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手がかりを共に
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空に薄く光る月が上る頃。
何時も通り二人で温かな食事を囲む夕食が終わり、二人は居間にて静かな時間を過ごしていた。
巴は、無言のまま視線を下に向けている。その眼差しの先、巴の手には和から渡されたファイルがある。
あの懐中時計の謂れ――巴に良く似た女性が出てくる夢の理由の手がかりになり得る、父の遺した資料。それを手にして、巴は暫くの間悩んでいた。
誠志郎は何も言わずに見つめている。問う事もしないし、促す事もない。ただ黙って巴が決断するのを待っている。
恐らく、誠志郎はこのまま資料を見ずに終えたとて何も言わない。それが巴の決断と尊重してくれるだろう。
実の処、父とも思い出と言える思い出が残っていない。
ノイローゼになってしまった妻を思って、巴を祖父に預けた父。
巴は、父もまた巴を疎んじているのだと思っていた。だからこそ、巴を祖父宅に預ける事を躊躇わなかったし、和さえいればそれで良かったのだろうと。
けれど、和の言葉が脳裏に蘇る。
『母さんは、姉さんが心配なんだ!』
もしも、あの言葉が本当だったなら。母が、本当は巴を思ってくれていたというのならば。
愛されていなかったと思っていたものが、実は違ったというのならば。
もしかしたら、父が巴を遠ざけた事にも意味があったのではないか。
今に至る過去に、父の態度に、母の態度に。そして、父の突然の早すぎる死に、何か大きな原因があるのではないかと思ってしまうのだ。
手がかりは巴の手の中にある。けれど、未だ巴は躊躇っている。
巴は、そっと視線を誠志郎へと向けた。
ぶつかった眼差しの先、巴を温かく見守る優しい眼差しがある。
抱く迷いを、恐れごと受け止めてくれる思慮に満ちた穏やかな表情が、そこにある。
巴は、一度深呼吸をする。
胸に温かくて優しい想いが満ちていくのを感じるにつれ、巴の身体に力が満ちていく。指先に至るまで、迷いが少しずつ身体の外に消えていく。
巴は、静かにファイルを捲った。
最初のページにあったのは、あの懐中時計の写真である。
ゆっくりと慎重な手付きで、続く頁を捲り。
ふと、巴が凍り付いたように動きを止める。
目を瞬いて、微かに茫然とした面持ちで視線を現れた頁に向けてしまう。
「……何が書いてある?」
誠志郎が、巴の様子に怪訝そうな表情をしつつも、慎重な声音で問いかける。
何が悪い事でも記されていたのか、と心配そうな様子である。
問われた巴は、ぽつりと呟く。
「読めない」
「え?」
言われた内容に、誠志郎が驚いた声を上げると共に目を瞬いた。
どういう事かと問いたげな誠志郎に見えるようにファイルを広げると、巴は意気消沈したといった様子で、がくりと項垂れた。
「……昔の文字だから、読めない」
ファイルに綴じられていたのは、昔の資料と思しき文書だった。
だが、そこに記されていたのは、今でいうところの『くずし字』というものである。
せめて一文字ずつ記されていて、カナや読み方が特殊程度であれば何とかなっただろうが、これではどうにも出来ない。
せっかく覚悟を決めて開いたというのに、このようなオチではあまりに哀しい、というか情けない。
「貸して」
一つ息を吐いて、誠志郎が手を差し出した。
きょとんとした表情で見つめる巴に、肩を竦めながら誠志郎が苦笑する。
「僕がその時代の人間だったって事忘れた?」
「そうだった……」
誠志郎は元々明治の人間だ。平仮名が一文字一音になるよりも前の時代から読み書きしている人である。
申し出を有難く受け入れる事にして、巴はうやうやしい手付きで誠志郎にファイルを手渡した。
誠志郎は暫し無言で内容に目を通していた。真剣な面持ちの誠志郎がページを捲る音が、途切れ途切れに響いている。
巴が息を飲んで見守っている中、誠志郎はやがて手を止めた。
そして、一度だけ深い、とても複雑な感情の籠った溜息を吐いた。
おそるおそる声をかけようとした巴に、誠志郎が先んじて口を開いた。
「あの懐中時計は、咲洲家当主が妾の為に取り寄せた品だと……。箱は、内地の職人に頼んで特別に誂えたものらしい」
「妾って……」
説明された内容を、鸚鵡返しに巴は口にして、その後理解が遅れておいついてくる。
咲洲家当主の妾であった女性で、あの懐中時計の持ち主。
夢の中で笑っていた、そして泣いていた女性は、巴にとてもよく似ていたのだ……。
「嘉代のことだろう」
「……やっぱり……」
巴の脳裏に浮かんだ問いは、誠志郎の重々しい言葉によって肯定される。
哀しい程に巴に似ていたという、かつての誠志郎の想い人。
どこかで、巴はあれが嘉代なのではないかと思っていたのだ。
思わずと言った風に呟いて頷いた巴だったが、次の瞬間凍り付く。
「やっぱり?」
「あ……」
怪訝そうな誠志郎の呟きに、ぎくりと身を強ばらせて絶句する。
ぎこちなくそちらを向くと、物申したげな誠志郎が、明らかに問いを抱いてこちらを見ている。
誤魔化そうかと思ったのも一瞬だった。巴は早々に白旗をあげた。
此処に至って、巴は漸く続いていた不思議な、徐々に哀しいものに転じて言った夢の話を白状した。
誠志郎は黙って聞いていたが、一度だけ大きな溜息を零したのだった。
「おそらく、その夢に出てきたのは嘉代だと思う」
咲洲家に妾として迎えられた女性であり、巴とよく似た面差しを持つ者。
それは嘉代以外に考えられない。
夢の中の嘉代は、最初のころはとても幸せそうだった。懐中時計を贈られて、子供達に囲まれて、嬉しそうに微笑んでいた。
けれど、それはやがて哀しい慟哭に変わってしまった――。
巴は、嘉代は何故亡くなったのかを問いかけたが、誠志郎の表情が曇る。
「僕も、詳しい事情は聞いていない。流行り病だったとして、直すぐ弔われてしまったようだったから」
嘉代と息子は亡くなり、娘だけはかろうじて助かった。それ以外には公にされていないとのことだった。
だが、最後に見た夢での嘉代の様子が気になる。
恐らく、嘉代の死には何か隠された理由がある……。
手がかりとなり得るものはないか、と思案していた巴の脳裏に、ふと蘇る言葉があった。
『……咲洲修護が遺したものは、ある女に繋がるものよ』
優しい隣人であった花狩人が最後に残していった言葉。
彼女は、表向きは骨董を扱う人間だった。もしかして何か知り得た情報があったのかもしれない。
こちらを攪乱する為の嘘である可能性もあるが、心のどこかでそれを信じたいと思う自分がいる。
祖父が遺したものが、手がかりとなり得るならば。
「元の持ち主……。おじいちゃんが何か残してないか、調べにいこう!」
「船見町の家に?」
「うん。お祖父ちゃんの書斎にも、何かあるかもしれないから!」
身を乗り出して巴は必死に訴える。
亡くなる前に、祖父が書斎で何か考え事をする時間が増えていた事を思い出す。
祖父はとても真剣そうで、声をかける事を躊躇ってしまう事もあった。
もしかしたら、祖父は懐中時計に関して……嘉代に関して、何かを掴んでいたのかもしれない。
勿論、全て仮定の話である。骨折り損になる可能性とて高い。
けれど、何もせずにいるよりはいい。しないで後悔するよりも、行動して後悔したほうが余程マシだ。
「……明日は、臨時休業にしよう」
巴の耳に、落ち着いた声音で紡がれた誠志郎の言葉が聞こえた。
弾かれたように見つめると、誠志郎の顔には優しい表情と、一つの強い決意のようなものがある。
誠志郎は、巴を真っ直ぐに見つめ返すと、確かな口調で告げる。
「勿論、僕も一緒に行く」
「……うん!」
巴は、大きく頷いて見せた。
希望にすぎないし、確証はないけれど。
この先に進むのならば、真実を探り当てるならば。
一人ではなく、二人でいきたい。誠志郎と二人で、至りたい。
巴は強い願いと共にもう一度頷いて、それを見た誠志郎は嬉しそうに微笑んだ……。
何時も通り二人で温かな食事を囲む夕食が終わり、二人は居間にて静かな時間を過ごしていた。
巴は、無言のまま視線を下に向けている。その眼差しの先、巴の手には和から渡されたファイルがある。
あの懐中時計の謂れ――巴に良く似た女性が出てくる夢の理由の手がかりになり得る、父の遺した資料。それを手にして、巴は暫くの間悩んでいた。
誠志郎は何も言わずに見つめている。問う事もしないし、促す事もない。ただ黙って巴が決断するのを待っている。
恐らく、誠志郎はこのまま資料を見ずに終えたとて何も言わない。それが巴の決断と尊重してくれるだろう。
実の処、父とも思い出と言える思い出が残っていない。
ノイローゼになってしまった妻を思って、巴を祖父に預けた父。
巴は、父もまた巴を疎んじているのだと思っていた。だからこそ、巴を祖父宅に預ける事を躊躇わなかったし、和さえいればそれで良かったのだろうと。
けれど、和の言葉が脳裏に蘇る。
『母さんは、姉さんが心配なんだ!』
もしも、あの言葉が本当だったなら。母が、本当は巴を思ってくれていたというのならば。
愛されていなかったと思っていたものが、実は違ったというのならば。
もしかしたら、父が巴を遠ざけた事にも意味があったのではないか。
今に至る過去に、父の態度に、母の態度に。そして、父の突然の早すぎる死に、何か大きな原因があるのではないかと思ってしまうのだ。
手がかりは巴の手の中にある。けれど、未だ巴は躊躇っている。
巴は、そっと視線を誠志郎へと向けた。
ぶつかった眼差しの先、巴を温かく見守る優しい眼差しがある。
抱く迷いを、恐れごと受け止めてくれる思慮に満ちた穏やかな表情が、そこにある。
巴は、一度深呼吸をする。
胸に温かくて優しい想いが満ちていくのを感じるにつれ、巴の身体に力が満ちていく。指先に至るまで、迷いが少しずつ身体の外に消えていく。
巴は、静かにファイルを捲った。
最初のページにあったのは、あの懐中時計の写真である。
ゆっくりと慎重な手付きで、続く頁を捲り。
ふと、巴が凍り付いたように動きを止める。
目を瞬いて、微かに茫然とした面持ちで視線を現れた頁に向けてしまう。
「……何が書いてある?」
誠志郎が、巴の様子に怪訝そうな表情をしつつも、慎重な声音で問いかける。
何が悪い事でも記されていたのか、と心配そうな様子である。
問われた巴は、ぽつりと呟く。
「読めない」
「え?」
言われた内容に、誠志郎が驚いた声を上げると共に目を瞬いた。
どういう事かと問いたげな誠志郎に見えるようにファイルを広げると、巴は意気消沈したといった様子で、がくりと項垂れた。
「……昔の文字だから、読めない」
ファイルに綴じられていたのは、昔の資料と思しき文書だった。
だが、そこに記されていたのは、今でいうところの『くずし字』というものである。
せめて一文字ずつ記されていて、カナや読み方が特殊程度であれば何とかなっただろうが、これではどうにも出来ない。
せっかく覚悟を決めて開いたというのに、このようなオチではあまりに哀しい、というか情けない。
「貸して」
一つ息を吐いて、誠志郎が手を差し出した。
きょとんとした表情で見つめる巴に、肩を竦めながら誠志郎が苦笑する。
「僕がその時代の人間だったって事忘れた?」
「そうだった……」
誠志郎は元々明治の人間だ。平仮名が一文字一音になるよりも前の時代から読み書きしている人である。
申し出を有難く受け入れる事にして、巴はうやうやしい手付きで誠志郎にファイルを手渡した。
誠志郎は暫し無言で内容に目を通していた。真剣な面持ちの誠志郎がページを捲る音が、途切れ途切れに響いている。
巴が息を飲んで見守っている中、誠志郎はやがて手を止めた。
そして、一度だけ深い、とても複雑な感情の籠った溜息を吐いた。
おそるおそる声をかけようとした巴に、誠志郎が先んじて口を開いた。
「あの懐中時計は、咲洲家当主が妾の為に取り寄せた品だと……。箱は、内地の職人に頼んで特別に誂えたものらしい」
「妾って……」
説明された内容を、鸚鵡返しに巴は口にして、その後理解が遅れておいついてくる。
咲洲家当主の妾であった女性で、あの懐中時計の持ち主。
夢の中で笑っていた、そして泣いていた女性は、巴にとてもよく似ていたのだ……。
「嘉代のことだろう」
「……やっぱり……」
巴の脳裏に浮かんだ問いは、誠志郎の重々しい言葉によって肯定される。
哀しい程に巴に似ていたという、かつての誠志郎の想い人。
どこかで、巴はあれが嘉代なのではないかと思っていたのだ。
思わずと言った風に呟いて頷いた巴だったが、次の瞬間凍り付く。
「やっぱり?」
「あ……」
怪訝そうな誠志郎の呟きに、ぎくりと身を強ばらせて絶句する。
ぎこちなくそちらを向くと、物申したげな誠志郎が、明らかに問いを抱いてこちらを見ている。
誤魔化そうかと思ったのも一瞬だった。巴は早々に白旗をあげた。
此処に至って、巴は漸く続いていた不思議な、徐々に哀しいものに転じて言った夢の話を白状した。
誠志郎は黙って聞いていたが、一度だけ大きな溜息を零したのだった。
「おそらく、その夢に出てきたのは嘉代だと思う」
咲洲家に妾として迎えられた女性であり、巴とよく似た面差しを持つ者。
それは嘉代以外に考えられない。
夢の中の嘉代は、最初のころはとても幸せそうだった。懐中時計を贈られて、子供達に囲まれて、嬉しそうに微笑んでいた。
けれど、それはやがて哀しい慟哭に変わってしまった――。
巴は、嘉代は何故亡くなったのかを問いかけたが、誠志郎の表情が曇る。
「僕も、詳しい事情は聞いていない。流行り病だったとして、直すぐ弔われてしまったようだったから」
嘉代と息子は亡くなり、娘だけはかろうじて助かった。それ以外には公にされていないとのことだった。
だが、最後に見た夢での嘉代の様子が気になる。
恐らく、嘉代の死には何か隠された理由がある……。
手がかりとなり得るものはないか、と思案していた巴の脳裏に、ふと蘇る言葉があった。
『……咲洲修護が遺したものは、ある女に繋がるものよ』
優しい隣人であった花狩人が最後に残していった言葉。
彼女は、表向きは骨董を扱う人間だった。もしかして何か知り得た情報があったのかもしれない。
こちらを攪乱する為の嘘である可能性もあるが、心のどこかでそれを信じたいと思う自分がいる。
祖父が遺したものが、手がかりとなり得るならば。
「元の持ち主……。おじいちゃんが何か残してないか、調べにいこう!」
「船見町の家に?」
「うん。お祖父ちゃんの書斎にも、何かあるかもしれないから!」
身を乗り出して巴は必死に訴える。
亡くなる前に、祖父が書斎で何か考え事をする時間が増えていた事を思い出す。
祖父はとても真剣そうで、声をかける事を躊躇ってしまう事もあった。
もしかしたら、祖父は懐中時計に関して……嘉代に関して、何かを掴んでいたのかもしれない。
勿論、全て仮定の話である。骨折り損になる可能性とて高い。
けれど、何もせずにいるよりはいい。しないで後悔するよりも、行動して後悔したほうが余程マシだ。
「……明日は、臨時休業にしよう」
巴の耳に、落ち着いた声音で紡がれた誠志郎の言葉が聞こえた。
弾かれたように見つめると、誠志郎の顔には優しい表情と、一つの強い決意のようなものがある。
誠志郎は、巴を真っ直ぐに見つめ返すと、確かな口調で告げる。
「勿論、僕も一緒に行く」
「……うん!」
巴は、大きく頷いて見せた。
希望にすぎないし、確証はないけれど。
この先に進むのならば、真実を探り当てるならば。
一人ではなく、二人でいきたい。誠志郎と二人で、至りたい。
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