大正石華恋蕾物語

響 蒼華

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一 贄の乙女は愛を知る

一 贄の乙女は愛を知る-1

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     序章 花は願う


 風が幾度か渡り、巡り、過ぎ行く中。小夜嵐さよあらしに、盛りを迎える宵庭しょうていの花々が花弁を震わせ、緑なす木々が身をしならせる。
 凍り付きそうな白月の下に、二つの人影がある。
 危うく冴え凍る刀のきらめきを思わせる美貌の男と、繊細な陶磁器の人形に通じる儚さを持つ美しい少女。
 男は灰色の髪が風になびくのを気にも留めず、少女をその灰の瞳で捉えている。
 少女は風に艶やかな黒色の髪を遊ばせ、茫洋ぼうようとした新月の闇の如き瞳には何も映していない。
 影すら地に刻むような月明りに照らし出され、二つの影は相対する。一つの言の葉も唇に乗せる事なく、差し向かう二人の間を幾度かまた風が渡る。
 宵庭しょうていを彩るこぼれんばかりの花々がかぐわしい薫りを風にのせて送る中、一つだけ異質なものが存在した。
 人の身体を巡る、命に繋がり脈打ち流れるもの。
 ――鉄びた、紅い、赤い、血の臭い。
 命の輝きが失せた身体はもはや存在しないというのに、流れた名残なごりとして死に繋がる匂いならざる臭いが残る。それは、沈黙したままの二人に澱の如くまとわりついていた。
 やがて、時の移ろいを示すかのように紅は黒へ至る。
 両手から失われたものを、ただただ噛みしめる少女は言葉を紡ぐ事はない。男の表情は露ほども動かないように見える。彼は灰の双眸に少女の姿を映すだけで、少女に歩み寄らない。いや、出来ない。それは男の逡巡しゅんじゅんを示していた。
 再び、風が渡る。
 花が咲き誇る宵庭しょうていに、白々とした月の光が差し込む。眉月が、血の気が失せ青白くすらある少女の白磁の肌を照らす。その頬には涙が流れたとおぼしき幾筋かの跡があるけれど、今は伝う雫はなく乾いていた。
 少女はただ黙って、鋭利なきらめきを放つ『それ』――不可思議な輝きを宿す刃を持つ、つばのない刀を胸に抱いている。
 少女の夜色の瞳は虚ろで、刀の放つ光を茫然と映していた。
 やがて、男がゆるりと唇を開き、感情を読み取れないほど低い声音で、少女に問いかける。

「お前は、此れから如何どうしたい?」

 少女の望む先の話を。
 問われて少女は闇色の双眸を向ける。その瞳に揺蕩たゆたう光はあまりに脆い。少女は暫くして微笑した。
 今にも消え失せてしまいそうな儚い笑みを浮かべながら、けれど確かな願いを静かに告げる。

「私を。……私を死なせてください」



     第一章 不幸の菫子さま


 時は大正。処は日の本。
 あかつきの空を割き、東の山際やまぎわより昇る朝日が、徐々に館の全容を照らしていく。華やぐ帝都の一角に存在する西洋風の屋敷は、珂祥かしょう伯爵邸と呼ばれていた。随所に意匠いしょうが施された館に、美しい花々がけんを競う趣向を凝らした庭園が更なる華を添える。広大な敷地内には、母屋以外にも幾つかの建物が点在しており、全てが調和した美しい佇まいを人々は憧れを以て語る。
 庭園の草花の葉に宿る一粒の朝露が、葉を伝って地面へゆるり吸い込まれていく頃、屋敷に住む人々が、一人、また一人と目覚めていく。
 そして、敷地の一角の離れでもまた……
 白の敷布の寝台に、はらりと散らばる黒髪の対比が鮮やかで、横たわる少女の姿は一幅の絵画にも見える。黒曜石のような艶やかな黒髪と繊細な白磁の肌を持つ、日本人形にも似たうつくしい少女は、新月の闇色の瞳を薄く覗かせながら眠たげにまぶたを擦る。

(夢を、見ていたの?)

 ふわりと、意識がうつつへ戻ってきた。けれども感覚は朧気おぼろげで醒め切らぬ心地だ。それを示すように、眼差しは未だに夢に心を預けているようではっきりと定まらない。

(何か夢を見ていた、それだけは確か)

 どんな夢だったのかは、記憶にしゃがかかったように曖昧あいまいでもう思い出せない。それは何時かあった事だったのかもしれない。或いは、何時かある事なのかもしれない。不思議と心が惹きつけられ、少女はぼんやりと宙を見据える。

菫子とうこ様、おはようございます」

 静かに身を起こそうとしていると、聞き慣れた朗らかな声が聞こえた。
 そこには天真爛漫てんしんらんまんな笑顔を浮かべる女中の姿がある。茜の着物にエプロンを着けた彼女は、何時ものように慣れた手つきで緞帳どんちょうを開き、明るい朝の光を室内に招き入れた。菫子はこくりと頷いて少しだけ頬を緩めて見せる。

「おはよう、沙夜さよ

 見慣れた光景と耳慣れた声が、夢からうつつへ引き戻す。

(ああ、ぼうっとしている場合ではないわ……)

 ようやく寝台を離れた菫子は、沙夜の手を借りながら身支度を整える。桜色の花丸文の銘仙めいせんの小袖と海老茶の女袴に着替えた後、沙夜は手際よく菫子の髪を結い上げる。藍色のリボンを結び、出来ましたと満足そうに笑う沙夜の様子に、菫子もつられて微笑んだ。
 静かな足取りで離れの居間へ向かう。
 室内には、目に美しい調度品や飾りの品が並ぶ。しかし、父母から贈られた物は体裁を保つための極僅かであり、その場にある品の殆どは心を尽くしてくれる人からの物である。彼の人に思いを馳せると、知らず知らずのうちに胸に宿る温かさで顔が綻ぶ。
 けれど、すぐにある事を思い出して平素の表情へ戻り、部屋の中央の卓子たくしへ足を向けた。
 沙夜が何時ものように流れる仕草で、朝餉あさげ卓子たくしに並べる。菫子は、沙夜の眉が寄せられているのを見逃さなかった。
 母屋から運ばれた食事は、冷え切っているのだろう。
 朝から夜まで忙しなく働く鬱憤を、台所の下女中達が自分に向けている事を菫子は知っている。雇い主公認で行われる彼女達の嫌がらせに、沙夜が憤っている事も。菫子付というだけで微妙な立場にあるというのに、彼女が自身の心証を損なう事を気にもせず、台所に怒鳴りこみに行った事も知っている。
 自分のために憤ってくれる沙夜の気持ちは嬉しく思うけれど、心のうちにあるのは致し方ない事だという感情だけ。唇から溜息がこぼれ落ちた。
 少なくとも自分は、この立派な屋敷において、そういう存在……である。
 燦々さんさんと窓から差し込む光が居間を照らし、菫子は思索に耽る事を止めて朝餉あさげに注意を戻す。
 今頃母屋では、両親と母の異なる弟妹達が温かい膳を囲んでいるだろう。
 菫子は、沙夜一人を傍において朝餉あさげを一口食べる。
 そして思うのだ、つめたい、と。


 菫子が背中に突き刺さるような何かを感じて振り返ったのは、正門前に待っていた車に乗り込もうとした時だった。それは戦慄すら覚えるものであったが、その主を悟ると腑に落ちる。
 辿った先には、母屋の窓からこちらを見下ろす女性の姿があった。齢を重ねても尚、若き日のままの華やかなうつくしさを誇ると名高い女性。気品あふれる物腰で社交界の花と謳われる、菫子とは正反対の雰囲気を持つ人である。

(やっぱり、お母様……)

 嫌いではない、けれど好きかと問われれば是と直ちに答える事は難しい相手。菫子の母である珂祥伯爵夫人がそこにいて、静かに娘を見つめていた。いや、射貫くと呼ぶべきだろう。眼差しは、娘に向けるものではなかった。
 菫子の闇色の瞳と、母の底知れぬ黒の瞳。似ているようで非なる色の眼差しが刹那せつなの間交わる。
 そして、忌む者を見るような視線を置き去りに、窓辺から母の姿は消えた。

(……。……何時も通り、だわ)

 知っている。全く以て何時も通りの事である。慣れている、そう慣れていると思っている。だって――
 小さく首を左右に振る。案じて駆け寄ってきた沙夜になんでもないと告げてから、車に乗り込み出発するようにと短く告げた。学び舎への距離を思えば必要ないと思うけれど、名家の娘が一人歩きなぞと言われて使っている。車に揺られて学校へ行く、今はその僅かな時間が有難いと思う。
 伏せられた闇色の瞳は何も語らない。そう、何かを閉ざすように。


 左程経たずに学び舎に降り立つと、陽射しを浴びてみどりに輝く木立の路が菫子を迎える。晴れた空の蒼と柔らかな光を感じ、ひとつ息を吸ってから歩みだすと、やがて厳格な雰囲気をまとう白亜の建物が現れた。
 ふわりと藍色のリボンを風に遊ばせて、ごきげんようと味気ないけれど万能な挨拶を通りすがる令嬢達にかけながら、教室へ向かう。
 何時もと同じ、変わりない挨拶。そして、もう一つ変わらぬものがある。
 それは、彼女達が菫子へ向ける視線である。人目を引く容貌である事が、要因の一つではあるらしい。
 しかし、それだけではない事は、向けられた眼差しに交じる確かな怯えの色が教えてくれる。敬遠されているのは、決して気のせいではないと思うからこそ、菫子は他者と距離を置く。何時も通り、気にしないようにと思っても、哀しい事に菫子は酷く敏感だ。いっそ気にしない性格ならば、楽だっただろう。
 そして、両の耳が拾う話題を選べたなら、尚楽であったろうとも。

「……それでも、刀祇宮とうぎのみや様は、いたく菫子様をお気に召されているとか」

 他の誰でもない菫子の名が含まれた、鳥がさえずるような秘密めいた囁きが聞こえた。向けた視線の先では、数名の令嬢が噂話に花を咲かせている。彼女達はたのしそうで、ただの歓談であったならば足を止める事も無かっただろう。しかし……

「帝に、婚約のお許しを願い出ていらっしゃるそうよ」
「まあ、あの貴公子が、今までのようなご不幸に襲われなければいいですけれど」
「今のところは大丈夫なようですけれど、これからはどうかしら」

 高貴な令嬢が噂話などはしたないと、菫子の眉に皺が寄った。唇を噛みしめて耳をすませると、興が乗ったらしいお喋りは更に続く。その声音に羨望せんぼうの色が滲んでいるのに気づいた。
 けれど、そんなものは受け取る気になどなれない。悪意に満ちた噂話には、誰かの犠牲が付きもの。今犠牲となっているのは菫子である。これもまた、慣れてしまうほど何時もの事なのだ。

「話が出てすぐ宮様のお母上がお隠れになりましたわよね」
「今はご本人も無事でいらっしゃるようですけれど……」
「でも、わかりませんわよ。だって……」

 彼女達には人の生き死にすら楽しい話題の一つかと、半ば呆れながら眺めていた。けれど残酷な光を瞳に宿しながら、令嬢達がとっておきの秘密でも話すかのようにを口にしようとしている事に菫子は気づいた。

(ききたくない)

 噛みしめる唇に更に力がこもる。しかし、そんな願いなど知らず少女達は唱和する。

「だって、〝不幸の菫子さま〞ですもの」

 ――わたしを、そんな名前で呼ばないで。
 幼い自分の声が胸を過る。どれだけ願ってもその願いが叶う事はない。
 菫子は名門伯爵家の長女であり、幼い頃からうつくしいと評判を得ていた。そのため、年頃となるより少し早く、些か気の早いと言える時分から縁談の打診は来ていた。当初、父は喜色満面、さてどうしたものかと上機嫌で相手の吟味などしていたものである。菫子も父の様子を見ながら、どなたに嫁ぐ事になるのかと高鳴る胸を押さえていた。
 けれど、思わぬ事が起こり始め、事態は急変する。
 菫子に縁づこうとする男性達がことごとく不幸に見舞われるようになってしまったのだ。
 一人は馬から落ちて身体を損ない、床から起き上がれぬ身となった。一人は、手をかけていた商いに失敗し全財産を失い、失意のままに自ら命を絶ったという。それは、一人、また一人と続く。中には、そんなもの畏れぬと蛮勇を奮った者もいたけれど、末路が変わる事はなかった。
 一人だけなら不幸な偶然、けれどそれが続けば必然となる。
 そして何時からか、ひっきりなしに舞い込んでいた縁談は、ぱたりと止んだ。

(……。それだけじゃない)

 菫子は眉を寄せながら、一つ吐息をこぼす。
 幼き頃からどのような災いに遭遇しても、奇妙な事に菫子だけは無傷なのである。
 人を傷つけるほどの旋風が吹き荒れる中、周りの皆が怪我するような事態にあっても菫子は傷一つ負わない。水辺で過ごしていた者達が、突如として襲った大波に飲まれても、一人だけ無事に立っている。遊んでいた最中に倒木があり、友人達は下敷きとなり大怪我を負った事があったのだが、菫子だけは何故か無傷で安全な場所へ飛ばされていた。
 これもまた、一つだけなら偶然であっても、続けば必然である。増していく畏怖の眼差しと共に、菫子は少しずつ一人になっていったのだ。
 そして二年前の珂祥邸での大きな火事が決定打となる。それは母屋の半分を焼き、死者すら出したほどのものだった。
 しかし、巻き込まれた菫子は瓦礫がれきの下から助けだされた時、かすり傷一つ負っていなかったのである。沙夜は興奮しながら、仏様のご加護であろうと語ったものだが、好意的に捉えてくれたのは彼女一人だけ。
 家族は腫物はれものに触るかのように扱い、使用人達は菫子を恐れた。そして、その事件以後、離れに隔離されて暮らすようになったのである。
 その後、何時しか呼ばれるようになったのだ、『不幸の菫子さま』と。不幸に愛された、災いを呼ぶ令嬢だと。
 積もり重なり、やがて菫子は諦める事に慣れていったのだった。
 うちに思った事を打ち消すかのように、菫子は首を左右に振る。そして、尚もたのしげに噂話に興じる令嬢達を一瞥し、殊更に深く息をついてみせた。
『不幸の菫子さま』が吐いた溜息は、令嬢達の耳に確かに届いたようである。令嬢達は動揺し、ばつの悪そうな表情をして三々五々散っていく。

(聞かれて逃げるくらいなら、言わなければいいのに)

 菫子は無言のまま、再び溜息をつく。
 遠巻きにされる事で、菫子は一つだけ有難いと思うものがある。それは、誰かを犠牲にして成り立つ、あの煩わしい会話に交ざらなくても許される事だ。自分を高潔な人間とは思っていないけれど、あの中に交ざって平気な人間でありたいとは思わない。
 令嬢達にとって、ここは学び舎であると同時に、良き殿方に見初められるまでの場である以上、ある程度は致し方ない事なのかもしれないが、それでも限度がある。
 無論、向学心を胸に学ぶ者も中にはいるけれど、ご縁を得て去るのを望む者が多いのも現実だ。彼女達にとって、他人の恋路やご縁に関する噂は気になってしかたない話題であるらしい。
 学び舎に集う多くの令嬢が夢みる未来は、菫子にとって遠く感じるものであった。自分が良縁を望むなど烏滸おこがましいと思っている。
 ――自身を取り巻く噂を思えば、貰い手など見つかるはずが無いのだから。

(それなのに)

 菫子にご縁を申し込んでくださる方がいたのだ。それも、畏れ多いほど高貴で人柄も優れた貴公子である。その話が初めて令嬢達に知れた際に起きた、怨嗟えんさとも思える声は未だ記憶に新しい。

(わたしには、身に余る光栄だわ……)

 その申し出は既に親族会議で定まり、今は帝のお許しを待つ最中である。親族会議では驚愕の声こそあったものの、反対の声は上がらなかったらしい。つまり申し込まれた縁談は、ほぼ定まりかけている。
 それなのに、と菫子は思う。

(どこか他人事のよう……)

 ご縁を望んで下さった方は、不満を感じる余地などない方である。彼の人が自分を見て浮かべる微笑や優しい言葉を思うと、心が温かくなるし、好ましいと思っている。
 けれど、ある事実が心に冷たい水を差す。幸せな未来を拒絶させる。

『まあ、あの貴公子が、今までのようなご不幸に襲われなければいいですけれど』

 今までのような。その言葉は菫子のうちで静かに響き胸に痛みと苦い感情を走らせる。

(望んではいけない)

 自らを戒めるように、菫子は心の中で呟く。

(あの方に憧れるならば、大切に想うならば、ご縁など望んではならない)

 見えぬ不幸が次に鎌首もたげる相手が彼の人だったらと、想像するだけで身体が震える。考えたくない、だから手を伸ばしてはいけない。

(わたしが不幸である事はもう良い。そんなものは、もう)

 諦めはとうの昔についている。今更抗うつもりはない。願う事は唯一つ……

(もう嫌なの。わたしの所為せいで不幸になる人を見るのは……)

 硝子窓から差し込む木漏れ日は暖かいけれど、菫子の心は凍えている。
 光をぼんやり見つめつつ、菫子は胸元にそっと手を当てた。着物の合わせの下には、あるものが入った守り袋がある。

(……あやかしよ、早く来て)

 魂に深く刻まれた何かが、人ならざるものの到来を予感する。他の人は顔をしかめる話でも、自身には僥倖ぎょうこうである。
 これ以上誰かを不幸にする前にと、心のうちに響く願いは酷く苦いものだった。


 何時もと変わらぬ授業が終わると、何時もと同じ放課後が訪れる。
 菫子は家路につくべく校門へ足を向けながら、ふと今日は寄り道してみようかと思いつく。キャンディストアで以前沙夜が喜んだ飴菓子を買うのもよし、或いは雑貨屋で揃いのリボンを新調して渡すのもよし。次々浮かぶ楽しい思いつきに、菫子の白磁の頬は自然と緩む。
 けれども、校門前に着いた菫子は驚いた。迎えの車の横に、想定していなかった人影があったからである。

「菫子様!」
「沙夜……?」

 屋敷で菫子の帰りを待っているはずの沙夜の姿がそこにある。喜ぶ顔を想像して楽しみにしていたから幻を見ているのかしら、などと思って闇色の瞳を瞬いたが、どう見ても本物の沙夜である。

(ちょうどいいから沙夜も連れていこうかしら。……いえ、それどころじゃないわね、きっと)

 沙夜の登場を渡りに船と思うけれど、すぐに思い直す。
 屋敷で帰りを待っているはずの沙夜が、屋敷を離れて迎えに来たという事は、何かがあったのだろう。沙夜の慌てた様子からもそれが察せられる。昨今の菫子を取り巻く事情を鑑みれば、もしかしてと思う事はあるのだが……

「菫子様、で、殿下が、殿下がお越しになるとの事で……! 旦那様が菫子様を急ぎ帰宅させるようにと……!」

 少しばかり息を切らして沙夜は応える。

(ああ、やっぱり)

 周囲の令嬢達が「殿下」の言葉にざわめいた事には気づいたけれど、知らぬ振りをしながら、予想が当たった事に内心ひとつ息をつく。
 寄り道をしている場合ではなくなった。間違っても、相手を待たせるような真似は出来ないのだから、今は父の言いつけ通りに急いで帰宅しないといけない。
 それに、ただ出迎えれば良いわけではなく、身形みなりを整える必要がある。菫子は速やかに沙夜と共に車に乗り込み出発する。
 慌ただしく帰途につきながら、今日は特別な用事でもあるのだろうかと、思案する。予定にはなかった急な訪問であるが、彼の人は思いつきで行動するような方ではない。
 菫子は車窓に目を遣りながら、訪問の理由に思いを巡らせる。そうして。

(まさか……)

 一つの可能性を思いつく。それは周囲にとっては吉報、けれど菫子にとっては間違いなく凶報。菫子はそうでなければいいと願いながら、無意識のうちに袴を握りしめていた。


 暫くして屋敷に帰った菫子は、沙夜の見事な手腕により客人を迎えるのに相応しい装いとなっていた。この短い時間で着付けに髪結いにと、一分の隙もなく整えた沙夜の孤軍奮闘ぶりを素直に称賛する。
 菫子をよりうつくしく見せるのは、藍色の地に籠の中に百花繚乱、艶やかな花車文の振袖である。これは、これから訪れる彼の人が菫子に似合うだろうと、先だって見染めて贈ってくれたもの。
 本来であれば嫁入り前の娘の第一礼装である振袖など、まとう事が出来る刻が短い事を考えれば贈らない。ましてや、己に嫁ぐ事がほぼ定まった相手になど言うまでもない。

(でも、あの方は……似合うから贈りたいと笑顔で、言ってくださった)

 贈られた瞬間の事を思い出すと、頬が熱を帯びたように感じる。まったく彼の人には敵わない。
 気分を逸らすために鏡に自分を映す。細工の施された舶来物の鏡には、髪も装束も見事に仕上げられた自分の姿がある。その仕上がりに、離れで力を使い果たしてへたりこみ、それでも笑顔で送り出してくれた沙夜を思う。後で沢山労ってあげようと決めて鏡から視線を外す。
 現在の菫子は、普段滅多な事では足を踏み入れぬ母屋の玄関ホールにいる。天井から吊り下げられた舶来の灯りがきらめく場所には、菫子以外に二人の人影がある。
 一人は、そわそわと落ち着きなく玄関の扉の外を窺う菫子の父・珂祥伯爵。そして、それを憂い顔でたしなめる菫子の母・珂祥伯爵夫人。
 父は菫子が同じ空間にいるのに気に留めた様子はなく、よほど浮足立っていると察せられた。普段であれば、顔を顰めて離れに戻れと促すのが常であり、菫子も、沙夜と過ごしていたいので逆らう事なく従う。
 しかし、これから訪れる客人の目当てが菫子である以上、本心はどうあれ追い払う事など出来ないだろう。
 その時、ふと、菫子は動きを止める。何かが近づいてくる音が、確かに聞こえたからだ。車の走る音が徐々に近づいてきて、玄関扉の外で停まる。それを聞きつけたのは父達も同様であったらしい。父は弾かれたように外へ飛び出し、それに母もならう。

(ああ、いらした) 

 鼓動が跳ねたのを押し隠し、菫子も息を整えて、努めて落ち着いた表情をして彼らに続く。


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