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いつか彼女は辿り着く
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その時、視界に何か過ぎったような気がしてセイはそちらを向いた。
気のせいかと思ったけれど、よく見ると遠くにぼんやりとした灯りが見えている。
あれは、と呟きかけた時、手の中に宿る『星』に変化が生じる。
淡い光が灯り始め、光は徐々に強くなりつつある。
「ここから先は、君一人で行くんだ」
繋いでいた手が、不意に離された。
輝き始めた星を見つめていたヨルは、セイへと眼差しを映しながら静かな、そして確かな声で告げた。
「君が作ってくれたその『星』がこの先の導きになる。僕達はここまでだ」
「ヨルとつつじも、一緒に行こう……?」
言われた言葉に呆然と目を見開きながら、セイは呆然と呟く。
だが、それを否定するようにヨルは静かに首を左右に振ると、悲しそうに微笑んだ。
「僕もつつじも、もうあちらには行けないんだ」
セイが行こうとしているのは、命ある人間が生きていく現実の世界。
既にこの世の存在ではなくなってしまったヨルとつつじは、行くことが出来ない。
理屈としては理解できる。
だが。
「……なら、私も行かない」
感情は別だ。
そう思った瞬間、呻くように低くセイは呟いてしまっていた。
ヨルが一瞬息を飲んだのを感じたが、セイは弾かれたように叫んだ。
「一緒に行けないっていうなら、私も行かない!」
視線の先で、ヨルもつつじも困ったような様子で固まっているのが見える。
再び溢れだす涙を拭うことすらしないまま、セイは更に裡から湧き上がる心を叫んでいた。
「ヨルもつつじもいないなら、私は、帰りたくなんかない!」
「セイちゃん……」
「だって、戻ったら私はセイじゃない……。セイは、あそこには居ないんだもの……」
あの光の先に居るのは、余。
ココロを喰われてしまった囚われ人の余。
工房でヨルとつつじと共に暮らしていた、闊達なセイはどこにもいない。
「もう、戻れないんだもの……。あの工房には、もう……」
セイはその場に崩れ落ちるようにして膝をついてしまう。
彼女にとっても、ヨルとつつじにとっても幸せな『もしも』の場所であった工房はもうないのだ。
あの光の先には、ただ辛いだけのセイにとっての現実が待っている。
魂が少しずつ死んでいくような日々に戻るだけなのだ。
それなら、ここから進みたいなんて思わない。ここで最後の一瞬まで大切なヨル達と共に居たい。
我儘で身勝手かもしれないけれど、残酷な本当より、幸せな『もしも』に死にたい。
ヨルが言葉を口にできずに居る中、セイの静かな嗚咽だけが黒の空間に響いていた。
だが、それを破ったのは何かが動いたような気配だった。
「セイちゃんには、残酷な願いなのかもしれない」
顔をあげると、目線を合わせるようにして膝をついたヨルがセイを覗き込んでいる。
咎める光はない。ただ、慈しむ優しさの中に、少しの寂しさが滲む瞳でセイを見つめている。
ヨルの腕からはねたつつじが、セイへと飛びついた。
そして、必死に何かを訴えるように身を摺り寄せてくる。
呆然とした様子でつつじをそっと抱き締めるセイを見て、ヨルは静かに言葉の続きを紡いだ。
「でも、僕もつつじも。……セイちゃんに、生きて欲しいんだ」
ヨルは、つつじを腕に抱いたセイを静かに抱き締めた。
かつて一緒にいた頃、泣いていたセイを慰めてくれた優しくて懐かしい腕の温もり。
告げられた願いた確かにセイにとっては残酷ではあるけれど、宿る響きの真摯さにセイは思わず唇を噛みしめる。
小さな嗚咽を聞きながら、ヨルは確かな声音で続けた。
「あの日々は、今は確かに無くなってしまったけれど……君はまだあの日々に帰れる」
セイが思わずといった風に顔をあげる。
見上げた先にあったのは真っ直ぐに自分を見つめてくれるヨルの偽りのない眼差し。
慰めるために誤魔化しを口にしているのではないと、伝わってくる……。
「あの懐かしい場所は過去であり、君の未来なんだ。だから、夢はまだ現実にできる」
あの工房での日々は、セイが違う分岐を辿っていたら有り得たかもしれない日々。
今は違う先に辿り着いているけれど、セイはまだ、あの『もしも』を本当にすることが出来る。
完全にあの日々そのままとはいかなくても、近い場所を目指すことができる。
それは容易ではないし、立ち向かってつらい思いをすることになるかもしれない。
けれど、彼女が望んだ全てが失われてしまったわけではないのだと、ヨルは静かに語り続けた。
セイの涙を指で拭いながら、ヨルは願いを込めて微笑む。
「行って欲しいんだ……。僕たちが行けなかった『先』へ……」
自分達はセイの生きる場所には一緒に行けない。
そして母親も『魔女』に取り込まれてしまった以上戻れない……どこへも行けない。
でも、セイはまだこの先へ、君が望んでいた場所へ行ける。
沁み込むような声音で紡がれた言葉は、静かにセイの心に降り注ぐ。
力を失い全てを拒絶していた心に、歩き出す為の力を少しずつ与えてくれる。
まだ『何時の日か』を信じられるだろうか。
自分を喰らい尽くそうとする全てに立ち向かい、懐かしいあの場所に辿り着くことができるだろうか。
離れたくない想いはなおも消えない。
けれど、大切な存在は信じてくれている。セイがもう一度あの場所に辿り着けると。
彼らはそこに居ないけれど、セイがいずれあの場所に生きた『セイ』として生きていけるようになると。
セイの口から、もう拒絶の言葉は零れなかった。
ヨルに手を貸してもらいながら、セイはゆっくりと立ち上がる。
静かに見つめていたヨルは、不意に明るい表情を浮かべた。少しばかり、努めて見せている様子はあったけれど。
「美人になったセイちゃんに会えて嬉しかった」
「そんな時見さんみたいなことを」
朗らかに茶目っけたっぷりにいうヨルを見て、セイはちょっとだけ苦笑する。
セイの言葉を聞いて吹き出したヨルは、少し考え込んだ様子を見せた後。
「あの人、割と本当にセイちゃんのこと好きだったんじゃないかなって思うんだよね」
「そう言われても、その……わからない」
全く恋愛とは無縁に生きて来たのでそう言われてもわからないし、本当にそうだったとしてももうどうすればいいかわからないし。
本当に困って視線を彷徨わせていたセイは、不意に明るい声で話題を切り替える。
「私だって、イケメンになったヨルを見られて嬉しい」
「僕、生きていたら結構いい感じになれていたのかな」
「勿体ない、世界の損失だよ」
「セイちゃん、おおげさだって」
くすくすと笑いを零しながら、二人は楽しそうに自分の思ったところを口にする。
それを目にしているつつじも、楽しそうに鳴いてセイに甘えている。
セイも分かっている。
ヨルも、つつじも分かっている。
これが最後の前のほんの束の間の。自分達に残されたあの優しい日々の残り香であることを。
知っているからこそ、最後に笑顔で在りたいと願っている。
「花火大会に連れて行ってくれた時は、大分無理したんでしょう」
「実はそう。時見さんに渋い顔されちゃった」
ヨルが連れていってくれた、あの花火大会。
きっとヨルは、セイの為の仮初の世界とも言える箱庭から一時的にセイを本当の世界に連れ出した。
自身に周囲から違和感を抱かせず、セイの存在を守りながら。
想像している以上に負荷は大きかったはずだ。
だからきっとあの後、ヨルは調子を崩し気味になってしまったのだ。
少しだけばつが悪そうな笑みを浮かべると、ヨルは何故そうしたか説明し始めた。
「昔、家族で一度だけ花火大会にいった時。お父さんとお母さんが喧嘩を始めてしまったよね」
セイの脳裏に、かつて花火大会を『悲しい』と思う原因となった出来事が蘇る。
始まりは、セイが偶然耳にしたイベントについて興味を示したことだった。
無駄なことをと渋る母にヨルが必死に懇願し、父もまた口添えをして家族で花火大会に出かけることになった。
だが、ささいなことをきっかけに父と母は公衆の面前で、子供達を放り出しての喧嘩を始めてしまったのだ。
花火の素晴らしさも何もかも吹き飛んでしまい、セイはただ涙して、ヨルは悔しそうに俯いていた。
「楽しかった時間が全部台無しになって。それ以来、セイちゃんは一度も花火大会のことを口にしなくなってしまったから気になっていたんだ」
ヨルはセイを連れて、喧嘩を続ける二人を置き去りにして帰ってしまった。
あの日の小さな手の温もりに、先日の夜の大きな手の温かさが加わって、悲しかった花火にまつわる思い出は、楽しいに変わっている。
ヨルはずっと心に秘めていてくれたのだ。
セイが花火大会について口にもしなくなったことへの悔しさを。
そしていつか、と思い続けていてくれた‥‥…。
「すごく、楽しかったよ。もう花火大会のことを、悲しいなんて思わない」
「セイちゃんの思い出を、楽しいに塗り替えられたってずっと思っていたから。そう言ってくれて嬉しいな」
笑みに笑みが返る、懐かしくて暖かい時間だった。
セイが楽しそうに話し、ヨルが嬉しそうに頷き、つつじが相槌のように鳴く。
誰もが言葉にせずとも同ように、この他愛ないやり取りが何時までも続けばいいと思っていた。
けれど。
そのことに気づいた瞬間、警戒するようなつつじの鳴き声と共に二人の顔色が瞬時に代わる。
蒼褪めたセイは、背筋の凍るような気配に蒼褪めて目を見開いた。
見えてしまったのだ。
遠くに離れてはいるけれど、蠢き這いずる影が迫りつつあることに。
あれは、間違いなく――『魔女』と呼ばれたものだった。
「あれが……あれがきたってことは、時見さんは……?」
「落ちついて! あの人は大丈夫だ。危うくなる前に退いてくれたはずだ」
そちらを見ていたヨルの横顔も蒼褪めているけれど、魔術師について触れる口調には彼の人についての信頼が滲む。
けして彼が負けてしまったわけではないとセイも信じたいけれど、確かに『魔女』はセイ達に向かって迫りつつある。
ヨルはセイの手の中にある『星』に触れて告げた。
「僕が……僕達が、君に宿る力になる。君に断ち切る力を。君を導く『星』に、光を」
ヨルの言葉に答えるように、つつじが力強い鳴き声を発した。
輝き始めていた『星』は、今は明るく眩い光を湛えている。
けれど、セイの顔は悲しげに歪みかける。
星が輝きを増していくごとに、目の前にいる兄と猫の姿は少しずつ薄れ、透けていくからだ。
行かないで、と言いたい。
でも、それは言ってはいけないのだと思う。
彼らは信じてくれている。
だから、もう泣いて縋る時間を、自分は終えなければならない。
ヨルとつつじがセイを信じてくれているのなら――今は、セイが自分を信じる時だ。
「君が、君が考えて選んで。他の誰でもない君自身の人生を沢山沢山生きたなら。きっとまた会える、その時になったら会いに来て」
淡い光に包まれながら、薄れ消えゆく存在となるヨルは一言一言、言い聞かせるように大切にセイへと伝える。
別れを告げるのではない。
何時の日か、セイが『もしも』を本当に変えて。
もうココロを喰われることなく、囚われることなく。彼女自身の道を踏みしめていけたなら。
その先にきっと自分達はまた会えるという願いを、静かな確信を込めて兄は紡ぐ。
セイはただ只管に頷いていた。
一度止まったはずの涙が再び溢れて止まらないけれど、ただ必死に告げられた言葉に同意を伝えていた。
「沢山沢山思い出を作って、君の中の光を形にして。きっとそれは、僕達に届くから」
セイがヨルに贈った星は今再び形を取り戻し、ヨルからセイへの導きとなって還る。
この『星』を作ったように。
あの工房で、心の奥底にある想いを星として形にし続けたように。
これからの時間、セイの中に生まれ続ける沢山の光を届けて欲しいと、ヨルは願う。
セイは一生懸命に笑って頷いた。最後に笑顔を見せていたいと思うから。
それを見て、ヨルは安心したように微笑んで。
いつか再び会う時への目印を、彼女が作り続けてくれることを最後に願って――青年と猫は、散じる光となって消えた。
姿が見えなくなる間際の一際強い光の中に見えたのは……記憶の中にあるままの少年と小さな子猫の姿だった。
「ヨル……! つつじ……!」
セイは叫びながら必死に手を伸ばしたけれど、ついにその指先は何も掴むことが出来なかった。
遠くにぼんやりと小さな灯りが見える暗闇の中、セイはついに一人になってしまったと呆然とする。
しかし、すぐに首を左右に振る。
違う、一人になんかなっていない。
ヨルとつつじの想いはここにある。輝き続ける『星』に宿って、自分を導こうとしてくれている。
蠢く気配を感じて振り返ると、そこには『魔女』と呼ばれる澱みが這いよってきていた。
だが、セイは恐れた様子を見せない。
静かで、そして揺るぎない視線を『魔女』に向ける。
「私は、もう貴方に囚われない」
黒い澱みの中に浮かんだある一点……澱みが形作る母の顔を、決意を込めた確かな声音で告げる。
言葉を聞いた澱みは苦しむように湧き上がりながら悶えていたが、セイはそれに背を向ける。
母の顔が苦悶の表情を浮かべたのを一瞬だけ視界の端に捉えたけれど、遠くに見える灯りへと向けて足を進め始める。
セイの手の中にある、輝く『星』が彼女の手から浮き上がると、先導するように遠い灯りへ向かって彼女の前に浮かぶ。
一度だけ静かに頷いて、セイは『星』に続いて歩き始めた。
さあ顔をあげて、前を向いて。
誰に何を恥じることもなく、胸を張って、背筋を伸ばして。
もう迷わない。
私は、歩いて行ける。いつか辿り着く、あの場所に向かって。
あの箱庭での時間は、今何よりも強く確かなものとなってこの胸にある。
託された想いは、今自分が先へ進む力となり、自分を動かしてくれている。
だから、もう自分は迷わない、逃げない。
セイは、確かに一歩ずつ前へと進み、光へと近づいていく。
這いずる『魔女』は先へと進めない。黒い澱みとセイの距離は、徐々に開いていく。
そして、セイが振り返ることなく先へ進んでいくにつれて。
魔女は、セイの影にすら届かなくなっていった――。
気のせいかと思ったけれど、よく見ると遠くにぼんやりとした灯りが見えている。
あれは、と呟きかけた時、手の中に宿る『星』に変化が生じる。
淡い光が灯り始め、光は徐々に強くなりつつある。
「ここから先は、君一人で行くんだ」
繋いでいた手が、不意に離された。
輝き始めた星を見つめていたヨルは、セイへと眼差しを映しながら静かな、そして確かな声で告げた。
「君が作ってくれたその『星』がこの先の導きになる。僕達はここまでだ」
「ヨルとつつじも、一緒に行こう……?」
言われた言葉に呆然と目を見開きながら、セイは呆然と呟く。
だが、それを否定するようにヨルは静かに首を左右に振ると、悲しそうに微笑んだ。
「僕もつつじも、もうあちらには行けないんだ」
セイが行こうとしているのは、命ある人間が生きていく現実の世界。
既にこの世の存在ではなくなってしまったヨルとつつじは、行くことが出来ない。
理屈としては理解できる。
だが。
「……なら、私も行かない」
感情は別だ。
そう思った瞬間、呻くように低くセイは呟いてしまっていた。
ヨルが一瞬息を飲んだのを感じたが、セイは弾かれたように叫んだ。
「一緒に行けないっていうなら、私も行かない!」
視線の先で、ヨルもつつじも困ったような様子で固まっているのが見える。
再び溢れだす涙を拭うことすらしないまま、セイは更に裡から湧き上がる心を叫んでいた。
「ヨルもつつじもいないなら、私は、帰りたくなんかない!」
「セイちゃん……」
「だって、戻ったら私はセイじゃない……。セイは、あそこには居ないんだもの……」
あの光の先に居るのは、余。
ココロを喰われてしまった囚われ人の余。
工房でヨルとつつじと共に暮らしていた、闊達なセイはどこにもいない。
「もう、戻れないんだもの……。あの工房には、もう……」
セイはその場に崩れ落ちるようにして膝をついてしまう。
彼女にとっても、ヨルとつつじにとっても幸せな『もしも』の場所であった工房はもうないのだ。
あの光の先には、ただ辛いだけのセイにとっての現実が待っている。
魂が少しずつ死んでいくような日々に戻るだけなのだ。
それなら、ここから進みたいなんて思わない。ここで最後の一瞬まで大切なヨル達と共に居たい。
我儘で身勝手かもしれないけれど、残酷な本当より、幸せな『もしも』に死にたい。
ヨルが言葉を口にできずに居る中、セイの静かな嗚咽だけが黒の空間に響いていた。
だが、それを破ったのは何かが動いたような気配だった。
「セイちゃんには、残酷な願いなのかもしれない」
顔をあげると、目線を合わせるようにして膝をついたヨルがセイを覗き込んでいる。
咎める光はない。ただ、慈しむ優しさの中に、少しの寂しさが滲む瞳でセイを見つめている。
ヨルの腕からはねたつつじが、セイへと飛びついた。
そして、必死に何かを訴えるように身を摺り寄せてくる。
呆然とした様子でつつじをそっと抱き締めるセイを見て、ヨルは静かに言葉の続きを紡いだ。
「でも、僕もつつじも。……セイちゃんに、生きて欲しいんだ」
ヨルは、つつじを腕に抱いたセイを静かに抱き締めた。
かつて一緒にいた頃、泣いていたセイを慰めてくれた優しくて懐かしい腕の温もり。
告げられた願いた確かにセイにとっては残酷ではあるけれど、宿る響きの真摯さにセイは思わず唇を噛みしめる。
小さな嗚咽を聞きながら、ヨルは確かな声音で続けた。
「あの日々は、今は確かに無くなってしまったけれど……君はまだあの日々に帰れる」
セイが思わずといった風に顔をあげる。
見上げた先にあったのは真っ直ぐに自分を見つめてくれるヨルの偽りのない眼差し。
慰めるために誤魔化しを口にしているのではないと、伝わってくる……。
「あの懐かしい場所は過去であり、君の未来なんだ。だから、夢はまだ現実にできる」
あの工房での日々は、セイが違う分岐を辿っていたら有り得たかもしれない日々。
今は違う先に辿り着いているけれど、セイはまだ、あの『もしも』を本当にすることが出来る。
完全にあの日々そのままとはいかなくても、近い場所を目指すことができる。
それは容易ではないし、立ち向かってつらい思いをすることになるかもしれない。
けれど、彼女が望んだ全てが失われてしまったわけではないのだと、ヨルは静かに語り続けた。
セイの涙を指で拭いながら、ヨルは願いを込めて微笑む。
「行って欲しいんだ……。僕たちが行けなかった『先』へ……」
自分達はセイの生きる場所には一緒に行けない。
そして母親も『魔女』に取り込まれてしまった以上戻れない……どこへも行けない。
でも、セイはまだこの先へ、君が望んでいた場所へ行ける。
沁み込むような声音で紡がれた言葉は、静かにセイの心に降り注ぐ。
力を失い全てを拒絶していた心に、歩き出す為の力を少しずつ与えてくれる。
まだ『何時の日か』を信じられるだろうか。
自分を喰らい尽くそうとする全てに立ち向かい、懐かしいあの場所に辿り着くことができるだろうか。
離れたくない想いはなおも消えない。
けれど、大切な存在は信じてくれている。セイがもう一度あの場所に辿り着けると。
彼らはそこに居ないけれど、セイがいずれあの場所に生きた『セイ』として生きていけるようになると。
セイの口から、もう拒絶の言葉は零れなかった。
ヨルに手を貸してもらいながら、セイはゆっくりと立ち上がる。
静かに見つめていたヨルは、不意に明るい表情を浮かべた。少しばかり、努めて見せている様子はあったけれど。
「美人になったセイちゃんに会えて嬉しかった」
「そんな時見さんみたいなことを」
朗らかに茶目っけたっぷりにいうヨルを見て、セイはちょっとだけ苦笑する。
セイの言葉を聞いて吹き出したヨルは、少し考え込んだ様子を見せた後。
「あの人、割と本当にセイちゃんのこと好きだったんじゃないかなって思うんだよね」
「そう言われても、その……わからない」
全く恋愛とは無縁に生きて来たのでそう言われてもわからないし、本当にそうだったとしてももうどうすればいいかわからないし。
本当に困って視線を彷徨わせていたセイは、不意に明るい声で話題を切り替える。
「私だって、イケメンになったヨルを見られて嬉しい」
「僕、生きていたら結構いい感じになれていたのかな」
「勿体ない、世界の損失だよ」
「セイちゃん、おおげさだって」
くすくすと笑いを零しながら、二人は楽しそうに自分の思ったところを口にする。
それを目にしているつつじも、楽しそうに鳴いてセイに甘えている。
セイも分かっている。
ヨルも、つつじも分かっている。
これが最後の前のほんの束の間の。自分達に残されたあの優しい日々の残り香であることを。
知っているからこそ、最後に笑顔で在りたいと願っている。
「花火大会に連れて行ってくれた時は、大分無理したんでしょう」
「実はそう。時見さんに渋い顔されちゃった」
ヨルが連れていってくれた、あの花火大会。
きっとヨルは、セイの為の仮初の世界とも言える箱庭から一時的にセイを本当の世界に連れ出した。
自身に周囲から違和感を抱かせず、セイの存在を守りながら。
想像している以上に負荷は大きかったはずだ。
だからきっとあの後、ヨルは調子を崩し気味になってしまったのだ。
少しだけばつが悪そうな笑みを浮かべると、ヨルは何故そうしたか説明し始めた。
「昔、家族で一度だけ花火大会にいった時。お父さんとお母さんが喧嘩を始めてしまったよね」
セイの脳裏に、かつて花火大会を『悲しい』と思う原因となった出来事が蘇る。
始まりは、セイが偶然耳にしたイベントについて興味を示したことだった。
無駄なことをと渋る母にヨルが必死に懇願し、父もまた口添えをして家族で花火大会に出かけることになった。
だが、ささいなことをきっかけに父と母は公衆の面前で、子供達を放り出しての喧嘩を始めてしまったのだ。
花火の素晴らしさも何もかも吹き飛んでしまい、セイはただ涙して、ヨルは悔しそうに俯いていた。
「楽しかった時間が全部台無しになって。それ以来、セイちゃんは一度も花火大会のことを口にしなくなってしまったから気になっていたんだ」
ヨルはセイを連れて、喧嘩を続ける二人を置き去りにして帰ってしまった。
あの日の小さな手の温もりに、先日の夜の大きな手の温かさが加わって、悲しかった花火にまつわる思い出は、楽しいに変わっている。
ヨルはずっと心に秘めていてくれたのだ。
セイが花火大会について口にもしなくなったことへの悔しさを。
そしていつか、と思い続けていてくれた‥‥…。
「すごく、楽しかったよ。もう花火大会のことを、悲しいなんて思わない」
「セイちゃんの思い出を、楽しいに塗り替えられたってずっと思っていたから。そう言ってくれて嬉しいな」
笑みに笑みが返る、懐かしくて暖かい時間だった。
セイが楽しそうに話し、ヨルが嬉しそうに頷き、つつじが相槌のように鳴く。
誰もが言葉にせずとも同ように、この他愛ないやり取りが何時までも続けばいいと思っていた。
けれど。
そのことに気づいた瞬間、警戒するようなつつじの鳴き声と共に二人の顔色が瞬時に代わる。
蒼褪めたセイは、背筋の凍るような気配に蒼褪めて目を見開いた。
見えてしまったのだ。
遠くに離れてはいるけれど、蠢き這いずる影が迫りつつあることに。
あれは、間違いなく――『魔女』と呼ばれたものだった。
「あれが……あれがきたってことは、時見さんは……?」
「落ちついて! あの人は大丈夫だ。危うくなる前に退いてくれたはずだ」
そちらを見ていたヨルの横顔も蒼褪めているけれど、魔術師について触れる口調には彼の人についての信頼が滲む。
けして彼が負けてしまったわけではないとセイも信じたいけれど、確かに『魔女』はセイ達に向かって迫りつつある。
ヨルはセイの手の中にある『星』に触れて告げた。
「僕が……僕達が、君に宿る力になる。君に断ち切る力を。君を導く『星』に、光を」
ヨルの言葉に答えるように、つつじが力強い鳴き声を発した。
輝き始めていた『星』は、今は明るく眩い光を湛えている。
けれど、セイの顔は悲しげに歪みかける。
星が輝きを増していくごとに、目の前にいる兄と猫の姿は少しずつ薄れ、透けていくからだ。
行かないで、と言いたい。
でも、それは言ってはいけないのだと思う。
彼らは信じてくれている。
だから、もう泣いて縋る時間を、自分は終えなければならない。
ヨルとつつじがセイを信じてくれているのなら――今は、セイが自分を信じる時だ。
「君が、君が考えて選んで。他の誰でもない君自身の人生を沢山沢山生きたなら。きっとまた会える、その時になったら会いに来て」
淡い光に包まれながら、薄れ消えゆく存在となるヨルは一言一言、言い聞かせるように大切にセイへと伝える。
別れを告げるのではない。
何時の日か、セイが『もしも』を本当に変えて。
もうココロを喰われることなく、囚われることなく。彼女自身の道を踏みしめていけたなら。
その先にきっと自分達はまた会えるという願いを、静かな確信を込めて兄は紡ぐ。
セイはただ只管に頷いていた。
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「沢山沢山思い出を作って、君の中の光を形にして。きっとそれは、僕達に届くから」
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この『星』を作ったように。
あの工房で、心の奥底にある想いを星として形にし続けたように。
これからの時間、セイの中に生まれ続ける沢山の光を届けて欲しいと、ヨルは願う。
セイは一生懸命に笑って頷いた。最後に笑顔を見せていたいと思うから。
それを見て、ヨルは安心したように微笑んで。
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姿が見えなくなる間際の一際強い光の中に見えたのは……記憶の中にあるままの少年と小さな子猫の姿だった。
「ヨル……! つつじ……!」
セイは叫びながら必死に手を伸ばしたけれど、ついにその指先は何も掴むことが出来なかった。
遠くにぼんやりと小さな灯りが見える暗闇の中、セイはついに一人になってしまったと呆然とする。
しかし、すぐに首を左右に振る。
違う、一人になんかなっていない。
ヨルとつつじの想いはここにある。輝き続ける『星』に宿って、自分を導こうとしてくれている。
蠢く気配を感じて振り返ると、そこには『魔女』と呼ばれる澱みが這いよってきていた。
だが、セイは恐れた様子を見せない。
静かで、そして揺るぎない視線を『魔女』に向ける。
「私は、もう貴方に囚われない」
黒い澱みの中に浮かんだある一点……澱みが形作る母の顔を、決意を込めた確かな声音で告げる。
言葉を聞いた澱みは苦しむように湧き上がりながら悶えていたが、セイはそれに背を向ける。
母の顔が苦悶の表情を浮かべたのを一瞬だけ視界の端に捉えたけれど、遠くに見える灯りへと向けて足を進め始める。
セイの手の中にある、輝く『星』が彼女の手から浮き上がると、先導するように遠い灯りへ向かって彼女の前に浮かぶ。
一度だけ静かに頷いて、セイは『星』に続いて歩き始めた。
さあ顔をあげて、前を向いて。
誰に何を恥じることもなく、胸を張って、背筋を伸ばして。
もう迷わない。
私は、歩いて行ける。いつか辿り着く、あの場所に向かって。
あの箱庭での時間は、今何よりも強く確かなものとなってこの胸にある。
託された想いは、今自分が先へ進む力となり、自分を動かしてくれている。
だから、もう自分は迷わない、逃げない。
セイは、確かに一歩ずつ前へと進み、光へと近づいていく。
這いずる『魔女』は先へと進めない。黒い澱みとセイの距離は、徐々に開いていく。
そして、セイが振り返ることなく先へ進んでいくにつれて。
魔女は、セイの影にすら届かなくなっていった――。
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打算的で一途過ぎる、日菜子の恋は実るのか。
漫画馬鹿と猪突猛進娘の汗と涙と恋のお話。
番外編は短編集です。
おすすめ順になってますが、本編後どれから読んでも大丈夫です。
番外編のサトピヨは恋人で、ほのぼのラブラブしています。
最後の番外編だけR15です。
小説家になろうにも載せています。
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
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