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《幕間・弐》

浅草オペラ

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 月夜に語られた紅い鬼の物語から、また数日経った。
 その日、あやめと玄鳥の姿は賑わう浅草の街の通りにあった。
 出版社に用事のついでに、浅草のそぞろ歩きでもと連れ出されたのである。
 家の中の片づけも一段落ついていた折、そのような嬉しい申し出を断る理由もない。
 少しだけめかしこんだあやめは、現在玄鳥に連れられて人の行き交う六区の興行街を歩いていた。
 賑やかな色合いの旗や幟が立ち、途切れる事のない人の流れで活気のある通りを、あやめは満面の笑みを浮かべて行く。 
 女学校時代、友達と連れ立って浅草へと遊びに行く事があった。
 教師陣からはあまりいい顔をされなかったが、気にせず休みの日には繰り出したものである。
 取り分け浅草オペラは大好きだった。
 父母に連れられていくのは大概の場合は帝劇で、格調高いオペラも嫌いではなかったけれど、やはり親しみやすい浅草オペラのほうがあやめは好きだ。
 嘉島家で使われるようになってからは行く余裕など到底なかったが、この家で働くようになってまた来る機会が増えた。

 玄鳥は娯楽の集う浅草が大好きで、よくあやめを伴って繰り出す。
 その日によって目的は様々。仲見世を覗いて、花屋敷に遊び。オペラやキネマを楽しんだり、凌雲閣から帝都を一望してみたり。
 そして日暮れの帰り道では、偶には外食でも、となるのが何時もの倣いであった。
 玄鳥としては、日頃家事を切り盛りしてくれているあやめを労わりたいと言う思いがあるらしい。それを感じて、あやめは有難く頷くのである。

 今日の目的は、浅草オペラの観劇である。何でも目当ての演目があるらしい。
 久々のお出かけにあやめもご機嫌であるが、隣を歩く玄鳥は更にご機嫌だ。鼻歌すら歌っている時がある。
 嬉しそうだな、と思いながら見つめていると、何を勘違いしたのか玄鳥は突如として慌てる。

「ち、ちゃんと原稿は渡してきましたよ、踏み倒してきたわけじゃないですからね?」
「そうですね、編集さんが笑顔で見送ってくれていましたから」

 立ち寄った出版社で、担当編集どころか編集長までが玄関まで出てきて一同でお見送り、という光景が繰り広げられたのはつい先程の事だ。
 流石に忘れようがないし、忘れるにはなかなかに衝撃の大きい光景である。
 締め切りを守ったというだけでそれほど感激されるとは、と思えば複雑な心中になってしまうし、顔もそうなってしまうが。
 あやめの考えを察した玄鳥は、些かばつの悪そうな表情浮かべて嘆息する。

「そうじゃないとお出かけに誘ってもあやめさんは来てくれないでしょう?」
「はい、全力で連れ帰ります」

 人様の犠牲の上に成り立つ娯楽で楽しめる筈がない。
 もし仮に実は締め切りを破っておりますなどと言われようものなら、あやめは縄で括って引きずってでも玄鳥を連れ帰るだろう。
 玄鳥もそれは感じているようで、少しだけひきつった苦笑いを浮かべながら続ける。

「連れ帰るで済めばいいですが、編集さんと一緒になって罠にかけてきそうで。いえ、実際かけられた挙句に缶詰になりましたし」
「……嘆くより先に締め切りという約束事を破った数々を振り返ってみては」

 先日の鳴子の罠の事でも思い出したのだろう、玄鳥の眼差しがやや遠くなる。けれども返すあやめの言葉は非常に冷静そのものだ。
 あやめとて、玄鳥が何もしていないのにあのようなものを仕込む訳がない。
 過去の数え切れぬ程の前科と、それに伴う人々の――大概の場合は御影の――心の涙を思えばこそあの罠は生まれた。
 あやめのそのような行動に至らせる事についてなのか、御影が時折あやめに対して罪悪感のようなものを覚えているのを感じる事がある。
 表情や行動の端々に、それが滲む事に気づいて、猶更不憫に思うのだ。
 火のないところに煙は立たぬ、あれは玄鳥の今までの積み重ねの帰結である。
 言外にそう告げるあやめに、玄鳥は返す言葉がないようだ。分が悪いという自覚はあるらしい、視線が泳いでいる。
 長身の男が縮こまっている様子を見て、あやめは一つ苦笑して、玄鳥を先へと促す。
 せっかくのお出かけである、お小言も耳に痛い話もここまでにしよう。どうせなら楽しい話をしましょう。
 言葉にせずともそれは伝わったようで、再び玄鳥の顔に嬉しそうな笑顔が戻って来る。

 人込みではぐれないように気を使いながら、玄鳥は街の一角の小さな劇場へとあやめを導いた。
 規模こそ金龍館や他の劇場に劣るものの、待ち客で溢れている。ペラゴロと呼ばれる人々が、幕間にて喧々囂々と意見を戦わせている光景もある。
 どうやら次なる上演は喜劇らしい。
 心軽くみられる内容もさる事ながら、主演を勤めるのが最近浅草で話題のスタア女優らしい。
 異国に渡った先の看板女優の後を継ぎ主演女優を務めるようになった後に、瞬く間に昇りつめたのだという。
 あやめは尚一層期待に胸を躍らせ、少しそわそわとしながら席について……。

 結論から言って、とても素晴らしいオペラだった。
 お腹が痛くなる程笑う場面あるかと思えば、流れるような一挙一動に惹きつけられ、紡がれる美しい歌声に聞き入ってしまい、無我夢中で展開を追いかけている内に気が付けば終幕である。
 気が付いた時には、あやめは全力で拍手をしていた。
 喝采の渦の中、少女の年頃にも、落ち着いた女性にも見える不思議な雰囲気を持つ主演女優は誇らしげに微笑ながら、優雅に一礼してみせた――。


 上演が終了してからも、あやめは熱に浮かされたようにぼうっとしていた。
 素晴らしかった、その一言に尽きる。
 来てよかった、先生ありがとう。
 語彙が消失した様子で繰り返すあやめに優しく笑みを見せて、玄鳥は所用があると言って姿を消していた。
 大人しく待つあやめは、ふと先程まで舞台上にて輝いていた女優の姿を思い出す。
 ソプラノの声がなければ不利であるらしい世界で高い声域が出ないというのに昇り詰めた事は、感嘆の溜息交じりにホールにて囁かれていた。
 きっと想像を絶するほどの努力があるのだろう、故に星として高みに煌めく事が出来ているのだと。

 暫くそうして感動に浸っていたものの、ふと我に帰る。
 ホールの時計を見てみると、玄鳥が姿を決してからもう結構になる。
 あまり動いてははぐれてしまうかもしれないが、想像した以上に時間が経っている事で不安になってきたのだ。
 少しだけ辺りを見てみるかと歩みを進めて程なく、玄鳥を見つける事が出来た。
 だが、彼は一人では無かった。あれは誰だろう? とあやめは首を傾げる。
 玄鳥は劇場の柱の影にて、一人の女性と話していた。
 女性は、舞台にたっていたとしてもおかしくない程の美貌でありながら、何処か地味な印象に留めようとしている雰囲気である。
 しかしながら、その艶やかな美しさは隠しきれるものではない。
 女優の一人かと思ったが、先程の舞台には立っていなかった。出演して居なかっただけだろうか。
 それにしても綺麗な人と、思わず溜息をつきながら見つめる先で二人の会話は続いている。流石に距離がある為内容は分からない。
 時折見られる砕けた感じの笑顔からして、親しい間柄であるのは間違いない。玄鳥も随分と打ち解けている様子がある。
 何故かは知らないが、胸に靄が立ち込めて行くような感じがする。
 楽しい時間を過ごしていたのに、二人で出かられて嬉しかったのに、水をさされたような心持ちになってしまう。
 何で、と小さく気づかぬうちに呟いた時だった。
 会話の相手であった美女があやめに気付いたようだ。それを告げられた玄鳥は弾かれたように振り返りあやめと視線が合う。
 何処か慌てたような様子があったのは一瞬、すぐに平素の穏やかな雰囲気に戻れば一言二言女性と交わした後、あやめの元へと戻って来る。
 玄鳥は何も言わなかった。
 あやめも何も聞かなかった――聞けなかった。
 自分はただの使用人である、差し出た質問などしてはいけない、と自分に言い聞かせて。
 そう、あやめはただ雇われているだけだ。主と使用人、ただそれだけの関係だ。
 玄鳥は独り身となって長いらしい。親しい女性の一人や二人いても、それは使用人である自分に関係ない。
 そう思おうとした、弁えて平静を保とうとした。
 けれども、笑顔はぎこちなく、何処か不貞腐れたような雰囲気を漂わせてしまっている事に、あやめは気付けなかった。
 話しかけられる事に返事はするけれど、会話は途切れがちになってしまう。

 陽が落ちて夜は黒に覆われていたが、それを押し返すように周囲には皓々と灯りが灯っていた。
 夜闇のもとでも明るい幻想的な光景の中を、二人言葉なく歩く。
 このままではいけないと思う。
 せっかく楽しく外出したのに、一日の終わりがこんな空気なんて良くないと思うけれど、言葉が紡がれてくれない。
 あやめが自分にもどかしさを覚えていた時、不意に手に温かな感触が生じた。

「先生……?」
「この時刻の浅草公園界隈は少し危ないですから。はぐれないようにね?」

 玄鳥はそう言って、驚いたあやめの手を握って歩く。
 それは特段甘く色めいたものではなく、親が子供の手を引いてあるくようなものだったのかもしれない。
 手を繋ぐなど人前ではしたない。それも、そんな仲ではないのに、と狼狽えるあやめであったが、玄鳥は気にする素振りもない。
 人通りが多い為か、道行く人たちも不思議と二人を気にした様子がない。
 駄目ですと窘めるべきだと思うのに、終ぞ言えない。握りしめた手を振りほどく事が出来ない。
 自分が今どんな顔をしているかはわからない、けれども全身に今まで感じた事のない程の熱を感じる。
 何故こんなにも、触れる手が熱いのか。何故こんなにも、胸の鼓動は早いのか。それは、きっと気付いてはいけないことなのだ。
 それでも、思ってしまう。

 ――今宵、こうして共に歩きながら灯りに照らされた街から見上げた先にある星が今までで一番美しく見えると。


 何時もの外出に倣い、その日の夕餉は外食で済ませた後に二人は帰宅した。
 何時もなら、後片付けがない分非常に楽だと笑いながら次の日の支度をして、早く休むところである。
 しかし、片づけ終わっても身体の内に不思議な感覚が在る、熱とも戸惑いともわからないものが満ちていて、眠る気になどなれない。
 何かする事はないかと思案していたところに、玄鳥が姿を現した。
 お茶をお願いできますかと言われて、あやめは弾かれたように支度する。する事が出来たのが有難い。
 茶と共に御影からの差し入れである茶菓子を添えて供したならば、玄鳥は静かに喫する。
 どうでしたか、と不意に呟かれた言葉にあやめは目を瞬いた。
 問いかけられている事すらすぐに気付けず、それが今日の歌劇についての事であると理解できるまでには暫しの時を要した。

「た、大変素晴らしかったです! 楽しかったし、歌も素敵で……!」
「それなら良かったです」

 観劇の後の熱狂を思い出しながら目を輝かせて言うあやめを見て、玄鳥は嬉しそうに目を細める。
 その様子は、見守るようであり慈しむようであり、幸せそうにも見える。
 そう感じたならば、あやめは次なる言葉が紡げない。
 温かい、幸せ、気恥ずかしい……色々な感情が綯交ぜとなって、表情には強い戸惑いが浮かぶ。
 ああ、自分がおかしい、と心の裡に呻く。
 落ち着いて、何時もの自分を思い出してと言い聞かせているのに、それは功を奏さない。
 再び沈黙してしまったあやめを見つめ、首を緩く傾けながら、玄鳥は微笑み告げる。

「そうですね……。それでは今宵は歌劇にちなんだ物語でも聞かせましょうか」

 あやめは静かに頷いた。
 まだ眠れる気がしない。それに、もう少しこうしていたい。
 聞きたい、と思ったのだ。彼が語る物語……鬼と人との恋物語を。
 けして世に出る事はないという、けれどあやめの心に『何か』を残す物語。
 そして、あの万華鏡に色を与える、不思議な物語……。

 ――高い空に星が輝き、それを月が照らす夜の元。今宵もひとつ物語が語られる……。
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