大正石華恋蕾物語

響 蒼華

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雪花を想いて、藤は繚乱す

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 それは、異国からきた禍つ付喪神との決着がつく数か月前の事。

 藤霞はとある花街の置屋にて、途方に暮れていた。
 女性ですら望めぬようなきめ細かい肌に切れ長の瞳。良く通った鼻梁の端整な顔立ちの彼の顔には、拭いきれない狼狽と憂いがある。
 彼の目の前には、閉ざされた襖がある。
 引いても開かないところを見ると、突っ張りでもしてあるようだ。
 彼の目の前で固く閉ざされた襖の向こうから、少し震える少女の声がする。

「何やら、かなり大変な事が起きたとお聞きしました」

 敢えて硬い声音で向こう側から告げてくる少女の言葉を聞いて、藤霞が顔を顰める。
 確かに、現在彼はある問題を抱えていた。
 だが、店の人間には自分が取り込み中である事を伝えるなと言い含めておいた筈だ。
 誰が、と裡で問うけれど、心当たりは一人しかいない。
 その人物へのありったけの怨嗟を押さえ込んでいると、少女は再び言葉を発した。

「本日は、これにてお帰り下さい。ご用が片付くまで、私は若旦那にお会いしません!」
「……珂雪かせつ……」

 茫然と名を呼んでも、襖は少しも動かない。
 隔ての向こう、すぐそこに気配を感じる。距離だけでいえば、こんなにも近いというのに。
 心の震えすら伝わってくるような距離に、お互いがあるというのに。

ゆき……」

 芸の道に生きる者としてではなく、彼女の本当の名で呼ぶと、僅かに向こう側で身じろぎの気配がした。
 藤霞に何よりも愛おしく響く鈴の声は、心の揺れを感じさせつつも、彼を毅然と拒絶した。
 今、どのような表情を浮かべているのか分かる気がする。
 こんな声の時は、何時も泣き出すのを我慢しているのだ。
 そう思えば、尚更この襖を開いて中に飛び込みたい衝動に駆られるが。
 声の主……雪が儚げな容姿に反して芯が強い事を彼は良く知っている。
 彼女がそう決めた以上、恐らく彼女は梃子でも藤霞に会う事はない。
 襖を無理やりにでも開く事は彼の力を以てすれば容易い。けれども、それでは駄目なのだ……。
 少女の拒絶は、絶対的な壁として彼の前に立ちふさがっている。
 その壁を除くには、彼が抱える『問題』を解決するしか術がない。
 それなら。

「……お前は稽古に熱中すると無理をする事があるから。身体を大事にしろ。……片づけて、直に会いにくるから」

 襖に祈るような仕草で額を当てて、呟く。
 決意と想いを乗せた言の葉に、少女が一瞬息を飲んで。すぐに何度も頷いているような気配を感じた。
 泣くな、と小さく呟いて、藤霞は未練を断ち切るように襖に背を向けて歩き出す。
 けして振り返らず、珂雪の姉芸妓であり、彼にとっても『姉』である美女に少女の事をくれぐれも頼むと言い残して、藤霞は帰途についた。

 憮然とした面持ちで帰り道を歩きながら、藤霞は思案する。
 要らない心配をかけない為に事を伏せていたというのに、既に雪には伝わっていた。
 誰が彼女にそれを知らせたのか。
 藤霞には心当たりがあった。というより、一人しか心当たりが居ない。
 彼が若月屋に戻ると、奥座敷にてその人物は我が家の如く寛いでいた。
 いや、彼女にとっては建前とはいえ実際実家ではあるのだが。
 藤霞は彼女の姿を認めると、どすの利いた声で怒鳴るように名を呼んだ。

「白菊っ!」
「何よ、たまにはお姉様って呼びなさいってば」

 優雅に座って茶を喫していたのは、肩上程の断髪にモダンな柄のワンピースを来た、銀座を闊歩しているモダンガールの一人といった出で立ちの女だった。名を白菊という。
 絵から抜け出した美神と言っても通るであろう程の顔かたち。
 嫋やかに微笑めば男達が色めき立つ程素晴らしく美しいらしいが、藤霞にとっては何の感慨も湧かない。
 女が美しいというのは、花が美しいのと同じ自然の摂理である。
 それに、顔かたちの美に触れるのであれば、同じように生まれた藤霞とて同じ事だ。
 藤霞は蟀谷に青筋を立てながら更に怒鳴る。

「何がお姉様だよ! 顕現は同時だ! 単にお前が賭けにかっただけだろうが!」
「大声は止めて頂戴な」

 白菊がうんざりとした表情で軽く手を振り制止する。
 他に聞こえるわよ、と言いたげな表情を見て、藤霞は一度低く唸りつつも口を閉ざす。

 彼も彼女も、時を同じくして『顕現』した存在だ。二人は、人ではない。
 藤霞と白菊はとある名人による装身具を本体とする付喪神……あやかしなのだ。
 藤霞の本体は彼が結い上げた髪に挿す藤を象った簪であるし、白菊の本体は彼女の腕にある菊を象った腕輪である。
 本来であれば百歳の後に生じる筈が、職人の技故か、素材故か、七歳にて人の形を為した。
 あり得ざる事象により彼らは生じ、秘める力の強大さも含めて規格外として大妖とされる者達からも動向を注視されている。
 華を意匠とした不可思議の石による装身具である彼らは『石華七煌』と呼ばれている。
 彼らは霊域の主の庇護を受けて存在していた。
 しかし、人の世との関わりを断ち切らずに居る以上、接点として人の世に暮らす者達が必要だ。
 彼と白菊はその接点として選ばれた。
 古くから霊域との関わりある血筋の人間が開いた若月屋という大店を拠点にする事が決まった時、彼らは主が遠縁から迎えた養子という設定で通す事になった。
 要らぬ憶測を呼ばない為に兄弟姉妹という事にしておこうという事になったところまでは良かった。
 が、しかし。
 藤霞と白菊は、他の仲間と共に同時に顕現している。
 見た目の年齢に差があれば話は早かったが、この二人の外見の歳に差らしい差はない。
 二人はお互い自分が兄だ姉だと一歩も引かなかった。
 そして、神宮の主の提案で賭けで決めろという事になり……。
 結果、見事勝利した白菊が姉となり、藤霞は悔しさのあまりに地団駄を踏んだ。

 涼しい顔で茶碗に口をつける白菊を恨めしげに見つつ、藤霞は呻くように問う。

「雪に何言いやがった」
「……ちょっと大変な用事で取り込み中になって足が遠のくかもしれないけど、見捨てないでやってねって」

 思わず胸倉をつかんで揺さぶってやりたくなったのを、必死で堪えた。
 建前上は姉であるし、一応は女である。手を挙げるなど誰かに見られたら都合が悪い。
 彼の中で女という認識はほぼ無いに等しいが、ここは抑えておかなくてはならない。
 そんな藤霞の心の葛藤を知ってか知らずか、白菊は涼しい表情を崩さぬまま、さも当然のように続ける。

「実際、雪さんの処に行ってるどころじゃなくなるだろうし」
「……確かにな」

 大きく嘆息して、苦い表情の藤霞が同意する。
 彼らは今、ある命を彼らの預かりの主から受けた。
 それを果たすには、彼らは暫しの間注力せねばならない。

 現在、巷はある事件にて揺れている。
 その名も『血花事件』という、何とも物騒な響きを帯びたもの。
 内容としては、妙齢の女性の奇怪な死だ。
 被害者は皆一様に体中の血を失っているばかりか、全身に血のように紅い花を咲かせた状態で発見されている。
 更に言うならば、事件はそこで終わらない。伏せられているある恐ろしい事実が付随する。
 あまりに怪異に満ちた事件に対して、警察の捜査は完全に後手に回っている。
 だが、それも仕方あるまいと彼らは思う。何故なら、それは明らかに人ならざる存在によるものだからだ。
 藤霞達の仲間の一人が遭遇した、異国からきた禍つもの。
 一度は逃げおおせ隠れたものが、事件に絡んでいる事を掴んだのは先だっての事。
 相手取る事になるのは、長きにわたり歴史の影に在り続けた災いだ。
 少しの気の緩みとて、狡猾とされる相手に対しては命取りとなりかねない。
 暫く内なる葛藤を鎮める為に小さく唸っていたが、やがて藤霞は怜悧な声音で問う。

「……永椿のやつは、上手く潜り込めたのか?」
「無事に旦那様にもご挨拶できて、今の処周りとの関係は良好に築けているって」

 彼らと同じく命を受け、本拠地たる神宮から遣わされた仲間について触れると、白菊が頷いて応える。
 永椿とは彼らと同じく石華七煌と呼ばれる者達の一人であり、有事にのみ役割を帯びて人の世に紛れる。
 此度は帝大の学生という素性を作り上げ、とある華族の屋敷に書生として潜入する事に成功した。
 思いめぐらせるように目を細めて、藤霞は再び口を開く。

「高嶺の主は、刀祇宮妃・佑子の従兄だったな」
「そう。あの宮様と菫子さんのお母様のね」

 傍流の皇族である刀祇宮家。
 三年前に悲劇の渦中にあった彼らの仲間にとっては伴侶にあたる少女は、その最後の主と双子の兄妹だった。
 血筋は伏せられ、真実は葬られていた。故に、悲劇は起きる。
 結果として最後の主の死を以て、宮家は断絶した。
 特殊な使命を帯びた宮家の血筋と異能を薄めない為に存在していた特異な名家・高嶺男爵家。
 役割を終えた高嶺家は、何れただの名家として語られるようになっていく筈だった。

「その段階でこちらの世界での注目度は高いのに、随分ときな臭いこった……」

 高嶺家は、今彼らの疑惑の眼差しを向けられている。
 ただでさえ、人ならざる者達から注視されやすい家柄であるというのに、加えて大いに疑わしい行動をとっているからである。

「例の診療所の医者が後妻の主治医になるみたい」
「大っぴらに手を組む事にしたわけか」

 白菊が落ち着いた声音で紡いだ言葉に、藤霞は嘆息交じりに言う。
 水面下で密かに手を取り合っていたもの達が、後妻という正当な理由を得た事により繋がりを隠さなくなった。
 高嶺家は、探り続け集め続けた情報を基に彼らの疑いの先にあるもの――『見城診療所』に堂々と梃入れする事も可能となる。
 今までは密かに隠蔽の手を回すだけに留まっていたものが、どう動くのか。
 謀の建前として利用される後妻を哀れと思う。その素性を知れば、尚の事。
 けれども、哀れと思っても彼らには手を差し伸べてやるわけには行かない。
 だから自分が今回司令塔の役割を与えられたのだ、と藤霞は思っている。
 白菊や永椿は心を痛める事がある場面であっても、彼は切り捨てる事が出来るから。
 他の仲間とは違う部分がある自分を、それが何故であるのかも、藤霞は自覚している。
 そんな彼が切り捨てられないものは、この世において唯一つだけ――。

「さて、後はどう情報を探っていくかだな。出来れば患者じゃなくて、もう少し内情に詳しい人間が居ればな……」

 肩を竦めながら藤霞は呟く。
 女医の診療所なら白菊を患者として送り込む事は可能だが、何せこの女はかなり目立つ。
 人に紛れる為の術を施してはいるが、警戒されない為にも無駄に注意を引く事は避けたい。
 それに、患者の立場から仕入れられる情報には限りがある。
 出来る事ならば『内』の情報を知る者を確保できればと願うけれど……。

 ――彼らが鳶色の髪の娘を助ける事になるのは、一月後の事だった。
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