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3章
26 乗せて運べ
しおりを挟む茜がバッティングセンターで140キロの直球を順調にかっ飛ばしていると、帽子を目深(まぶか)に被った上下紺色のジャージを着た人間が隣のケージ入ってきた。髪の毛を後ろで束ねて背に流しているから、おそらく女だろうと思った。
女は備え付けのバットを1本引き抜き、右打席に入ってバッティンググローブをつけた。110キロ、120キロ、130キロと3種類のスイッチがある。女は迷わず130キロのスイッチを押し、バットを構えてボールを待った。
1球目は後ろの壁に着弾(ちゃくだん)するまでボールを追いかけた。2球目はバントの構えでボールを待つ。バットのミート部分に上手く当て、左方向に転がした。
――なんだコイツ。打つ気あんのか?
横目で隣のケージの変人を見つつ、茜は直球を真正面に弾き返した。
「左」
隣のケージからつぶやきが漏れる。3球目は鋭い振りで左方向へ速いゴロを転がした。
「正面」
女がつぶやき、4球目は正面へピッチャー強襲のライナーを放つ。
「右」
女の宣言は続き、5球目は綺麗な流し打ちを右へ運んだ。
――なんだコイツ……自分の宣言した所に打ってやがる。
その後も宣言通り打ち続ける女を観察するうちに手が止まり、茜自身の持ち球が終わってしまった。しかし、そんなささいなことを気にしている場合ではなかった。女の芸術的なバッティングに魅せられてしまったのである。
やがてワンゲームが終わり、女が構えを解いて茜のほうを振り返った。帽子のつばの下の目が恐ろしく鋭い。茜も負けずに睨(にら)み返した。
「出ろ」
女の低い声。茜は女を睨みつけながら出ると女も出てきた。
「オメェにとっていい情報ある。ひとつ、オレと勝負しねぇか」
声を落として女は言った。漠然としすぎて馬鹿馬鹿しい提案だ。
「ヤに決まってんだろ。見ず知らずの他人から教えてもらうことなんてない」
これ以上関わりたくないのか、茜は荷物をまとめて女に背を向ける。
「真鍋葵」
女は小声で独り言のように言った。瞬間、茜の顔色が変わって女に詰め寄った。
「テメェは葵のことを知ってんのか」
必死に声を抑えて茜が女を問い詰める。
「ああ、知ってるわや。ただし」
「『ただし』なんだよ?」
「オレとの勝負に勝ったら教えてやる」
女が言うにはボールを飛ばす方向を左、正面、右とあらかじめ宣言し、その通り打ち続けられるかとのことだった。ひとり持ち球は15球である。
「わかった。やってやろうじゃねえか」
そういったものの、来た球をそのまま弾き返してきただけの茜は、なかなか宣言通りのコースに飛ばず、記録は15球中5球にとどまった。
続いて女がケージに入って、残りの15球を打ち始める。先ほどの打撃はまぐれでなかった。女が宣言してバットを振るたび、ボールが意思を持ったかのように飛んでいく。いずれもカス当たりがなく、しっかりミートされて振り抜いていた。
茜が目を見開いて釘付けになった。
――とても敵う相手じゃない。
マシーンへの球の供給(きょうきゅう)が途切れて女がバットを置いて出てくる。記録は15球中12球だった。
「論外だな。葵をオメェになんか会わせらんねェ」
「なんだと!? テメェに私と葵の仲がどんな仲か知らねェくせに!」
女は少し慌てた様子で人差し指を唇に立てた。
「熱くなるな。自分の状況を顧みろ、クソ馬鹿野郎」
多数の客がこちらの悶着を注視している。何か問題を起こして外出禁止になる可能性もあった。そうなれば葵のことはわからずじまいになってしまう。
茜は鼻息を荒くして無理矢理黙った。変わりに血走った眼で女を睨んでいる。
「オレは明日もこの時間帯にいる。また勝負したかったら来てくれや」
女は片手を上げて颯爽(さっそう)と去っていった。残された茜は地団駄(じたんだ)を踏んで悔しがった。
「今日もオレの勝ちだな」
翌日は女の記録が15球中13球。茜の記録は昨日より伸ばしたものの、15球中10球に終わってしまった。
「畜生!」
茜はバットを思い切り床に何度も叩きつける。だんだん勢いづき、勢い余って自分の頭も殴りかねなかったため、女が慌てて羽交い締めにした。
「馬鹿、何やってんだッ」
女の声で正気を取り戻した茜は、
「チッ、取り乱して悪かったな」
バットから手を離してぶっきらぼうな口調で言った。
ふたりの間に気まずい沈黙が流れる。
一時的とは言え、我を見失った茜からは何を話すのにも切り出しづらかった。
しばらく沈黙が場を包んだ。やがて、ようやくそのことに気づいた女がおもむろに切り出した。
「オレはトイレに行く。ここじゃ話すのはムリだ。少し時間が経ったらオメェも来い」
女が立ち去る。茜はタオルで汗を拭きながら、スポーツドリンクをがぶ飲みした。ゲージ前のベンチに腰かけ、息を吐いた途端に、腹が痛くなった――という演技をしつつ、はやる心を抑えながらトイレに急いだ。
茜がトイレに入った。すると、扉を少し開けてこちらを覗いている者がいた。
「こっちだ、こっち」
女性客が少ないことを利用して、女は自分が入っている個室に茜を招いた。茜は躊躇したが、葵に関する情報ならもはやなりふり構ってなれなかった。
「条件を変える。これじゃ1週間どころかこっちが手加減しなきゃ、一生ムリかもしれん」
「ば、馬鹿にする――」
「まあ、聴けて」
茜を手で制してから女は茜の耳に口を近づけた。
「拝藤組のエースで今は酷使でブッ潰れかけの生名茜チャン。野手転向を目論んでいるナ(アンタ)にゃ、キッツイ勝負だったな。フェアじゃねかった」
「どうして私の名前を知ってるんだ?」
茜は眉間にシワを寄せた。
「馬鹿だな。社会人でも有数のエースのお前を知らん奴がいるかよ」
言われてみれば帽子も被らず素顔を晒している時点で、新聞やテレビなどの媒体で観た者にとっては丸わかりなのである。特に拝藤組は各メディアと蜜月(みつげつ)関係もあり、ほかの企業チームより露出が高いからなおさらだ。
「……というのは建前で、お前と葵の関係をオレは知ってる。ただのバッテリーじゃなくて、オメェらがどんだけ深い仲だっつーのもな」
「アンタはいったい何者なんだ? 葵とどんな関係にある? なあ、教えてくれよ!」
話している途中で体が震えてきた。何もできない自分が情けなくて震えている。それと、この女が詳細な情報を持っているかもしれないという興奮でもあった。
「幼馴染だ。最近は連絡を取ってねかったけど、アイツが新後いたころはよく遊んでた」
「幼馴染……? そういや、いつだったか話してたな……。まあ、わかった。で、条件はどうすんだ?」
茜は急(せ)かした。早いところ別な方法でこの女に勝って、情報を聴きたかった。
「新しい条件は、ホームランの的に3球中1球でも当てたら、このポケベルにメッセージを入れてやるよ。できない場合は――」
「わかった、やる。だから絶対に教えてほしい」
「いいぜ。オレは嘘はつかねェ」
勢い勇んで個室から出ようとする茜に、女は体を引き寄せて耳打ちした。
「乗せて運べよ」
個室から押し出される。そそくさとトイレから出ながらも、茜は女の言葉の意味がイマイチわからなかった。首をかしげて140キロを放るケージの右のバッターボックスに入った。
――『乗せて運べ』……? どういうことだ。
1球、2球とフルスイングで立ち向かうも、ボールは上に上がるどころかライナーでしか飛んでいかない。
――もしかして必要以上に力まず、体重移動で持って行けってことか!
泣いても笑ってもラスト一球。その一球がど真ん中に入ってきた。茜の言った通りボールを乗せて運んだ。
「行けえ――ッ!」
打球は高く上がり、左方向へ飛んでいく。そして、数秒の滞空ののち、ホームランと書かれた的のど真ん中を叩いたのだった。
「おお、本当に当てよったな」
いつの間にかケージの外にいた女が満足した口調で言った。
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