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第一章 亡国の公主

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 広大な黄大陸おうたいりく、西は熱砂が舞う砂漠地帯、北は万年雪を抱く臥龍山がりゅうさん、黄龍の大河は中原を縦断して黄海の湾に注ぐ。
 長き戦乱の世が開けても、各王朝の栄枯盛衰は繰り返され、また一つの王朝が途絶えた。
 時代の流れと台頭する大国、臣下の離反、賢王朝けんおうちょうが亡んだのは今から、百年前の事である。そして時は聚王朝・三代皇帝の世。

「――公主さま、殿下がお越しでございます」
 芍薬しゃくやくが満開の庭で、銀髪の麗人が振り向く。薄紅色の袍に薄桃の裙裳、瞳は青。腰に流れる髪は、銀髪であった。
「……お父様」
 やって来たのは父と呼ばれた壮年男性と、その父に仕える男である。
「そうしていると、そなたの母を思い出す。芍薬が好きな女性であった」
「はい殿下、公主さまの母君はそれは御美しい方でございます」
「董卓、その《殿下》、《公主》と申すのはやめよ。もう、我が李王家り おうけは王家ではない」
「何を言われまする。世が世なれば、殿下――、蘇芳すおうさまは賢の皇帝陛下にございます」
「困った奴だ。そう言う者がいるからこそ、誤解を招くのだ。李王家は賢再興の意志あり、とな。銀蓮ぎんれん、行こうか」
「はい、お父様」
 李蘇芳り すおうは、柔らかく笑みながら我が子である姫と、芍薬の中を散策する。
 百年前、賢の都であった落慶らっけい。皇城を離れた嘗ての王家は、中原から西のこの落慶に移り住み、この屋敷は最期の賢帝が暮らしていた別邸であった。一貴族に陥落した嘗ての王家を今も慕う者がいる事は有難く思うが、二人は賢王朝再興など考えてはいなかった。
「銀蓮、そなたにはすまぬと思う。これも、争いを招かぬ為だ」
 李銀蓮り ぎんれんは、蘇芳の唯一の子供である。本当は男として生まれたのだが、蘇芳は銀蓮を女として育て、この王宮に隠した。世は聚が賢に変わり中原を収め、安寧な世が続いている。
 前聚皇帝は、李王家の存続を蘇芳で最後で終わらせるため、李蘇芳に妻と子を作ることはならぬと命じ誓わせた。今も、聚皇帝を倒して賢王朝再興を考える者もまだいる。
 李蘇芳は、確かに妻を迎えなかった。
「お父様を、恨んではおりませぬ。私も、争いは好みませぬ」
「月淑げっしゅくと、同じ事を云う。やはり、月淑の子よ」
「私の――、母ですね……?」
「そうだ。丁度、そこに立っていたのだよ。父が亡くなり誰もいなくなったこの屋敷で、私はそなたの母、月淑と出逢った。天女である彼女と。だが私は、聚の前皇帝から妻を娶る事も子も残す事も禁じられた身。しかも、彼女は天女だ。そなたもあの伝説は知っていよう? 銀蓮」
 蘇芳は、芍薬の花を愛おしそうに撫でている。彼にとって、それは禁じられた恋。その先に起こる事を、未だ若かった彼は知らなかった。
 ――千年のその昔、満月の夜に天女が舞い降りて、人間の男と恋に陥ちた。軈て起きた争いを己の所為とと自身を責め、天女は天へ還ってしまったと言う天女伝説。
 生まれた子に、罪はない。月淑にそっくりな、銀髪に青い瞳の男の子。李王家に男子出生と聞いた者は必ず動く。しかも、天女の血を引いているとならば。
 父と子なのに供に暮らせぬ。姫として育て美しく装っても躯は男子、いずれ成長すれば骨格もはっきりし、声も男に近づく。天女である母の血を引く銀蓮は、聚を斃し、賢王朝・李王家の者を皇帝に担ぐ――、そうした者にはこれとない材料。蘇芳は、銀蓮の母・月淑を愛したことも、子を残した事も悔いてはいない。唯、父として我が子を護りたいと思う心が、銀蓮を秘した。
「私は、お父様がこうして訪ねて下さるだけで幸せでございます」
「銀蓮、久し振りにそなたの胡弓、聞きたいものだな」
「はい、お父様」
 銀蓮の唯一の娯楽は、胡弓を弾く事。中庭の四阿に向かう足が不意に止まる。

「我、必ず汝を探し当てん」

 誰かの声が、風に乗る。
「どうした?銀蓮」
「いえ、何でも……」
 そこには、誰もいない。ただ、芍薬の花が揺れているだけである。


 ――千年のその昔、満月の夜に天女が舞い降りて、人間の男と恋に陥ちた。軈て起きた争いを己の所為とと自身を責め、天女は天へ還ってしまったと言う。男は、天女に再び巡り会う事を誓った。「我、必ず汝を探し当てん」と。
 天女は、再び地に舞い降りる、『天女伝説』を信じる者は言う。
 ――天女は、再び地に舞い降りて、男と出逢うのだと。

「天女だと……?」
 聚の皇城こうじょう――、執務室で御璽ぎょじを押していた若き皇帝がゆっくりと視線を上げる。
「はい。皇都から西の落慶らっけいに、天女が降りたとか」
「丞相じょうしょう、そなたその話信じたのか?」
「陛下、落慶と言えば李王家の所領」
「何が云いたい?」
「聚が建って、未だ百年余り。先の賢王朝を再興させようとする者が、この皇都こうとにも潜んでおりまする。先帝陛下せんていへいかも、特に案じておりました。彼かの李王家を」
 西域からの商人が、朽ちかけた李王家の中庭で美しい天女を見たと言う。衰退し滅んでいった賢を哀れに想い天女が降りたのだと言う。
 賢王朝崩壊して百年余り、今なお燻り続ける妄執。聚を倒し、賢を再興しようとする者達はいつ、李王家を担ぐか理解らぬ。先帝は、常にそう漏らした。
「陛下。例え李王家にその意志があろうなかろうと反人はんとには旗が必要なのでございまする。自分たちが立つ理由なる旗が」
「そうした輩は、この皇城にもいるだろう」
 そう言って皇帝かれは、嗤った。
 己の野心と欲の為に、人を利用し蹴落とそうとする者達。皇帝だからと、その座が決して安定とは言えぬ。これまでに、何度殺されかけたか。
 誰を旗とし、反人として潜んでいるのか。最も怪しい人物は、いつでも皇帝を狙える位置にいる。この皮肉に、若き皇帝は嗤う。
「陛下」
 胡服に着替え外に出て来た彼に、護衛武官の江飛燕こう ひえんが膝をつく。
「視察に出るぞ」
「本日は、どちらへ」
「落慶だ」
「落慶で、ございますか?」
「飛燕、そなたまで天女の噂信じているのか?」
「いえ、陛下を誘き出す為の刺客が流した噂かも知れませぬ。そもそも、例の噂が出ましたのは、陛下が視察に出られるようになってから。刺客は、陛下を皇都から引き離す策に出たのかと思われます」
「最近、後宮の鼠はまた煩くなったな」
 意味深に嗤う皇帝に、飛燕は否定はしない。《後宮の鼠》の意味を、知っているからだ。
「いいだろう。その策に引っかかってやろう」
 若き皇帝は馬に跨がると、手綱を引いた。
 そんな様子を、見ていた者がいる。
 黒い長袍を纏い、髪の一部を三つ編みにして剃り上げている。宦官である。
「陛下は、本日もお出かけか」
「はい、大鑑たいかんさま」
 大鑑とは、宦官最高位の呼び名である。
「まさかと思うが、陛下の監視は怠るでないぞ」
「お任せを」
 官吏の男と入れ違いに、女官がやって来る。
「慈慧じけいどの、皇太后さまがお召しにございます」
「今行くとお伝えを。珠翠しゅすいさま」
 女官は後宮筆頭女官で、皇帝の従姉に当たる。策謀を巡らせる上で、慈慧が後宮で最も警戒する女性である。
 皇帝が言った《後宮の鼠》――、この慈慧の事だ。
 そして、
「皇帝は、ほんにしぶとい。毒薬は、すぐに見破る。先帝と違うて」
「皇太后さま」
「大丈夫じゃ、証拠はない。のう? 慈慧」
 御簾の前で頭を下げる慈慧に、皇太后と呼ばれた女は高らかに嗤った。
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