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<恋蕾一・番外編>
名もなき館の二人の或る日
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人里離れたところに存在する、西洋の趣の館。
瀟洒な佇まいの館は、平素は静寂の平穏の内にある。
筈なのだが……。
「あの時は貸してくれたのに!」
「あれは特別だ」
非難を込めた高く澄んだ少女の声が響いたと思えば、其れに応えたのは感情の機微を左程感じさせぬ男の声。
館の居間には、二つの人影がある。
日本人形を思わせる美貌、黒曜石のような黒髪がふわりふわりと少女の挙動に合わせて跳ねる。
新月の夜のような闇色の瞳には怒りとも苛立ちとも言える光を宿していても、与える印象は何処か可愛らしいもの。
対する男の、氷で出来た桜が散り敷くような妖しい美しさを持つ顔の眉間には幾分か縦皺が見られる。
光に透かせば銀にも輝く灰色の緩やかに長い髪は、少女の挙動の起こす風に揺れ。
同じ色の瞳は、怜悧な光の中に一筋の温かな光をもって少女に向けられている。
二人は、此の館の主達。
少女の名は菫子、男の名は氷桜。
一振りの刀をそれぞれの本体となす、一組の付喪神達である。
訪う人間のない名もなき館には、人ならざる者達の住まいである。
居間の外から中を伺う、四つの人影もまた人ならざるあやかし達。
其々に、面白そうに或いは心配そうに中の二人へと眼差し向けている。
先程から菫子は、氷桜が高く掲げる刀――二人の本体へ触れようと必死に床を蹴って跳ねているのである。
事の起こりは、菫子が氷桜に刀を以て戦う術を学びたいと云った事だった。
氷桜は、自分が守るから必要ないの一点張り。
菫子は、なら本体を貸してと必死の訴え。
双方の言い分は真向から拮抗して今の様子に至っている。
「私の本体でもあるのに!」
「危ないから駄目だ」
氷桜の手には、美しい飾り鞘に収まった一振りの刀。
うつくしく不思議な光彩放つ石を嵌め込んだ精緻な細工の鞘に、其れを超えるかと思う程美しい細工の柄には一欠けらの結晶。
見る人の目を惹きつけて已まぬ刀である。
菫子の手は、必死にその刀に伸ばされている。
鑑賞する為ではなく、其れを以て戦う術を身に着けたいと思う為。
その様子を見れば、溜息と共に氷桜は刀を菫子の手の届かない高みへと持ち上げる。
氷桜に比べて、菫子は大分小柄である。いや、氷桜の上背がありすぎるのもあるが。
兎のように飛び跳ねても、その指先は金属の輝きにかすってすらくれない。
宙に浮けたなら届くやもしれないが、菫子は未だ飛んだり浮いたりを上手く出来ない。
人として生きた年月の方が長いのだ、その感覚が抜けきるには時が足りていない。
つまりは、物理的に届かない高さに上げられてしまえば、触れる事叶わない。
暫し、飛び跳ねては荒い息をして、そしてまた飛んでを繰り返していた菫子だが終に限界がきたらしい。
肩で息をしながら動きを止め、言葉なく俯いてしまった。
漸く諦めたかと氷桜が覗き込んだ、その瞬間だった。
菫子が白磁の頬を紅に染めて、薄く涙が滲んだ瞳に怒りを込めて、其の言葉を言い放ったのは。
「氷桜なんて、嫌い!」
言い終えた菫子は、くるりと身を翻せばその場から走り去る。
女中姿の女たちが、ぱたぱたと足音をさせてそれを追っていく。
残された氷桜は無言のまま、身じろぎひとつせずその場に佇んで居る。
溜息すらもなく、相変わらず感情を伺わせぬ様子でただ菫子が去った方向を見つめている。
それを見た男たちは、苦笑いしながら視線を交わしたのである。
菫子の心が幾ばくかの平穏を取り戻したのは、昼を少し過ぎたあたりだった。
八つ当たりのような真似は好かないが、怒りや行き場のない想いを落ち着けるのには難儀した。
身の回りの世話をしてくれる娘の外見のあやかしは必死で慰めてくれたし、お勝手を預かる女は手製の甘味を持ち出して宥めてくれた。
それでも氷桜と顔を合わせる気にはなれず、昼餉は部屋で食べた。
そうして、少なくともその面に浮かぶ色が穏やかになった菫子は中庭を望む硝子張りの部屋の前を通りかかった。
その時である。
「ひいさま、ちょっと良いですかい?」
館で下男を務めるあやかしの一人が、菫子を手招きしていた。その後ろにはもう一人の下男と二人の女中達。
あやかしとしては変わり者の部類に入るのではなかろうか、人のように同胞に対価で雇われて過ごすなど。
実際、声をかけた男などは以前誘いの話を受けたのは氷桜達への好奇心だと語っていた。
付喪神であるらしいのは確か。齢は相当なものらしいが、新しいものを好む飄々とした男である。
この男は、菫子を「ひいさま」と呼ぶのだ。
名前で呼んでくれと言っても、血筋は確かに姫君だからとその主張を変えてはくれない。
如何したのかと歩み寄れば、手で中庭のほうを示される。
何であろうかと其方を見る菫子。
あれ、と身振りで示されたのは……。
氷桜だ。
変わらぬ鉄面皮で、昼下がりの中庭の緑の芝生に胡坐をかいて座り込んでいる。何をするでもなく、ただ。
その表情は常と変わらぬように見える。
だが。
雲もなく晴れ渡り、青く澄んだ空の元。風がそよぎ小鳥の囀りも聞こえてくる良い陽気であるというのに。
其処だけ暗雲めいた何とも言えぬ暗い靄が漂っているように感じるのは何故なのか。
暗く重い澱みに、空間が犇めいてすらいるようだ。
暗い、唯只管にその空間は暗い。
氷桜の広い背を、巨大な影が覆っているかのように見える。
もともと感情薄く感じさせる面持ちの男だが、一切の感情の色が抜け落ちてしまったように感じる。
菫子は唖然として、言葉を失ってしまう。
一体、氷桜は如何したというのか。
怪訝そうな色を宿して氷桜を見る菫子に、男は苦笑いをしながら告げる。
「原因はひいさまの『あれ』だと思いますぜ?」
(……わたしせい?)
男の言葉の意味が解らず、はて、と首を傾げる。
菫子は必死に心当たりを探して思案すること、暫し。
先程とは違った意味で愕然として、頬を紅潮させ口元を覆う。
『氷桜なんて、嫌い!』
(……あのせい!?)
まさか、と思いながら縋るように男を見たのだが。
男も、他の三人も苦笑いしながら肯定の頷きを返してくるではないか。
如何やら、氷桜の『あの様子』は菫子の発した言葉が原因らしい。
氷桜は菫子から『嫌い』と言われて、あのように黒雲纏ったような暗い空気を漂わせるに至ったらしい。
表情こそ何時も通りであるけれど。感情帯びぬように思わせる面持ちこそ、何時も通りであるけれど。
――氷桜は、真剣に落ち込んでいるらしい。
(……わたしのせい……)
確かに、菫子の所為であることには間違いなかった。
しかし、である。
四人から感じる『あれを如何にかしてください』という意図に、菫子は唇引き結んで憮然とした面持ちになってしまう。
確かに、子供の喧嘩のように騒いだかもしれないし、言い捨てて走り去ったのもあまり褒められた行いではなかったかもしれない。
でも。
(……氷桜が、私の言う事を駄目だって言ってばかりだから)
氷桜が悪意を以て否を言い続けたのではない事は分かっている。
むしろその逆だ。
菫子を想う気持ちがあるからこそ――。
(ああっ! ……もう!)
些か乱暴で、優雅さには欠ける足取りで菫子は芝生に座り込む男の元へと歩み寄っていく。
氷桜は気づいてはいるのだろうが、身動き一つしない。影を背負って固まったままだ。
歩み寄った菫子は、無言のまま氷桜に背を向けて座り込む。
そして、背を預けもたれかかる。
背に感じる感触は、雪解けの温かさ。
「先程の言葉は、取り消します」
謝りはしない。
悪かったとは思いたくないし、認めたくない。
けれど、この男がこんな様子でいるのも、見たくない。
何時もの、鉄面皮の中に宿る優しさを仄かに感じさせる男に戻って欲しい。
膝を抱える手に、ぎゅうと力が籠る。
「……。……嫌いじゃ、ないです」
胸に灯る温かさを、熱を、もう少しうまく伝えられる言葉が有る筈なのに。
白磁に朱を散らす少女が唇結んだ逡巡の果てに紡いだのは、其の言葉。
学んだ教養も何もかも、今の胸の裡を伝える言の葉紡ぐのに助けとなってはくれない。
頬が熱い、触れあう背中もまた。
背中越しに感じる、相手の鼓動。
感じる其れは、心に安堵と同時に新しい騒めきを齎す。
緩やかに流れる言葉なき時間。
それを破ったのは、氷桜だった。
「……俺はもう、お前に刃を握らせたくはない」
だから己が守る、と。
菫子が武器を手にして戦わぬとも良いように。
――あの時のように、刃を手に哀しい想いをせぬとも良いように。
あの運命の夜から、幾ばくかの時が過ぎた。
菫子の心は少しずつ落ち着きを取り戻しつつあっても、それでも哀しみは未だ癒えずに紅を流し続けている。
夢に見て、夜半に起きる事がある。
忘れられるものか、忘れられるわけがない。
あの日失われた多くの命を。
消えぬ傷となる事を願いながら逝った兄を。
笑いながら消えた、妹であった美しい女を。
光の塵となって消えて逝った優しいねえやを。
起きた時、菫子は泣きながら宙に手を伸ばしている。
翔り去った愛しい者達に、いかないでというかのように。
独りであったなら、菫子はもうとうにこの世には居なかっただろう。
こうして、在る事が出来るのは。
背中越しに向き合うこの男が、居てくれたから……。
伸ばした手を、引いてくれるこの男が……。
だからこそ。
「私だって」
(守りたいと、思うのに)
失いたくないのだと、あなたを。
もどかしさに、胸が詰まる。
素直に思った事を口に出すだけの事が、こんなにも難しいなんて。
言ったきり黙り込んでしまった菫子の様子を伺っている雰囲気を感じた。
その表情は菫子からは見えない。
けれど、何となくではあるが。
……少しだけ優しい表情を浮かべているような気がした。
不意に、氷桜が口を開いた。
「……刃によらぬ戦いなら、学べるように整えよう」
それは男にとって最大限の譲歩なのだろう。
少女にとっては、それで十分。
「……ありがとう」
自然に唇から零れ落ちた言の葉は、優しい響きを帯びていた。
それきり、言葉は途切れる。
昼下がりの庭、二人の間に緩やかに満ちる沈黙は、先程より穏やかで温かだった。
瀟洒な佇まいの館は、平素は静寂の平穏の内にある。
筈なのだが……。
「あの時は貸してくれたのに!」
「あれは特別だ」
非難を込めた高く澄んだ少女の声が響いたと思えば、其れに応えたのは感情の機微を左程感じさせぬ男の声。
館の居間には、二つの人影がある。
日本人形を思わせる美貌、黒曜石のような黒髪がふわりふわりと少女の挙動に合わせて跳ねる。
新月の夜のような闇色の瞳には怒りとも苛立ちとも言える光を宿していても、与える印象は何処か可愛らしいもの。
対する男の、氷で出来た桜が散り敷くような妖しい美しさを持つ顔の眉間には幾分か縦皺が見られる。
光に透かせば銀にも輝く灰色の緩やかに長い髪は、少女の挙動の起こす風に揺れ。
同じ色の瞳は、怜悧な光の中に一筋の温かな光をもって少女に向けられている。
二人は、此の館の主達。
少女の名は菫子、男の名は氷桜。
一振りの刀をそれぞれの本体となす、一組の付喪神達である。
訪う人間のない名もなき館には、人ならざる者達の住まいである。
居間の外から中を伺う、四つの人影もまた人ならざるあやかし達。
其々に、面白そうに或いは心配そうに中の二人へと眼差し向けている。
先程から菫子は、氷桜が高く掲げる刀――二人の本体へ触れようと必死に床を蹴って跳ねているのである。
事の起こりは、菫子が氷桜に刀を以て戦う術を学びたいと云った事だった。
氷桜は、自分が守るから必要ないの一点張り。
菫子は、なら本体を貸してと必死の訴え。
双方の言い分は真向から拮抗して今の様子に至っている。
「私の本体でもあるのに!」
「危ないから駄目だ」
氷桜の手には、美しい飾り鞘に収まった一振りの刀。
うつくしく不思議な光彩放つ石を嵌め込んだ精緻な細工の鞘に、其れを超えるかと思う程美しい細工の柄には一欠けらの結晶。
見る人の目を惹きつけて已まぬ刀である。
菫子の手は、必死にその刀に伸ばされている。
鑑賞する為ではなく、其れを以て戦う術を身に着けたいと思う為。
その様子を見れば、溜息と共に氷桜は刀を菫子の手の届かない高みへと持ち上げる。
氷桜に比べて、菫子は大分小柄である。いや、氷桜の上背がありすぎるのもあるが。
兎のように飛び跳ねても、その指先は金属の輝きにかすってすらくれない。
宙に浮けたなら届くやもしれないが、菫子は未だ飛んだり浮いたりを上手く出来ない。
人として生きた年月の方が長いのだ、その感覚が抜けきるには時が足りていない。
つまりは、物理的に届かない高さに上げられてしまえば、触れる事叶わない。
暫し、飛び跳ねては荒い息をして、そしてまた飛んでを繰り返していた菫子だが終に限界がきたらしい。
肩で息をしながら動きを止め、言葉なく俯いてしまった。
漸く諦めたかと氷桜が覗き込んだ、その瞬間だった。
菫子が白磁の頬を紅に染めて、薄く涙が滲んだ瞳に怒りを込めて、其の言葉を言い放ったのは。
「氷桜なんて、嫌い!」
言い終えた菫子は、くるりと身を翻せばその場から走り去る。
女中姿の女たちが、ぱたぱたと足音をさせてそれを追っていく。
残された氷桜は無言のまま、身じろぎひとつせずその場に佇んで居る。
溜息すらもなく、相変わらず感情を伺わせぬ様子でただ菫子が去った方向を見つめている。
それを見た男たちは、苦笑いしながら視線を交わしたのである。
菫子の心が幾ばくかの平穏を取り戻したのは、昼を少し過ぎたあたりだった。
八つ当たりのような真似は好かないが、怒りや行き場のない想いを落ち着けるのには難儀した。
身の回りの世話をしてくれる娘の外見のあやかしは必死で慰めてくれたし、お勝手を預かる女は手製の甘味を持ち出して宥めてくれた。
それでも氷桜と顔を合わせる気にはなれず、昼餉は部屋で食べた。
そうして、少なくともその面に浮かぶ色が穏やかになった菫子は中庭を望む硝子張りの部屋の前を通りかかった。
その時である。
「ひいさま、ちょっと良いですかい?」
館で下男を務めるあやかしの一人が、菫子を手招きしていた。その後ろにはもう一人の下男と二人の女中達。
あやかしとしては変わり者の部類に入るのではなかろうか、人のように同胞に対価で雇われて過ごすなど。
実際、声をかけた男などは以前誘いの話を受けたのは氷桜達への好奇心だと語っていた。
付喪神であるらしいのは確か。齢は相当なものらしいが、新しいものを好む飄々とした男である。
この男は、菫子を「ひいさま」と呼ぶのだ。
名前で呼んでくれと言っても、血筋は確かに姫君だからとその主張を変えてはくれない。
如何したのかと歩み寄れば、手で中庭のほうを示される。
何であろうかと其方を見る菫子。
あれ、と身振りで示されたのは……。
氷桜だ。
変わらぬ鉄面皮で、昼下がりの中庭の緑の芝生に胡坐をかいて座り込んでいる。何をするでもなく、ただ。
その表情は常と変わらぬように見える。
だが。
雲もなく晴れ渡り、青く澄んだ空の元。風がそよぎ小鳥の囀りも聞こえてくる良い陽気であるというのに。
其処だけ暗雲めいた何とも言えぬ暗い靄が漂っているように感じるのは何故なのか。
暗く重い澱みに、空間が犇めいてすらいるようだ。
暗い、唯只管にその空間は暗い。
氷桜の広い背を、巨大な影が覆っているかのように見える。
もともと感情薄く感じさせる面持ちの男だが、一切の感情の色が抜け落ちてしまったように感じる。
菫子は唖然として、言葉を失ってしまう。
一体、氷桜は如何したというのか。
怪訝そうな色を宿して氷桜を見る菫子に、男は苦笑いをしながら告げる。
「原因はひいさまの『あれ』だと思いますぜ?」
(……わたしせい?)
男の言葉の意味が解らず、はて、と首を傾げる。
菫子は必死に心当たりを探して思案すること、暫し。
先程とは違った意味で愕然として、頬を紅潮させ口元を覆う。
『氷桜なんて、嫌い!』
(……あのせい!?)
まさか、と思いながら縋るように男を見たのだが。
男も、他の三人も苦笑いしながら肯定の頷きを返してくるではないか。
如何やら、氷桜の『あの様子』は菫子の発した言葉が原因らしい。
氷桜は菫子から『嫌い』と言われて、あのように黒雲纏ったような暗い空気を漂わせるに至ったらしい。
表情こそ何時も通りであるけれど。感情帯びぬように思わせる面持ちこそ、何時も通りであるけれど。
――氷桜は、真剣に落ち込んでいるらしい。
(……わたしのせい……)
確かに、菫子の所為であることには間違いなかった。
しかし、である。
四人から感じる『あれを如何にかしてください』という意図に、菫子は唇引き結んで憮然とした面持ちになってしまう。
確かに、子供の喧嘩のように騒いだかもしれないし、言い捨てて走り去ったのもあまり褒められた行いではなかったかもしれない。
でも。
(……氷桜が、私の言う事を駄目だって言ってばかりだから)
氷桜が悪意を以て否を言い続けたのではない事は分かっている。
むしろその逆だ。
菫子を想う気持ちがあるからこそ――。
(ああっ! ……もう!)
些か乱暴で、優雅さには欠ける足取りで菫子は芝生に座り込む男の元へと歩み寄っていく。
氷桜は気づいてはいるのだろうが、身動き一つしない。影を背負って固まったままだ。
歩み寄った菫子は、無言のまま氷桜に背を向けて座り込む。
そして、背を預けもたれかかる。
背に感じる感触は、雪解けの温かさ。
「先程の言葉は、取り消します」
謝りはしない。
悪かったとは思いたくないし、認めたくない。
けれど、この男がこんな様子でいるのも、見たくない。
何時もの、鉄面皮の中に宿る優しさを仄かに感じさせる男に戻って欲しい。
膝を抱える手に、ぎゅうと力が籠る。
「……。……嫌いじゃ、ないです」
胸に灯る温かさを、熱を、もう少しうまく伝えられる言葉が有る筈なのに。
白磁に朱を散らす少女が唇結んだ逡巡の果てに紡いだのは、其の言葉。
学んだ教養も何もかも、今の胸の裡を伝える言の葉紡ぐのに助けとなってはくれない。
頬が熱い、触れあう背中もまた。
背中越しに感じる、相手の鼓動。
感じる其れは、心に安堵と同時に新しい騒めきを齎す。
緩やかに流れる言葉なき時間。
それを破ったのは、氷桜だった。
「……俺はもう、お前に刃を握らせたくはない」
だから己が守る、と。
菫子が武器を手にして戦わぬとも良いように。
――あの時のように、刃を手に哀しい想いをせぬとも良いように。
あの運命の夜から、幾ばくかの時が過ぎた。
菫子の心は少しずつ落ち着きを取り戻しつつあっても、それでも哀しみは未だ癒えずに紅を流し続けている。
夢に見て、夜半に起きる事がある。
忘れられるものか、忘れられるわけがない。
あの日失われた多くの命を。
消えぬ傷となる事を願いながら逝った兄を。
笑いながら消えた、妹であった美しい女を。
光の塵となって消えて逝った優しいねえやを。
起きた時、菫子は泣きながら宙に手を伸ばしている。
翔り去った愛しい者達に、いかないでというかのように。
独りであったなら、菫子はもうとうにこの世には居なかっただろう。
こうして、在る事が出来るのは。
背中越しに向き合うこの男が、居てくれたから……。
伸ばした手を、引いてくれるこの男が……。
だからこそ。
「私だって」
(守りたいと、思うのに)
失いたくないのだと、あなたを。
もどかしさに、胸が詰まる。
素直に思った事を口に出すだけの事が、こんなにも難しいなんて。
言ったきり黙り込んでしまった菫子の様子を伺っている雰囲気を感じた。
その表情は菫子からは見えない。
けれど、何となくではあるが。
……少しだけ優しい表情を浮かべているような気がした。
不意に、氷桜が口を開いた。
「……刃によらぬ戦いなら、学べるように整えよう」
それは男にとって最大限の譲歩なのだろう。
少女にとっては、それで十分。
「……ありがとう」
自然に唇から零れ落ちた言の葉は、優しい響きを帯びていた。
それきり、言葉は途切れる。
昼下がりの庭、二人の間に緩やかに満ちる沈黙は、先程より穏やかで温かだった。
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