大正石華恋蕾物語

響 蒼華

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一 贄の乙女は愛を知る

一 贄の乙女は愛を知る-3

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 その方角には伯爵家の長女――菫子がひっそりと暮らす離れがある。
 宴の招待客には箝口令かんこうれいが敷かれたものの、それは無駄な努力としか言えなかった。
 伯爵家の長女の婚約披露の宴で、その家の弟が惨殺されるという悲劇を人々は囁きあう。あの『不幸の菫子さま』がまた不幸を呼び込んだ、と。
 婚約は解消されるべきでは、このままでは刀祇宮殿下がとり殺されてしまうのではないか。いやいや、帝のお許しを得た婚約を容易たやす反故ほごするわけにはいかぬではないか。
 今頃、社交の場は騒がしいであろう。囁かれる内容を思い浮かべる事が出来る。噂話は上流階級の娯楽の一つである以上、今回の事件は恰好のお題でしかない。
 噂の主は女学校を休み、離れに身を潜めるかのように籠っていた。納戸色から桑茶へのぼかしが美しい地に花唐草の文の着物をまとい、私室の窓辺の椅子にゆるりと腰を下ろして物思いに沈む。沙夜も下がらせて、ただぼんやりと窓の外、空を流れる白い雲を闇色の瞳に映す。
 目を閉じると鮮明にあの無惨な弟の姿が浮かび顔を手で覆う。
 喪に服す意味でも学校など行けるはずもなく、向けられるだろう視線の集中砲火を思えば行きたいと思うはずもない。
 流れゆく雲をぼんやりと見つめていた菫子は、ふと胸元の守り袋を取り出す。
 桜のがらの小切れで縫った小さな守り袋を軽く逆さに振る。中から転がり出たものが、窓から差し込む陽を反射して光を放った。
 きらり、きらりと光るのは、一つの石である。水晶の中に揺れる虹を閉じ込めたかのような、七つの色の光彩を放つ不思議な石。
 手の内できらめくそれを見ながら、菫子は幼き頃の或る日に思いを馳せた。
 ときは夕暮れ、空は朱に染まる頃だった。とても背が高い相手、しろがねにも見える灰色の人影を見上げた事を微かに覚えている。
 その人が何かを呟きながら、手渡したのは、宝石で作られたかの如く美しくきらめく『華』。しかし、菫子の手の中に残っていたのは、この輝石である。
 思索に耽る菫子の脳裏に、幼き自分に言い聞かせるように殊更重々しく声を作って語る沙夜の声が響く。

『あやかしは人を惑わせて魂を喰らいます。声をかけられても絶対に応えてはなりません。ある種のあやかしは、自分が定めた相手に美しい〝宝石の華〞を渡すそうです。そして、受け取った者が美しく育った頃に、その華を目印にして……魂をとりにくるそうです』

 それは、知らぬ人間についていかぬように作り話を交えて言い聞かせる、よくある幼子への戒めだと思っていた。宝石商の娘らしい作り話を、沙夜は語って聞かせたものだった。彼女もまた、己の乳母から同じ話を聞いたと言っていた。
 潜めるような抑えた声音で語るその話を聞いて、てのひらにある石が恐ろしくなり捨てようとした事もある。けれども何故か捨てる事が出来なかった。
 かつては、このままではあやかしに命を取られてしまうと怯えて泣いていたけれど、今は違うのだ。

(わたしは、それを待っている。人ならざるものが自分のもとに来て、命を取っていく時を……)

 御伽噺おとぎばなしを信じているのかと思われようとも、菫子にはおかしな確信があった。人ならざる何者かが自分のもとにきて、己を人の世から消すであろうという確かな予感が。
 恐ろしくないのかと問われたなら、是と答えるだろう。

(むしろ、何を恐れろというの……?)

 何を惜しむ、何を嘆く、この世に何の未練があろうか。
 胸のうちを哀しく過るのは、沙夜の明るい笑顔と唯貴の優しい微笑。
 自分が怪我をしたというのに、菫子様がご無事ならと明るく励ましてくれた沙夜。不幸が降りかかるのを心配すれば、そんなものは恐れないと真剣に言ってくれた唯貴。
 周囲に不幸を呼ぶと畏怖され忌まれ、菫子は二人にいつ災いが及ぶか日々恐れている。彼らの眼差しが何時恐怖に染まるか、或いは彼らを何時無残な形でうしなうかに怯え続けている。
 傷つかないように自分を守りながら、傷つくはずの事にすら傷つけない事にも慣れきって、何も感じぬように心を縛ってきた。いつか来るその日に怯え続けて生きるぐらいなら、もう終わりにしたいと願いすらする。
 小さく呻くように、菫子は呟く。

「命を取りに来るなら、早く来なさいよ。これ以上周りを不幸にする前に、私を……」

 ――殺してよ。
 菫子は声なき声でそっと呟いた。けれど、その悲痛な呟きを聞くものはいない。
 長く痛い沈黙の内にあった菫子は、ふと弾かれたように顔を上げた。

(そうだわ、あの指輪……!)

 唯貴から贈られたあの指輪の事を思い出した菫子は立ち上がる。あの夜は、あの騒ぎで有耶無耶になってしまい、結局受け取ったままになっていた。

(あんなに見事な指輪……お父様にお知らせしないと……)

 流石にあれほど見事な指輪を親に黙って受け取るのは宜しくない。そう思って、菫子が指輪をしまった飾り棚へ歩き出そうとした時。

「お姉様!」
「え……!?」

 それは菫子の背後から勢いよく抱きついてきた。衝撃で一瞬息が止まったほどである。足元がふらついたものの、何とか転倒は避ける事が出来た。離れに現れるのは沙夜ばかりだが、彼女がこのような振舞いをするはずはない。

(え……? 誰、なの……?)

 怪訝に思って後ろを振り返ると、そこには一人の少女の姿がある。

「誰、貴方一体……」
「……お姉様、いくら傷心でいらっしゃるからといって、記憶までうしなわれてしまったの?」

 ぴたりと菫子は動きを止める。
 誰何すいかする眼差しとぶつかるのは、きらきらと輝く宝石のような瞳だった。私をお忘れ? と小首を傾げて見せる少女と真正面から向き合って、それが誰かを認識して一つ安堵の息。

「あ、ああ、薔子しょうこ……。びっくりした……」
「そうです。お姉様の可愛い妹の薔子です! びっくりしたのはこちらだわ、まさか忘れられたかと思ったわ」

『薔子』と呼ばれた少女は赤いスカートを指先でつまみながら、くるくると独楽こまのように回って見せる。スカートの裾のフリルが、ひらひらと動きに合わせて軽やかに揺れた。
 陽に当たると僅かに赤みを感じる黒髪はゆるやかに波打ち、つぶらな黒の瞳は心から楽しそうな光をたたえている。庭に盛りと咲き誇る薔薇ばらの先触れの華やかさを持ち、西洋人形のように愛らしい。
 少女の姿を見つめつつ、菫子は溜息をつく。

(わたし、疲れているのかも……) 

 菫子は家族と離され、離れで暮らす身ではある。それでも『妹』を誰呼ばわりするとは何事であろうか。輝く瞳を見つめると、先程覚えた違和感など露と消え失せる。
 薔子は珂祥伯爵家の末娘、菫子にとっては末の異母妹である。そして母屋の皆に溺愛されていながら、離れの姉を慕うという変わり者でもある。
 今日も離れに来たというならば、今頃父母や女中達は眉を顰めているはずだ。けれど皆揃って薔子には甘い。少女の可愛さに制止出来るものは恐らくいないだろう。

「あら薔子様。いらしてたんですね」

 姉妹が揃った時に顔を覗かせたのは沙夜だった。

「沙夜、お茶を頂きたいわ。お姉様、ねえ、お茶にしましょう?」

 薔子の言葉に頷く沙夜は茶の支度を調ととのえに行き、菫子は仕方ないわねと苦笑して妹と連れ立って離れの居間に向かう。菫子も薔子には甘い。可愛いおねだりを無下には出来ないのだ。
 そうして、沙夜が用意してくれた茶と茶菓子を二人で堪能しながら、姉妹は他愛無い会話を楽しむ。

「そういえばお姉様、今日はしてらっしゃらないのね」
「……何を?」

 小首を傾げて問い返すと、妹は菫子の白い指に視線を留めつつ答えた。

「指輪よ。紅い石のついた綺麗な指輪。お披露目の夜にはしてらしたのに」
「よく見ていたわね」

 見たかったのにと呟く薔子は些か残念そうで、菫子は目を瞬かせる。
 あの夜、菫子があの指輪を嵌めていたのはごく短い間だった。それを見逃さなかった薔子に、流石美しいものや可愛らしいものに目がないと感心する。

「うーん、でも、宴の時は着けてらっしゃらなかったわよね」
「ええと、それは、その……」

 菫子は口籠ってしまう。あの指輪は宴から逃げ出した東屋あずまやで、唯貴の手によって嵌められたものだ。

(でも、改めて説明するのは……なんだか照れるわ…‥)

 あの時の事を思い出して、頬を赤らめながら口籠る姉を、妹は不思議そうに見つめる。その無邪気な眼差しに耐えきれず菫子は白状した。

「……唯貴様から、頂いたの」

 白磁の頬を紅に染め、瞳をふせがちにぽつりぽつりと呟く。何かを察した薔子は、手を打って大はしゃぎである。

「愛の贈り物ね、素敵! 唯貴様って情熱家でいらっしゃるのね!」
「ちょっと待って、お父様にご報告してないの。流石に怒られるわ……」
「大丈夫よ、だって唯貴様からの贈り物ですもの!」

 我が事のようにはしゃぐ薔子の大きな声に驚いた菫子は、慌てて妹を制止する。冷静に考えれば、ここで騒いだとて母屋に聞こえるはずはないが、やや気まずい事には変わりない。
 そんな菫子の様子を見て、私も口添えするわと続ける妹は喜色満面であり、菫子はそれ以上何も言えなくなってしまう。

薔薇ばらは愛情の花。その薔薇ばらの花の指輪は、唯貴様の愛の証だわ」

 すらすらと述べる口調は芝居の口上のようであり、胸の前で手を組みながら言ってみせる表情は、夢みがちな少女にふさわしいうっとりとしたものである。

「きっと、お姉様を守ってくれるわ」

 そうね、と返すのが精一杯の姉の紅く染まった顔を見つめる少女の顔に浮かぶのは、どこまでも無邪気な微笑だった。


 惨劇から暫し時が過ぎても、菫子の姿は離れにあり続けた。外界とは隔たれているためか、日々は不思議と平穏に過ぎている。
 今日も菫子の姿は窓辺の椅子にある。
 本日の装いは深い緋色を基調にした洋装である。どちらかと言えば、新しき考えや流行にあまり馴染まない菫子は和装を好むのだが、今日は気分を変えましょうと沙夜の提案があれば洋装をまとう事もある。
 たとえ出歩かぬ日であっても、沙夜の支度に手抜きはない。髪も美しく結い上げられ、このまま出かける事が出来そうな姿である。しかし、無論そんな気持ちになれるはずがない。
 沙夜は何時も通り甲斐甲斐しく菫子の世話を焼いてくれ、薔子はこまめに離れに顔を出しては他愛ない会話で心慰めてくれる。訪問こそ控えていても唯貴は、まめまめしく手紙や花を言づけて心配してくれる。

(このままでいられたら、いいのに……) 

 けれど、そろそろ女学校への通学を再開しなければとも思う。令嬢達がどのようにさえずるか思い浮かべる事が出来るようで気が重くとも、ずっとこのままという訳にはいかない事は分かっている。
 それに近頃、父が唯貴を頻繁におとなっていると聞く。恐らく婚約の事を話し合っているのだろう。
 父としては願ってもない宮家との縁組であっても、今までの例にならい、もし唯貴に不幸が訪れたらどうするのか、考え直すべきだと母が強硬に主張しているらしい。
 今まで唯貴には何も起こらなかった故に、父はこのまま娘を嫁がせる事が出来ると安心していたのだろう。けれども、実際に婚約の披露目をと宴を開いて遭遇したのはあの惨劇である。恐ろしくなるのも無理はない。
 しかし、婚約を覆す事もまた容易ではない。何せ二人の婚約は、内々とはいえ既に帝のお許しを得たもので、それを覆すのは帝のご意思に反する事になる。
 そして何よりも、当の唯貴本人に婚約を覆す意思が全くないのだ。
 薔子に「愛されているわね」などと揶揄からかわれ照れて俯くしかない。
 唯貴の固い意思に対して、複雑ながらも喜色を隠しきれぬ父とは裏腹に、徐々に眼差しが暗くなっていったのは母である。
 父に呼ばれ母屋に行った時、戦慄すら覚える視線を感じて振り向くとそこには母がいた。そして、その瞳には菫子を忌む冷たさだけではない、暗い憎悪すらあった。今までの眼差しよりもくらく、血の気が引き逃げるようにして離れに戻った。
 後に訪れた薔子から聞いた話は、こうである。
 母は服喪中という事で茶会などの社交の席を避けていたが、断り切れぬ話はままあるもの。出席してはみたものの、話題は当然の如く『不幸を呼ぶ娘』の話。その場でどのような会話がなされたかは知る由もないけれど、母は蒼褪あおざめた顔で帰宅した後、調度の花瓶などを衝動のまま叩き落としたらしい。そんな様子からは、どう好意的に見積もっても愉快な事があったとは思えない。
 弟妹達も、それぞれに散々な目に遭っていると話していた。それぞれに学び舎で姉の事を揶揄からかわれ、帰ってきては母に泣きつくと言う。語る当の本人も揶揄やゆされたらしいが、『私が気にすると思う?』と胸を張って明るく言うので、それ以上問う気は無くなった。
 しかし薔子が気がかりと言っていたのは、日々おかしくなりゆく母の様子である。母の形相ぎょうそうが日々鬼気迫るものになっていると、妹は肩を竦めて語った。

(わたしの所為せいで……) 

 自分の存在が、母を、家族を苦しませている。不幸にならなくても良い人達が、自分の所為せいで不幸になってゆく。新月の闇色の眼差しを伏せた。

(わたしが、いるから……)

 そして、次に開いた時には強い決意の色が宿っていた。

(離れなきゃ、ここから……)

 屋敷から家族から、離れよう。に至るまで、誰も不幸にしない場所へ行かなければ。

(もう、これ以上は見たくないから……)

 緋色のスカートの裾を揺らして立ち上がった菫子は、静かに母屋へ向かった。


 菫子は母屋の父を訪れて、屋敷を離れたいと告げた。
 人里離れた辺境の、珂祥家の持ち物の一つである山荘に移りたいと伝えると、父は渋面を作りつつ思案して、ついには了承の意を告げる。ただし、婚約は続けるものとする、と言い添える事は忘れなかった。
 菫子は何の心も滲まぬ表情で、ただ一つ頷いた。
 父の了承は得られたものの、おさまらなかった者がいた。薔子と沙夜である。
 菫子はもう一つ父に願い事をしていたのだ。沙夜を母屋へ戻し、出来るならば薔子付きにしてくれと。そしてそれは父の了承を得た。
 菫子が屋敷を離れるにあたり、自身を連れて行く意志のない事を悟った沙夜の嘆きは深く、泣いて菫子に縋った。妹もまた、姉にしがみ付いて離れない。
 菫子は、寂しそうに微笑を浮かべるだけだった。
 本当は離れたくなどない、ずっと一緒にいたい。でも、それ以上に大事な人が不幸になる事が怖かった。
 暮れ方が過ぎて夜闇が満ちる頃、離れに戻った菫子は周囲を見回す。

(この離れ、こんなに広かったのね)

 嘆きに嘆いた挙句に眠ってしまった沙夜を母屋に残し、離れには菫子一人で戻ってきた。なまりのように重い足取りでようやく寝室に辿り着き、力なく寝台へ倒れ込む。

(どうして)

 手足にもう力が入らない。糸が切れた人形になったようだ。

(どうして、こうなったのだろう……。どうして、どうして、どうして……)

 心のうちで繰り返す。誰かを恨む事では無く、理由を問うても詮無き事だ。分かっていても、菫子の脳裏を埋めつくすのは「どうして」の四文字。

(わたしは、そんなに大それた事を願ったのだろうか……?)

 大切な人達と笑い合いたいというのは、そんなに大それた願いであったのか。問うべき相手がいるわけではない、けれども問わずにいられなかった。

(……。……何時もの、事)

 何時ものように心のうちに呟く。
 哀しいと思っても、なみだが流れる事はない。表情から感情が消え失せている。それほど菫子は諦める事に慣れていた。


 菫子はゆっくりと目を開けた。
 気が付けば窓の外は黒く塗りつぶされており、自分が何時しか眠っていた事に気づく。室内にも闇が満ちており、菫子は起き上がるとまず灯りを付けた。寝室が色を取り戻して安堵の息をつき、一歩踏み出そうとした瞬間、菫子は動きを止めた。

(……今、何か……?)

 かたりと、何か音がしたような気がした。気のせいかとも思ったものの、続けて耳に入るのは先程感じたものと同じ音、それも一度目よりはっきりとである。

(……誰かが、近づいてきている……?)

 その音は徐々に大きくなっていて、それが何者かが静かに床を踏みしめる音であるという事に気づく。
 最初は沙夜が帰ってきたのかと思った。けれど、沙夜が足音を潜める理由はない。
 次に考えられるのは薔子。薔子ならば驚かそうと忍び足をするのもあり得るが、このような夜更けに訪れた事があったろうか。
 怪訝に思いつつも、沙夜か或いは薔子かと声をかけようとした時、寝室の扉が静かに開く。警戒しつつ振り返り、菫子は動きを止めた。

「え……?」

 菫子は目を瞬かせた。そこにいたのは、この離れに足を踏み入れるなど考え難い、あまりにも意外な人物。

「……おかあさま……?」

 袖文そでもんの深いみどりの留袖をまとった一人の女性。紛れもなく珂祥伯爵夫人――菫子の母であった。ゆるりとした足取りで扉を抜け寝室へ歩み入り、ゆっくりと近づいてくる。
 ようやく気を取り直した菫子が何事かと問いかけようとした、その瞬間。
 銀色の光が一閃いっせんしたかと思えば、はらり、艶やかな黒髪が一房断ち切られ宙を舞う。
 菫子がいた場所に振り下ろされたのは、しろがねに光る刃である。もし菫子が咄嗟とっさに後ろに避けていなければ、刃は菫子の身体に沈んでいただろう。
 ただただ母を見上げる。

(……どうして……?)

 見つめる菫子の闇色の瞳に戸惑いが浮かぶ。
 母の手に光る鉄の刃は、母がこの家に嫁ぐ際に花嫁衣裳と共に身につけた懐剣。幼い頃、まだ母が己を膝に抱いてくれた時に見せてもらった覚えがある。あの日、優しく語ってくれた母は、今は凄絶な笑みと共に白い手に握った刃を菫子へ向けていた。

「屋敷から逃げるつもりね? また誰かを不幸にするつもりでしょう……!」
「ち、違います、お母様。そんなつもりでは――」
「うるさい! ……全部、全部お前の所為せいよ……。お前がいけないのよ……」

 地獄の底から響くかのような、獣のうなりを思わせる低い声だった。咄嗟とっさに否定しようとしても、母の叩きつけるような剣幕は菫子から言葉を奪う。
 優雅な佇まいで名高いはずの母は、ほつれた髪も気にする事なく、気品などかなぐり捨てている。狂気すら感じさせる母の形相ぎょうそうに、菫子は蒼褪あおざめた顔で身を震わせる事しか出来ない。一方、母は刃を振り上げ菫子へにじり寄る。

「この疫病神やくびょうがみ! ……死神! ……お前なんか、……お前なんか……!!」

 母の言葉は徐々に激しさを増し、やがて切れ切れに菫子の脳裏に響き始める。苛烈になりゆく母の口調とは裏腹に、菫子の心はなぜか落ち着いていった。
  母は壊れてしまったのだと悟る。それならば。
 ……おかあさまをこわしたのは、だれ?
 ――それは。わたし。
 振り上げられた刃が近づいてくるのを、じっと見つめる。逃げる事はしない。その必要はないのだから。

(ああ、そうね、もう終わりにしましょう。それでお母様の気が済むなら、こんな終わりも悪くない……)

 菫子の心のうちにあるのは不思議な静寂だ。
 命を取りに来たのは、あやかしではなく自分の母であったけれど、ここで終わるならばそれも良い。全て受け止めて静かに逝こう。終わりに出来るなら、それで良い。
 激情を全身で感じながら、菫子は静かに目を閉じる。
 母が刃を振り下ろした音が耳に届いた。次に来るのは刃が自分に沈む感触だろうと、覚悟してそれを待つ。
 が、やがて怪訝に思う。

(……どうして?)

 刃が自分に沈む感覚は、何時まで経っても訪れない。

「だ、誰……!?」

 代わりに聞こえたのは、母の厳しい誰何すいかの声である。そして、刃の代わりに菫子に訪れたのは、力強く優しく、どこか懐かしい腕が自分を抱き留める感触だった。

「仮とはいえ我が子を殺めるか、人とはくも愚かな生き物なのか」

 感情が無いのではと感じさせる低く鋭い声が耳を打つ。
 驚愕と共に菫子が目を開けると、そこには緩くまとめた艶やかな長い髪を風に遊ばせ、同じ色の瞳に怜悧れいりな光を宿す男の姿があった。
 濃紺の着流しをまとう、あまりにも美しい……
 まるで、氷で出来た花が散り敷くが如き危うい美しさ。冷たく端整な面には、何の感情の色も無い。
 けれども、その腕は確かに菫子の肩を母から守るように抱いている。そして男のもう一つの腕は、母が振り下ろそうとした懐剣にかざされており、見えぬ何かが存在するかのように、刃は宙空に縫い留められている。

(ああ、この男だ)

 菫子は心のうちで呟く。この男は人ではない。この美しさは人に許されたものではない。

(この男が、わたしが待っていた、あやかし……)

 記憶の中の灰色の情景が蘇る。それは幼い自分がこの男から『華』を受け取っている場面。この男こそが菫子の胸にある守り袋のえにしの主にして、かつて菫子に『宝石の華』を渡した人ならざる者。そして、菫子の命を取りにきた、あやかしなのだ。そうだというのに。

(どうして、わたしをまもるの……?)

 菫子の目線の先には、男の横顔がある。まとう冷たい雰囲気に反して、抱き留める腕は温かい。
 宙空に縫い留められた刃は、きちきちと嫌な音を立てていたが、やがて一際甲高い音と共にあらぬ方向へ弾き飛ばされる。
 母は茫然としたものの、束の間の事だった。すぐに険しさを取り戻し、菫子と現れた男を睨みながら、か細く震えるくらい声を絞り出す。

「我が子、なんて」

 くすくす、虚しく響く笑い声。よろよろとよろめきながら、菫子を指しながら母は叫んだ。

「そんな娘、私の子じゃないっ……!」

 顔を歪めた母が、その唇から放った事実に男は露ほども動じない。


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