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ヨルとセイ

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 ――お母さんにとって、子供は一人だけだった。

 子どもが双子であったことを、母は心底呪っていたらしい。
 一人で生まれていれば、一人にお金も労力も必要な全てを注ぐことができたのに。
 余計な子が生まれてしまったせいで、一人に集中することができなくなった。
 双子でなければ産まなくて済んだのに、そういって娘を……余を疎んじた。
 余計に生まれた「ついでの子」であるとして、余という名を与えた。

 母は、兄である秀至のみを只管に愛し、期待をかけていた。
 早すぎるのではという頃から数え切れない程の習い事をさせ、学ばせ。
 流石は私の将来の希望だとして、事あるごとに褒め、惜しみなく己の全てを注いで育てていた。
 優秀であった兄への称賛を我が事のように誇り、一人息子であるように扱った。
 一方、余には一片の関心すら向けてくれなかった。
 兄に関わる全てが優先であり、一事が万事兄にかかりきり。
 例え病気で熱を出しても兄の用事を理由に放置されたことは数え切れず。
 様々なものをどれだけ頑張っても、一度として褒めてくれたことはない。
 成果を認められるどころか、興味を向けられたことも記憶の限りではない。
 衣食だけは世間体を気にして与えてくれてはいたが、それ以上のものを求めると飛んできたのは平手だった。
 ついでの余りものの癖に生意気な、と足蹴にされたこともある。
 時折父が何か苦言を呈していることもあったが、大抵は母の異様な剣幕に押されて黙ってしまう。
 けれど、兄である秀至だけは余を愛し、大切にしてくれたのだ。
 いつも一緒に居てくれて、手を差し伸べて。何処かへ行くときはいつも手を引いてくれた。
 そして彼は、出来得る限りの強さで母に抗い、余を守ってくれていた。
 母は、二人が一緒にいることを……兄が余に構うのを良しとしていなかった。
 将来の為に沢山学ばなければならない期待の子供が、余りものに時間を費やすなど以ての外だと。
 輝かしい未来がある貴方と『それ』は違うのだからと言って、いつも引き離そうとしていた。
 どうやら、他所にやる計画すらたてていたのだ。
 だが、兄がそれを頑なに拒否した。
 二人一緒でなければもう勉強もしないし、習い事もしない。叩かれたってもう言うことを絶対聞かない。そう言って、妹を抱き締めて離さなかった。
 兄の訴えに加えて親族からも苦言を呈され、流石の母も断念したようである。
 しかし、兄への執着と束縛はそれを機に一段と強さを増した。
 少しでも二人が一緒に居る時間を減らそういうかのように、二人が一緒にいると何か用事を口にしながら兄を引きずっていく。
 抗えば影で母が余を殴ることを知っていた兄は、逆らわず従うしかなった。
 そのせいで、いつしか二人が落ち着いて話せるのは、母が寝てしまった夜だけになってしまっていた。
 けれど、ベランダにて二人、夜空を見上げる時間はとても楽しかった。
 兄は、夜空の星を眺めるのが好きで、星についてとても詳しくて。
 本当は、星を研究する学者さんになりたいんだ、とこっそり余にだけは教えてくれていた。
 それは、兄を社会的にも経済的にも揺るぎない職に就けることに必死になっていた母の前では、けして言えない願いだった。
 その頃は祖父宅から近所に暮らしており、幼い頃は二人で一緒に訪れていたが。
 兄の習い事と塾が増えるにつれ、余は一人で近所にいる祖父のもとを訪れることが増えていった。
 魔法のような腕前を見せてくれる祖父を見て、いつしか自分もあんな風に色々なものを作ってみたいと思うようになっていた頃、二人の誕生日が近づいていたある日。
余は、祖父に兄へのプレゼントを作りたいと頼んでみた。
 祖父は暫く考えていたが、やがて頷いてくれる。
 工房にあった破片の中から、兄が好きな色や好きな夜空をイメージして使う硝子を選んで。やり方を教えてもらって必死に、拙い手で兄が大好きな『星』を作り上げた。
 しかし、家に持って帰って兄に贈った直後、母がそれを見咎める。
 下らないもので兄の気を散らせるなと激昂した母により、それは壊されてしまった。
 母は、何事もなかったかのような満面の笑みで、兄には受験の役に立つという本を贈った。
 余には……その年も、何もなかった。
その日の夜も、こっそりベランダで二人は星を見上げていた。

『ごめんね、余ちゃん』
『違うよ。余りものの私なんかが、作るから、いけなかったの……』 

 悲しそうな顔で謝る兄に、余は頭を左右に振ってそう言うと、俯いてしまった。
 自分なんか。余りものの私なんか。
 俯いたまま繰り返していた余の耳に、ふと強い響きを帯びた言葉が聞こえる。

『君は、余りものなんかじゃない』

 驚いて顔をあげてそちらを向くと、必死に涙を堪えながら真っ直ぐに余を見る兄がいた。
 慰める為に言ってくれているのだと思った。
 でも、兄の表情があまりに悲痛すぎて何も口にできなくて。
 戸惑いを飲み込みながら見つめる余に、夜空を示しながら少年は微笑んだ。

『余ちゃんは、あれだよ』
『……おほしさま?』

 彼が指さす先には、空に瞬く星がある。
 恐る恐る問いかけてみると、兄は嬉しそうな様子で大きく頷いた。

『そう。君は、お星さまだよ。僕の大好きなお星さま』

 一面の暗闇の中でも輝いて、導いてくれるもの。
 僕にとって君はそうなのだと彼は笑いながら言っていた。
 少し考え込んだ兄は、良い事を思いついたというように目を輝かせる。

『……星ちゃん……そうだ、僕は余ちゃんのことを、セイちゃんって呼ぼう』

 お星さまのセイちゃん、そう呼ばれてきょとんとした表情で目を瞬く余に、尚も兄は続けた。

『僕はヨルになる。セイちゃんが輝ける、夜の空になる』

 星の瞬きを守るようにしてそこにある夜空。
 それを見上げながら、兄ははにかむように笑った。
 余は何と答えていいのか分からなくて。少しだけ恥ずかしくて。
 ちょっとだけ戸惑った様子で黙ってしまっていたけれど、やがて嬉しそうに頷いた。
 二人の大切な名前を母に知られたく無くて、二人きりの時だけの名前だったけれど。
 見上げた夜空に輝く星を胸に、その日から、余はセイになり。秀至はヨルとなった。


 二人が成長するに連れて、兄の教育に対する母の熱の入り方は過激なものとなっていく。
 母は、兄を市内の有名な中学を受験させることだけに心血を注いだ。
 本当はもっと早い段階で入れたかったらしいが、父があまり理解を示さなかった故に準備が出来なかったとぼやいていたのを覚えている。
 受験して入るその中学へ通うことを定められたのは、当然のようにヨルだけで。
 セイはそのまま学区の中学へ進むように言いつけられた。
 高校までは一応通わせてやるから、その後は就職して自分で生きていきなさい。
 これから塾の送り迎えだと早足で歩く母は、振り向くこともせずにセイにそう言い放った。
 自分の将来のことよりも、セイには気がかりなことがあった。
 何で母がそれに気づかないのか、腹立たしくてならなくて。何度も必死になって訴えたけれど母は聞いてすらくれない。
 ヨルにも、これ以上無理はしないでと願ったけれど、青白い顔で大丈夫だよというばかり。
 言う事を聞かないと、母はセイを盾にしてヨルに言う事を聞かせるのだ。
 これ以上、これ以上無理をしたら。これ以上、気付いてもらえなかったら。
 セイが必死に声を上げ続けていても、それは起こってしまった。

 年が明ければ中学校受験だという年の、秋の事。
 セイは感情の抜け落ちた面もちで、言葉のないままその場所を眺めていた。
 静かで重い空気の中、線香の煙が漂っている。
 ああ、今はお葬式なのだ、とセイは麻痺しきってしまった心に呟いた。
 そう、セイは喪服を着せられて、お葬式に来ている。
 これは誰のお葬式だろう。
 何でみんなは余を気の毒そうに見ているのだろう。
 何で、お母さんはあんなに泣いているのだろう。

 ――何で、ヨルの写真がそこにあるのだろう?

 ヨルは、ずっと具合が悪かった。何かの病気になってしまっていたらしい。
 本当は病院にいって、休まなければならなかったのに。休むと怠け癖がついて受験に落ちてしまうからと言ってお母さんは勉強を続けさせて。
 必死にヨルの異常について訴えたけれど、殴られるばかりで聞いてもらえなくて。
 両親が気付いた時には、もう手遅れだった。
 ヨルは、ぼろぼろの状態で送り出されて塾に行き、そこで倒れて病院に運ばれて――そのまま、家族が駆け付ける前に旅だってしまった。
 母は声の限りに泣き続け、父は母を責めて怒鳴って。
 祖父は唇を噛みしめて俯いていて、叔母は震える手でセイの肩を抱いてくれていた。
 私は気付いていたのに。
 私は、助けられたかもしれないのに。
 私は――守れなかった。
 ただ、自分を責める思いが身体の内側をぐるぐると巡り、膨れ上がり続けていた。
 けれど、お葬式が終わって。
 家に帰っても、ヨルはもう居ないのだということをまだ受け入れきれずに居た時、泣き叫んでいた母が突然倒れた。
 慌てて呼んだ救急車で運ばれた先の病院で、目覚めた母には既に異変が生じていた。

『どうしたの? 余。 喪服なんて来て。お葬式でもあったかしら?』

 意識を取り戻した母は、傍らにいた余を見て顔を顰めるどころか、明るい調子で話しかけてきた。
 あれだけ取り乱していたのに。火葬場では、何人かで抑えなければならないぐらい狂乱して暴れていたのに。
 微塵もそれを感じさせない落ち着いた顔で。今まで、セイにかけたこともない穏やかな声音で。
 何を言っているのだろう、とセイは呆然としたまま母を見つめた。
 ヨルが死んだのに。
 さっきまでヨルのお葬式をしていたじゃないか。
 傍で二人の様子を見ていた父が顔色を変えて、祖父と視線を交わしたのを感じた。
 祖父は呆然とした表情だったが、何か言いたくてもすぐに言葉が出てこない様子で。
 そんな二人の事など知らない顔で、母はセイへと今まで見せた事もない朗らかで優しい笑顔を見せながら。

『早く帰って準備をしなきゃ。大事な一人娘の受験が控えているんだから』

 セイは、その甘い猫撫で声を、怖いと思った――。


 その後のことは、慌ただしくてあまりよく覚えていない。
 母の中で、今まで期待をかけて大事に育てていたのは『一人娘』だということになっていた。
 人間の記憶というのは、新たな『事実』が脳を無事通過さえすれば案外あっけなく塗り替えられるものらしい。
 母の中から、我が子が双子であった事実も、兄の存在も完全になかったものになっていた。
 恐らく、期待をかけていた大事な息子を、過失で死なせたという事実に母の心は耐えきれなかったのだろう。
 母が、息子の死の原因を自分の過失と思っていたのかは分からないが。
 あの人はあくまで、自分は絶対に正しい、とその後に至るまでずっと思い続けていたのだから。
 母の精神の均衡を保つ為、暫くの間兄のことについては、母の前ではけして触れてはいけないと言われた。
 お母さんは今難しい状態だから、そっとしておかなければいけないのだと。
 セイは不思議だった。
 死んでしまったヨルを無かったことにして、ヨルを死なせたお母さんを守るなんて。
 だが、それを言う事は封じられた。
 他でもない、微笑み続ける母によって、セイは『余』になった。
 ヨルを失ったことにより、セイは……居なくなってしまった。
 そしてその日から、余は大切な『一人娘』として、母の期待と束縛を一身に受けることとなった。
 少ししたら落ち着くのではと思われていた母は、幾ら様子を見ても元に戻ることはなく。ヨルの名すら出すことが出来ない日々は続いた。
 やがて、気が付いた時には彼の私物など、兄が居たという痕跡はひとつ残らず家から消えていた。
 事実は、触れることすら罪とされる意識に固められて沈んでいく。
 母はまるで自分に言い聞かせるように、殊更娘を『一人娘』と呼び続けた。
 抵抗していた。忘れないようにと、抗い続けた。
 けれど、呪いのように囁かれた『一人娘』という毒は、何時しか彼女の中に染み込み、大切なものを封じてしまった……。

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