上 下
12 / 34

喜び

しおりを挟む
 紗依がぎこちないけれど現し始めた変化を、北家の人々は目を細めて見守ってくれるようになる。
 その日もまた、矢斗は紗依の抱いていた夢想を一つ形としてくれた。

「こ、これを……。私が、読んで良いの?」
「紗依の為に用意してもらったものだから、遠慮などする必要はない」

 紗依の目の前に置かれていたのは、何冊かの本だった。
 いつもなら遠慮がちに本当に良いのかと問う紗依だったが、今日ばかりは期待に目を輝かせて問いかけた。
 目の前にあるのは紗依が噂に、或いは母から教えられて、いつか読んでみたいと語っていた物語ばかりだったから。
 当然のように、紗依は学校にいくなど許されておらず。義務とされる教育を受けるだけで精一杯。
 本を読むことなど許されず、またそのような時間も与えられずに。憧れた物語を読むことは、それこそおとぎ話のようなものだった。
 苑香が飽きたといって放り出していた冊子を密かに拾い上げ、隠れるようにして読んでいた時を思い出す。
 それすらも結局見つかって。ひどく折檻を受けたうえで目の前で燃やされてしまった。
 泣きながら悔しさと抱く願いを口にする紗依を、小さな友は静かに見守ってくれていた。
 喜びに輝く紗依を見て嬉しそうに微笑みながら、矢斗は更に紗依を喜ばせることを口にする。

「それと、学問と稽古事をしたいなら……千尋殿が師を手配してくれるそうだ」
「本当に⁉」

 弾かれるようにして叫んでしまってから、はっとして思わず俯いてしまう紗依。
 自分には過ぎたことと思っていたのに、つい気付けば喜んでしまっていた。
 恥じらうように視線を膝に落してしまった紗依に、矢斗はあくまで優しく気遣うように笑う。

「だって、紗依は学びたいと願っていただろう? おそらく、それは私より千尋殿や長けた者に頼むべきだと思ったから」

 高等小学校を卒業した後、紗依は玖瑶の家にて閉じ込められるようにして暮らしていた。 
 使用人として使われ、本来受けられるはずだった教えを受ける機会も与えられず。
 日々の合間を見て母は自分が持てる教養を紗依に教えてくれていたのだが、名家の娘として長く教育を受けた母のようには、紗依は出来なかった。
 母は自分がもっと良い教え手であればと気遣ってくれたけれど、紗依は自分が至らないからだと責めていた。
 自分には足りないことも、できないことも多すぎる。
 忙しい日々に諦めてしまっていたけれど、本当はもっと学びたかったし、より出来ることを増やしたいと思っていた。
 辛い境遇にあってもなお必死で育ててくれた母の娘として、恥じない自分で在りたいと願っていた。
 そしてそれを、夕星にだけはそっと話していた……。

「紗依がいつも願いを抱いたとしても全て我慢して。お腹を空かせていたことも、寒くて辛い思いをしていたことも知っているから。もう、けしてそんな思いはさせたくないと」

 ただただ優しく愛しむような声音で紡がれる言葉に、紗依は先程とは違う想いにて俯いてしまう。
 頬の当たりが赤みを帯びたような気がして琥珀の眼差しを真っ直ぐに見つめることができない。

「でも、これでは私はしてもらってばかりで……。あなたに、何も返せていなくて……」

 胸が満ちる温かなものに戸惑いながらも、紗依は消え入りそうな声で何とか少しずつ裡にある想いを形にしていく。
 そう、紗依はしてもらうばかりなのだ。
 矢斗は次々と紗依がかつて抱いた願いや望んだことを形にしてくれるのに。紗依は、矢斗に何も返せていない。
嬉しいとは思う。けれど、ただ、与えてもらうばかりなのが申し訳なくて。
 二人がそれぞれに口を閉ざすと、その場にはふと沈黙が訪れて。
 けれど、少しの後にそれは破られる。
 俯いたままの紗依は何かが動いた気配を感じたが、その次の瞬間には紗依を取り巻く景色が変わっていた。

「小さな光でいた頃は。……どれだけ紗依の涙を拭ってあげたくても、頭を撫でて慰めたくても出来なかった」

 困惑する紗依の耳に、慈しむ響きに満ちた言葉が降って来る。
 気が付いた時には、紗依はあの日のように矢斗の広い腕の中に優しく捉われていた。
 戸惑いに意味ある言葉を紡げずにいる紗依を抱き締めながら、矢斗は噛みしめるように続ける。

「けれど今はこうして、紗依に触れる事が出来る。抱き締める事が出来る。それが、嬉しくてたまらない」

 涙する紗依の話を聞きながら、小さな光だった友はいつも謝ってくれていた。
 何もできずにすまないと。話を聞くことしかできなくて、すまないと。
 かつての日々を思い出しながら矢斗の腕に抱かれる紗依は、矢斗が確かにここに生ある証である鼓動を感じる。
 恥じらいに、自分の鼓動は忙しないけれど。矢斗の音を感じれば、少しずつ溶けあい、緩やかになっていく気がする。

「紗依が喜びに笑ってくれること。それが、私にとってなによりの喜びであり、返礼だ」

 一つになっていく感覚を、やはりけして嫌とは思わない。
 友はかつての小さな姿ではなく、人ではないあまりに美しく偉大な存在であって。それに比べたら自分は小さな存在で。
 それなのに、矢斗にそこまで思ってもらえることへの罪悪感めいたものと、胸に生じて満ちていく自分でも分からない想い。
 分からないことが増えていく一方で、温かな腕の感触を今暫く感じていたい、と思う自分に。
 紗依は、ただ戸惑うばかりだった――。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

紹嘉後宮百花譚 鬼神と天女の花の庭

響 蒼華
キャラ文芸
 始まりの皇帝が四人の天仙の助力を得て開いたとされる、その威光は遍く大陸を照らすと言われる紹嘉帝国。  当代の皇帝は血も涙もない、冷酷非情な『鬼神』と畏怖されていた。  ある時、辺境の小国である瑞の王女が後宮に妃嬪として迎えられた。  しかし、麗しき天女と称される王女に突きつけられたのは、寵愛は期待するなという拒絶の言葉。  人々が騒めく中、王女は心の中でこう思っていた――ああ、よかった、と……。  鬼神と恐れられた皇帝と、天女と讃えられた妃嬪が、花の庭で紡ぐ物語。

「お前を妻だと思ったことはない」と言ってくる旦那様と離婚した私は、幼馴染の侯爵から溺愛されています。

木山楽斗
恋愛
第二王女のエリームは、かつて王家と敵対していたオルバディオン公爵家に嫁がされた。 因縁を解消するための結婚であったが、現当主であるジグールは彼女のことを冷遇した。長きに渡る因縁は、簡単に解消できるものではなかったのである。 そんな暮らしは、エリームにとって息苦しいものだった。それを重く見た彼女の兄アルベルドと幼馴染カルディアスは、二人の結婚を解消させることを決意する。 彼らの働きかけによって、エリームは苦しい生活から解放されるのだった。 晴れて自由の身になったエリームに、一人の男性が婚約を申し込んできた。 それは、彼女の幼馴染であるカルディアスである。彼は以前からエリームに好意を寄せていたようなのだ。 幼い頃から彼の人となりを知っているエリームは、喜んでその婚約を受け入れた。二人は、晴れて夫婦となったのである。 二度目の結婚を果たしたエリームは、以前とは異なる生活を送っていた。 カルディアスは以前の夫とは違い、彼女のことを愛して尊重してくれたのである。 こうして、エリームは幸せな生活を送るのだった。

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

【完結】出戻り妃は紅を刷く

瀬里
キャラ文芸
 一年前、変わり種の妃として後宮に入った気の弱い宇春(ユーチェン)は、皇帝の関心を引くことができず、実家に帰された。  しかし、後宮のイベントである「詩吟の会」のため、再び女官として後宮に赴くことになる。妃としては落第点だった宇春だが、女官たちからは、頼りにされていたのだ。というのも、宇春は、紅を引くと、別人のような能力を発揮するからだ。  そして、気の弱い宇春が勇気を出して後宮に戻ったのには、実はもう一つ理由があった。それは、心を寄せていた、近衛武官の劉(リュウ)に告白し、きちんと振られることだった──。  これは、出戻り妃の宇春(ユーチェン)が、再び後宮に戻り、女官としての恋とお仕事に翻弄される物語。  全十一話の短編です。  表紙は「桜ゆゆの。」ちゃんです。

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈 
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

懐妊を告げずに家を出ます。最愛のあなた、どうかお幸せに。

梅雨の人
恋愛
最愛の夫、ブラッド。 あなたと共に、人生が終わるその時まで互いに慈しみ、愛情に溢れる時を過ごしていけると信じていた。 その時までは。 どうか、幸せになってね。 愛しい人。 さようなら。

2番目の1番【完】

綾崎オトイ
恋愛
結婚して3年目。 騎士である彼は王女様の護衛騎士で、王女様のことを何よりも誰よりも大事にしていて支えていてお護りしている。 それこそが彼の誇りで彼の幸せで、だから、私は彼の1番にはなれない。 王女様には私は勝てない。 結婚3年目の夫に祝われない誕生日に起こった事件で限界がきてしまった彼女と、彼女の存在と献身が当たり前になってしまっていたバカ真面目で忠誠心の厚い騎士の不器用な想いの話。 ※ざまぁ要素は皆無です。旦那様最低、と思われる方いるかもですがそのまま結ばれますので苦手な方はお戻りいただけると嬉しいです 自己満全開の作品で個人の趣味を詰め込んで殴り書きしているため、地雷多めです。苦手な方はそっとお戻りください。 批判・中傷等、作者の執筆意欲削られそうなものは遠慮なく削除させていただきます…

【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜

なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」  静寂をかき消す、衛兵の報告。  瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。  コリウス王国の国王––レオン・コリウス。  彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。 「構わん」……と。  周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。  これは……彼が望んだ結末であるからだ。  しかし彼は知らない。  この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。  王妃セレリナ。  彼女に消えて欲しかったのは……  いったい誰か?    ◇◇◇  序盤はシリアスです。  楽しんでいただけるとうれしいです。    

処理中です...