大正石華恋蕾物語

響 蒼華

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一 贄の乙女は愛を知る

一 贄の乙女は愛を知る-2

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 表に出ると、空は徐々に茜色から変わり、父と母は頭を垂れて年若い士官学校の制服をまとう少年を出迎えている。少年と呼ぶには些か大人びていて、青年と呼ぶには些かあどけなさの残るその人は、穏やかな様子で父母の礼を受けていた。
 菫子の姿を認めると、その顔には輝くばかりの笑顔が浮かぶ。

「やあ、菫子。ごめんね、帰宅を急がせてしまって」
「いえ、ようこそいらっしゃいました……唯貴ただたか様」

 柔らかく真っすぐで艶やかなからすの濡れ羽色の髪に、穏やかな笑みをたたえる瞳は夜の色。すらりと高い上背に伸びやかな手足を持つ、菫子と同じ年なのに大人びて見える彼を、夢見る乙女達ならば御伽噺おとぎばなしの王子と思うだろう。
 年頃の乙女達が魅了されてやまない白皙はくせきの美貌に、貴公子然とした佇まいの主は、刀祇宮唯貴殿下。傍流の宮家の若きあるじであり、菫子の求婚者である。

「ああ、先日の。着てくれたんだね。良く似合う、何時も綺麗だけど、今日は天女が舞い降りてきたかと思ったよ」

 唯貴は菫子がまとう着物に気づくと笑みが深くなる。菫子は頬を紅潮させながら思う。

(ただのお世辞だと思えたら良かったのに……)

 歯の浮くような言葉であっても唯貴の口から出れば、悪意も裏もない真摯な賛美。それをこの人は照れる事も臆する事もなく紡ぐのだ。
 菫子の頬の赤みは心のうちにて翻弄ほんろうされている証であり、穏やかな笑顔でいようと努めても、恥ずかしさやら困惑やらが表情に出そうになる。落ち着いた顔を取り繕うのに必死な自分と同い年とは思えない。
 対する唯貴は、無邪気なまでに朗らかに微笑んで、菫子に真っすぐな眼差しを向けている。
 そんな二人の様子を満面の笑みを浮かべながら見ていた伯爵は応接間へ客人を招いた。
 優美な灯りに照らされる室内で、精緻な彫刻に彩られた暖炉に炎が踊る。壁紙も調度も、どれ一つとっても熟練の職人が手がけたものであり、重厚な雰囲気を醸し出す。
 上座に腰を下ろした唯貴は、温かな光を夜色の双眸にたたえて菫子を映しながら、一呼吸おいて話を切り出した。

「主上より内々のお許しを頂きました。正式な婚儀は、僕が士官学校を卒業してから願い出になるので少し待たせてしまいますが……」
「あ、有難うござい、ま……ごふっ、がはっ……!」
「まあ、貴方……! 落ち着いて……!」

 どうしても自分で伝えたくて急な訪問をしてしまった、と唯貴は恐縮したように続ける。嫁に行く本人より先に、感極まって泣き出さんばかりの父が礼を述べようとして激しく咳込み、母は焦った様子で背をさする。

(珍しい事も、あったものだわ……)

 菫子はそんな父の様子に目を丸くする。何時もは伯爵家の面子めんつだの、爵位を持つ者としての威厳だのと偉そうに澄ましている人が随分取り乱したものだ。余程嬉しいのだろうか、と思っていたので行動が遅れた。慌てて両親にならって頭を下げる。

「ありがとう、ございます……」

 菫子は困惑を表に出さないように必死である。心は戸惑い、混乱すらしている。

(わたしは、長くないからと思っていたのに……)

 無意識の内にその手は、守り袋のある胸元に添えられる。
 そう遠くないうちに、この守り袋のえにしによって、儚く消える命だという確信めいた予感があった。だから確かに話は進んでいたけれど、菫子には現実味がなかった。将来の事を考える事は、何時しか止めていた。

(それなのに……本当に、この方と……?)

 この貴公子と夫婦になる、そんな将来の姿は夢のようにふわふわとして、他人事に思えてしまう。しかし、目の前にあるのは具体的な自分の未来の話である。
 普通の娘ならば飛び上がらんばかりに喜んでおかしくない話に、菫子は何時もと変わらぬ感情の薄い様子だと伯爵の目には映ったようだ。若干苛立った様子だったものの、菫子が改めて礼を述べれば、伯爵はすぐに上機嫌で言葉を紡ぐ。

「お上のお許しを頂いたとあれば、早速お披露目を……。殿下、宜しいでしょうか?」

 唯貴が頷くと、伯爵の笑みは更に深くなり喜色満面といった様子で具体的な話に入った。

(こんなご機嫌なお父様、やっぱり初めてだわ……)

 無理もない。まともなご縁など諦めていたはずの長女である。まさか宮家との縁組が舞い込むなど想像もしなかったに違いない。どこかの後妻にくれてやるぐらいしかないと思って打ち捨てていた娘が、思いもしない形で役に立つ。父とすれば確かに喜ぶべき事だろう。
 菫子の闇色の瞳に、唯貴と父が披露目の宴について話す姿が映る。間違いなく我が事であるのに、どこか遠くの事のように思いながら二人を見つめていたが。

(……。……また、視線を感じる)

 それは冷たく突き刺さり菫子は戦慄する。辿った先にあったのは、やはり母の姿だ。底知れぬ黒の瞳には、凍て刺すような光と奥底で煮えたぎるような暗い何かが宿っている。
 菫子の視線に気づいて、朝と同じく母は視線を逸らした。

(何時もの事……。そう、何時もと同じ……)

 そう菫子は己に言い聞かせ、次いで視線を父と唯貴へ向けて、今度は努めて嬉しそうな微笑みを浮かべた。
 戸惑いはあれど、近くに見え始めた未来へ向けて時は動く。宴の準備は様々な思惑を乗せて着々と整っていった。



     第二章 契機の夜


 屋敷の人々が上を下へと慌ただしく動き回り、その日はあっと言う間に訪れた。
 晴れ渡った空の下、離れの一室に軽やかで楽しげな鼻歌が響いている。声の主は誰かと言えば、菫子の傍にいる沙夜である。
 実に嬉しそうに歌いながら、沙夜は流麗なまでの手際で菫子の支度を整えていく。一つ一つ装身具を着け化粧を施し、髪を結い上げ、菫子は美しく仕上げられていった。
 裾に美しい刺繍ししゅうのある、滑らかな絹の光沢を放つ薄紫色のドレスは、例によって唯貴の贈り物である。頂いてばかりで申し訳ないと恐縮する菫子に、唯貴は笑うばかり。

(あの方は、わたしを甘やかしすぎだと思うの)

 似合うと思うから、菫子に贈り物をする事が楽しみだからと言われれば、受け取る他ない。嬉しいやら、困惑するやら、畏れ多いやら。隠しきれずまた表情に出そうなのを堪える菫子の耳に、沙夜の歌が変わらず聞こえる。

「……嬉しそうね、沙夜」
「嬉しくないわけがございません! 菫子様のご婚約のお披露目でございますよ! あの小さかったお嬢様が、こんなに美しく成長なさって……。お相手が、あのようにご立派な貴公子で!」

 沙夜は心浮きたって仕方ないという様子で、きらめく瞳を向ける。

(これじゃあ、婚約したのがどちらかわからないわよ)

 婚約した本人より断然嬉しそうな沙夜に、若干菫子は呆れ気味である。
 感極まり泣き出すのではないかと思うほど興奮している沙夜だったが、流石に興奮しすぎたと思ったのか、こほんと咳をして続ける。

「まるで御伽噺おとぎばなしです、嬉しくないわけがございません」

 口は止めず、されど手も止めず。支度の手際の良さに感心してよいのか、感極まった言葉に照れたらいいのか。またもやどうしたら良いかわからず、菫子は肩を竦めて大きく息をついた。

「ねえやったら!」
「あら。菫子様、それは卒業して頂いたはずでは?」

 あ、と菫子は口元を押さえる。沙夜が幼い自分に仕えるようになってからずっと「ねえや」と呼んでいたのだ。けれども女学校入学を機に、沙夜の願いにより改めた。しかしながら、長らく呼んでいた名は身に馴染みすぎていて、今でも時折気を抜くと「ねえや」と呼んでしまう。

「……もう少ししたら言わなくなるわよ……多分」
「あら菫子様、私が菫子様にお仕え出来るのは、そう長くはないかもしれませんよ?」

 沙夜が静かに返すと、菫子の闇色の双眸に戸惑いが浮かぶ。沙夜は菫子の瞳に動揺があるのを見て、少し寂しそうに笑った。

「菫子様が嫁がれましたら、私はお役御免となるでしょうし」
「……沙夜も、一緒に来るでしょう? 唯貴様は、きっと良いと言ってくださるわ」

 菫子はまるで寄る辺ない子供の表情で、沙夜を見る。心細げで寂しげな言葉に、沙夜は静かに首を振った。沙夜も一緒に行くのだと連れていきたいのだと、眼差しで訴えても、沙夜の首は再び静かに左右に揺れる。

「私は、宮家にお仕え出来る身分ではございません……」

 沙夜の実家は名のある宝石商である。結婚前の行儀見習いとして、華族の家に奉公する事はよくある話であり、沙夜も当初は結婚までの腰掛奉公のつもりだったのだろう。けれど、何故か菫子付きの女中となった後、嫁に行く事をすっぱりと諦め現在に至っている。何時までも自分に付き従う必要はないと、嫁に行くのを勧めた事も幾度かあった。しかし、その度にそんなに私を追い払いたいのですか、と沙夜は笑って断るのだ。
 沙夜は、菫子にとって屋敷内で唯一の心の拠り所である。
 毎日冷めた食事をする菫子を不憫ふびんに思って台所の女中達に一人直談判し、せめて茶の支度だけはさせてくれと、粘り勝ちで譲歩させてくれた。菫子を決して笑い者にはさせぬと、流行はやりの髪型や服装について人一倍学んで日々の支度をしてくれる。
 それでも身分は商人の娘であるからと、宮家の女主人の傍仕えをするには障りがあると考えている様子が見て取れた。

(そんな事ない、唯貴様はきっと許してくださる。沙夜は私と一緒に来るの)

 二十七歳の沙夜は既に嫁き遅れと呼ばれてしまう年頃である。実家でも屋敷でも、居場所などあるのだろうか。嫁に行くから放り出すなど、あまりに薄情というものだ。

(ううん、違うの、そうじゃない。ただただ私が、沙夜と一緒にいたいだけなの)

 今まで何時も一緒にいたのだ。離れるなど考えた事すら無かった。離れたくなどない、絶対に沙夜を連れて行くと言いたかった。それなのに。

(……。なんで、云えないの……)

 我儘わがままを言う事に慣れていない。諦める事にはあまりに慣れすぎている。沙夜との別れが見えているのに、手を伸ばす事が出来ない。大切な存在と別れたくない、それすら言えない菫子は自分に苛立ちすら覚える。このままでは、唯貴との結婚は沙夜との別れと引き換えにとなってしまうのに、俯いて沈黙する事しか出来ない。
 二人の間、室内に落ちた沈黙を破ったのは沙夜の明るい声だった。

「さあ、お支度が出来ましたよ」

 子供のように泣きたい、泣いてそれは嫌だと訴えたい。離れずに傍にいて欲しいと縋りたい。そう思っていても、菫子はその心を固く抑えてしまうのだった。


 入相いりあいの鐘がなり、西の果ての山際やまぎわに陽が隠れて落ちる。夜のとばりが空を覆い隠す頃、珂祥伯爵邸にはまばゆいばかりの照明が灯された。それに誘われるように、きらびやかな正装をまとう紳士淑女達が集う。
 そうして、菫子と唯貴の婚約披露の宴は幕を開けた。
 居並ぶ人々は今宵の主役二人に歩み寄っては笑顔で祝福し、寄り添う美しい一対は揃って礼を返していく。実に美男美女で似合いの二人であると褒めそやす人々の囁きは主役達の耳にも届く。しかしながら、その片割れである菫子は多大なる苦行を強いられていた。

(……つらい……)

 背に幾筋も冷たい汗が流れていく。
 菫子は衆目を集める事に慣れていないのだ。人目につかぬよう、人の集まりからは身を潜め、離れで暮らしてきた菫子は社交に慣れていない。
 社交好きな父母の性格を反映して、珂祥伯爵邸では時節に応じて様々な宴が催されるが、呼ばれる事の無い身には遠い世界の話でしかない。
 そんな菫子にとっては、今この状況自体が試練そのものである。居並ぶ招待客のほぼ全ての注意が、菫子と唯貴に向けられていると言っても過言ではない状況なのだ。
 一方で唯貴は慣れたものである。物腰は御伽噺おとぎばなしの高貴な王子そのものであり、そつなく返答する様子を菫子は羨望せんぼうの眼差しで見つめる。
 唯貴のような貴公子と婚約が決まった、夢のような幸福の只中である令嬢にふさわしい朗らかな笑みをと思っていても、気を抜くと引き攣った笑みになってしまう。

(おねがい、わらって。おねがいだからわらって、わたしのかお)

 今日ばかりは笑ってくれと、顔の全神経に懇願しているが効果は薄い。普段使っていない故に死んでしまったのかと思うほどである。
 また一筋、冷や汗が伝った。そんな菫子の耳に、優しい声が届く。

「大丈夫?」
「へ、平気です……」

 唯貴が菫子を覗き込んでいる。その声音に滲む心配そうな色に、菫子は表情が引きつらぬように全力を尽くしつつ応える。
 けれど、唯貴は菫子が心の中ではつらい、帰りたいと思っている事など全てお見通しのようだった。唯貴が僅かに苦笑しながら何事かを囁こうとした時、歩み寄った小さな人影が二人の注意を引いた。 

「姉さま、殿下、おめでとうございます」

 可愛らしい声で礼をするのは、菫子の異母弟の一人だ。確か……二番目の弟だったか、名前は何といったかとぼんやり思う。些か薄情かと思うけれど、自分と弟の間にはその程度の絆しかない。
 愛らしい顔立ちの弟は、無邪気に笑っている。その笑みの中に底意地の悪い光を宿して、菫子へ祝いを口にした。

「姉さまがお屋敷からいなくなると思うと、安堵します。だって、そうなればもう屋敷で不幸は起こらなくなりますから」
「こら! 何を言う! ……申し訳ございません、刀祇宮殿下」

 その言葉に血相を変えて飛んできたのは父であった。表向きは落ち着いて威厳をたたえて重々しく、しかし内心大慌てである事は近くにいたら分かる。
 父は弟を叱りつけると、乳母に言いつけてその場から連れ出させ、唯貴へ頭を垂れて謝罪した。
 その一方で、隣の菫子に視線を向ける事はない。

(……。何時もの事だから。家族も弟も招待客も、ああ、何時も通り)

 菫子は自身に向けられる視線が、一瞬にして変化したのを感じた。
 祝福や羨望せんぼうは消え、嘲笑、憐憫れんびん、畏怖、様々な負の感情。それらは菫子にとっては慣れたもの。綺麗な感情に一時覆い隠されていた、何時も通りのもの。
 自分に纏わる出来事を知る者であれば、そう見るであろうという馴染みの眼差しであり、慣れすぎていて逆に安堵すら覚えるほどだ。菫子は心のうちで密かに苦笑する。

(傷つくはずの事にも、傷つけなくなったわ)

 沈黙をまといながら、ただそこに佇み視線を受け止めていた菫子の耳に触れたのは、柔らかな囁きだった。

「もう少しで、注意は他に逸れるよ」
「え?」

 唯貴である。人差し指を口に軽く当てて見せるのは二人だけの秘密の仕草。
 降る声音は優しく労わる響きがあって、はっとしたように顔を上げた菫子が、どうしてと言う前に、弾けるような大きな音がした。
 夜空に咲くのは大輪の鮮やかな光の華――花火。夜空の華は、集まった客達の注意を一瞬で引きつけた。
 喜色満面の父が、客達へ声を張り上げる。

「刀祇宮殿下がこの日のためにご用意下さった夜空の花束でございます。ささ、皆様お外へどうぞ!」

 居並ぶ紳士淑女達は、顔を輝かせながら連れ立ってテラスから外へ、そして和やかに談笑しながら夜空を見上げては、夜闇を切り裂いて眩く輝く花火に見惚れる。
 そんな中、宴の主役達が姿を消したという事実に、気づいた者は少なかった。


 菫子の手を引いて走り出した唯貴が辿り着いたのは、庭園の端にある東屋あずまやだった。ここまで駆けた事で軽く息が切れていた菫子は、息を整え唯貴を見る。

「花火のご用意など、なさっていたのですね」
「さすがに僕も宴の間中、衆目に晒されるのは疲れるからね」

 悪戯いたずらな光を瞳に宿しながら片目を閉じて見せた唯貴に、菫子は頬を緩ませる。

(やはり、唯貴様はすごい)

 脳裏に浮かぶのは唯貴への称賛、手際の良さに感心するばかりである。
 幻想的な灯りの数々に照らされた宵の庭園にて、咲き誇る花々はかぐわしい薫りを風に乗せて二人へ送る。それを楽しんでいた唯貴は、ようやくといった風に息をついた。

「菫子、疲れていただろう。風が気持ちいいし、少し休んでいこう」

 どうぞ、と貴婦人を招く紳士のように唯貴は菫子を東屋あずまやのベンチへ導く。けれど、菫子は俯いたままで、その場に立ち尽くし動かない。

「菫子?」
「……唯貴様。唯貴様は、本当に私で良いのですか? 私に、私にまつわる噂を、ご存じでいらっしゃいましょう……?」

 沈黙するばかりの菫子を案じ唯貴が一歩歩み寄った時、菫子は面を伏せたままようやく口を開く。
 菫子の声が震える。それは、婚約の話が出てから幾度か繰り返された問いだ。菫子に纏わる噂はあまりに有名で、知らぬものは無いと言われるほどである。

(わたしが望まれて嫁ぐ事なんて、無いと思っていた。……そんな日は、絶対にこないと)

 そう、他ならぬこの方が求婚してくれるまでは。
 驚いたし、嬉しいとも思った。
 けれど、噂が確かである事を知る故に、このご縁を喜んではならないと自らを戒めた。距離を置き遠ざかる事すら考えた。更に帝のお許しなど下りなければ良いと願っていたのだ。

(この方が不幸になるところなんて、見たくないから)

 けれども、二人は今日という日を迎えた。
 菫子は俯いたままで、唯貴が今どのような表情かを窺い知る事は出来ない。
 ゆるやかに沈黙が流れて、風が二人の間をなびき渡り行く。雲の切れ間から皓々こうこうと輝く白き片割れ月の光が、沈黙に揺蕩たゆたう二つの影を照らしている。
 沈黙を破ったのは、唯貴だった。

「僕は、菫子がいい。他に誰も望まない。妻にと望むのは菫子だけだ」

 驚き、弾かれたように顔をあげた菫子の闇色の瞳が、唯貴の夜色と静かに交錯した。何時も温和な笑顔を浮かべている唯貴の顔に笑みはなく、その瞳に宿る真剣な光に気づく。強く訴える真っすぐな表情がそこにある。
 それは、菫子が問いかける度に真剣に繰り返された答え。唯貴の本心からの言の葉には、穏やかで何物にも揺るがぬ固い決意を感じる。どこまでも真摯であり、そこに潜むのは情熱、籠るのは深い愛情だった。

(胸が熱くて、苦しい……)

 知らず知らずのうちに菫子の目頭が熱くなる。閉ざした心が、開きそうになってしまう。傷つかないように閉ざしたままでいたのに、その言の葉は、その眼差しは許してくれない。

(何か言葉を返さなきゃ……)

 こんなに己を望んでくれる彼に何か返答したいと思っているのに、言葉が出てきてくれない。熱い何かが心を一杯に満たすだけ。
 唯貴は押し黙る菫子の手を繊細な手つきで取り、そっと何かを指に嵌める。彼の手に載せている自分の手、左手の薬指には指輪が光っていた。

「……綺麗」

 菫子は目を見張り、思わず呟く。
 金の流麗な曲線が描くのは薔薇ばら意匠いしょう。細工の中心に座しているのは、妖しいまでに華やかに輝く紅の石。魂すら吸い込まれそうな深い紅。
 母の宝石箱のみならず、伯爵家では宝飾品を目にする機会はそれなりにあった。それでも、この指輪に勝る品を菫子はついぞ目にした事はない。これは恐らく舶来の品である。

「こ、こんな素晴らしいもの、畏れ多いです……!」

 指輪のあまりの見事さに、菫子は慌てて唯貴に訴える。

「いいんだ、受け取って欲しい、婚約の証にね」

 菫子の身の回りにおいて、父母から与えられるのは体面を保つための最低限のものばかりである。
 離れを彩る美しい調度類に、飾りの品、そして美しい着物の数々。生活に彩りを与えてくれたのは、唯貴の心尽くしなのだ。菫子の喜ぶ顔が見たいと贈られた品々はどれも素晴らしいものだったが、この指輪は別格と言って良い。瞳を惹きつけてやまぬ紅の指輪はあまりに美しい。

(でも、何か……。……怖い……?)

 何故か一瞬だけ、一際強くきらめいた光を冷たく感じ、菫子は無意識の内に身震いしていた。
 でも、それは刹那せつなの事。流石にこのような大それた品を父に無断で頂くのは障りがあると言おうとした時。
 甲高い悲鳴が夜の静寂を切り裂いたのだった。


 驚いた二人が東屋あずまやから駆けつけると、既に人だかりが出来ていた。ざわめく人々の顔には恐怖が刻まれており、問わずとも只ならぬ事が起きたのは明白である。

「坊ちゃまっ……! 坊ちゃま……!」

 人だかりの前方から、老女のものとおぼしき、しわがれた悲痛な叫びが響いている。集まる人々をかき分けて二人は声のする方へ足を進め、あと一歩でその声の主に辿り着くところまで来た。その瞬間、唯貴が菫子の視界を遮ろうと手を伸ばす。

「! ……見ちゃいけない! 菫子!」

 けれど制止は、今一歩遅い。菫子の瞳にあまりにも強く、その光景は焼き付いてしまった。
 そこにいたのは、先程菫子に皮肉を言ってのけた幼い弟だった。
 木立に括りつけられた身体は、手も足も首すらもあらぬ方向を向いており、身体に刻まれたのは無数の傷。可愛らしかった顔に今あるのは苦悶くもんの表情だけである。
 流れるのは、赤い命の雫。事切れた弟からは、咽返むせかえるような紅い匂いがしていた。
 誰の目にも手遅れなのが明らかな無残な姿で、弟はただそこに
 弟の乳母は地面に臥して泣いている。気も狂わんばかりに泣き叫ぶ声を聞いて、菫子は足元が揺らぐような気がした。

(どうして、こんな事が……。いいえ、わかっている)

 打ち寄せる眩暈めまいに唯貴の腕に縋りつき、紙よりも白い顔を茫然とさせながら菫子は心のうちで呟いた。

(ああ、やはり、私は『不幸の菫子さま』なのだ……)

 突きつけられたあまりにもむごたらしい現実は、一体誰の所為せいなのか。いや、問うまでもない。
 答えはわかりきっている、私の所為せいだ。
 きっと誰も否定しないだろう。私は不幸に魅入られているのだと頷くだろう。
 ざわめく人々の囁きを耳にして、地に引きずりこまれそうな感覚を覚え、菫子は静かに意識を手放した。



     第三章 密やかに蝕む毒


(あら、怪我したのかしら)

 着物の袖口に付いた紅い染みに、小首を傾げる。袖をめくり血の斑点はんてんを拭ってみるけれど腕には傷ひとつなくて、更に深く首を傾げた。
 血の染みは厄介であるのに、と溜息をつくが、今はそんな場合ではないと思いなおす。
 何故なら、あのような事態があったばかりだ……


 伯爵家で起きた惨劇から二夜が明け、出来事を覆い隠すように密やかに行われたとむらいが済んだ後、屋敷は重苦しい沈黙の内にあった。
 出入りする警官が物々しい雰囲気を醸し出し、皆は怯えた表情で無言のまま視線を交わす。そしてそれは決まってある一方へ向けられるのだ。


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