定なんてもちろんしていない。
相手は人ならざる者。
千年を生きた天狐という立派なあやかしである。
このままでいいのか、いっそ逃げ出すか、いやそれでは……と言葉のないまま思案し続けていた時、襖が音もなく開いた。
その向こうには今宵の主役の片割れである花婿の姿があった。紋付の正装姿は凛々しかったが、簡素な寝衣姿も飾らぬ美しさがある。
美しい男性って何を着ていてもそうなのね、と思わず見つめてしまう。
朔は奏子から少し距離を置いて座った。
二人の間に横たわる沈黙。痛い程のそれを終わらせたのは、沈痛な声音であった。
「望の我儘につき合わせてしまい、このような事態となったのは申し訳ないと思う。姉は昔から言い出したら、人に何を言われても聞かないから……」
朔の口から実に実に深い溜息と共に言葉が零れる。その何とも言い難い表情から、奏子は改めて姉弟の力関係を窺い知る。
深々と頭を下げる様子を見て、奏子は慌てた。
男性がそのように女に頭を下げるものではないと思うけれど、朔が意に介した様子はない。朔は人の男性のように高圧的であったり、一方的であったりするところがなく、奏子の目には新鮮に映る。
奏子の父は暴君ではないし、どちらかというと進歩的な考えの持ち主である。だが、それでも元々武家の主で、この時代の男性の例に漏れず女は従って当然といったところがある。
けれども、朔からはそのような雰囲気を感じない。あくまで対等な個として奏子を見てくれているように感じる。
思索に耽りながら見つめる奏子に、朔はさらに溜息交じりに続けた。
「この結婚は、あなたが無事に連作を書き上げるまでの仮のものだ。望むように執筆できるよう取り計らうと約束する。それが終わればあなたを自由にする」
この騒動の発端は、奏子の結婚により連作が永久に中断してしまうかもしれない、という危惧である。
つまり連作が無事完結を迎えたなら、その必要はなくなる。時が来たら朔は奏子と離縁するつもりなのだと知る。
「無論この家のことには責任をもつし、一人となった後もあなたは好きなように過ごせるように約束する。あなたの名誉も傷つけないとも約束する」
離縁された女というのは、あまり良い印象を抱かれないものだ。奏子は左程気にしないが。
むしろ婿養子という立場である朔の方が不利になるはずである。そうは言っても、そもそも人の世の事情である。あやかしの彼には、さして大きなことではないのかもしれない。
朔はきっと自分を慮ってくれているのだ。それは伝わってくる。奏子が不利益を被らないように細心の注意を払ってくれている。恐らく離縁の後に生じる問題を全て解決し、奏子の生活の安寧を保証してくれるだろう。
それなのに、何故かこの間に横たわる距離を寂しいと感じる自分がいる。
配慮の名のもとに引かれた一本の線。決して越えることを望まない境界線。
「本当の夫婦になる心算はない」
拒絶を確固とする一言を朔は告げた。
それは、奏子と契るつもりはないという意味でもあるだろう。そして、同時に奏子に心を許す心算は……愛する心算はないという明確な意思を改めて示したのだろう。
この美しい狐のあやかしは奏子を拒絶するのだ。必要な関わり以外を持たないし、いずれこの関係は終わるものだと言う。
確かにその方がありがたいはずなのだ。奏子は元々結婚に希望を抱いていなかったし、相手が人でないというのも恐怖でしかなかったから。
なのに、何故こんなに。
本音を表情に出さぬよう気を付けなければ、何か返答しなければと思いながらも、今はそれができない。置き去りにされた子供のような、寂しげで哀しい表情が知らず知らずのうちに浮かんでいるだけだった。
朔は奏子の表情を見て一瞬だけ辛そうな様子を見せたものの、それは錯覚だと思う程の刹那だった。
音もなく立ち上がり、奏子に背を向ける。
複雑な事情はあろうとこれは初夜の床、どこへ行こうというのか、と奏子は顔を上げる。
「……ゆっくり休んでくれ」
最後に一度だけ肩越しの眼差しと、視線が交わった。
哀しい心持ちなのは奏子のはずなのに、何故か朔がひどく傷ついているように見えた。
花婿の姿は一呼吸後に、その場から消えていた。
妖術でどこかへ去ったのだろう、足で出ていかなかったのは初夜に置き去りにされたと奏子が後ろ指をさされないようにするための配慮であろうか。
一人取り残されて奏子は盛大に深い溜息をついた。気が進まなかったのだから良かったではないかと捨て鉢に呟いてみるけれど、気分が晴れるはずもない。
休めるものなら休みたい、奏子は釈然としない心持ちのまま裡に呟いた。
あの夜会で感じた不思議な懐かしさと温かさ、それが否定された気がする。最初から気のせいだったのだと言われたら返す言葉もない。
だって彼は人ではないのだから。
人の理と情の外に生きる者なのだから。
心中がどれだけ複雑であろうと、もう朔はいないし、その心は拒絶の壁の向こう側だ。
奏子はもう一度溜息をつく。
早くこの夜が明けないかと――この状況も夢であってくれないかと思うばかりだった。
◇ ◇ ◇
漆黒の空を照らす銀月の下、朔の姿は屋敷を見下ろす屋根の上にあった。
危なかった、と苦い溜息をつく。
奏子のあのような表情を見てしまった以上、あのまま留まっていたらどうなっていたか。
触れてはいけない、歩み寄ってはいけない。
痛みを感じるなら、それが『あの時』の自分への戒めなのだから……
「考え事ですか?」
「ああ……お前か」
不意に女の声が耳に飛び込んでくるものの、聞き覚えのある声で朔が驚くことはなかった。
そこには女中の装いをした一人の若い女がいる。奏子付の女中のシノである。
シノはにこにこと笑いながら、明らかに何かを楽しんでいる声音で問いかけてくる。
「今宵は待ちに待った新妻との初夜では? 募る想いがあるでしょうに、こんなところで何をなさっておいでです?」
「……深芳野」
彼女が面白がっているとしか思えなくて、朔は渋い顔をしながら呻くように一つの名を呟く。
そもそも、ここは屋敷の屋根瓦の上で、通りかかる場所ではない。
事情を全て分かったうえで笑う女中の瞳は人ならざる虹彩を有していた。
シノという名で奏子に仕えるこの女の本当の名は深芳野。天狐の長たる統領姫である望に古くから仕える腹心の狐である。
つまりは、立派なあやかしなのだ。
事情があって、奏子の身の回りの世話と共に護衛につかせていたのだ。
奏子と上手くやれているようで安心していたが、文才を見出したのは朔にとって予想外のことだった。
「あらまあ、申し訳ございません。わたくしとしたことが下世話な物言いを――」
「どこから情報が抜けたかは分かったのか」
事情が筒抜けの相手に些か分が悪いことは承知している。姉に似た面白がりの女が笑顔で揶揄ってくるのを遮って、朔は問うた。
『お嬢様が槿花であることに気付いた誰かがいる以上、守ってあげなくちゃいけないでしょう?』
あの夜、渋い顔をする自分に囁いた姉の声が蘇る。
男は何者かに金になると言われて忍び込み奏子を狙ったものの、詳しいところまでは聞いていなかったらしい。金蔓だからと、他者に話した様子はなかった。
記憶を消しておいたのであの男に関しては大丈夫だが、懸念は消えない。
男に情報を吹き込んだ元凶については分かっていないのだ。気付いた者がまだどこかにいる以上、再び似たような輩が現れる可能性がある。
「現在必死に探っております。今暫くお待ち頂きたいとのことです」
シノの顔からすっと笑みが消える。
編集長……シノの兄も、シノも持てる全てで槿花の正体を隠蔽していた。けれども、情報は漏れたのだ。
奏子自身が、という可能性もあるが、迂闊に明かしたとは考えづらい。
露見することを恐れた奏子は必死に口を閉ざしていた。彼女が事実を明かしたのは唯一人の親友にだけだ。それ故の懸念はある。だが……
「奏子様に関する情報は、やり取りの際にも守りを重ねておりました。兄も奏子様に関する情報については幾重もの防護を重ねた場所に秘していたと」
シノの兄もまた力ある狐である。その細心の注意を払った術がどれ程緻密なものであるかは言わずとて知れたもの。
けれども先日、兄は蒼褪めた顔である事実をシノに零したのだ。
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