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ひび割れる世界
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強い衝撃にセイはなぎ倒されるようにして床に倒れて転がってしまう。
かろうじて、作り上げた『星』だけは手もとに引寄せ、庇うように身体を丸めた。
一瞬何が起きたのか分からなかった。
だが散らばる破片に顔を歪めながら何とか起き上がろうとしながら見上げた先。
祖父が作った『扉』の窓には幾つもの亀裂が走り、割れ目が生じていた。
飾り窓が割れてしまったのだと、セイはようやく認識する。
一体何故と思うけれど、その原因を思案する間もなく次なる異変が起きたことに気づいてしまった。
セイは思わず息を飲み、声にならない悲鳴を上げながら後退る。
何かが、そこにいる。
一瞬にして残った窓が真っ黒に染まったかと思えば、割れたガラスの隙間から、どろりと流れるように黒い澱みが流れ込んでくる。
あれは、確かにあの日窓の外に満ちた良くないもの――ヨルが『魔女』と呼んでいたものだ。
澱みの形をした『魔女』は、腹が立つ程にゆっくりと距離をとろうとするセイへとにじり寄ってくる。
ぼこり、と沸き立つように盛り上がったものは、セイへと近づくにつれて細い腕へと形を変える。
よく見れば、その黒い澱みには顔らしきものがあるではないか。
見覚えがある。いや、見覚えなんかあるはずがない。
私は『魔女』の顔なんか知らない。
違う、私は『魔女』の顔を、姿を知っている。かつて私の世界にあり、世界であったのは。
顔の唇はゆっくり弧を描いたかと思えば、震えを呼びさますような雑音交じりの音を発した。
『ミツケタ…………』
にやりと笑う唇の他に、次々に暗い光を宿す瞳や、鼻がはっきりと形作られていく。
あれは、あれは、あれは――!
心の奥底から無理やりに何かを引きずりだされる感覚を拒絶するように、セイは激しく頭を左右に振る。
逃げたいと思うのに、身体は凍り付いてしまったように動かない。
逃げられない。違うのだ、逃げてはいけないのだ。
それが、わたしの『正しい』なんだから……。
顔色を失ったまま呆然とした表情で、セイは近づいてくる『魔女』を見据えるしか出来なかった。
だが。
「セイちゃん!」
雷鳴のような激しい声がその場に響き渡った瞬間、セイの身体は強い力で引寄せられていた。
突然のことに何が自分の身に落ちたのか分からずに目を見張ったセイは、自分が誰かの腕の中にいることに気付く。
温かくて広く大きい、けれどそれが何故か不思議な寂しさを生じさせる腕の持ち主。
自室で休んでいたはずのヨルがいつの間にかそこにいて、セイを守るように抱き締めてくれている。
その足元には、毛を逆立てたつつじがいる。
ヨルは具合が悪くて休んでいたはずなのに、大丈夫だろうかとぼんやり思ってしまうけれど、口には出せない。
それを口にするのは憚られるような鬼気迫る様子で、ヨルは侵入してきた『魔女』と対峙しているのだ。
「この子は、貴方に絶対渡さない! 『星』はもう貴方に奪わせない!」
強い決意を秘めた激しい言の葉に少しだけ気圧されたように『魔女』は動きを止めるけれど、退こうとはしない。
みつけた、と蠢きながら何かの名前と共にあくまでセイへ向かおうとしている。
ヨルはセイを庇いながら、尚も『魔女』へと叫び続ける。
「僕はあの日決めたんだ、セイちゃんは僕が守るって!」
いつもの落ち着いたヨルとは違う一人称と、大人びた様子とは違う少年のような言葉。そして、いつもと違う呼び方。
違うこと尽くめなのに、何故かそれが不思議にセイの裡に馴染んでいく。
それが、正しいのだ。本当にあるべき形は、そうなのだ。
ヨル、と呼びかけようとして声が出なかった。
この人は確かにヨル。でも、本当にこの人を呼ぶべき名前は、違うところにあるのだと何かが告げている。
蠢く影はセイを庇って立つヨルを見ながら、何かに気づいたように呻き声をあげた。
『シュウジ……』
「違う、それはもう僕じゃない。僕をそうしたのは、貴方だ」
『魔女』が口にしたのは、人の名前だった。
その声には、否定が含まれていた。まるで『魔女』が、自身の口にした事実を拒んでいるように聞こえる。
居る筈がない、そんなはずがない、と『魔女』は悶え苦しみながら呻いている。
ノイズ交じりのそれを耳にしたヨルは、首を静かに左右にふると否定の言の葉を口にした。
その声には、明確にして冷徹な拒絶がある。
「ヨル……?」
セイは彼を見上げながら、力を振り絞って辛うじてその名を呻くように絞り出す。
すっかり掠れてしまった声で呼ばれた名を聞いて、仮面の青年を包む空気が少しだけ柔らかくなる。
ヨルはセイへと視線を向けると、頷きながら言った。
「そうだよ、僕はヨルだ。……君が輝く為の、夜の空だ」
セイは、思わず目を見張った。
優しい響きにて紡がれた言葉は、セイの中にあった……セイが封じていた一つの言葉を鮮やかに浮き上がらせた。
かつて、確かにセイの世界には居てくれていたはずなのだ。
そこに居るのに居ないものだった自分を見て、触れてくれた。優しい名を与えて呼んでくれた少年が。
忘れていたくなんてなかったのに、失ってしまっていた存在。
『魔女』の呪いに蝕まれ、彼女もまた世界から消してしまっていた大事なもの。
セイが今手にしている『星』を喜んでくれた少年。
生まれた時からずっと一緒にいたのに、引き裂かれて、奪われた大切なひと。
セイは、彼に呼びかけようとした。けれど、唇は震えるばかりで音として何一つ声とならない。
それを呼べば、もう本当に終わってしまうと気付いているから。
セイは、もう硝子工房のセイではいられなくなってしまう。
セイがいて、ヨルがいて、つつじがいる。この温かな日々は本当に終わりを告げてしまう。
それが怖くて、受け入れられなくて。だから、それを口にできない。
ヨルは言葉を紡がぬまま、セイの言葉を待つように沈黙してくれている。
だが、その瞬間、おぞましく低い呻き声が聞こえてきたのだ。
『カエッテ、キナサイ。オマエハ、ワタシノ、ヒトリム……』
蠢く澱みの『魔女』の言葉に呼応するように、破裂するように甲高い音が一つ、また一つと響き渡る。
セイは小さく悲鳴をあげ、ヨルはセイを守るように抱き締める腕に更に力を込め。つつじは、二人の足元に寄り添う。
ヨルの腕の向こうに見えたのは、魔女が現れた亀裂が拡がり続け、周囲を取り巻くすべてに生じたひびが縦横無尽に伸び続けている光景だった。
生じた亀裂から流れ込み続ける黒は工房だけではない、彼女達がいる全てを覆い尽くさんとするほどに広がり続けている。
セイは感じていた。
そして、声にならない声で呻いていた。
世界が崩れる、と――。
かろうじて、作り上げた『星』だけは手もとに引寄せ、庇うように身体を丸めた。
一瞬何が起きたのか分からなかった。
だが散らばる破片に顔を歪めながら何とか起き上がろうとしながら見上げた先。
祖父が作った『扉』の窓には幾つもの亀裂が走り、割れ目が生じていた。
飾り窓が割れてしまったのだと、セイはようやく認識する。
一体何故と思うけれど、その原因を思案する間もなく次なる異変が起きたことに気づいてしまった。
セイは思わず息を飲み、声にならない悲鳴を上げながら後退る。
何かが、そこにいる。
一瞬にして残った窓が真っ黒に染まったかと思えば、割れたガラスの隙間から、どろりと流れるように黒い澱みが流れ込んでくる。
あれは、確かにあの日窓の外に満ちた良くないもの――ヨルが『魔女』と呼んでいたものだ。
澱みの形をした『魔女』は、腹が立つ程にゆっくりと距離をとろうとするセイへとにじり寄ってくる。
ぼこり、と沸き立つように盛り上がったものは、セイへと近づくにつれて細い腕へと形を変える。
よく見れば、その黒い澱みには顔らしきものがあるではないか。
見覚えがある。いや、見覚えなんかあるはずがない。
私は『魔女』の顔なんか知らない。
違う、私は『魔女』の顔を、姿を知っている。かつて私の世界にあり、世界であったのは。
顔の唇はゆっくり弧を描いたかと思えば、震えを呼びさますような雑音交じりの音を発した。
『ミツケタ…………』
にやりと笑う唇の他に、次々に暗い光を宿す瞳や、鼻がはっきりと形作られていく。
あれは、あれは、あれは――!
心の奥底から無理やりに何かを引きずりだされる感覚を拒絶するように、セイは激しく頭を左右に振る。
逃げたいと思うのに、身体は凍り付いてしまったように動かない。
逃げられない。違うのだ、逃げてはいけないのだ。
それが、わたしの『正しい』なんだから……。
顔色を失ったまま呆然とした表情で、セイは近づいてくる『魔女』を見据えるしか出来なかった。
だが。
「セイちゃん!」
雷鳴のような激しい声がその場に響き渡った瞬間、セイの身体は強い力で引寄せられていた。
突然のことに何が自分の身に落ちたのか分からずに目を見張ったセイは、自分が誰かの腕の中にいることに気付く。
温かくて広く大きい、けれどそれが何故か不思議な寂しさを生じさせる腕の持ち主。
自室で休んでいたはずのヨルがいつの間にかそこにいて、セイを守るように抱き締めてくれている。
その足元には、毛を逆立てたつつじがいる。
ヨルは具合が悪くて休んでいたはずなのに、大丈夫だろうかとぼんやり思ってしまうけれど、口には出せない。
それを口にするのは憚られるような鬼気迫る様子で、ヨルは侵入してきた『魔女』と対峙しているのだ。
「この子は、貴方に絶対渡さない! 『星』はもう貴方に奪わせない!」
強い決意を秘めた激しい言の葉に少しだけ気圧されたように『魔女』は動きを止めるけれど、退こうとはしない。
みつけた、と蠢きながら何かの名前と共にあくまでセイへ向かおうとしている。
ヨルはセイを庇いながら、尚も『魔女』へと叫び続ける。
「僕はあの日決めたんだ、セイちゃんは僕が守るって!」
いつもの落ち着いたヨルとは違う一人称と、大人びた様子とは違う少年のような言葉。そして、いつもと違う呼び方。
違うこと尽くめなのに、何故かそれが不思議にセイの裡に馴染んでいく。
それが、正しいのだ。本当にあるべき形は、そうなのだ。
ヨル、と呼びかけようとして声が出なかった。
この人は確かにヨル。でも、本当にこの人を呼ぶべき名前は、違うところにあるのだと何かが告げている。
蠢く影はセイを庇って立つヨルを見ながら、何かに気づいたように呻き声をあげた。
『シュウジ……』
「違う、それはもう僕じゃない。僕をそうしたのは、貴方だ」
『魔女』が口にしたのは、人の名前だった。
その声には、否定が含まれていた。まるで『魔女』が、自身の口にした事実を拒んでいるように聞こえる。
居る筈がない、そんなはずがない、と『魔女』は悶え苦しみながら呻いている。
ノイズ交じりのそれを耳にしたヨルは、首を静かに左右にふると否定の言の葉を口にした。
その声には、明確にして冷徹な拒絶がある。
「ヨル……?」
セイは彼を見上げながら、力を振り絞って辛うじてその名を呻くように絞り出す。
すっかり掠れてしまった声で呼ばれた名を聞いて、仮面の青年を包む空気が少しだけ柔らかくなる。
ヨルはセイへと視線を向けると、頷きながら言った。
「そうだよ、僕はヨルだ。……君が輝く為の、夜の空だ」
セイは、思わず目を見張った。
優しい響きにて紡がれた言葉は、セイの中にあった……セイが封じていた一つの言葉を鮮やかに浮き上がらせた。
かつて、確かにセイの世界には居てくれていたはずなのだ。
そこに居るのに居ないものだった自分を見て、触れてくれた。優しい名を与えて呼んでくれた少年が。
忘れていたくなんてなかったのに、失ってしまっていた存在。
『魔女』の呪いに蝕まれ、彼女もまた世界から消してしまっていた大事なもの。
セイが今手にしている『星』を喜んでくれた少年。
生まれた時からずっと一緒にいたのに、引き裂かれて、奪われた大切なひと。
セイは、彼に呼びかけようとした。けれど、唇は震えるばかりで音として何一つ声とならない。
それを呼べば、もう本当に終わってしまうと気付いているから。
セイは、もう硝子工房のセイではいられなくなってしまう。
セイがいて、ヨルがいて、つつじがいる。この温かな日々は本当に終わりを告げてしまう。
それが怖くて、受け入れられなくて。だから、それを口にできない。
ヨルは言葉を紡がぬまま、セイの言葉を待つように沈黙してくれている。
だが、その瞬間、おぞましく低い呻き声が聞こえてきたのだ。
『カエッテ、キナサイ。オマエハ、ワタシノ、ヒトリム……』
蠢く澱みの『魔女』の言葉に呼応するように、破裂するように甲高い音が一つ、また一つと響き渡る。
セイは小さく悲鳴をあげ、ヨルはセイを守るように抱き締める腕に更に力を込め。つつじは、二人の足元に寄り添う。
ヨルの腕の向こうに見えたのは、魔女が現れた亀裂が拡がり続け、周囲を取り巻くすべてに生じたひびが縦横無尽に伸び続けている光景だった。
生じた亀裂から流れ込み続ける黒は工房だけではない、彼女達がいる全てを覆い尽くさんとするほどに広がり続けている。
セイは感じていた。
そして、声にならない声で呻いていた。
世界が崩れる、と――。
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