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   序章 狐の婿むこ入り


 まばゆともしびに照らされた広間に集う人々が居住まいを正して座る中、場の上座には礼装の男女の姿がある。
 おごそかにうたわれる高砂たかさご――夫婦愛や長寿、人生について祝うめでたい能の謡曲ようきょく――が場に響き渡り、二人は人々の眼差しを集めていた。
 いわゆる祝言しゅうげんと呼ばれる席、つまり婚礼である。
 黒の紋付で装った、美女と見紛う程に線の細い美貌を誇る花婿むこ。隣には金糸銀糸の刺繍ししゅうが見事な打掛を纏った、清楚なうつくしさを持つ花嫁。
 主役の二人が実に美しい一対と人々は褒めそやし、ほう、と感嘆の息をもらす。
 しかし、花嫁は人知れず嘆息する。控えめな微笑を崩さぬまま、心のうちうめいていた。
 ――どうしてこうなった、と。
 ちらりと悟られないように横へ視線を向ける。
 打掛に角隠し、と花嫁として装う自分の隣にいるのは、当然ながら花婿むこだ。
 夫となる男性の横顔からは何の感情も読み取れない。
 少し色素の薄い髪と瞳に、名工の手による彫像を思わせる端整な面持ちで、人離れした美しい人である。
 ……いや、人ではない。そう『人』ではないのだ、人離れしていて当然である。
 夫である男には狐の耳と三本の尾があるように奏子かなこの目には映っていた。現実か、奏子『だけ』に見える幻か、それは分からない。
 どうしてこうなった、と心にて再び呟く。
 何故、自分は『あやかし』と結婚することになってしまったのかと――




   第一章 理想の才媛さいえん


 婚礼の日より、さかのぼること一か月と少し前。
 硝子がらす窓から差し込む陽射しがうららかな日の放課後、高貴なお方の命で設立された名家の令嬢が集う学び舎にて、少女達は一人を取り囲んでいた。
 そよ風のように大人しく控えめな声音で、あくまで優雅に泳ぐ魚のような風情を崩さぬまま、輪の中心にいる少女に言葉を紡ぐ。

「奏子様、ご縁談が進んでいるというのは本当ですか……」

 奏子と呼ばれた少女は、曖昧あいまいな微笑を浮かべつつも小さく頷く。
 一際優れた容姿を持つ奏子に、少女達が向けるのは憧憬どうけいの眼差しだった。
 黒絹くろぎぬもかくやという癖のない流れる髪をいつも流行はやりの形に結い、黒玉の瞳には常に他者をおもんぱかる光がある。また、勉強や詩歌、お花やお琴などのたしなみは抜きん出た才覚を持ち、並ぶ者はない。それでいておごらず、誰に対しても丁寧で優しい子爵令嬢は社交の場において『理想の才媛さいえん』と呼ばれていた。
 先年、文武両道の好青年で、自慢の跡取りと言われていた兄が事故で亡くなった。  
 奏子にとって頼もしく優しい兄、その死はあまりに唐突すぎてまだ実感がない。
 残る子供は娘である奏子一人だが、女は爵位も家督も継げない。よって他家から婿むこを取ることは避けられず、現在その相手選定の最中なのだ。
 跡継ぎを失くした父はひどく落胆していたが、名家のあるじとして弱いところを見せてはいられないと気丈に振舞い、奏子の婿むこ相応ふさわしい男性を探していた。
 最近、上流階級の人々の間ではことあるごとに、奏子の婿むことなる相手は誰かと噂になっているらしい。
 だが、当の本人はというと。

(ああ、物凄く憂鬱ゆううつ……)

 非常に苦々しく思いながら、心の中で盛大に嘆息している有様だった。
 奏子は特段、結婚に夢を抱いていなかった。
 相手の容姿や性格など正直どうでもよく、むしろ他所よそに女を作って、自分のことは放っておいてほしいとまで思っている。
 だからといって、男性に対して悪感情を抱いているというわけではない。
 奏子にとって、殿方に愛されるよりも大事なことがあるというだけだ。
 けれど巡る思考の一欠片すらにじませぬ完璧な笑みを浮かべ続ける。わざわざ目の前の少女達を幻滅させたくないし、余計な憶測を呼ばないためにもここは沈黙するのが賢いと考えたのだ。
 せっかく共に学んでいるのに、と少女達が悲しげに呟くのを奏子は黙って見つめていた。
 そんな奏子の耳に、無邪気な少女の言葉が届く。

「きっと物語のような素敵なご縁がございますわ」
「そう、最近流行はやりの槿花きんか先生の『あやかし戀草紙こいぞうし』のような恋が!」

 とんだに思わずうめきそうになったのを、鉄の自制心で止める。
 奏子の動揺に全く気付かない令嬢の一人が発言者達をたしなめる。

「あなた達! そのようなお話はお止めなさい。……先だって学校を去られた方々のようになりたいの?」
「いえ……。そのようなわけでは……」

 鋭い制止の声に、少女達の表情に陰りが生じる。
 過去のものとするにはいささか早すぎる時分に、相次ぐ不祥事があった。数名の少女達が続けて退学処分となったのだ。
 詳細は伏せられているが、道ならぬ恋に身を焦がした挙句、女学校の生徒として相応ふさわしくない振舞いに及んだらしい。刃傷沙汰にんじょうざたになったという噂まである。
 学校を去った彼女達は、今では隠棲いんせいさせられているとか。
 女学校の立ち上げに関わったお方の名誉を汚すような、それも創設早々の醜聞しゅうぶんであるため、外に対しては厳重に秘されている。
 だが、実際のところは、水面下で静かに広まっている。ふしだらなと少女達は眉を寄せながらも、未だに関心が高い話題なのだ。
 その場に広まった不穏な気配に、表向きは禁忌きんきとされる話を口にしてしまったと気付いたのか、制止した少女は少しばかりばつ悪そうな表情で続けた。

「それに『あやかし戀草紙』のような浮ついたものを、奏子様が好まれるはずがないわ」
「そうですわね。ごめんなさい、奏子様」
「いえ、気になさらないで……」

『あやかし戀草紙』とは昨今流行の恋愛小説で、あやかしの麗しい青年と、人間の少女の恋物語の連作である。
 不思議なさとにて、ある時は人の世にて織りなすあやかしと人との恋を切なく描いた話は、女が本を読むのすら顔をしかめられるこの時代であっても多くの女性達の心を捉えている。まるで実際に見てきたようなあやかしの世界の描写が見事で、皆は密やかに、人によっては堂々と賛美していた。
 表向きは浮ついたものと眉をひそめて見せるけれど、実際のところこの学校の令嬢達にも愛読者は多いらしい。
 そんな女性の心を掴んで離さない作家、槿花の素性は何一つ明らかになっていない。版元は作者の素性に関しては年齢を始め、些細な情報すら頑として口を割らないのだ。
 分かっているのは、今まで世に出た様々な間柄――異性同士、同性同士、種族違い――の作品のように、広く美しい物語をつづる作家であるということだけ。
 素性を追う人間は多いけれど、全てがしゃの向こうにある存在。それが槿花という作家だった。
 上流階級の生活描写の緻密さから、『槿花』はそれなりの家柄の人間ではと噂されている。少ない情報による推測が、また作品の人気に拍車をかけるのである。
 もちろん奏子も知っている。
 そう、知っているのだ……
 押し黙ってしまった奏子は、奏子様? と声をかけられ、心配そうに見つめる少女達に気付く。いつの間にか動揺がにじんでしまったと悟り、咄嗟に何かを口にしようとしたその時。

「皆様、失礼いたします。少しだけ奏子様をお借りしてよろしいかしら?」

 穏やかな声音が耳に届く。

佳香よしか様!」

 教室の戸口から皆に声をかけたのは、はかないまでの可憐さをたたえた少女だった。落ち着いた物腰が他の令嬢達より年長の印象を与える。
 佳香の登場に、奏子は密かに安堵する。少女達の疑問が再燃しないうちに、しかし優雅さは失わずに、ごきげんようと残して奏子はその場を後にした。
 中庭へ足を運び、少し奥まった人気ひとけのない場所に向かう。周りに人がいないことを確かめ、奏子は青々と茂る芝生へ脱力するように腰を下ろした。
 その所作は良家の令嬢としてはいささか行儀が悪いが、佳香は気にしない。彼女も同様に芝生へ座る。

「ありがとう、佳香……。助かったわ」
「あんなところで動揺するなんて、奏子も迂闊うかつね」

 佳香の前で『奏子様』は姿を潜める。それは『佳香様』も同じだ。
 昨年この学校に入学してすぐ彼女と出会い、友となった。
 息のつまる入学式を終えて、人気ひとけがないここで気を抜いていたところに出会ったのが始まりだった。
 思わず出ていた『素』を見られて動揺する奏子に、佳香は飾らぬ態度で言ったのだ「お互い気苦労が多そうね」と。
 一呼吸置いて噴き出して、それ以来続く仲である。
 打ち解けて話すうちに、もう一つ共通の『趣味』があると分かったのもあって、今では一番の親友と言える仲になった。
 緊張が一気にほぐれ、猫のように伸びをしていると、佳香に問いかけられる。

「そういえば、今日はお招きを受けているの?」
「いえ、今日は。でも明日はお邪魔する予定よ」

 内容を省いた短い問いかけであるが、それだけで二人には十分である。何を問われたのかをすぐに悟り、奏子は首を緩く振って応えた。
 それを聞いた佳香は、羨望せんぼうの色がにじむ溜息を零しながら言う。

流石さすが、子爵様のお家ね」
「やめてよ、そう呼ばれるようになって何年も経ってないのに。落ち着かないのよ」

 実際に奏子の家がそう呼ばれるようになってそう経過しているわけではない。
 記憶の中では違う呼称の方がまだ長い。時折、子爵令嬢と呼ばれても自分だと気付かないことすらある。知られないように対応できてはいるが。
 慣れない、と言いたげな奏子に佳香は苦笑して口を開く。

「元も由緒正しい大名家じゃない」
「確かにそうだけど……。お祖父様達が上手うまく立ち回った結果というか……」

 元は僻地へきち外様とざまだったものの、奏子の祖父は実に如才じょさいない人物だったようで、そつなく立ち回り、上手うまく息子につなげてから亡くなった。
 それを受け継いだ息子もあれこれと根回しした結果、奏子の家である眞宮まみや家は子爵位を頂いていた。父はなかなか時流を読むことにけているようで、おかげで奏子は何不自由ない生活を送っている。
 思索にふける奏子を見つめながら、佳香は溜息交じりの言葉を零す。

「羨ましいわ、私もできれば行ってみたいけれど、うちは……」

 佳香と奏子の家柄にさして差はなく、佳香の家もまた由緒正しい名家である。けれども、彼女が口籠った理由を知っている奏子は何と返していいか戸惑う。
 そんな時、朗らかな少女達の声が二人の耳に届いた。

「奏子様と佳香様は本当に素敵なお二人よね」
「いつ見ても魅力的なお二人だわ……」

 声がした方へ奏子達は視線を向ける。
 そこにいたのは同級生の少女達である。頬をかすかに染めながら羨む声音で二人について語っていた。
 位置的にこちらが見えていないのは分かっているのだが、奏子と佳香は思わずさらに身を縮めてしまう。
 少女達はあれこれと二人を讃えていたものの、ふと声を潜める。

「でも、佳香様のお家の話……聞きまして?」
「ええ、事業が……。それで急いで縁談を纏めようとなさったとか……」

 羨望せんぼうは、暗いものをはら容易たやすく反転する。求めても自分には得られないと分かれば、相手をおとしめようとするのはよくあることである。
 少女達の声には愉悦のような負の感情が無意識ににじむ。人目をはばかる話題だと理解しているようだが、その口元は笑いの形にゆがんでいる。

「それも、成り上がりの商人と……」
「お金で買われていくようですわね……」

 どう聞いても、悪口と嘲笑以外に受け取れない。これを称賛と感じられる人がいたらお目にかかりたいものだ。平素の彼女らの言葉の下に何が隠れているのかとてもよく分かる。
 友を侮辱され黙っていられずに飛び出しかけた奏子の肩を、佳香が押さえる。

「いいのよ、放っておいて。……事実ですもの」

 佳香の父親が事業に失敗したことは、周知の事実であった。
 借財のために屋敷が人手に渡りかけたところに、援助の手を差し伸べようとする者がいた。
 当然、無償ではない。
 近年、財を成した壮年の男は、妻として佳香を求めたのだ。富を得た男が次に名を望むのはよくある話であり、そのための手段として縁談が使われる。
 父親が承諾してしまえば、娘である佳香に拒む権利などない。
 奏子はどうにか友を助けられないか模索したけれど、年若く、また女であるが故に手立てなどなく、佳香の縁組は定まってしまった。
 仕方ない、家族が助かったから良かったのと佳香は悲しく微笑む。そして、奏子には幸せなご縁がありますようにと願ってくれた。
 その彼女をおとしめることは断じて許せないと言いかけた奏子だったが、ふと動きを止める。

「人様のお家事情をあげつらうなんて、良家の令嬢としては頂けないわ」
「ミ、ミス・メイ!」

 かけられた柔らかな声に驚く少女達。
 噂に興じていた令嬢達の近くに、いつの間にか異国の麗人の姿がある。
 政府に招聘しょうへいされたいわゆる『お雇い外国人』の一人で、英語を教えているミス・メイである。
 陽光を弾いて輝く金色の髪に、蒼穹そうきゅうを映す瞳という女神のように美しく優雅な姿。そして、誰に対しても優しく、学生達に姉のように慕われている女性だ。
 憧れの麗人にやんわりと諭された少女達は、何やら言い訳を並べていたものの、最終的には「ごきげんよう」と残して去っていく。
 少女達の姿が見えなくなって一呼吸した後、女性は誰に言うでもなく呟いた。

「もう出てきて良いわよ、ヨシカ、カナコ」
「ありがとうございます、ミス・メイ」

 経緯はともかく、良家の子女としては褒められた行いではない盗み聞きしたことをうしろめたく思い、やや躊躇ちゅうちょした後に佳香が姿を現わす。

「ありがとうございます……」

 怒りに飛び出しかけた勢いを削がれ、持て余したいきどおりにやりきれない気持ちを抱えた奏子がそれに続く。
 奏子の表情がかんばしくない理由はもう一つある。
 奏子は実はこの女性が苦手なのだ。
 彼女は奏子が入学してから今に至るまで折に触れて優しく気遣ってくれる。
 けれども、何故かこの人を前にすると腰が引けてしまうのだ。彼女が美しすぎるから? 人はあまりにも美しいものに畏れを抱くというが……
 風にのって梔子くちなしの香りを感じる。ミス・メイの香水だろうか。

「ヨシカ……つらいでしょうけれど、気を落とさないで」
「ええ……」
「カナコもね」
「はい……ミス・メイ……」

 奏子の表情の曇りを、親友への侮辱に対するいきどおりと見たのだろう。
 メイは二人を覗き込んで言葉をかける。その声音は鈴を転がすように美しく、労わりの響きがあった。
 心配してくれているのだろう、しかし……
 どうにも落ち着かないけれど、取り繕えたようだ。
 気にする様子もなくメイは二人に微笑みかける。そして多くを語らず、語らせずに風のように去っていく。
 助けられたし、佳香は憧憬どうけいの眼差しでそれを見送っていた。友が侮蔑ぶべつされるのを止められたのは嬉しいけれど、何故か釈然としない思いが残る。
 黙りこんでしまった奏子を不思議そうに眺める佳香が、何かを口にしようとした。けれども、その前に奏子は笑みと共に顔を上げる。
 お互い迎えを待たせていることを思い出して二人は眼差しを交わした後、他愛ない話に花を咲かせながら歩き始めたのだった。


 迎えにきていた女中のシノと共に家路に就く。
 今日はどのようなことがありましたか、と笑顔で問うシノは、地味に装っているものの整った顔立ちである。
 帝都にすぐ、シノは奏子付の女中として雇われた。付き合いの長さも手伝って、二人きりの時にはかなり打ち解けて話している。
 気遣いがあり優しいシノは、奏子にとっては姉のような、屋敷で最も信頼する相手である。それに、ある理由からその存在は欠かせない。
 しかしながら奏子の父はいささか過保護なところがあり、外出とて女中がついていてもなかなかいい顔をしない。
 できる外出といえば学校とお稽古事だけで、それ以外は父の同伴がなければできない。爵位を頂いたからだろうかと思ったけれど、どうやらそれだけではないような気がしている。
 父はこの時代の地位ある男としては珍しい人で、妻が娘を産んで命を落とした後、再婚もしなければ妾を囲うこともなかった。
 家同士の取り決めによる婚姻だったが、妻を深く愛していたのだ。夫婦仲は極めて良好で跡継ぎである男子を授かり、次いで女子を授かった。
 幸せだったのだろう、けれどその情の深さが娘への想いをゆがませる。
 娘を産むのと引き換えに妻がこの世を去ってしまった後、我が子の顔を見るのも辛いと言って、乳母うばに奏子を預けて田舎に追いやったらしい。今の過保護な父の姿からは想像もつかないが、複数の家人から聞いており事実である。
 七つの頃だっただろうか。帝都から随分離れた土地にある眞宮の別宅から慌ただしく家に呼び戻されたが、それまでずっとこの屋敷の外で育ったのだった。
 令嬢として箱の中でしつけられた期間より伸び伸びしていた時間の方が長かったためか、素の自分はあまり令嬢らしからぬところがある。
 しかし同時に、そのままの自分は望まれないと知っていた。
 だからこそ念入りに丁重に、奏子は人々の描く理想の令嬢であり続ける。
 それは名家に生まれた者の責任であり、義務のようなものと諦めているが、息苦しい。通学がささやかな息抜きとなっている状態だった。
 けれども、これもそう長くはあるまいと奏子は心の中で呟く。
 奏子が先であろうと、佳香が先であろうと、そう遠くないうちに自分達は学び舎から去る。家のために結婚する、それが名家に生まれた娘の宿命なのだから。
 ――そのために捨てなければならないものがあるとしても。


 ほのかに白い月が闇にぼんやりと輝く夜。
 もう寝るからと奏子は女中達を下がらせ、自室に向かった。そして、文机ふづくえの前に座り、灯りに照らされた冊子を無言のうちに見つめる。
 一つ息をつくと、おもむろに筆をり、誰に告げるでもなく口を開く。

「さて、書くか」

 うららかな微笑もたおやかな雰囲気も優雅な物腰もそこにはない。
 目を輝かせて冊子に向かい、筆を走らせる奏子の瞳は意気揚々と輝いている。目の中にほむらや星が見えそうな勢いだ。
 燃えたぎる創作への意欲を余すことなく表せる、奏子にとって一日の中で一番自分らしくあれる時間だ。
 流行はやりの小説を浮ついたものだと眉をひそめて見せた少女達の姿を思い浮かべる。令嬢達を裏切って悪いけれど、奏子はその『浮ついたもの』を好む。
 ――何故なら、奏子こそが物語の書き手である『槿花』であるからだ。
 皆が憧れる『理想の才媛さいえん』は申し訳ないが作り物。
 好むところを好むままに書き、奏子は自分の物語を愛していた。物語を紡ぐことに情熱を燃やし、想像のたぎるままに筆を運ぶことに心血を注ぐ。
 その姿こそが奏子の『素』なのだ。我ながら猫被りが上手うまくなったものだと感心する時がある。
 物語を書くのが好きだった奏子は、一度だけ作家になりたいと言ってみた。
 しかし女流作家に対して、いや働く女性に対してまだ世間の目は白い。まともに取り合ってもらえず、女が知恵を付けたらろくなことがないとひどくいきどおる父と兄に平身低頭して許してもらった。
 以来、そんなことは忘れたように澄ました表情で、ひたすら密かに書く日々が続いている。
 密やかにつづっていた物語が、世に出ることになったのはある日の小さな事故がきっかけであった。
 奏子の部屋の掃除をしていた女中のシノが、棚に隠していた冊子を落としてしまい、それを知ってしまったのだ。
 情熱の赴くままにつづった中身を知られて蒼くなった奏子は、にもかくにも口止めをせねばと思った。しかし。

『す、素晴らしいです! お嬢様!』

 感激した様子のシノは冊子を抱きしめながら叫んだのだ。


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