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1巻

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 是非この話を本にしたいと言い出した女中に、奏子は唖然茫然、返す言葉が見つからない。何故どうしてそうなるの、と心の中で繰り返すばかりだった。
 シノの兄は小さな出版社を立ち上げたらしい。名作と成り得る作品を探していたらしく、この小説を出版してみては、と。
 本来であれば、何としても止めるべきだったろう。だが、心の中に小さなほむらがあった故に、その申し出を拒絶できなかった。日の目を見ずに消えるはずだった物語を形にしてみたい、という必死で抑えていた願いを止められなかった。
 悩みに悩んだ末、シノに冊子を託したのだ。
 最初は限られた人々に出回った本は、いつしか人から人へさざなみのように広まっていった。さざなみは波へ、そしてそのうねりは大波へ転じていき、気が付けば帝都の少女達で知らぬ者はいないとまで言われる状態になった。
 出版元であるシノの兄のところには連日作者の素性を問う声があるらしいが、必死で漏洩を防いでくれているらしい。
 今のところ謎の作者の正体を知っているのはシノと彼女の兄、そして最初の読者であり友である佳香の三人だけである。
 親友の佳香もまた同じ趣味を持ち、その環境故に人に明かさずに書き続けた。出会って左程経たずに仲良くなれたのもそれが理由だ。同じ境遇で同じことを好んでいた佳香と奏子の仲は、他者が入り込めるものではなかった。
 佳香ははかなく美しい物語を紡ぎ、奏子は彼女の切ない筆致の愛読者だった。
 だが、彼女の作品の読者は奏子だけである。
 奏子の脳裏に昔日せきじつの佳香との語らいがよみがえる。あれは、槿花として筆をってから間もない頃だった。
 いつものように二人は互いの作品を読み合っていた。これなら評判になること間違いなしと笑ってくれる佳香に、奏子は安堵したように微笑んだのを覚えている。
 そして、佳香も一度シノの兄に作品を読んでもらっては、と勧めた。けれども、私の読者は奏子だけでいい、とやんわり断られた。
 残念に思うのを隠せない奏子を見て、佳香ははかなく苦笑した。

『私はね、怖いの』
『小説を書いていると知られるのが?』

 奏子が首を傾げて問うと、佳香は一つ息を吐いた後答えた。

『そうね、それも怖い。でも怖いのは自分を知ってしまうこと』

 戸惑いの光が奏子の眼差しに宿る。
 佳香は悲しい微笑みを浮かべて続けた。

『今なら想像の中だけでも、女流作家になれるという「もしも」の夢を見ていられる。でも、人目に触れ、自分の力がどの程度なのかを知ってしまったら』

 自分の世界ならば、自分のつづる物語は何よりも素晴らしいものと、才があるのだと思える。
 でもそれは自分の中だけで。
 他者の目に触れた時、己が望む通りであるとは限らない。他に触れれば、自分の立ち位置を認識する。

『現実を知ったら、もう夢を見られなくなってしまう』

 進めば引き返せない。止めれば良かったと、初めに戻ってやり直すことはできない。破れてしまった夢は元通りにはならず、それ以上の夢は見られない。
 佳香は透き通るような笑みを浮かべながら、悲しみをたたえてはかない願いを口にした。

『夢を見ているうちに終わる方が、幸せとすら思うの』

 歩き出せない自分はとても臆病だと思うけれど、と佳香は言って会話を締めくくった。奏子は佳香にかける言葉が見つからず、口を閉じて俯くしかなかった。
 奏子とて、露見したらどうすると常に恐れてはいる。
 名家の令嬢がちまたで話題の小説の作者だと知られれば、醜聞しゅうぶん好きな新聞記者がこぞって書き立てるだろう。本が世に出たのを喜んでくれた佳香も、正体は決して明かしてはならないと顔を曇らせて言っていた。
 奏子が槿花であると知られれば、眞宮子爵家の名に泥を塗ることになる。
 けれど、まだ進みたいと願う己もいる。身の裡に息づく物語をつづりたいという想いと、気が付けば目につく事象から物語を生み出す想像力は止められない。
 たぎる内面を抑えて、清楚で理知的に、優雅に穏やかにそしてたおやかな風情で微笑むのも、もう慣れた。
 物語の主人公を、皆が望む理想の令嬢の役柄を演じていると思えば良い。登場人物の内面の掘り下げや役作りにいそしんでいると思えば、さして苦にも思わない。
 学業は嫁入り道具程度にしか思っていない令嬢達が多い中、奏子は勉学にも貪欲だった。より多くを学び、己の世界を広げて創作に活かしたい。
 知識は武器になると教えてくれた人がいた気がする。あれは誰だったろう……
 お人形のような覇気はきのない少女達に囲まれた退屈な学校生活さえも、上流階級の少女達の学び舎生活の取材と思えば楽しく思える。
 特殊な世界で織りなされる女生徒同士の絆など、とてもうつくしく美味しい。噂を一つ聞きつければ、そこから小話を五つは生み出す自信がある。
 あやかしのお姉様と人間の令嬢の話も出したが、地味に好評だった。
 そう、生活の一つ一つが良いお題なのだ。作りあげた鉄壁の『理想の才媛さいえん』のもと、湧き上がる情熱は燃えに燃える。
 ただ、少女達が刃傷沙汰にんじょうざたにまで及んだという例の出来事については流石さすがにお題にする気にはなれなかった。
 衝撃的で注目されるに違いない。だが、強く燃え上がった想い故に少女達が傷つき悲劇に終わった恋の結末を聞いたからこそ、奏子の紡ぐ少女達の恋は、はかなく美しい範囲に留められている。
 なお、奏子は女性同士だけではなく、殿方同士の只ならぬ仲も燃えるところであった。美しい殿方が並ぶ様子を見れば、脳内で物語が生まれている。
 ただ、男子校や男性の世界については直接見聞きすることが叶わない。伝聞による情報を元に想像の翼を広げるしかない。背景の詳細さには欠けるが、それ故にはかどる妄想……いや、想像というものもあるとは思う。
 異性同性、年の差、悲劇に喜劇とつづってはみたものの、やはり一番好むところは種族違いの男女の恋物語である。
 何故かは分からないものの、一番心が惹きつけられる。気が付けばそのお題で筆をっていて、実際に読者の評判も良い。
 育った土地が様々な伝承の残る場所だったからかもしれない。
 様々な物語を聞かせてくれたり、言い伝えの場所に連れていってくれたり。不思議な絵草紙を見せてくれたような気がするが、あれは乳母うばだったのだろうか。あの土地で暮らしていた頃の記憶は、曖昧あいまいすぎて思い出せない。
 家に呼び戻されてから、不思議な夢を見ることがよくあった。それはいつかあった出来事のようであり、これから起こる出来事のようでもある。
 不思議なさとに住まうひと達の物語。
 そしてその夢を見た翌日には、筆を取って新たな物語を紡ぎ始める。内容を書き起こすかのように、誰かに背を押されるように。
 暫く思案していたものの、奏子は気を取り直してすぐに筆運びを再開する。夜はこうしているうちにもけていく。
 遅くならないうちに今日の分をつづってしまわねば。
 奏子の部屋の灯りは、その後も暫く灯ったままだった。



   第二章 めくるめく夢のような


 次の日の夜、奏子の姿はとある夜会にあった。
 豪奢ごうしゃな西洋建築の館では、欧化を進める政府の意向により夜毎よごと宴が開かれる。
 退廃的で不道徳などと称されることのある場所に、年若い乙女を行かせるなどもっての外と言う家は少なくない。うつつに今宵この場にいる名家の令嬢は数える程だ。
 巴里パリで流行しているという、繊細なレエスが美しい若草色のバッスルドレスを奏子は窮屈に思うが、この時ばかりは欧化を積極的に受け入れる父に感謝した。過保護な癖に掌中の珠である娘の自慢はしたい父のお供でなければ、このような場所に足を踏み入れられない。
 奏子は諸手を挙げて新しき世に賛成というわけではない。そう思うには、あまりに目まぐるしすぎる。
 政権は幕府より帝に戻り、諸藩は消え、まつりごとの中枢は東京へ。
 新しい時代を迎え、数多あまたの変化は良きことも悪きことも等しく生み出している。
 急速な欧化は国粋こくすい主義者の批判のまととなり、この夜会も建物もその対象であると言う。特権を奪われた士族が不満を募らせ乱を起こしたのは記憶に新しいし、性急な制度の変化についていけない人々の声は時折大きな爆発となる。
 四民は平等とうたっても階級意識や差別は根強く残り、それは都から遠ざかれば遠ざかる程に顕著で、新しき世の光も恩恵も未だ地方には届いていない。
 世が変わっていくのは時代の節目に生きる者として楽しみであり、その一方で恐ろしくもある。何が正しいのかを考える間もなく、大きく進んでいく世に飲み込まれていくようで。
 しかし、この空間はそんなことを微塵も感じさせないくらいまばゆかった。闇をも飲み込んで輝くこの場所で、笑いさざめく人々の表情には何の陰りもない。
 様々な思惑が行き交う社交場にて開かれるダンスパーティ。
 踊る紳士淑女、囁かれる噂、きらびやかな灯りに照らされる大広間。密やかに行われる政治の駆け引き、危険な火遊び、それらを覆い隠して笑う人々……

(あの光景もあの会話も、あの衣裳も、全部全部記録したい……!)

 どれもこれも物語の恰好のお題と成り得る。できるなら片っ端から帳面に記録していきたいけれど、ここでそのようなことをしたら不審どころではない。涙を呑んで脳裏に刻めるだけ刻んで、帰ってから全て書き出すのがこのところの日課となっていた。
 けれど記録しても言葉を尽くしても、表しきれないものがある。それに出会いたくて、度々夜会に参加させてもらっていた。
 ふと視界を零れるような光が過った気がして、そちらを見れば。

(今日も、いらした!)

 奏子の眼差しの先には、最近着目している一対の男女の姿がある。
 西洋式の宴には男性は女性を同伴するもので、男女が共にいるのは不思議ではない。
 特筆すべきは、その二人が尋常ではなく美しいという点だ。
 二人とも異国を思わせる色素の薄い淡い髪と瞳を持つ。それが幻想的で、はかなげな雰囲気を醸し出していた。
 薄紫色のドレスの女性は絵物語の天女を思わせるような浮世離れしたうつくしさで、黒の燕尾服の男性は絵物語の貴公子然とした美しさ。
 目元や口元に似通ったところがあり、二人は兄妹ではないかと囁かれているけれど、実際どうなのかは誰も知らない。問いかける勇気がある者は少なく、実際に尋ねた者もはっきりとした答えは得られなかった。
 物腰や身支度から、かなりの家柄の出であろうというのを察するだけ。
 二人は兄妹なのか、それとも違う血縁なのか、ただ似通っているだけの他人なのか。親しい様は恋人同士にも夫婦にも見えて、想像をかき立てられることこの上ない。 初めてこの男女を目にして家に帰った後、浮かんだ妄想を書き出すのに夜を徹してしまった。
 創作意欲がこれでもかと刺激される二人の登場に、奏子は思わず両手を握りしめる。
 音楽が始まり人々が踊りだす中、注目を集める二人はごく自然に相手の手を取りステップを踏みはじめる。
 蝶のように軽やかに、それでいて優雅に。淀みのない足の運び、指先に至るまで神経が巡らされた流麗な動きは奏子だけではなく、その場にいる人々を夢見心地にさせる程に見事である。
 夜会の中では年少かつ父同伴である奏子にダンスの誘いの声は少なく、当たり障りなく断りながら、視線は踊る二人に釘付けになっていた。
 ああ、悔しいと奏子は心のうちで歯ぎしりする。あの二人の美しさと素晴らしさを表しきれない己の文章力が悔しくて、握る拳に力が籠る。
 そんな思いを抱きながらなおも見つめると、ふと、男性と視線が合った。
 気のせいかと思ったが、確かに男性はこちらに視線を向けていた。
 まただ、と奏子は心の中で呟いた。
 時折、あの男性と視線が合うことがある。こちらを見つめる瞳の奥に、ほんの僅か……ほんの一瞬だけ懐かしい何かを感じると共に、胸に小さな熱が灯る。
 それが何なのか、分かるけれど分からない。
 そんなことを考えていた時だった。

「よろしいかしら?」

 ハッと我に返ると、そこにはあの二人の姿が。
 声をかけてきたのは、うつくしい女性の方。密かに『天女の君』と呼んでいる。その柔らかな声は耳に心地良いが、次の瞬間、不躾に見つめていたのが気付かれたのかと蒼褪あおざめた。
 女性は優しい微笑を浮かべ、傍らの連れを視線で示して続けた。

「もしご都合が悪くなければ。……踊ってあげてくださらない?」
「……のぞみ

 男性の言葉に、この女性は望様というお名前なのね、とのんびり思ったのも束の間、奏子は彫像のように凍り付く。
 今何と言われたのだと、問いが脳内を疾風しっぷうのように巡る。
 踊ってやってくれないかと、天女の君が、奏子に。お連れの貴公子様と……?
 叫ばなかった自分を褒めてやりたいと、奏子は思った。淡い微笑を絶やさないまでも脳内は停止寸前である。気の利いた言葉を返すこともできない。そもそも言の葉が紡げない。
 そんな奏子を女性は楽しそうに、男性はやや哀れみを込めて見つめている。

さく、これだけの人が見ている中で令嬢に恥をかかせるつもり?」

 その言葉を聞いて、人々の視線が集まっていると気が付く。それなりに人の輪の中にあるし、注目されることに慣れてはいるものの、ここまで注視されているといささか辛い。

「誰のせいだ……」

 男性が返す声音はうめくようなものだった。
 ああ、この男性は朔様と……と思う奏子へ差し出される手。
 踊って頂けないか、という囁きが耳に届き、ようやく自分がダンスに誘われていると気付く。
 躊躇ためらいは一瞬だった。
 手袋に包まれた手のひらをそっと重ねて、導かれるままに広間の中央へ進む。
 頬が熱を持っていると知られてしまっているだろうか、もしかしたら紅に染まっているかもしれない。触れた手が熱い。
 緊張しているのだと、奏子は言い聞かせるように裡に呟く。高鳴る胸の鼓動にまさか、と思いもするがそんなはずがない。これは、予想外の展開に驚いてしまっているだけ。
 手を取られ身体の動きをゆだねて足を運び、離れてくるりと裾をひるがえしながら優雅に回り、また手を取って。
 これは夢かうつつか。様々な夢想をするあまり、区別がつかなくなったのだろうか。自分は憧れを抱いていた人と今こうして踊っている。
 周囲のざわめきも音楽も、もう耳には届かない。早鐘のようだった鼓動は今は緩やかになった。
 朔という名の男性の瞳の中に、奏子は自分の姿を見る。胸が締め付けられるような思いが湧き上がる。
 何かを忘れている気がする、とても大切なことを。それが思い出せない、つらくて、せつない。
 あなたは、誰――? 
 導かれ淀みなく踊りながら、奏子は自分に問い続ける。
 永遠にも思える時間、されど二人が踊っていたのは僅かな時間だった。
 かすかに未練を感じながら、触れていた手が離れる。
 奏子へ礼を述べた朔は元のように望に寄り添い、連れ立って広間から姿を消した。
 ざわめきを取り戻した人々の中、未だ不思議な感覚の中にあった奏子は二人の背を言葉なく見つめていた。
 暫くして。
 一体何がどうしたと驚く父を説き伏せて、奏子は控えの間に下がっていた。
 心が、考えが、先程あった出来事に追いついてくれない。少しでも落ち着きたくて、一人になれる場所を探して広間を後にした。
 憧れのお二人、天女の君にお声をかけて頂き、貴公子様に踊って頂いた。
 何度頬をつねっても痛みは感じた。夢ではない、今、奏子は現実にいる。けれどもあまりに夢のような出来事だった。
 ときめいて妄想する余地すら残っていない。胸が一杯とは、まさにこの状態を指すのだろう。
 ああ本当に夢みたい。
 語彙が死んでしまったのだろうか。
 書き手としてどうかと思うが、裡に同じ言葉しか湧いてこない。同じ言葉が胸を埋めつくしていく。
 奏子は視線を自分の手に下ろして、また一つ息をつく。
 あの方の手の感触が残っている。温かさが、胸に灯した熱がよみがえってくる。数多あまたの感情が綯交ないまぜになり、落ち着いて考えられない。落ち着けと自分に言い聞かせても効果はなかった。
 その時、遠くに複数の女性の声がした。控えの間へ足を運ぼうとしている靴音を聞き、奏子は逃げ出すように外へ出る。
 ご婦人方に奏子の居場所を知られたら、この後の展開は分かる。考えの整理が追い付かない今、質問攻めは御免だ。
 奥まった方へ行く通路があったので、そちらに身を潜めようとした時、何かの物音がした。気のせいかと思ったが、くぐもった人の声のようなものも聞こえてくる。  
 一体何があったのかと覗き込むと、貴公子様と天女の君――朔と望――がそこにいた。
 けれど、一人増えていた。朔は何やら男を取り押さえており、望はそれを見下ろして何か思案している様子である。
 押さえられている男は意識がなく、風体ふうていからして夜会の招待客ではなかった。欧化を快く思わない国粋こくすい主義者は過激な行動に出る者もいるというから、まさか……と呟く。
 けれども、それすら今はどうでもよかった。いや、どうでもよくないのだが、それでも。
 奏子は己の目を疑ってしまう。目を瞬いて、擦って、閉じて、そしてまた開けて目の前の光景を凝視する。
 何も変わっていない。奏子の瞳に映るのは、先程と同じ驚愕の場面である。

「狐の耳と、尻尾……?」

 声が震えるのは致し方ない。
 見えるのだ、おおよそ人にはありえないものが、この二人に。

「あら、ちょっとうっかりしていたわ。あなたには見えてしまったのね」

 望が微笑む。
 元より色素が薄かった髪と瞳は、光に透かせば銀にも見えそうな淡い金色の髪と満月のような色の瞳に。そして狐の耳と、一、二、三、四……四本のふさふさとした尻尾。
 不審なやからを取り押さえながら嘆息する男性は同じ色の髪色と瞳の色と耳、ただしこちらは尾が三本。
 触ったらもふもふと心地良さそうと現実逃避する。
 奏子は目を見張ったまま片手で頬をつねった。

「痛い……」

 白い陶器のような頬が赤みを帯びる。
 現実だ、これは紛れもなく現実だ。目の前の出来事も、奏子の憧れだった二人に狐の耳と尻尾があることも全て。
 それが示している事実は。

「人間じゃない……?」
「これでも千年を生きている天狐てんこなの」
「自ら明かしてどうする……」

 悲鳴を上げるのを避けたのは、令嬢としての最後の自制心であろうか。
 天狐とは、確か千年の歳月を生き強大な力と神格を得た、狐のあやかしの最高位……のはずだ。
 何故か、奏子はそれを知っている。過去に本で読んだのだろうか。
 その天狐が正体をさらした上に、あっけらかんと説明までしてのけた。
 にこやかに笑っている人ならざる女性に、同じく人ではない男性が苦く呟く。
 その低い声音で目の前の出来事が事実だと認識させられて、奏子はうめくように言葉を絞り出す。

「あ、あやかし……何で……」
「まあ、話を聞いて? 眞宮子爵のお嬢様?」

 身元を知られている! と奏子は蒼褪あおざめた。父と共にいたのだから仕方ないけれど、恐れはなお一層深まる。
 震えながら後退りする奏子を見て、望は苦笑いしながら再び口を開いた。

「落ち着いて頂戴、ねえ槿花先生?」
「はい……?」

 何を言われたのかが最初は理解できなかった。
 だが、遅れて認識したら震えが止まった。いや、震えどころか全ての動き、思考が停止した。
 このうつくしい狐の女性は何と言ったのか。思いがけない名前が出てきた気がするが、気のせいだろうか。
 必死に隠していた事実を、このうつくしい女性はいとも簡単に口にしなかったか?
 望は彫像のように凍り付いてしまった奏子の手を両手で握り、上機嫌に叫ぶ。

「私、あなたの小説が大好きなのよ!」
(あやかしって、小説を読むの!?)

 思わず言いかけ、かろうじて心のうちに留めた。
 人とは違うことわりで生きているものであろうと、知恵を有した永い時を生きる存在であれば書物をたしなみもしよう。ただ、それが自分の書いた小説というのは驚きであるが。
 すっかりご機嫌な狐の女性は頬を染め、うっとりとした表情を浮かべながら続ける。


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