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《銀》 待宵の館
待宵・一
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――鬼が、その風変りな娘と出会ったのはしろがねにも見える月が輝く夜の事だった。
月夜に散歩と洒落こんでいたところ、鄙の土地の森深く、場所に似合わぬ屋敷を見つけた。
何故かしら興味を引かれるものがあり忍び入れば、全く人の気配を感じない。
空き家かと面白くなさげに息をついて歩き出そうとしたならば、唐突に足に何かが纏わりついた。
鬼が、自分に何も気取られずにそれを為したのが何者かと思って、銀の眼差しそちらに向けてみたならば。
毛玉。
それが素直な第一印象であった。
よくよく見れば、それは小さな人の姿をしている事が知れる。
ぼろぼろの毛布に身を包んだ、垢と埃に塊ではあったが、確かにそれは人の子だった。着ているものから察するに、一応は女児であるらしい。
伸び放題の縺れた髪の毛の隙間から覗く瞳だけが綺羅星のように輝いている。
子供は、好奇心に満ちた声音で無邪気に問いかける。
「あなた、鬼なの?」
「あのな……」
「鬼なの? わたしを喰らいにきてくれたの?」
「おい……」
青年が鬼である事は見てわかるだろう。
短く整えた髪は流麗な美しさを湛える銀色で、瞳もまた磨き抜かれた銀を思わせる色。
その額には、人にはありえざる二本の角が存在している。
それに、人とは思われぬほどに美しい造作をしている――気難しげな顰め面が些か傷であるが。
鬼を恐れるどころか、足元に縋りついてはしゃぎながら、子供は尚も続ける。
「うれしい! わたしずっと待っていたの!」
「だから、まず俺の話を聞け!」
鬼が青筋をたてて叫ぶと、子供はきょとんとした表情を浮かべつつ黙る。
一体何なのだ、と鬼は裡にて呻く。
奇妙な館を見つけたと思えば、不可思議な子供が突然懐いてまとわりついてきた。
疑問に告ぐ疑問に何としたものかと溜息をつきながら、鬼はまずは、と問いかける。
「お前は何故こんなところに居るのだ」
「わからない」
わからないとは如何いう事だと、鬼の疑問は解消されるどころか更に増した。
何時から居るのかも、何故居るのかも、問うても子供はわからないと答えた。
こんな人里離れた館に一人で在る事から人ならざる可能性も考慮したが、少女の気配などは紛れもなく人のものである。
改めて相手を見据えつつ、随分と薄汚れた小娘だ、と鬼は溜息をついた。
どれほど湯浴みをしていないのかわからぬが垢だらけだし、着物もそこかしこに汚れが目立つ上に裾など破れている。
骨が浮いて見える程に痩せているし、着ているものがそもそも体格に比べて小さくて与える印象がちぐはぐだ。
館は瀟洒な造りをしているというのに、この奥つ城とも呼べる部屋に居る子供はあまりにみすぼらしい。
部屋も、造りとしては洒落たものであるのに積もり積もった塵や転がる屑がそれを損ねている。鼠は走るし、天井の角には蜘蛛の巣という有様だ。
鬼が盛大な溜息と共に、返す言葉を紡ごうとした時だった。
小さな身体から、如何すればそれだけの音が響くのかという程の、空腹告げる腹の音が響いたのは。
一人の鬼と一人の子供の間に、何とも形容しがたい沈黙が満ちる。
「……最後に食事をとったのは何時だ」
「ええと、確か三日前かな……」
「……それと、風呂に入ったのは」
「……おぼえてない」
色々な意味で頭痛がして、鬼は頭を抱えた。
まずは風呂かと、鬼は少女型の式を三体程呼び出す。
箪笥には替えの着物はあったものの、何れも丈が全くあっていない。
用意した人間の体たらくを呪っても仕方ないと、一番ましなものを着せてやれと式に放る。
館には台所もあったので、急いで食事を用意して食べさせる事にした。
埃は被っていたものの、置いてある器具やら食器やら自体は立派なものだった。
清々しい程に真新しい感じが残っており、全く使用されていないというのが分かりすぎる程である。
手早く浄めた後にこれまた式に持ってこさせた食材を、怒涛の勢いで鬼は調理していく。
すぐ食べられるものを用意させればいいのでは、という考えがすっぽりと抜けている様子である。
なまじ家事一切……とりわけ炊事に長けているという、鬼としても男としても稀有な性質のせいであるかもしれない。
娘は温かい食事に珍しいものを見るような輝く眼差しを向けたと思うと、髪の水気をふき取ってやっている式を転げ落して走ってくる。
鬼が抱えて止めなければそのまま卓に突撃していただろう。
小脇に抱える形となった娘を見た鬼は、思わず唖然としたのである。
身体を洗い髪を梳き、服を整えてやったならば驚く程の変化があった。
光にあたると白雪にも見えるほどに淡い髪の色に、日だまりの菫の色をした瞳。
肌は何処か不健康な程に白く、与える印象は何処か脆く儚げに美しい。
この国の人間とはかけ離れた容姿をしている、と鬼は思った。
恐らくそれがこの娘がこのような奇妙な館に一人で在る理由であるかもしれない。
「こら! 急いで食うな! もう少しゆっくり落ち着いて食え!」
暴れるな落ち着けと諭して食卓につかせてはみたものの、鬼の叫びが部屋に響く。
汁物を勢いよく飲み込んで熱いと驚いて咽たかと思えば、箸の使い方を知らずにこれは何と首を傾げる。
本当にどういう環境でどの様に育てられたのか、疑問は増すばかりではあった。
だが、と鬼は思う。
何故人里離れた奇妙な館で、こうまで必死に人の子供の面倒を見てやっているのだろうか。
足蹴にしてでも放り出して帰れば良かったというのに、そうせずに。
お前は本当に世話焼きの性質だね、と金の鬼が笑いをかみ殺している様が目に浮かぶようである。
賑やかに食事を終えたあと、言葉なく考え事をする鬼の隣に娘は座り、同じ様に沈黙していた。
腹が膨れて満ちたりたのか、鬼にもたれたまま、ゆるゆると子供は船を漕ぎ始める。
目を擦りながら必死で起きていようとする娘が、問いかける。
「ねえ、そろそろわたしを喰らうの?」
「お前のような貧相な子供を喰う程、糧に困ってはおらん」
返事は返ってこない。見遣れば、心を許しきった様子のあどけない寝顔で寝息を立てている。
小さな手に、鬼の衣の袖を握りしめて。
「……喰われたいならもう少し健やかに育て」
不用心にも程が、と溜息交じりに呟く銀の鬼。
館を探して見つけたまともな毛布などで精一杯寝心地よくしてやった後、静かに館を後にした。
◇◇◇◇◇
もう二度と訪れまい。
……とは思えども、鬼はどうにもあの奇妙な館と子供について気になって仕方ない。
物のついでと言い繕いながら、情報通なあやかしに探らせたところ、中々に胸具合の悪い事情が知れた。
何でも、あの娘はさる子爵家の主の子なのだという。
その子爵はかつて家督を告ぐ前の時分、海外に遊学した際に現地の女と恋に落ちて子を為した。
けれども出産の折に相手の女は産褥死、男は生まれたばかりの赤子を抱いて途方に暮れたという。
子を連れて帰国したものの、両親や親族は揃って驚愕し慌てたらしい。それは当然だ、彼には幼い頃からの由緒正しい血筋の婚約者があったのだから。
どうして捨ててこなかったと言っても後の祭り、男の父である前当主は密かに始末しようとしたそうだ。
けれどもその妻が、仮にも孫にあたる子供なのだからと嘆願した。
結局、前当主は渋々世話役を付けて赤子を僻地の館に閉じ込め、事が露見する前に息子を結婚させた。
以前……前の当主の妻が生きていた頃はそれなりにまともな世話役がついていたらしいが、今の世話役は禄でもない。
養育費として贈られる金子を着服しては、死なない程度におざなりな世話をするだけ。
本宅から何も干渉されないのをいいことに、時折様子を見に来るだけで、自分達は麓の街に暮らしているという。
見た目の奇異さから、鬼子と呼んでは忌み嫌い禄に寄り付きもしないらしい。
人とは何とも身勝手なものよ、と呆れながら鬼は呟く。呆れて、自分には関係のない事だ、と思いながら……。
「あ、きてくれた!」
「走るな! 転ぶだろう」
翌日の夜、鬼は再び館を訪れていた。
自分でも何故かはわからない、気まぐれだと自分自身に言い聞かせる。
鬼の気配をどう察したのか、探す前に子供は満面の笑みを浮かべながら子犬のように駆けてくる。
それを制するものの、勢い余って転げかけたのを受け止めてやることになり、鬼は盛大に嘆息する。
鬼の足にしがみ付きながら、子供は背の高い相手を見上げて呼びかける。
「ねえ、鬼」
「……『銀嶺』だ」
ぶっきらぼうなまでの声音で返される短い言葉。
何を言われたのかすぐには分からぬ様子で首を傾げる娘に、鬼――銀嶺は眉間に皺を寄せながら続きを紡ぐ。
「鬼と一括りな呼び方で呼ぶな。俺には銀嶺という名がある」
銀嶺、ぎんれい、何度も噛みしめるように鬼の名を繰り返す子供。自らに縋りつきながら己の名を呼ぶ娘に、銀嶺は問いかけた。
「それで、お前の名は」
「無いの」
「は……?」
問いかけにかえってきたのは、能天気なまでに明るい重い返答だった。
一瞬呆気にとられて間の抜けた声を上げてしまった銀嶺だが、すぐに我に返り続けて問う。
よもやまさか、そんな事がと眉間の皺は更に増える。
「名前がないだと!?」
「うん、無いみたい」
この娘をここに閉じ込めた者達は、名前すら与えなかったというのか。
人の理にそこまで通じているわけではないが、人にとってさして問題ない事であるのか。
鬼の理においては考えられない、どれ程忌もうと名は存在にとってどれ程大切なものであるか。
名すら与えずに捨て置く、それが平然とまかり通るというならば、人は鬼よりも余程情が薄い生き物なのだろう。
娘自身はさして気にした風もない、恐らくそれが当然と思っていきてきたのだろう。
名前を与えられることもなく、慈しまれる事もなく、守られる事もなく。
与えられる最低限だけで、何もわからぬままにか細い身体で命を繋いできたのだ。
重い空気を纏って思い悩み沈黙してしまった鬼を、子供は不思議そうに見上げる。
ぎんれい、名を呼びながら少しだけ心配そうに、不安そうに見つめて。
菫色の瞳が少しだけ潤んだ時、淡雪の髪に大きな優しい掌が乗せられた。
「……『六花』だ」
「え?」
きょとんとした表情の子供に、白雪を冠した嶺の名を持つ鬼は、厳かでそれでいて優しさ含む声音で告げる。
誰も分け入った事のない峰を飾る新雪を思わせる稚い子供に、輝く雪片の名を与えた。
「……お前の名は『六花』だ」
子供――六花は暫くの間、何度も何度も与えられた名前を繰り返していた。
驚きながら、喜びながら、戸惑いながら。
そして、名を与えてくれた鬼へと眩いばかりの輝く笑みを見せたのである――。
月夜に散歩と洒落こんでいたところ、鄙の土地の森深く、場所に似合わぬ屋敷を見つけた。
何故かしら興味を引かれるものがあり忍び入れば、全く人の気配を感じない。
空き家かと面白くなさげに息をついて歩き出そうとしたならば、唐突に足に何かが纏わりついた。
鬼が、自分に何も気取られずにそれを為したのが何者かと思って、銀の眼差しそちらに向けてみたならば。
毛玉。
それが素直な第一印象であった。
よくよく見れば、それは小さな人の姿をしている事が知れる。
ぼろぼろの毛布に身を包んだ、垢と埃に塊ではあったが、確かにそれは人の子だった。着ているものから察するに、一応は女児であるらしい。
伸び放題の縺れた髪の毛の隙間から覗く瞳だけが綺羅星のように輝いている。
子供は、好奇心に満ちた声音で無邪気に問いかける。
「あなた、鬼なの?」
「あのな……」
「鬼なの? わたしを喰らいにきてくれたの?」
「おい……」
青年が鬼である事は見てわかるだろう。
短く整えた髪は流麗な美しさを湛える銀色で、瞳もまた磨き抜かれた銀を思わせる色。
その額には、人にはありえざる二本の角が存在している。
それに、人とは思われぬほどに美しい造作をしている――気難しげな顰め面が些か傷であるが。
鬼を恐れるどころか、足元に縋りついてはしゃぎながら、子供は尚も続ける。
「うれしい! わたしずっと待っていたの!」
「だから、まず俺の話を聞け!」
鬼が青筋をたてて叫ぶと、子供はきょとんとした表情を浮かべつつ黙る。
一体何なのだ、と鬼は裡にて呻く。
奇妙な館を見つけたと思えば、不可思議な子供が突然懐いてまとわりついてきた。
疑問に告ぐ疑問に何としたものかと溜息をつきながら、鬼はまずは、と問いかける。
「お前は何故こんなところに居るのだ」
「わからない」
わからないとは如何いう事だと、鬼の疑問は解消されるどころか更に増した。
何時から居るのかも、何故居るのかも、問うても子供はわからないと答えた。
こんな人里離れた館に一人で在る事から人ならざる可能性も考慮したが、少女の気配などは紛れもなく人のものである。
改めて相手を見据えつつ、随分と薄汚れた小娘だ、と鬼は溜息をついた。
どれほど湯浴みをしていないのかわからぬが垢だらけだし、着物もそこかしこに汚れが目立つ上に裾など破れている。
骨が浮いて見える程に痩せているし、着ているものがそもそも体格に比べて小さくて与える印象がちぐはぐだ。
館は瀟洒な造りをしているというのに、この奥つ城とも呼べる部屋に居る子供はあまりにみすぼらしい。
部屋も、造りとしては洒落たものであるのに積もり積もった塵や転がる屑がそれを損ねている。鼠は走るし、天井の角には蜘蛛の巣という有様だ。
鬼が盛大な溜息と共に、返す言葉を紡ごうとした時だった。
小さな身体から、如何すればそれだけの音が響くのかという程の、空腹告げる腹の音が響いたのは。
一人の鬼と一人の子供の間に、何とも形容しがたい沈黙が満ちる。
「……最後に食事をとったのは何時だ」
「ええと、確か三日前かな……」
「……それと、風呂に入ったのは」
「……おぼえてない」
色々な意味で頭痛がして、鬼は頭を抱えた。
まずは風呂かと、鬼は少女型の式を三体程呼び出す。
箪笥には替えの着物はあったものの、何れも丈が全くあっていない。
用意した人間の体たらくを呪っても仕方ないと、一番ましなものを着せてやれと式に放る。
館には台所もあったので、急いで食事を用意して食べさせる事にした。
埃は被っていたものの、置いてある器具やら食器やら自体は立派なものだった。
清々しい程に真新しい感じが残っており、全く使用されていないというのが分かりすぎる程である。
手早く浄めた後にこれまた式に持ってこさせた食材を、怒涛の勢いで鬼は調理していく。
すぐ食べられるものを用意させればいいのでは、という考えがすっぽりと抜けている様子である。
なまじ家事一切……とりわけ炊事に長けているという、鬼としても男としても稀有な性質のせいであるかもしれない。
娘は温かい食事に珍しいものを見るような輝く眼差しを向けたと思うと、髪の水気をふき取ってやっている式を転げ落して走ってくる。
鬼が抱えて止めなければそのまま卓に突撃していただろう。
小脇に抱える形となった娘を見た鬼は、思わず唖然としたのである。
身体を洗い髪を梳き、服を整えてやったならば驚く程の変化があった。
光にあたると白雪にも見えるほどに淡い髪の色に、日だまりの菫の色をした瞳。
肌は何処か不健康な程に白く、与える印象は何処か脆く儚げに美しい。
この国の人間とはかけ離れた容姿をしている、と鬼は思った。
恐らくそれがこの娘がこのような奇妙な館に一人で在る理由であるかもしれない。
「こら! 急いで食うな! もう少しゆっくり落ち着いて食え!」
暴れるな落ち着けと諭して食卓につかせてはみたものの、鬼の叫びが部屋に響く。
汁物を勢いよく飲み込んで熱いと驚いて咽たかと思えば、箸の使い方を知らずにこれは何と首を傾げる。
本当にどういう環境でどの様に育てられたのか、疑問は増すばかりではあった。
だが、と鬼は思う。
何故人里離れた奇妙な館で、こうまで必死に人の子供の面倒を見てやっているのだろうか。
足蹴にしてでも放り出して帰れば良かったというのに、そうせずに。
お前は本当に世話焼きの性質だね、と金の鬼が笑いをかみ殺している様が目に浮かぶようである。
賑やかに食事を終えたあと、言葉なく考え事をする鬼の隣に娘は座り、同じ様に沈黙していた。
腹が膨れて満ちたりたのか、鬼にもたれたまま、ゆるゆると子供は船を漕ぎ始める。
目を擦りながら必死で起きていようとする娘が、問いかける。
「ねえ、そろそろわたしを喰らうの?」
「お前のような貧相な子供を喰う程、糧に困ってはおらん」
返事は返ってこない。見遣れば、心を許しきった様子のあどけない寝顔で寝息を立てている。
小さな手に、鬼の衣の袖を握りしめて。
「……喰われたいならもう少し健やかに育て」
不用心にも程が、と溜息交じりに呟く銀の鬼。
館を探して見つけたまともな毛布などで精一杯寝心地よくしてやった後、静かに館を後にした。
◇◇◇◇◇
もう二度と訪れまい。
……とは思えども、鬼はどうにもあの奇妙な館と子供について気になって仕方ない。
物のついでと言い繕いながら、情報通なあやかしに探らせたところ、中々に胸具合の悪い事情が知れた。
何でも、あの娘はさる子爵家の主の子なのだという。
その子爵はかつて家督を告ぐ前の時分、海外に遊学した際に現地の女と恋に落ちて子を為した。
けれども出産の折に相手の女は産褥死、男は生まれたばかりの赤子を抱いて途方に暮れたという。
子を連れて帰国したものの、両親や親族は揃って驚愕し慌てたらしい。それは当然だ、彼には幼い頃からの由緒正しい血筋の婚約者があったのだから。
どうして捨ててこなかったと言っても後の祭り、男の父である前当主は密かに始末しようとしたそうだ。
けれどもその妻が、仮にも孫にあたる子供なのだからと嘆願した。
結局、前当主は渋々世話役を付けて赤子を僻地の館に閉じ込め、事が露見する前に息子を結婚させた。
以前……前の当主の妻が生きていた頃はそれなりにまともな世話役がついていたらしいが、今の世話役は禄でもない。
養育費として贈られる金子を着服しては、死なない程度におざなりな世話をするだけ。
本宅から何も干渉されないのをいいことに、時折様子を見に来るだけで、自分達は麓の街に暮らしているという。
見た目の奇異さから、鬼子と呼んでは忌み嫌い禄に寄り付きもしないらしい。
人とは何とも身勝手なものよ、と呆れながら鬼は呟く。呆れて、自分には関係のない事だ、と思いながら……。
「あ、きてくれた!」
「走るな! 転ぶだろう」
翌日の夜、鬼は再び館を訪れていた。
自分でも何故かはわからない、気まぐれだと自分自身に言い聞かせる。
鬼の気配をどう察したのか、探す前に子供は満面の笑みを浮かべながら子犬のように駆けてくる。
それを制するものの、勢い余って転げかけたのを受け止めてやることになり、鬼は盛大に嘆息する。
鬼の足にしがみ付きながら、子供は背の高い相手を見上げて呼びかける。
「ねえ、鬼」
「……『銀嶺』だ」
ぶっきらぼうなまでの声音で返される短い言葉。
何を言われたのかすぐには分からぬ様子で首を傾げる娘に、鬼――銀嶺は眉間に皺を寄せながら続きを紡ぐ。
「鬼と一括りな呼び方で呼ぶな。俺には銀嶺という名がある」
銀嶺、ぎんれい、何度も噛みしめるように鬼の名を繰り返す子供。自らに縋りつきながら己の名を呼ぶ娘に、銀嶺は問いかけた。
「それで、お前の名は」
「無いの」
「は……?」
問いかけにかえってきたのは、能天気なまでに明るい重い返答だった。
一瞬呆気にとられて間の抜けた声を上げてしまった銀嶺だが、すぐに我に返り続けて問う。
よもやまさか、そんな事がと眉間の皺は更に増える。
「名前がないだと!?」
「うん、無いみたい」
この娘をここに閉じ込めた者達は、名前すら与えなかったというのか。
人の理にそこまで通じているわけではないが、人にとってさして問題ない事であるのか。
鬼の理においては考えられない、どれ程忌もうと名は存在にとってどれ程大切なものであるか。
名すら与えずに捨て置く、それが平然とまかり通るというならば、人は鬼よりも余程情が薄い生き物なのだろう。
娘自身はさして気にした風もない、恐らくそれが当然と思っていきてきたのだろう。
名前を与えられることもなく、慈しまれる事もなく、守られる事もなく。
与えられる最低限だけで、何もわからぬままにか細い身体で命を繋いできたのだ。
重い空気を纏って思い悩み沈黙してしまった鬼を、子供は不思議そうに見上げる。
ぎんれい、名を呼びながら少しだけ心配そうに、不安そうに見つめて。
菫色の瞳が少しだけ潤んだ時、淡雪の髪に大きな優しい掌が乗せられた。
「……『六花』だ」
「え?」
きょとんとした表情の子供に、白雪を冠した嶺の名を持つ鬼は、厳かでそれでいて優しさ含む声音で告げる。
誰も分け入った事のない峰を飾る新雪を思わせる稚い子供に、輝く雪片の名を与えた。
「……お前の名は『六花』だ」
子供――六花は暫くの間、何度も何度も与えられた名前を繰り返していた。
驚きながら、喜びながら、戸惑いながら。
そして、名を与えてくれた鬼へと眩いばかりの輝く笑みを見せたのである――。
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